ペシミズムブルー


章大の指が頬を撫でたのを合図に、ゆっくりと律動が再開された。また緩やかに与えられ始めた快感に、溜息のような声が漏れる。
達したばかりでまだ整わない呼吸は、荒々しく塞がれたキスで更に乱れた。絡められた舌から章大の熱に浸食され、全て溶かされてしまいそうに熱くなる。隙間から漏れる熱い吐息さえも飲み込まれ、口内で掻き回され、解放された唇から思わず声が漏れた。

章大の呼吸も徐々に乱れ始め、時折目を閉じ唇を噛みながら私を揺さぶる。
手を伸ばしてその体を抱き寄せれば、じわりと汗が滲む章大の背中に愛しさが込み上げ、胸がきゅっと痛んだ。

体を重ねるのは何度目かわからない。数えるのはもうやめた。息が出来なくなるんじゃないかと思うくらい、苦しくて痛くなるから。
いつからか、触れたその瞬間にもう既に終わりのことが過ぎるようになってしまった。あと何分触れ合っていられるのか、常に考えてしまう。

ただ幸せだと思っていた。愛されなくても触れていられるなら、満たされると思っていた。けれど、そうではなかった。幸せなのに、痛い。

私の髪に指を通し、切羽詰まったように力を込めてくしゃりと握ると、章大が首筋に頭を押し付けた。そこで吐き出された熱い吐息と共に、耐える様な声が僅かに漏れた。その声すらも媚薬になり、熱が上がる。顔を上げた章大は、思ったよりもずっと色気を纏い、顔を歪めて私を見遣る。

『...イきそ、っ』

息を詰め体を起こした彼の背中から、腕が滑り落ちた。行き場の無くなった手でシーツを握り締めると、腰を揺らしながら私の腰を掴む章大の手に力が籠る。

...やだ。まだ離れたくない。
その手に掌を重ね、そこから滑らせた手は章大の腕を引き寄せるように掴んだ。快感に歪む艶を帯びた表情で章大が私を見下ろす。視線が絡んで、章大に首を横に振って見せると、ふっと息を零して笑った。

『イったらあかんのっ、?』

...だって、終わりたくない。
章大と居るには、私にはこれしかないのだから。私にはこの体しかない。体を重ねるしかないから、終わりたくない。

章大は私のものではないのだから、離れてしまえば、すぐにどこかに行ってしまう。触れる唇も手も体も、ずっと私のものであって欲しいのに。他の誰にも渡したくない。今、章大の目が私だけを映しているように、ずっとずっと私だけを見ていて欲しいのに。

いくら望んでも叶わない。口に出すことは出来ないし、引き止めることも、泣いて縋り付くことも出来ない。そんな勇気はないのだから。

“終わりたくない”

言えるはずもなく視線を逸らせば、上から私を見下ろす章大がまた笑う。

『大丈夫っ、先イかせたるよ、っ』

腰を引き寄せ、ぐっと奥を抉られて思わず声を漏らした。

...そうじゃないのに。いつになるか分からない“またな”の言葉に押し潰されそうになるのはもう沢山。体はひとつに溶けてしまいそうな程に確かに快楽を得ているのに、心は悲鳴をあげていた。
...そう理解していたって、この関係を解消する勇気もないのだからどうしようもない。だから余計に苦しくて堪らない。

章大の掌が腰を撫で律動が緩やかに変わり、その指が優しく髪に触れる。
薄く開いた唇。私を閉じ込める柔らかな色をした瞳。見上げれば、章大の掌が頬を包んだ。

『何回でもしたるよ』

囁く様な柔らかい声色の後、優しいキスが落とされた。また私を見つめた章大は、いつもの章大とは違う目の表情をしていて、心臓が一気に煩くなる。

『俺、これしかあれへんし』

章大が口にしたのは、私が胸に閉じ込めた感情と同じ言葉だった。その言葉は、私のそれと同じ意味なのか、そうでないのかわからない。動揺した私には、それを探る程の余裕すら残っていない。

ただ言葉もなくその瞳を見つめていたら、困ったように眉を下げ章大が笑った。
親指が優しく頬を撫で、唇を啄むようにキスが落とされる。キスの瞬間に閉じた瞼をまたゆっくりと開くと、私を映す瞳が切なげに揺れ、ドクリと心臓が脈打った。

『...満足するまで、俺がしたるよ』

この感情をなんと呼んだらいいのかわからなかった。嬉しいのか悲しいのか、自分でもわからない。けれど瞼の裏が焼けるように熱くなった。
見つめた章大の目も、複雑で曖昧な色を浮かべ私を見つめる。その瞳の奥を探ろうとするけれど、誤魔化すようにキスをして舌を絡め取られ、奥に打ち付けられて絶頂へ導かれた。





私の中に入ったまま腰を抱いて胸に頬をくっつけている章大の重みが心地良い。普段は終わったらすぐに出て行ってしまうから、こんな風に私の上にいるなんて珍しい。荒い呼吸はもう聞こえてこなくて、今は規則的な呼吸が僅かに聞こえてくる。

“満足するまで、俺がしたるよ”

