憂鬱なレイニーデイズ


今日も雨。たぶん明日も、雨。灰色一色で覆われた空模様を見上げながら、わたしは溜息で窓ガラスを曇らせた。
客が一人としていない店内は静かだった。いつもは流行りの音楽を掛けているラジオも壊れている。霧雨のはずなのに、どこか天井の方で水音が響いていた。
……雨漏りでもしているのだろうか。
水漏れ音のことをオーナーに話してみるべきか、と眉根を寄せるも、あのご老体じゃあ後で自分で直した方が早いかもしれないと思い直す。
そもそも、このダイアゴン横丁の中でも一際目立たない、地味で寂れたカフェにお客さんが押し寄せるなんて滅多にないんだから、例え店の中の一角が一時期雨漏れしていた所で、何も問題はない。
とりあえず穴が開いている箇所を突きとめてバケツでも置いておこう。雨が止んだら、屋根に登って壊れ具合を確認して『レパロ』で直せばいいんだもの。簡単だ。杖を一振り、するだけ。

私は魔女だ。ホグワーツ魔法魔術学校をきちんと七年満了で卒業した、一人前の魔女。
父も母も、そう。父はホグワーツを卒業したあと、魔法省の魔法ビル管理部で働いている。日々、省内の不備を整したり、窓の景色を変えたりする、所詮栄転の道とはさほど遠い日陰部署ってやつだ。
母はそんな父と結婚し、専業主婦となった。母が魔法で作る料理はすごく美味しいけれど、それも家庭の範囲内で、という話で、イギリス一番の料理店を開ける程ではない。
つまり、魔法界における極々普通の一般家庭に、わたしは生まれた。そしてそんな一人娘もやっぱり冴えない店で、少ない客を相手にコーヒーや紅茶を淹れ、平凡極まりない毎日を送っている。

やっぱり雨漏りはしていた。ポタポタと水溜まりを広げていた床にモップを掛けて、バケツを置いた。
時計の針の進みが遅く感じる。他のスタッフが出勤するまで、あと1時間以上もある。チャールズはこんな湿っぽい店で働いてる割にはハンサムで、ユーモアもある面白い奴だけれど、必ず30分は遅刻してくるのだ。
だから早く見積もっても、あと1時間と30分。それまでわたしは雨漏り以外の退屈から逃れる術を、見つけ出さなくてはならない。
そんなことを考えながらバケツに早くも溜まった水面を睨みつけていると、ふいにドアベルが鳴った。カランカランと響く音に、顔を上げる。
ナイスタイミングだ。これでどうにか仕事ができるし、無意味に天井を眺めたりして時間つぶしをしなくて済む。
そんな感謝を込めてわたしは元気いっぱいの笑顔を作って振り返った。



「こんにちは! 何名様で、……………」



そしてわたしは思わず、息を飲む。
白皙の肌に、しっとりと濡れた黒い髪。加えて髪色に近い黒スーツに包まれた、スラリと伸びた上背。
どこかアンニュイな雰囲気さえ漂わせる無感情な赤みがかった瞳と、薄く引き結ばれた唇。まさに人気役者でさえ負けさせるような整った顔と体躯。
こんな、どこの通りを歩いても女性の視線を釘付けにするような彼を、わたしは知っていた。
過去に一度も、話したことはない。それどころか、目を合わせたこともない。彼はわたしを知らないだろうし、わたしが彼を一方的に知っている、程度のものだけど。

何名様、と尋ねかけた言葉を慌てて飲み込む。
この店のドアを開けた彼は見るからに一人で、他に連れなど居なかった。
思ってもいなかった巡り合わせにバクバクと緊張で高鳴る胸を押さえながら、早く席を案内しなくちゃと、なんとか声を絞り出した。



「あ、あちらの席へ、どーぞー……」



若干、噛んだ。そんなわたしを一瞬怪訝そうに見遣ったあと、彼は軽く頷いて「どうも」と奥のテーブル席へと歩いて行く。
……たった一言発せられたその声でさえ、蜂蜜を混ぜたブランデーのように甘美なものだった。
噂通り、抜群にセクシーで良い声だ。
わたしは生で聞く彼の素敵ヴォイスに感動で打ち震えながら、この興奮を抑えようと一度カウンター裏へ引っ込んだ。

……かつてわたしがホグワーツ在学時代、もっとも人気があり、女子生徒の意中ナンバーワンとなっていた宝石のごとく類稀なるハンサム男子、トム・リドル。
このしがない店の中で今一番クッション性のあるソファに腰を下ろしている彼は、以前ホグワーツいちの王子様とまで陰で呼称されていた、まさにその人だった。


それから彼は、一週間に一、二度、この店を訪れるようになった。
タイミングはまちまちで、それでも大体、雨が降っている時間帯だった。毎度コーヒーを頼み、テーブルの上に地図やら書類やらを広げては何かを書き込んだりして、湿った髪や肩口が乾いた頃合いに店を出る。
ここひと月、そんな彼の様子をカウンター裏からじっと観察してもみたけれど、何の仕事をしているのかさっぱり掴めなかった。
学生時代、やれ行く末は魔法省大臣だ、いや裁判所の高官だと教師陣からでさえ噂されていた、トム・リドル。確か、学年はわたしより3つ下だったと思う。それでいながら、わたしの同学年の友人たちでさえ、彼の美少年ぶりをウットリと眺めていたものだ。
となると、年下か……。今日もまたいつも通り奥の席で、一杯のコーヒーを片手に本を読んでいるリドル青年を、あの頃のように薄目で眺めながらわたしは静かに息を吐いた。
改めて年齢差を自覚してみると、なんだかこちらが一気に老け込んだ気分だった。

