土用の丑の日の話


現代にはよくあるようなケースで、それでいて生意気な子供だったと思う。
一人っ子で両親が共働きだった私には、手塩にかけて育ててもらったという記憶があまりない。物心ついた頃には、朝食はいつも一人だった。ベッドから起きるとすでに色とりどりの朝食がテーブルへ並べてあって、私はそれに一人手を合わせてからモグモグと咀嚼する。学校が終わってからは塾に行き、街が賑やかなネオンライトを灯す頃、タクシーを使って帰宅した。冷蔵庫にはいつもタッパーに入ったお夜食が並んでいた。自分で簡単なものを調理する日もあった。朝、親に起こしてもらう必要がない。目覚まし時計を使って、自分で起きられる。塾に通っている。国語、社会、数学、理科、そして英語。私立中学への入学を目標としていたから、ひととおり、一部の教科においてはだいぶ先の範囲まで履修させられた。夜は一人でお風呂に入って、就寝する準備をし、やっと帰ってきた両親に「お帰りなさい」を言う。そうして両親はそんな私の頭を撫でて「偉いわね」「今日も一日頑張ったね」と満足するのだ。
そんな環境だったからか、当時、己は自分でなにもかもできる自立した小学生であると本気で信じていた。その自信が呆気なく崩れ去る出来事が、ふいに背後へと迫って、肩を叩くまでは。
ある日私は、夏の終わりにとある事件に遭遇した。
その時は「失踪」か、はたまた「誘拐」かと世間でもちょっとしたニュースになり、私の名前は全国のお茶の間へと流されることとなったのだ。
場所は近所のちょっとした裏山。山といっても一周二、三時間で歩けてしまうような、小さな山だ。もともとはそれなりに名高い神社があって、その周りをぐるりと森林が囲んでいるだけのもの。
その山で私は三日間、迷子になって彷徨っていたらしい。らしい、というのは世間や警察の出した勝手な憶測であり、見解であり、私が経験した事実とは大きく異なる。
余談だが、五年間背負っていたランドセルはその際に失くしてしまった。


目の前には、漆塗りの重箱。それが載せられた半月形のお盆と箱の蓋にはちょこんと金の七宝柄がワンポイントで描かれている。小鉢には色鮮やかなお漬物と、ごま豆腐。そして透き通ったお吸い物。非常に品の良さが伝わってくる一膳である。


「あの、これ、本当に……食べていいんですか!?」


重箱の蓋をあけるとぷっくりと太った鰻の身が現われて、たっぷり甘ダレがかかったそれはテラテラと輝き、白米の上へと横たわっている。
私は興奮で震えながら蓋をテーブルに置いて、視線を持ち上げた。最初は、一番の特徴とも言える砲弾の傷跡もその大部分を覆い隠す額当てもなくて戸惑ったものだが、今や整った風貌もだいぶ違和感なく見慣れたものとなった。


「うん、いいよ。いっぱいお食べなさい」


鶴見中尉が目を細めて、実に紳士的な笑顔を浮かべて言った。いや、彼にとってはもう、中尉なんて役職すら遠い霞の向こう側なのかもしれない。ただこうして私が、無意識のうちに引きずってしまっているだけで。


「食後にはメロンを持ってくるよう頼んでおこう。よく冷えた甘い果実は、今日のように蒸した夜にはぴったりだ」


鶴見さんは、幼き日の私に様々な意味で教えを説いてくれた人だった。何もかも知った風だった私が、まだ何もかもを知らない小娘だったのだと気づかされた時に、手を差し伸べてくれた人だった。その手には当然隠された目論見もあっただろうし、何かしらの利益を子供であった私に見込んでいたのであろうが、慈愛も確かにあった。私にとって、恩人とも呼べる人だった。
「いただきます」と二人で声を揃えて手を合わせる。ふかふかのご飯と鰻の身を、箸でつまんで持ち上げる。途端に白い湯気が立って、熱々のそれを口内に納めれば山椒の香味が舌全体に広がった。


「鶴見、さん……美味しい、ものすごーく、美味しいです……! ふわっふわの鰻も、香ばしいタレの味も!」


バイト先のコンビニに鶴見さんが来店して、レジを打っていた私に「今夜、空いているかな」とウィンクを投げたのが、まだ先程の、間もない話である。「美味しい鰻を食べに行きたい気分なのだが、キミもどうかと思って」そう、レジ前に展開されていた和スイーツコーナーのみたらし団子を追加で私に渡しながら言った。私には、特に給料日前だった私にはその時の鶴見さんが非常に輝いて見えた。だって鶴見さんが行く店だもの。ぜったい高級店に決まってると、そうワクワクして退勤後に待ち合わせてみれば案の定、タクシーで連れてこられた先は銀座の料亭。落ち着いた個室の座敷は広々としていて、食事をしているこの空間が二人きりという贅沢さを際立たせた。

限られた時間の中で、取り留めのない話をした。この間行った尾形さんとの焼肉や佐一くん達とのお好み焼き屋さんのこと。あとは、大学の事とか。それはまるで親子のような会話だった。その奇妙さに、少しだけ笑ってしまう。私を生んでくれた父や母とは、こんな日常的な話をしたことすらない。


