焼肉に行く話


テーブルいっぱいに広げたメニューからこっそりと顔を上げて目の前の人物を盗み見ると、「なんだ、やっと決まったのか」と目敏く声を掛けられた。
煙草を悠然と吸いながら私の回答を待っているこの人は生来、他人の気配や視線に敏感なのだ。
私が「もうちょっと」と言うと、今度は長く吐き出される白い煙。それはこの場に滞留することなく、すぐに七輪上の天井付近に備えられた吸気口へスルスルと吸い込まれていった。


「俺の金で食うんだ、好きなものを頼んどけよ」

「尾形さんがそう言うときって何か裏がありそうでこわい」

「おいおい、いつからそんなに人を疑うようになったんだ」

「お陰様でこっちも色々と学びまして。昔みたいに飴玉一つで懐柔なんてされないんだからね」

「だから徐々苑の焼肉に連れてきてやったろ」


ふー、と再び吐き出された紫煙が、電球色の照明に照らされながら縦に伸びる。こうして尾形さんが煙草を吸っている姿はまだあまり見慣れないけれども、正直に述べるとするならば、彼と煙草というアウトロー感満載な組み合わせは大変マッチしていると思う。つまり、まあ、似合っている。
尾形さんとは良くも悪くも互いを知る仲であり、そこにはこの期に及んで切っても切れない奇妙な縁があった。だから、私がまだ大学生の身の上で、とっくに社会人になって働いている向こうからすれば子供と相違のない歳の差があったとしても、今さら過ぎてなんの障りにもならないのである。そしてまた、このような高級焼肉店という場においては大人がお金を出すのは当然だ。
メニューの小さな文字をあちこち見比べながら、私は言った。


「やっぱり何か企んでるでしょ」


この人の真っ黒な目を覗き込んだって、考えていることはいつだってよく分からないし、読めやしないということを経験則から知っている。


「企んでなんかいねえよ。単に人と飯を食いたくなっただけだ」

「えー、嘘だぁ、尾形さんがそんなこと思うはずない。性格的にない」

「今のは割と傷ついた。……まあ、嘘だけどな」

そう言って尾形さんが笑った。その笑みすらも白々しくて、割と傷ついたっていう部分も含めて「嘘」なんじゃないかと私は薄々思っている。こういう人なのだ、尾形百之助という男は。それは驚くべきことに前世から何ひとつ変わっていない。もうちょっと、そういう所を今度こそ直してから生まれてくればよかったのに。
尾形さんがふと視線を逸して言った。


「お前と飯を食いたかったんだよ」


その視線は、確実に他テーブルにビールジョッキを運んでいる店員に向けられている。
私もいい加減、頼むメニューを決めなければなるまい。でなければ痺れを切らした尾形さんにテーブル下で蹴られる。


「はいはい、お腹空いたのね、分かってるって。ちょっと待ってよ、今どのコースの肉にするか、あと少しで」

「面倒くせえ、単品で食いてえものを全部頼め」

「えっ、それだとかなり割高になるけど」

「懐を心配されなくても日々アルバイト三昧のお前よりかは潤沢だから安心しろ」


無遠慮で、投げやりで、だけど的確に人の弱みを突いてくる尾形さんの言葉に私は眉根を寄せて、「じゃあそれならば」と遠慮なく店員さんをコールした。
特上厳選のお肉や希少部位のお肉が数枚づつお皿に乗って運ばれてくる。国産の牛タンはワンランク上の三種盛り。普段食べるような安いチェーン店の食べ放題とはえらい違いだ。私は一枚一枚、丁寧に肉を焼いては何もしないでただただ生ビールを煽っている尾形さんへと提供した。


「どうぞ尾形さん、たぶんこれが一番美味しく焼けた肉です」

「ふん、そこは尾形様だろ。様をつけろ、様を」

「とんだ上から目線……。尾形さまー、こちら一番美味しいお肉です」

「カルビはいらん」

「我儘ぁ」


拒否する声を無視して、尾形さんの小皿にポイポイと投げ込む。こんなに美味しそうに焼いたのだから、食べないなんて言葉は受け付けない。
こうして半個室のキラキラとした場所で尾形さんと焼肉を食べているのが、なんだかおかしかった。
焼肉に誘ってもらえた理由も未だによく分かっていない。昨夜めったにこないラインに突然、「明日晩飯に付き合え」と「奢る」の二文字が踊ったので私は理由も考えずに即オーケーした。
一人暮らしの私にとっては誰かと一緒に御飯を食べるのは楽しい事だけれど、もしかしたらこの人も意外と、そうなのだろうかと。一瞬だけ、ありもしない想像を掻き立てる。

尾形さんは、私が働いているコンビニによく来るお客さんの一人だ。たまに夜間の平日、フラッと現われてはビールやらおつまみ、そして煙草を買っていく。
その様子から、相変わらず健康的な生活はしてなくて、まだこっちの時代でも独身で、気まぐれないっぴき猫のような人間関係を築いているんだろうなぁということは察していた。それでいて特に後悔も寂しさも感じていないような、この顔だ。私がせっせと献上したお肉を、無表情に淡々と消費していく尾形さんをひとしきり眺めて、箸を持つ。
熱々のカルビは柔らかく溶けて、ハラミはぷりっとお口の中で弾けた。



