境界線のその先で
仲間だった。いつもふざけてくだらない事で笑っているだけの、仲のいい友達。それでよかった。私が我慢すればそのまま続けられたのだから、それだけでよかったのに。
唇が触れた。忠義の熱が移った唇は、息をするのも忘れた。押し付けられた唇はふわりと離れて距離を取り、忠義の細められた目が私を見つめた。見上げた私から目を逸らす事もなく、今度は肩を抱いて引き寄せられ、もう一度唇が重ねられた。
動揺していた。少し向こうにはみんながいるのに。こんなところでなんの前触れもなく、急にこんな事。
やんわりと忠義の肩を押した。忠義の顔は見られなかった。
肩にあった手が離れて行ってソファーに座り直した忠義の隣から立ち上がった。バッグを掴んで足早に前を通り過ぎると、私の後ろで忠義が立ち上がった気がした。
ビクビクしながら店の外へ出たけれど、忠義が追い掛けて来ることはなかった。安堵したのか、寂しいのか、よくわからない。理由のわからない涙が溢れてきたから、それを零さないように暗い夜の空を見上げた。
いつもわからなかった。
勝手に家の前で待っていたり、上がり込んで『飯作って』と言ってみたり。渋々ご飯の用意をすれば、『汐里大好き』なんて言って。食べるだけ食べて、家のソファーで仮眠を取ったりして、それだけで帰って行ったり。
都合の良いように扱われているのだと思っていた。苛立った振りをしていても、それでよかった。それが、よかった。私の所に来てくれるのが、何より嬉しかった。
関係を変える勇気はないのだから、このままでよかったのに。
“あの子とどうなってんの?”
“いけそうなんやろ?”
忠義が言われていた。
...なーんだ。全然知らなかった。そういう子、居たんだ。それなのに家に来てたんだ。...何のために?やっぱり都合良く扱われてたのか。そうなんだ。
わかってたはずだった。自分でそれでいいと思っていたはずだったのに、苛立っていた。自分の中にあった“期待”に気付いてしまった。気付かなければよかったのに。そのままで良かったのに。そうすれば、ただ幸せで居られたのに。
『おかえりぃー』
マンションの前の植え込みの脇に、大きな塊。ふわふわの茶色い髪、もこもこのアウターでしゃがみ込む大きな体。逆光で顔は見えないけれど、溜息が零れた。
「...何しに来たの」
『いつもの事やん』
立ち上がった忠義から、早くなる鼓動を隠すように顔を背けた。
私の後をついてマンションに入って来る忠義は小さく鼻歌なんて歌ってご機嫌で、珍しく本当に腹が立つ。
キス、したくせに。
エレベーターに乗り込めば、私の隣に立って覗き込むように顔を傾け、忠義が私を見る。
『今日早いな。帰って来るの』
「...そう?」
『15分くらいしか待てへんかった。いつも一時間とか待つことあんのに』
その言葉にまた胸がざわつく。
一時間も待っていたなんて、知らなかった。だったら余計に、なんでそこまでして家に上がるの?意味わかんない。
忠義に言葉を返すこともないままエレベーターを降りて部屋へ向かう。忠義が私の横顔を見ている気がして落ち着かなかった。
どんな顔をしていいのかわからない。
『お邪魔しまーす』
鍵を開けた玄関のドアを引き、いつものように忠義が私より先に部屋へ入って行く。そのままソファーに寝転がって伸びをして、大きな欠伸までしてぼーっと天井を見る忠義を横目に、キッチンで手を洗う。
『飯食うたー?』
「...食べてない」
『そうやんな』
珍しく『作って』という言葉が続かなかったからちらりと忠義を見ると、忠義が体を起こしたから慌てて目を逸らした。
きっと、私を見ている。
今まで、何話してたっけ。どんな話してたんだっけ。何を話していいのかわからず戸惑う。
逃げるように寝室に向かい、クローゼットを開けコートを脱ぐ。気持ちを落ち着けようと何度も大きく息を吐き出し、部屋着を取り出す。
『怒ってる?』
背中側から聞こえた声に思わずビクリと体が揺れた。
「...着替えるから出てって」
なんでもないふりをして、振り向きもせずに言った。
昨日の話はしたくない。このままではきっと、動揺が伝わってしまう。
『...なぁ、怒ってるやろ』
「...何が、」
声が上擦ってしまって恥ずかしい。咳払いをして誤魔化したって、忠義はもうきっと私の動揺に気付いている。
『...昨日のキスのこと、怒ってんねやろ』
さっきまでいつも通りにしてたくせに。なんで急にそんな事言うの。
「...別に怒ってない」
『全然目ぇ合わしてくれへんし』
拗ねている風でもなく、怒っている風でもなく、そんな優しい口調で追い詰めるなんて狡い。
何だか泣いてしまいそうだった。
悲しいわけではない。けれど、怖かった。私達はどうなってしまうんだろう。
「...怒ってない」
『謝らへんよ』
はっきりとした口調で忠義が言った。
それをただ俯いたまま聞いていた。
狭い視界が、動揺で揺れていた。
『謝ったら、なかったことになる』
必死でその言葉の意味を考えるけれど、どうやったって自惚れる意味にしか取れずにますます動揺が広がる。
「...何それ、」
消えそうな声でやっと呟けば、忠義が私の後ろに立った気配がした。思わず体を強ばらせるけれど、私の腕に触れた忠義の指が思いの外優しく腕を掴んだ。
『ただ何となくしたわけちゃうよ』
軽く引かれたって、振り向くことが出来ない。どんな顔をしていいかわからない。だってもう、泣いちゃいそう。
忠義は無理に腕を引くこともせず、距離を縮めることもなく、ただ腕を掴んでいた。
『...見て欲しかった。ちゃんと、俺のこと』
...見てたよ。
見てたはずだった。ずっと見てたのに。怯えて距離を作っていたのは私の方だったのかもしれない。
「...見てた」
『見てへんよ』
「うん」
『うん、って』
ふっと笑った忠義を振り返って見上げると、忠義がまた息を零して笑う。
今ならこの関係を壊して掴みたいと思った。忠義を、私だけのものにしたい。
『やっと見てくれた』
「...見てたよ」
『うん、その顔で確信した』
優しく腕を引き、辛うじてまだ涙が零れていない私の赤らんだ瞼に忠義の親指が触れた。照れ臭さにその手を払って俯けば、忠義がまた笑って私を包み込むように抱き寄せた。
End.