私と上司の秘密の関係2


濃い目に入れた緑茶が、じんわりと熱さをもって身に染みる。
ふはあ。美味しい。そして今日も平和だなあ、なんて。まさに閑古鳥の鳴く、職員だけしかいない相談窓口の一角で私は息を吐いた。
……本日の相談件数、昨日は0件。一昨日も0件。
相談しに来る市民がいないってことは、街は今日も平和だってこと。
良いことであるのだけれど、こうした時間を積み重ねるごとに心がどんどんどんどん潤いを失くして、萎れていっているような不安に駆られる。
そんな事を考えていると、後ろの席でFAXの送受信をしていた後輩が生温かい視線を投げてきた。
「なんか縁側で日向ぼっこしてる婆ちゃんみたいな顔になってますよ……」うるせぇ、かりん糖ぶつけんぞ。
そんな無遠慮な言葉をかりん糖の代わりに投げつけると、途端に後輩は静かになった。

うはあ、と再び茶を啜りながらゆるやかに流れる時間を満喫していると、デスク横に置いていたスマホの画面がピコンと光った。
もはやお馴染みと化した犬のアイコンとともに浮かぶ、『SOS。・゚・(ノД`)・゚・。』のメッセージ。
キラキラにデコられた顔文字がウザイ&なんだか直感めいた嫌な予感が胸を掠めたが為に、画面をタップするのを一瞬躊躇する。既読無視……否、そんなことをしたら後がこわい。


「いやあ、名前さんなら必ずや来てくれだろうと信じてました……! これぞ持つべきものは友ですね! ささ、お入り下さい☆」


理事長室をノックをするよりも早く勝手に扉が開いて、そこにはニコニコと腕を広げた上司、フェレス卿がすでに待ち構えていた。なにこれこわい。
いっそ既読無視が正解だったかと過去の選択を悔やむも、時既に遅し。反射的に足を止めるも、背後に回ったフェレス卿にガッツリと後ろから両肩を掴まれて、半ば強制のように室内へと押し込まれた。



「まあまあ、どうぞこちらへ」

「あの……ここ、フェレス卿がいつも執務を行ってるデスクですよね? ……え? まさか座れと?」

「最高級のクッションを使用してるので座り心地は抜群です、私が保証します」

「いやそういうことじゃなくて」

「ああ、すみません、気が利かなくて。ハイ、紅茶です☆」

「あ、ありがとうございます……っじゃなくて何なんですか……!?」



グイグイと背中を押されて、理事長専用の司書机の椅子に座らされ、挙句にお茶。
あまりにも自然に、右から左に流しそうめんが流れるが如くスルスルと流れに乗ってしまったわけだけど。持ち場の窓口担当を後輩に引き継いで上司の呼び出しに応じてみれば、これである。
一体全体、何事だ。



「実は急な出張が入りまして」


そう大きく落胆してみせながら、フェレス卿が肩を竦める。
私はとりあえず「はあそうですか。大変ですね」と同情の姿勢を見せた。
さきほどから引き続き、胸中では嫌な感じがジリジリと燻ぶっているが、ここは腐っても上司。相手の立場を立てるように頷いておく。


「お仕事中にも関わらずお呼び立てしてしまって実に申し訳ないのですが、しかしこちらも忙しい身でしてね、学園の執務に加え、名誉騎士の義務と支部長としての責務、はたまた世界を救うマスターだったり」

「はあ……まあそうですね……え? 最後なんて?」

「イベントの真っ最中にヴァチカンから召集が掛かってしまい困っていたんですよ」

「……イベント。……って、何を押しつける気ですか、タブレット?」

「はい。今から一日、貴女の担当は、これです。ここに座ってこれをポチポチするだけの簡単なお仕事です」


マジか。思わず開いてしまった口を塞ぐのも忘れ、上司の顔を見つめ返すも。彼の表情は真剣そのもの。むしろ気圧されてしまうぐらいの真顔である。


「……あの……私もまだ、仕事が残ってて……」

「紅茶ではご不満でしたか? では緑茶にしましょうか。座ってお茶を飲むだけなら、ここでも出来ますから」

「ひえっ…‥! それは、ですねー……ええとー、窓口に座っている、ということに意味が、」

「何も生みださないあの時間にどんな意味が?」


何故知っている。


「…………。すみませんでした」

「分かれば宜しいのです!」


悪魔の圧力に屈してしまった。差し出されたタブレットをおそるおそる受け取る。
大体、いくらリアルが忙しいからとは言え、他人に進行を任せたそのゲームは楽しいのだろうか。
そう、ふと浮かんだ純粋な疑問にフェレス卿が笑う。


「そちらはサブ垢なので問題ありません☆」


……無性にタブレットを真っ二つに叩き割ってやりたくなった。
いや本垢かサブ垢かっていう以前にだな。問題ありまくりでしょうよ。



「名前さんの部署には、特別任務を与えたと私自ら連絡しておきましょう。それと今回は大サービスとして私個人のポケットマネーから特別手当を付けて差し上げます。さて……時給1200円、でどうです? 月額支給される貴女の薄給よりもだいぶ羽振りは良いはずですが」