幸せなほどにお腹を満たしてお店を出た後は、二人で電車に乗った。尾形さんは多少なりともお酒を飲んでいたし、夜にあのコンビニに立ち寄るくらいなのだ、きっと自宅も近いのだろう。
私はというと住んでいるアパートから徒歩で職場に向かえるくらいなので、だとしたら私達が降りる駅はおそらく一緒だ。
昼間とは違ってぐんと乗客の減った車両には、扉の前で立つ私と尾形さんの他にぐでぐでに酔っ払った客が一人と、隅のシートで寄り添う一組の男女しかいなかった。
特に会話もなく、話し声もなく、電車は夜の帳を背負って静かに揺れて走行する。長らく続く沈黙に息苦しさは感じなかった。ちょうどいい距離感というものは、なんとなくこういうものだと思う。


「時に、名前」


尾形さんがふいに、私の名前を呼ぶ。
尾形さんは何かを考えるように、窓の外を眺めていた。街の明かりが次々に通過しては、後方の闇へと溶けていく。


「お前、歯は生えたのか」

「……は?」


私は思わず聞き返した。なんの脈絡もない言葉が一瞬では飲み込めなかったのだ。


「だから、歯だよ。欠けてただろ、一本。横の中間あたりの歯」


確かに、私の歯は一本欠けて抜けていた。まだ自転車に乗れるようになったばかりの幼い頃に転倒して、顔面から地面に飛び込んだ結果だった。口の中が血だらけで悲惨な状態にはなったが、その時抜けてしまったのが前歯ではなく、大きく口を開けないと見えないような位置の横の歯だったのが不幸中の幸いであった。
けど、尾形さんにこの話した事はあっただろうか。なんとか記憶を引き出そうとするも、思い当たる節はない。そもそもあれは……。
そこまで考えていた時、尾形さんが突然、私の顎へと腕を伸ばしてきた。電車の扉側に寄り掛かるようにして立っていた私にもちろん逃げ場なんて無い。顎を掴まれて、無抵抗に顔を上げさせられる。
さすがに驚いて目を瞬かせれば、やはりそこには何を考えているのか分からない尾形さんの黒い二つの目とかち合った。


「口を開けろ」

「へ……なんで、」

「いいから」


有無をも言わせない命令口調は、あの頃を思い出す。ああいう尾形さんも、私は嫌いじゃなかった。
言うとおりに口をぱかりと開くと、とたんに親指が口の端に掛かってきて、その指は女子の右頬をおかまいなしにぐいと横へ引っ張った。私は尾形さんの指のせいで口を閉じられず、かといって間抜けな顔を晒し続ける羽目になり、言葉を詰まらせた。
生暖かい指が、そのまま私の歯茎に触れて、一本だけ抜け落ちたその箇所をふにふにと押す。まさに傍若無人。やりたい放題か。
呆気にとられていると、尾形さんは言った。


「なんだ、生えてないのか」

「……いや、生える生えないの問題でなく、そもそもあれ、永久歯だったぽくて」


 尾形さんの手を押しのけようちしながらそう言うと、尾形さんはほんの少し、目を丸くした。というより、見開かれた目がきゅっと縮まって、びっくりした猫ちゃんのような顔になっている。
とりあえずこの話をどこまでした事があるのか記憶に無いので、私は一から説明することにした。


「歯が折れちゃった時、これは乳歯で後から新しい歯が生えてくるから大丈夫、的なことをわれたんだけど。いつまで経っても生えてこないから、さすがにこれはおかしいなーって思って、両親に問い詰めの」


歯が抜け落ちてしまったことがショックでわんわん泣いた私を、どうにか落ち着かせようとした故の言葉だったのだと、今になっては思う。そしてその嘘を中学生になるくらいまでずっと信じていた訳だ。


「でも、歯が一本無いからって、不便するようなことも特段ないし、別にいいかなって」


とりあえず、口を大きく開けなければ。またはこうして無理やり開けさせられなければ見えない位置の歯ではあったし、欠けていることは対して私の中で損害ではない、と述べれば、尾形さんは猫ちゃんのような目を二度瞬いて、私の頬から手を引いた。


「……仮にも女だろう、少しは気にしろ」

「まあいざとなったらお金を貯めて、差し歯でも入れるんで」

「差し歯」


そう繰り返した後、「ハハッ」と尾形さんが短く笑った。
その時、尾形さんがどういう意図で笑ったのか、どんな気持ちが込められていたのかなんて私は知らない。果てしない延長線のような長い付き合いの下地があっても、見えないものはたくさんあった。


「尾形さん」

「なんだ」

「私、次はお寿司に行きたい。回らないお寿司」

「……気が向いたら誘ってやるよ」


それでも、この電車のように、走っては止まり、走っては止まり、どこかの停車駅で偶然乗り合わせては袖触り合うようなこの関係がせめていつまでも、続けばいいと思う。

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