Giver & Taker


世界は理不尽の塊なんだって、五歳の誕生日を迎えたその日に気がついた。
勿論、当時五歳児だった私は当時、「理不尽」なんて難しい言葉自体を知らなかった。
けれど、お誕生日会に招いた従兄弟のツインズ、その片割れが勝手に私の分のケーキから真っ赤なつやつやの苺を盗み取って食べてしまった時に、なんとなしに悟った。
ケーキの苺事件のことを叔母さんはたっぷりと叱ってくれたけれど、それは何年経っても相変わらずで、大事に冷蔵庫にしまっておいたプリンや、飲みかけのペットボトルのジュースなど、気がつけばいつも無くなっていたり、半分以上減っていたりする。
小学校に上がった直後の一時期、母が東京に転勤することが決まって、引っ越し先でようやく略奪に合わない平穏な日々を得たと思ったのに、それはたった六年で閉幕し、ここ兵庫の地へと舞い戻ってしまった。
ウンザリすることに家はまたもや従兄弟のお隣という地獄の所在地。
引っ越しの荷解きをあらかた終えて母と一緒に叔母さんの所に挨拶しに行った際に、ぎょっとするほどバカでかく成長したけれど中身はなーんも変わっていなさそうな従兄弟たちとも顔を合わせて、それでやっぱり、悟った。
ああこれからまた理不尽ばかりが猛威を振るう毎日が始まるんだわ、って。
上がった中学校も一緒だった。そして現在通う高校も一緒。「ここまでくるとマジで腐れ縁やな」ってあいつらは妙に悠然と笑ったけれど、私は笑えなかった。さすがに頭が痛くなる。




「…………また、あいつは、」


湧き上がる怒りを押し込めながら、ひとの家の、ひんやりと冷気漂う冷蔵庫をばたんと閉めた。
母とその姉である叔母さんは昔から存分に仲が良くて、仕事に忙しい母は頻繁に私を宮家へ預けていく。
宮家で、一緒に夕飯を食べて、お風呂に入って、テレビを見ながら時間を潰し、たっぷり夜の帳が落ちた九時頃に仕事先から戻った母が、迎えに来る。
それは、小さい頃から変わらない慣習。

勝手知ったるなんとやらで宮家のキッチンをあとにした私は、リビングへと視線を移した。
布張りのソファの背凭れから、銀髪の後頭部がほんのちょっぴりと見える。
今日は部活休みなのかな、そう思いながらこの鬱憤を晴らすべく、一直線にその影へと歩み寄った。



「ねえ聞いてよ治、侑がまた私のゼリー食べた! 叔母さんが買っておいてくれた、ごろっと果実の桃のやつ!」

「……またあいつか。ほんま、しょーもな。てか名前も、名前書いとけ言うたやんか」

「書いたよ、マジックで大きく書いた、でもそういう文字は都合よく全部読めないみたい。ねえ治、侑を叱ってよ」


この悲しみの矛先が向けられるのはいつだって、主犯格である侑ではなくてその双子の兄弟である治の方だ。侑と違って治は絶対に人の食べ物は盗らない。むしろ侑と同じ屋根の下に暮らしている治だって、他人事ではなく被害者だったのだ。
そういう点において私達は大いに分かり合えた。
案の定、「叱ってどうにかなったら苦労せえへんわ」そう溜息をついて治は、ソファにへばり付いて嘆く私の頭を撫でた。治は優しい。いつもわたしを慰めてくれる。


「これ、食いかけでええなら一緒食う? 桃とはちゃうくて、梨やけど」

「……食べる」


そして自分の分の半分以上を、譲ってくれるのだ。ケーキの時もそう。プリンの時もそう。治はいつだって優しい。




「なのにどうして同じ血の通った侑にはそれができないのか、私には理解できない。むしろなんでだよ、なんでお前はまた人のモン飲んでんだよ」


お昼休みの教室は、男女入り混じった賑やかさでざわざわとしていて、ランチクロスや惣菜パンの袋、お菓子の包みやジュースパックと様々な色で溢れていた。
私はその中から目立つ金髪頭を捕まえて、自分の机を指差して言った。