「そう思うなら改善して下さい」

「大きな口を叩くより先に昇進なさい」

「うっわ辛辣……」

「何を言いますか私は至極まっとうな紳士さんですよ。……ああもう、時間がない。それではよろしくお願いします。サザエさんが始まる前には戻りますので☆」

「それって微妙に残業、」


私の細やかな抵抗に重なるように、ボフンとピンクの煙が巻き立つ。クソ、逃げられた。まさに煙に巻かれた、とはこのことである。

それにしても、と私は大変不本意ながらも受け取ってしまったタブレットを見下ろした。
……これは、いくら日本支部のトップだからって、職権乱用ではなかろうか……。
思い浮かんだ「いっそあの人頭おかしくない?」なんて言葉は、口には出さずに飲み込んでおいた。腐っても上司。腐っても鯛なのである。
特別手当という罠にまんまと落とされた私は、こうして一人ポチポチと、よく知りもしないソシャゲのイベントクエストを周回するという作業をひたすらやり込むことになった。




フェレス卿が出張先へと出向いた後も、私は真面目にも、サボること無なくポチポチポチポチ……無限にクエストを周りゲームの中の通貨とイベントポイントを集め続けた。
このゲームのキャラクターやシステムはあまり理解していないけれど、所詮はソシャゲ。単純な操作で成り立っているので、慣れてくればそれこそお茶を飲みつつ片手間に進めることができた。
むしろ片手間でも進めるので、飽きてきた。
理事長デスクに丁寧に並べ立てられた食玩フィギュアや美少女フィギュアを眺めつつ、タブレットのゲーム画面をポチポチする。
……この、美少女フィギュアのスカートの中身ってどうなってるのかな……。所詮プラスチック製の玩具だし……パンツとか、ちゃんと履いているのだろうか。
室内には私一人だ。
おそるおそる、フィギュアを手にとって、ひっくり返してみる。


「…………。」


何やってるんだろ、私。きゅるんとした笑顔を振りまいているフィギュアを、そうっと元の位置に戻す。
冷静になって考えてみれば、めちゃくちゃ恥ずかしい。
いかんな。疲れている。脳死周回、ツライ。
ポチポチするだけの簡単なお仕事をし続けておおよそ4時間。お時給、4800円也。
だいぶイベントポイントも溜まったなあと、椅子の上で「ンンっ」とこり固まった上体を伸ばす。ついでにダラっと四肢を投げ出した。
どうせ誰もいないし。フェレス卿も、出掛ける際に「一応内鍵掛けときますね☆」って言ってたし。だから万が一にも、仲間内の誰かが来ることはないと。油断していた。そう油断だったのだ。
突如ドアノブが回る金属音が響いて、私は息を呑んだ。


「おーいメフィスト! 頼まれてた資料持ってきたぜ……って、あれ、ロック掛かってんのか? んだよ人に物頼んでおいて……出直すの面倒くせーな」


ガチャガチャとドアノブを捻る音に加えて舌打ちまで聞こえてからコンマ数秒。私の脳が状況を理解するよりも先にバアンと凄まじい音を立てて扉が開いた。



「え」

「……えっ」


アグレッシブにも蹴破って入ってきたのか、片足を上げて固まる銀髪の男性と、ダラけきった体制のままデスクでタブレットを手にしている私。
同時に二人の人間が銅像のように固まるというある意味マヌケな光景に、おそらくこの場にフェレス卿が居合わせたなら彼は腹を抱えて笑うのだろうが、こちらはそうもいかない。
なんせここは上司の部屋で、上司の机だ。そんな、本来上司が座るべき椅子に、訳ありとは言えダラダラと腰掛けてるとか。何様だよ。いっそ自分がおそろしーわ。
見知らぬ人物の乱入に、混乱と緊張でグルグルグルグル、別の意味で脳死する。
……とりあえず、逃げよう。すっくと立ち上がり、「失礼致しました」と形ばかりの会釈を残す。
この状況が気まず過ぎてどうにか目を合わせないようにしていたから、あまり視認はできなかったけれど。年上のようだったし、無言で部屋を出るよりも、最低限の礼儀はあったほうがいい。それに相手は、フェレス卿にタメ口を利けるほどの人物。結構なお偉いさんに違いない。


「あっ、オイ、」


……扉口は例の人で塞がれているから、本日フェレス卿から与っていた“魔法の鍵”を使うことにする。
彼は「お茶のオカワリや食事はベリアルに申し付けて下さって構いませんから」だとか、「もし私の帰りが遅いようでしたらいつものように泊まっていかれても良いのですよ」だとか、そんなことをツラツラと述べてはファウスト邸直通の鍵を私に預けていったのだ。
その鍵を使って、別の戸口から慎ましく退散する。そのまま理事長室の風景をパタン、とドアで遮断してようやく、息が吸えた。

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