さっきの言葉を思い出して目を閉じた。
そんなことを言われたら、本当に離したくなくなってしまう。
こんなことをされたら、同じ気持ちなんじゃないかと期待してしまう。

けれど、私は章大にその言葉の意味を聞くことが出来るんだろうか。確信のない言葉を真に受けて自惚れるのが怖い。今までずっと大事に、失わないように慎重に育ててきたこの関係が、たった一言で崩れてしまうのが怖い。

身動ぎもしない章大の顔を覗き込んでみると、その目は閉じられていた。
時計に目を遣れば日付が変わるまであと数十分。このまま一晩中一緒に居られたらいいのに。このまま繋がって朝を迎えられたら幸せなのに。

恐る恐るその愛しい髪に触れてみれば、章大がぴくりと動いて顔が上がった。ドキリとして手を引っ込めた私に向けられた目が細められて笑みを浮かべると、章大が私の上から体を起こす。
思わず、私の中から出て行った章大の離れていく手を追い掛けて掴んだ。章大の笑みが消えて私を見下ろしたから、はっとしてすぐに手を離す。
すると、優しく儚げな笑みを浮かべ、私の髪を撫でた。

『まだ足りひん?』

...したい。...違う、したいわけじゃない。ただ傍に居て欲しい。本当はそれだけで充分なの。
けど言えない。喉に張り付いたみたいに、言葉は出てこない。

『...どうしたん』

何も言わない私に、柔らかい声色で首を傾けて問い掛ける章大を見上げた。けれど、やっぱり言葉は出てこなかった。

『寂しいの?帰って欲しくない?』

章大が冗談を言うみたいに眉を下げて笑い、私の顔を覗き込む。だから握り締めた自分の手に力を込めて視線を逸らし、小さく小さく頷いた。
そうしてみてから不安感に襲われた。こんな些細なことでも、想いに気付かれてしまうのではないかと気が気でない。やっぱり怖い。怖いけど、気付いて欲しい気もする。でも下手なことをして章大を失うのだけは絶対に嫌だ。

『...マジで?』

呟くように小さく、章大が言った。その声が不快感を含むような声ではなく、明るめの声色だったから少しだけ安心して、伺うようにちらりと目を遣った。私を見ていたらしい章大と目が合うと、黙ったまま私を見つめるから心臓が煩くなる。

『...じゃあ、居る』

章大が俯いて言った。俯いたまま困ったように下唇を噛んで笑ってから、私に視線が戻ってくる。 私に向けられたその笑みは優しくて、優し過ぎて胸が痛い。
誰でもいいわけじゃない。章大じゃなきゃ意味がない。それを伝えることが出来ないのが苦しい。

頷いた私の頭にポンと手を置いて、章大がベッドを下りる。ベッドの下に散らばった服や下着を拾い上げ、携帯を手にして言った。

『ちょっと連絡だけさしてな』
「...ごめん...約束、あったんだ...」

けれど、“じゃあいいよ”とは言ってあげられなかった。
章大は、ここを出てからどこへ行くつもりだったのだろう。この部屋から出てしまえば、普段章大がどうしているのかなんて、私は何も知らない。だから不安が過ぎった。

『約束って程のもんちゃうよ。平気』
「...女の子でしょ」

うん、と言われたら、どうするつもりだったんだろう。知りたいわけではないのに、どうしてそんな事を聞いてしまったんだろう。

章大の目が携帯から私に向けられたから、思わず目を逸らしてしまった。章大はきょとんとして、少し驚いたような顔をしているように見えた。
せめて冗談のように、からかうように笑えたらよかったのに。

『...ちゃうよ』

その言葉に視線を上げると、章大は真っ直ぐに私を見ていたからドキリとした。

『...違うから。大丈夫』

...そうだ、きっとそう。私は、章大の口から“違う”という言葉が聞きたかったんだ。

『...あは、“大丈夫”て何やろな』

笑って私に背を向けると、章大が部屋から出て行った。
その“大丈夫”にどんな意味があったとしても、私を気遣った言葉であることに間違いはない。
もしかしたら章大は、やっぱり私の想いに気付いたのかもしれない。そう思ったら、少し早くなった鼓動のせいで顔がカッと熱くなった。
嬉しさも不安も恐怖も入り交じった複雑な感情が、胸に込み上げて泣いてしまいそうに苦しくなる。

優しいから、やっぱりいつもと同じように私に優しく微笑むから、そこに愛があるのではないかと思ってしまう。そう自惚れたくなってしまう。




『...なーんか、変な感じ』

章大がリモコンで電気を消した直後にそう言って笑った。こうして二人で眠るのが初めてだからだろうか。
ちらりと目を向けると、章大の指が私の手に触れて、指を弄び、絡められた。私に笑顔を向けてから天井を見上げた章大の横顔から目を逸らすと、胸がきゅっと少し痛んで、思わず章大の指を握る。

