私と上司のアフターシックス


「はいどうぞ」と差し出された金一封を、このまま素直に受け取っても良いものか悩んだ。
だってこれは、正当な雇用関係上からの報酬ではない。勿論私は不正なんてしてないし、組織の最トップが命じた案件なのだから、非は9:1の割合で目の前のこの悪魔にあるんだとは思う。
しかしだ。胸に蟠る罪悪感がどうしても拭えない。
上司の指示とはいえ仕事中にゲームなんかして個人的にお金を貰う、だなんて、どう考え直してみても常識的におかしい。
悶々と考え込む私に対し、フェレス卿がわざとらしく口許を押さえた。ププーっと笑いを堪えるような所作。何だか馬鹿にされているような気がする。


「顔に似合わず、真面目ちゃんですか」

「似合わずって……どういう意味ですか」

「そのままの通りです。名前さんってどちらかと言えば、やさぐれ系の顔してますし。萌え声なのに」


やっぱり、と私は睨む。意図して失礼な挑発を繰り返しているのだ、この男は。



場所は正十字学園町の南十字通りにある、とある串焼き専門店。
ごく普通の個人経営店だったが、下町の風情ある中々に活気に満ちた居酒屋だった。肝心の焼き鳥も炭火の香りがぷんぷんしていてとても美味しい。
フェレス卿が仕事上がりに直々に誘ってきたほどなのだ、もしかしたら隠れた名店なのかもしれない。
先ほど注文した2杯めが、元気な店員さんの掛け声とともに届く。重圧な音を立ててテーブルに置かれたビールはジョッキごと冷たかった。


「では遠慮なく受け取っておきます」

「そうしてください。金欲、物欲、食欲、性欲、大いに結構。本能的にあらゆる享楽を希求することは正しい心のあり方だ。貴女は人間らしく、私の誘惑にそうして堕ちていくだけでいい」

「…………わあ、フェレス卿が悪魔っぽい」


急に本職全開の流し目を向けられて困惑する。そう、この時、胸の内に抱いた感情は困惑だった。もっと言えば、「困惑のみ」だった。
本来持つべし警戒心や恐怖心が知らぬ間にどんどん懐柔されて、薄くなる。良くない傾向ではあると思う。


「ぽいじゃなくて、正真正銘の紳士な悪魔さんですよ、私は」

「本物の紳士に失礼ですしその自称、控えた方がいいのでは」

「そんなことを言う酷い子には今夜も私の相手をしてもらいましょうか。有無を言わせずのお持ち帰りルート、勿論、寝る間さえ与えません。私が満足するまでとことんオフラインで格ゲー対戦です」

「勘弁してください。ついこの間だってフェレス卿の訳の分からないサザエさん談義に付き合って、朝帰りだったのに」


ただでさえ社員寮暮らしだ、そろそろ同じアパートの同僚各方面にあらぬ誤解を生み出しそうでこわい。
ネギマの串の最先端についた鶏肉を頬張りながら愚痴ると、フェレス卿がその顔に似合わぬ箸を咥えながら片目を閉じた。何かを思案しているような、嫌な空気を醸し出している。
ずっと奥のカウンターで、店員さんが「砂肝とレバー、イチずつ追加でー!」とよく通る声を張り上げていた。そうだ、私も砂肝を食べよう。


「ではいっそ私の館に住みますか? ヒトや一部の生物は個々を集合させた群れ、ファミリーを形成すると言う」

「………………え? すみません。なんて?」

「そうなればいつでも私と貴女で遊び放題、オールナイトでハッピーライフです。サザエさんのあれも一種、日本カルチャーを代表する典型だと聞きますし、多少の興味があります」

「いやいやいや時の王が何言ってるんですか、第一に私とフェレス卿が一緒に住んだ所でサザエさんはスタートしませんから」


ちょっと意味が分かりません。私は精一杯首を横に振りながら串焼き用のメニューを握りしめた。
今日もたぶん飲み代はフェレス卿持ちだろうし食欲大いに結構と言っていたし、遠慮なく砂肝とレバー、あともう一杯のビールは頼んでおこうと思う。
フェレス卿がつまらなそうに息を吐いた。酒気を帯びていはいるが、おそらく彼は些かも酔ってはいないのだと思う。


「貴女と永遠の時を愉しむのも悪くはないと思ったのですが、この調子ではプロポーズ作戦は失敗ですかね……」


いやもしかしたら酔っているのかもしれない。酔っている故の迷言だと、是非にも誰か言って欲しい。
私は眉根を寄せながら精一杯考えた。この絡みづらいことこの上ない困った上司に対して、なんと返すべきなのか。頭というCPUをウォンウォン稼働させながら、考えた。彼の望むべく答えを。好むべき回答を。何故かは分からない。ただひたすら、そうしなければならないと感じた。


「……永遠なんて、ご冗談を。時は過ぎ去っていくからこそ、美しいと感じるのが人間です。時が過ぎれば無くなるものもありますけど、でもそれを心に永遠にしまい続けることが出来るのも、また人間だと。フェレス卿なら既に知ってるのでは?」


換気扇の回る音がする。この場には幾重にも人の喋り声がする。笑いが響く。隅に備え付けられた小さなテレビには、また別の遠い人の生活や日々の営みが、映し出されている。
心臓は私の体内でドクドクと脈打っていた。さながら、魂の狩り人を前にした気分である。いやあながち間違いではないのだけれども。
そして捕食者は満足気に目を細める。半月を象った口元には、鋭く白い犬歯が覗いた。


「小娘風情が、語ってくれますね」

「もう二十代も折り返し地点なんですけど」

「私が生きた年数からすれば赤子同然の小娘です」

「まあフェレス卿と比べればそうでしょうけども」


心の中でほっと息を吐き出して店員を呼ぶ。どうやら回答は、なんとか彼の合格点ラインに達したようだった。
すぐに駆けつけてくれた店員に再度すみませんと声を掛けて、砂肝とレバーと、あと生、とメニュー表を読み上げていれば、黒塗りの長い爪が国産牛のカルビ串を叩いた。一本が他の焼鳥の三倍はするお値段である。さすが支部長、超リッチ。私はカルビ串を三本、追加オーダーした。


「まあ今はそういうことにしておきましょう。ところで名前さん、この後もう少しお付き合いいただいても? この先にゲームセンターがあるでしょう、実は私、前々から行ってみたいと思ってたんですよねえ……音ゲー……シューティング……やはりそれらはアーケードを体感してこそっ!」

「別にいいですけど日付跨ぐ前に解散が条件ですね」


運ばれてきたカルビ串を一本、フェレス卿に手渡して。私は大きく口を開けて、特製ダレがが滴るそれを迎え入れる。
ああ世の中、有象無象なり。こんなにも美味しいものと様々な娯楽に溢れた、魅力的なアッシャーなのである。いつしか時よ止まれと請い願うこともまた已むを得ず、だ。

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