「ここに、置いといたよね。私。今朝買った、アクエリのペットボトル。購買に行ってる間に三分の一を残して減ってたんだけど、どういうこと?」


できるだけ、怒りは抑えられていたと思う。だって、こんなの日常茶飯事で、いちいち腹を立てていたらきりがない。
けれど、昨日の今日だ。昨日はゼリー。今日はジュース。我慢を通せという方が無理だ。
私がこんなに不機嫌なのに、侑は全く、これっぽっちも気にしてないようだった。


「ええやん別に。全部飲んだわけやないし」

「いっそ全部飲んでくれた方がよかったよ。そうしたら新しいやつ、買わせたのに。なんでこんな微妙な量残すの」

「飲みきれんかっただけや、アホ。それ以外に理由ないやろ普通」

「アホって、人の飲み物飲んでおいてその言い方……!」

「お前のモンは昔から俺のモンやし。まさにイトコ同士の宿命てやつやんな?」




こういう時、心の底から思うのだ。本当に、世の中、理不尽だって。
どんな文句をつけたところで動じない侑を早々に追い払って、私は購買で買ったばかりのサンドイッチを机の上に放り投げた。マジで。クソ腹立つなあいつは。
それからサンドイッチを包む透明なビニールをペリっと開封して、思い切り齧り付く。それでもなかなか、イライラは収まらない。
喉につかえるパンのモサモサ感でさえ、鬱陶しい。私はそれら全てを胃の奥底へと流し込むべく、僅かに残っていたジュースを勢いよく流し込んだ。


「え、それ、飲むん」


その様子を見守っていた隣の席の友人、小春ちゃんが驚いたように尋ねてきた。


「だってそれ、さっき宮くんが飲んでたで」

「元は私のだもの」

「いや、そういうんと、ちゃうくて。それ、俗に言う間接キス……やんなーって」

「そんなこといちいち気にしてたらやってけないよ。強調して言っとくけどね、これは、わ・た・し・のジュース」

「まあそうやねんけどな。宮くん、というか宮兄弟のファンが知ったら卒倒もんのシチュやねんで。そこらの女子ならまず出来ひんもん」

「…………。」


私は呆れて、それ以上何も言い返さなかった。言い返せなかった。小春ちゃんが言ってるいることは事実で、確かにあの兄弟は校内でも、そして学区外でも人気があって、とある界隈ではテレビに映るほど有名なのである。
バレーボール、というスポーツをやっているのだ。それが彼らにとってはぴったりと肌に合うスポーツで、またたく間に才能を開花させた、らしい。
らしいというのは、この辺りは私が東京に行っている間の出来事で、その大まかを叔母さんや叔父さんから聞いた話だったからだ。
まさに今だって、追い払った侑は別のグループの女の子たちに囲まれてチヤホヤされてる。仲本さんと柊さんと水野さん。きっと彼女たちはみんな、侑が好きなんだ。「あんなののどこがいいのか、分かんない」思わずそう溢したら、小春ちゃんは不満そうにクリクリとした目を半眼にしながら「え〜……?」と声を上げた。


「侑くんの方の宮くんはノリもええしなんて言うかな、結構、喋りやすい所あるというか。そういうところがええんちゃうの?」

「ただの暴君だよ」

「で、一組の、治くんの方のは意外と冷めてるゆうか、クールな感じあるやんか。あ、ということは名前って治くん派?」

「別にどっち派でもないけど」


そう言いながら、ちらりと一組側の方角を眺める。
当然、隣のクラスである治の姿なんて臨めやしないけれども。黒板付近で楽しそうに笑ってる金髪頭と同じように、これまた友達と楽しそうに話す銀髪が壁を超えた向こう側に、いるのだろう。
それ以上の深いことは考えずに、何の気なしに私は言った。