どうしてこんなことをしてくれるんだろう。確信的な言葉は何もくれないのに、こうやって私の心をいつも乱すんだから。

絡んでいた指が離れたからもう一度章大に目をやると、目が合うよりも先に章大の指が私の腰に触れたからドキリとした。そのまま滑らされた手は、シーツと私の隙間に入り込み、体を引き寄せられる。
向き合って至近距離で私を見つめる目は、薄明かりの中ではどんな表情をしているのかよくわからない。もう片方の手が頭に添えられて、ゆっくりと押し付けるようにして一度唇が触れた。

『...もっかいする?』

労るような優しい声色だった。言葉のわりに誘うような甘い声ではなかった。その証拠に、私を抱く手もただ添えられているだけで、触れた唇に愛が籠っているようにすら感じてしまった。
今まで何度も肌と肌で触れ合ってきたはずなのに、今はただ触れるだけで緊張してしまう。

少し目を細めて笑った章大の唇が、また柔らかく触れた。柔らかく食むように繰り返されるキスは、いつものセックスの時に比べても甘くて戸惑う。
こんなキスをされたら、ますます欲しくなってしまう。こんなに優しく抱き締められているのに、この腕が、この胸が自分のものじゃないなんて、苦しくて堪らない。

息が止まる程のキスをしているわけではないのに、上手く呼吸が出来ない。やり場のない感情が溢れるように、離れた唇から吐き出した吐息が震えた。すると章大がそれに気付いて私を見つめる。

『...どうしたん』
「...なんで私なの」

聞いてしまえば終わってしまうかもしれないのに、止められなかった。苦しくて、痛くて堪らなかった。
空気と同化してしまいそうな細い声で、思わず言葉を吐き出した。
詰めていた息を思い出したように吸い込むと、ドクリと心臓が脈打って暴れ出す。
不思議そうに私を見ている章大から目を逸らして、二人の間にある手でシーツを握り締めた。

『一緒に居りたいから、かなぁ...』

狡い。いつもそんな言葉で誤魔化して。心が締め付けられて潰れてしまいそうなこの気持ちなんて、何も知らないくせに。

「...私も同じこと思ってた、」
『え?』
「...私も、これしかないから、」

誤魔化しようもない程に震えてしまった声に動揺する。これでもう、冗談では片付けられなくなってしまった。
章大がどんな顔をしているかわからないのが怖い。けれど、私を映す章大の瞳を見るのも、今は怖い。

『...ちゃうよ』

章大の腕にゆっくりと力が籠って、体をキツく抱き寄せられた。首筋に顔を埋めた章大が吐き出し吐息は、溶かされてしまうんじゃないかと思う程に熱い。
顔を上げた章大の唇に性急にキスを仕掛けられ、片方の掌が私の頬を包んだ。

『“これしか”ちゃうよ。そんなん言うなや』

悲しげな瞳の章大が私を見つめる。頬を撫でる指は宥めるように優しくて、抱き締める腕はまるで私を守るように強く引き寄せる。

「...先に言ったのは、章大でしょ...、」
『...そうやけど、汐里はちゃうよ。俺にとっては、それだけちゃうもん』

顔を近付けて笑顔を見せた章大の唇が優しく触れると、まるで心の中に小さな火が灯ったような感覚になった。
言葉にならない想いが篭ったような柔らかくて優しい章大のキスに、胸が熱くなり背中に腕を回して縋り付く。胸に顔を埋めれば、章大の鼓動が早くて、涙が零れそうになるのを必死で耐えた。

「...章大だって違う、...」
『うん、そうやな。ごめん』

柔らかい声色で言った章大は、包み込むように私を抱き締める。
あんなに怯えていたのに、今はこれが愛だとわかる。今まで章大が私にくれた全ての言葉が、章大の想いなのだと漸く気付いた。
慰めるように背中を叩く手は優しくて、私ばかりが大事にされているみたい。

暫く言葉も無くただ抱き合っていた。
どれくらいの時間が経ったのかわからないけれど、切なさに似た胸の痛みはじわりと滲んで、妙に気分が落ち着いていた。それを見計らったかのように、章大が首を傾けて私を覗き込んだ。

『もうさ、あんなん言われたら困るから、ちゃんと俺がもらう』

章大が唇を額に押し付けてキスを落とすと小さく笑い、今度は唇に短いキスが降ってきた。

酷く扱われたことなんて、今まで一度もなかったのに、信じていなかったのは私の方だったのかもしれない。
怖くて、疑って、逃げていた。
章大はきっと、思わせ振りではなかった。曖昧な関係の中で、何度も手を差し伸べるような言葉をくれていたのに、その手を取らなかったのは、私の方だった。
思わせ振りは私の方。
きっと、章大を苦しめていた。

『...大丈夫、ちゃんと大事にする。これからも』

見上げれば、章大が今までのように優しい柔らかい笑みを浮かべて私を見つめた。私を責めることもせずに、髪を撫で優しくキスを落としてまた笑う。
“...ごめんね、”

「...すき、」

声になったのは、ごめん、ではなかった。
やっと伝えることが出来るようになった言葉が、一番伝えたかった言葉が、自然と零れた。
章大の表情が一瞬だけ歪み、唇を噛み締め力一杯私を抱き寄せる。言葉の代わりに私の首筋で何度も頷いた章大の背中を、宥めるように優しく摩り抱き締めた。


End.