「この間ね、教授が授業の合間に、言ってたんですけど。人との出会いは天文学的な確率の数字なんだって」


最後に運ばれてきたメロンをフルーツフォークに突き刺しながらそう言うと、鶴見さんは早くも口をモグモグと動かしながら私を興味深げに見つめた。いったい何がそんなに彼の気を引く単語だったのかはわからないけれど、鶴見さんは時たまこういう目をして、私の為すこと口にすることをじっと見守る節がある。
そんなにすごい話題でもないから、期待されても困るんだけどな、と。私は一欠片の果肉を口に放った。途端に滲み出る果汁が、とても甘い。


「世界の総人口をもとにして、何らかの接点を持つ人と出会う確率は24万分の一、同じ学校や職場、近所の人と出会う確率が240万分の一、なのだそうです。占いだとか、スピリチュアルだとか、非科学的なことだとあまり信じられないけれど、そう具体的に数字にされると、すべての出会いは必然、という話もあながち嘘ではないのかなって思ってしまいますよね。鶴見さん的にはどうですか? 運命とかを、信じる派ですか?」


何より自身が非科学的とも呼べる体験をしたにも関わらずおかしな質問をしてしまったなと思っていると、鶴見さんも同意見を抱いたのか、口髭を軽く撫でてからニヤリとした。


「ふむ、合縁奇縁というやつだろう。そうでなければ、明治の時代から続く私とキミの奇妙な関係性をどう説明すればいいのか悩むところだ」

「まあ、確かに」

「私だけでなく、名前、キミが他に出会った者たち全てに、それ以上の理由がつけられるのであれば別だがね。……そういえば月島や鯉登とはどうしている?」

「相変わらずですよ。この間も飲みに行かないかって少尉から連絡がきました。少尉無駄にお酒強いし、鶴見さんの話しかしないし、宇佐美さんともすぐ喧嘩になるからあんまり気は進みませんけど」

「そう言わず付き合ってやってくれ」

「鶴見中尉……いえ、鶴見さんは来ないんですか?」

「私が行くとあの連中も気が休まらんだろう。今の時代に軍はないとして、それで我々に残ってしまった記憶が消えるわけでもない」

「……喜ぶと思いますけどね」

「たまに仕事で顔を合わせるだけでも充分だよ。さあ、せっかくの旬のものが温くなってしまう、早く味わってしまいなさい」

「……はい、鶴見さん」


私には、意図的に鶴見さんが彼らから程よく距離を置いているように思えてならなかったけれど、こればかりは仕方がない。私が知る歴史はほんの僅かで、彼らにとっては人生の一部でしかなかったのだ。なんだか寂しい気分ではあるけれど、下手に介入や口出しなんてできるはずもない。
無言でモシャモシャと最後のメロンを食べていると、その空気を察したのか鶴見さんがふいに席を立って、テーブルを回り込み私の隣にスススと寄ってきた。


「え、なんですか、近いです」


この人のひとつひとつの行動が謎めいているのは昔からで、それは良いか悪いか、現代にも引き継がれている。
ピッタリと膝を寄せておもむろに私の肩を抱き寄せた鶴見さんは、私の手からフルーツフォークを優しく取り上げて、かわりに、シンプルな香水瓶をその掌へと落とした。


「ちょうど先月、出張でフランスに行く機会があってね。キミに土産があるんだ。受け取ってくれるだろうか」

「土産って、また……、あー、鶴見さん、こういうお高いものは土産品しちゃだめだって、前も言ったのに」


可愛いアンティークの小瓶についた黒いリボンとタグには、誰もが知る有名ブランドの名前の箔押しがしてあった。「手軽なお菓子でいいって、言ってるのに」そう私が零すと、鶴見さんはここぞとばかりに目をパチパチした。いい歳した大人が、といった仕草も鶴見さんがやると妙にハマって、可愛い。
あざとさ満開の視線に困っていると、鶴見さんは私の耳に顔を寄せた。そして直接、声を流し込まれる。


「キミにつけて欲しくて選んだのだよ」


私は思わず固まってしまった。なんせ鶴見さんは顔も良ければ声もいい、色気と深みのある低音の持ち主なのだ。くそ、まいどまいど、これにやられるんだよなあ……。
私は溜息を吐いた。相変わらず、ずるい人だ。


「今回だけですよ……」

「勿論だよ。ところで普段使いの口紅なら何色が好みかな?」

「ほんとに分かってます?」

「ふふふ、あの時代に、一生懸命私なりに手塩にかけた娘がこうして立派に育ったのだから、贈り物をしたいと思うが親心というものだ」


こめかみに、小さく口づけを落とされる。それはおそらく赤子に向けられるものとなんら相違のない、柔らかな慈愛。


「そういう言い方は、本当に、ずるいです……」


私は一生この人に頭は上がらないし、反抗することだって、きっとできない。彼の元に居たおおよそ三年間で、渾身丁寧にそう仕込まれ、躾けられたも同然なのだから。

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