皺ひとつないスーツに、清潔感溢れる真っ白な袖口。磨かれた革靴。決して安物ではないであろう、黒革の鞄。
見れば見るほど魔法省勤めでもしているのだろうかと思うぐらい、いつも身だしなみを完璧に整えている彼。しかし聞いた噂では、彼は卒業後ふわっと姿を晦ましたようで、一切消息が知れなくなった筈だった。
そんな人が、いま目の前にいる。しかもわたしの淹れた大して美味くもないはずのコーヒーを、何食わぬ顔で飲んでいる。

一体全体、どうしてこんなところで。
青春時代真っ只中の学生時代、当時アイドル級だった人を前にして、わたしの興奮がやがて疑念や好奇心へと移り変わるのに、さして時間は必要なかった。

ある日、いつものようにオーダーされたコーヒーをテーブルに置いたあと、つい彼の横顔をじっと見つめてしまった。
昔から、下級生ながらも綺麗な顔だな、これは将来色気が爆発するだろうなとは思っていたけど、まさに予想的中といった所だ。
長い睫毛も、通った鼻筋も、目元も全てが対称的で美しく、割と本気で同じ人種だとは思えない。
生活感どころか人間味すら失くしたような一種の神々しさを彼の横顔から感じていると、そんな不躾な視線に気づいたのか、カップを口元に付けていた彼の視線がこちらに流れた。


「……何?」


咄嗟の出来事に、わたしは身を竦める。彼は基本的に、誰とも喋らない。他のお客や、もちろん店員のわたしにでさえ、必要最低限のことしか話し掛けない。
それもオーダーの時とお会計の時くらいである。
接点がなかったとは言え仮にも彼はホグワーツの後輩なのだから、「ハロー、ミスター・リドルよね? 今何してるの?」くらいは訊ねても良さげなものだが、如何せんチキンなわたしにそんな勇気はなかった。
ただでさえその有様なのに、こんなにも自然な調子で話し掛けられて、動揺しない筈がない。


「ええと…………そのコーヒー、お味はどうかな……って……」


詰まりに詰まって出た言葉は、聞きたい事からおよそかけ離れた、至極どうでもいいことだった。
つか、美味い訳ないじゃん。豆は一応勉強して選んでいるけど、挽き方なんて自己流だし、完全にわたし好みの風味に寄せてるし、わたしのばかばか、何言ってんだ。
案の定驚いたような表情を見せた彼に、わたしはすごすごと後退した。


「あ、別に感想が聞きたいとかではなくて……いえ、ごめんなさい」


彼の席から3ヤードほど離れてから、謝罪を述べてカウンター裏へと逃げ込む。
ああもう、いい歳した大人が恥ずかし過ぎる。いくら美青年の前だからって、もっとスラッと話せてもいいはずだ。
いっそこの事は忘れよう。記憶から抹消しよう。そう決意して、お会計で再び彼の席へと向かったときには、心はだいぶ落ち着いていた。
これ以上彼を必要以上に観察するのも、下世話な好奇心を持つのも、そろそろ止め時だ。わたしはただの店員。彼の事はよく知らないけれど、度々コーヒーを飲みに来てくれるお客様のひとり。それでいい。それでいいじゃないか。
裏手でパブをやってるデズ爺ちゃんだって、毎朝うちの店の向かい側でワゴンいっぱいの花を売ってるスージーさんだって、わたしのコーヒーや紅茶を飲みに来る。彼はそういった人達と何一つ変わらない。変えてはいけないと、心の何処かでブレーキが軋む。
何故なのか。これ以上知ってしまうのは危険だと、脳内で警鐘が鳴っている。


「それなりに美味しいと思うよ。また飲みに来ようかと、思うくらいには」


会計用のトレーの上に銀貨を5枚置いた彼が、そう言ってわたしをちらりと一瞥した。
その時の口元が僅かに緩んでいるように見えてしまったのは、気のせいだろうか。心臓が、高鳴る。
また、という何気ない言葉が、次も期待していいのだという錯覚を引き起こす。ああやばい、眩暈までしてきた。


「……ありがとう、」


気の利いた返しなんて一つも思い浮かばなくて、ただお礼を言う事しかできなかった。


「変だね。お礼を言うのはこっちなのに。いつもご馳走様」


学生の頃は住む世界が違う天上人のような存在だった彼が、わたしを見つめて軽く微笑んだ。
はい、元王子のキラキラスマイル、頂きましたー。
きっとその破壊力抜群の笑顔で卒業後も凡その女性を虜にしてきたんだろうなと察しつつ、結局わたしだって、その一人だったわけで。
振り続ける雨音が、耳鳴りの警鐘を塗り潰していく。

ALICE+