「侑に盗られたお菓子やデザートはいつだって分けてくれるし、そういう意味では治派かな」

「食べ物の話から離れて考えられへんの……」

「無理だよだって言うでしょ、食べ物の恨みは恐ろしいって」



お昼休みにはそんな話をして、午後は淡々と、眠気を誘う歴史と数学の授業を普通に受けた。
放課後になってからさあ帰ろうと窓の外を見れば、いつの間にか空はしめっぽい灰色の雲に覆われている。いつ降り出してもおかしくはない天気だった。
その日運の悪いことに日直の当番だった私は急いで黒板周りを掃除し、日誌を書いて職員室に向かった。
担任の先生に日誌を渡したあと廊下に出れば、しんとした薄暗さが長い廊下に満ちていて、昼間の喧騒などまるでなかったことのような陰鬱さが漂っていた。
吹奏楽部が練習する楽器の音色が、かろうじて空気を震わせて伝わってくる。普段は溌溂と聞こえるそれが今はなんだか頼りなくて、私の足は昇降口へと向かうため自然と早足になった。


「名前?」


どこからともなく名前を呼ばれて、突然のことに驚いた私は足を止めた。そうして振り返ると、部活用のジャージを羽織ってポケットに手を入れた侑が、左側の階段からちょうど降りてくるところだった。


「なに、今から帰るんか。なら早う急がんと雷情報出てんで」

「え、うそ、」

「嘘あらへんわ、さっき顧問のセンセー言うてたもん。えらいじゃじゃ降りになるんも時間の問題や、て。だから俺らも、部活は中止で帰宅に変更になってん。つまらへん」


ほれ見てみいと言われて侑の視線を追えば、先程よりもだいぶ不穏さを増した分厚い雲が校舎の上に跨っているのが見えた。
確かにこれは、やばいかもしれない。
窓を見上げていた視線を戻すと、侑が微妙に頬を膨らまして口をモゴモゴとさせていた。同時にフルーツに近い甘い匂いもほんのりとするし、何か、例えば飴でも舐めているのだろうか。
そう思ったらとたんに昨日のゼリーの件が蘇ってきた。今の今まで、怒りを忘れていたのに。
どうせ言っても意味ないだろうけれど一言だけでも物申してやろうと口を開きかけたちょうどその時、未だ窓の外へと目線を留めたまま、侑が言った。



「なあ、昼休みん時、お前サムの方がええ言うてたやん」

「……ごめん何の話? 昼休みって、侑が勝手にジュースを、あっ、それだけじゃなくてゼリー! 昨日また私の、」


そこまで言い掛けて、私はつい言葉を飲んだ。いつになく真剣で、無表情な侑と視線が絡んだのだ。それは言い換えればなんだか威圧的で、悪いことをしたのは侑の方なのに無言でこちらが責められている気分になった。


「まあ、サム優しいしな。スパイクはポンコツやけど。俺よか、ほんのちょーっぴり気ぃ利くし……」

「いや、だから侑はまず人の名前記入済みゼリーを食べたことを謝ろうか」

「ゼリー? ……何やねん名前、まだそないな事で怒ってたんか」

「そりゃ怒るよむしろなんでそんな悪びれてないの、ほんと侑って自分勝手、」


影が、差した。それはほんの一瞬で、気がついたときには、侑の、腹立つほどに整った顔が目の前にあった。
まばたきすらも忘れてしまう間の出来事だった。私の肩に手を置いた侑が、高身長の身を屈めてくる。さすがに従兄弟同士でも、普段はこんな距離感、絶対にない。状況に理解が追いつかないまま、唇と唇が触れ合い、その合間を滑るように何かが押し込まれた。カラン、と、私の歯に丸くて硬いものがぶつかる。いわゆる口移し、でそれを受け渡した侑は、自身の唇を満足そうに舐めた。


「そんなに言うなら、お裾分けしたるわ。いつも貰うとるばかりやし、たまには俺から、っていうのも、新鮮で悪うないな」

じゃ、俺ひとまず部室戻るから。そう言って何事もなかったかのように後ろ手を振って去っていく侑の姿を、私は呆然と眺めた。これはいくらなんでも、理解の範疇を超えている。なんなの、という単純な言葉さえ、思い浮かびはすれど声にならなかった。あの時食べ損ねたはずの桃の味が、口の中で唾液と絡んでじんわりと溶けていく。思考までも、ぼやぼやと形を崩していくようだった。
やけにふわふわとした足取りで、なんとか廊下を歩いて昇降口に立つと、水墨画のような色をした雲からまさに狙い打ったかのようなタイミングで雫が降り注いだ。あっという間もなく、乾いたアスファルトから、埃っぽい、土の煙にも似た雨のにおいが立ち昇る。

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