スターダストロマンス


『おはよ』

波の音と共に後ろから突然聞こえた声にドキリとして包丁を持っていた手がピクリと震えた。
顔を上げると私に向けられた章大の笑顔。いつもと同じ、いつも通りの優しい笑顔。

「...おはよ」

すぐに視線を逸らし俯いた。
章大の顔を見ていられなかった。

もう昼過ぎだというのに、友人達一人一人に同じようにそんな律儀な挨拶をする章大の後姿をちらりと盗み見る。
少しの食材の入ったスーパーのビニールを『差し入れ』と言ってバーベキューコンロの脇のテーブルに置いて、アウトドアチェアに腰を下ろす。

海辺でのバーベキューに仕事で遅れて到着した章大に、コンロの上にあった肉や野菜を皿に盛って差し出す友人達。アルコールの瓶を差し出されれば、章大は首を横に振りながら皿だけを受け取った。

章大を囲む友人達に何となく近寄れずみんなから少し外れて、残り少なくなってしまった食材をちまちまと時間を掛けて切っていた。

鮮やかなタイダイ染めのTシャツ。
緩くパーマのかかった赤い髪。
薄く色の付いた眼鏡。
視線を向けていなくても後ろから聞こえてくる柔らかい声で、たった一瞬で目に焼き付いたその姿が浮かぶ。
そして浸食されるみたいに胸がじわじわと苦しくなる。



 「...好き」
 『...え、あ、...ん、...ありがとぉ』

2日前に想いを伝えた。伝えた、と言うよりは、思わず口走ってしまったに近い。

この想いを、今まで誰にも打ち明けずにここまで来た。今ここにいる親しい友人にすら、誰にも打ち明けることをしなかった。...出来なかった。
章大への気持ちを知られることも、フラれた後のみんなの同情も、怖くてたまらなかった。

章大は誰にも言わずにいてくれた。
言わないで、と私がお願いしたから。

あれから会うのは初めてで、何度も何度も目を閉じてシミュレーションしたはずなのに、話しは疎か、目を見ることさえ出来ないのだからどうしようもない。だって明らかに私達の関係は変わってしまったのだから。
聞こえてくる章大の声だけで、何だか泣いてしまいそうになる。胸が熱くて苦しくて。

『そこのバンガローが安くてさ、急遽今日泊まろうかってみんなで言ってて』

章大が来る前にみんなで話していたその会話が章大に伝えられるのを背中で聞いていた。

『あー...ごめん、今日彼女と約束してんねん』
『え、彼女?マジ?』

章大って彼女居たんだ、と近くにいた伶菜が呟いた。それに、...ね、と返してまな板に包丁を置いた。

「トイレ行ってくる」
『あ、うん』

逃げるようにその場を離れた。
ビーチを足早に歩くと、渇いているはずなのに熱い砂が足に纏わり付くように感じて上手く歩けない。足元に視線を落としながら深呼吸して唇を噛み締めた。

『彼女?いたの?』
『おん。おった』
『いつから?』

さっきよりも小さく聞こえる会話は、波の音に紛れて消えていった。
顔を上げると砂浜に揺れる透明な炎のような陽炎のせいで、視界が揺らいでいた。


挨拶以降、一度も言葉を交わすことは出来なかった。章大はいつも通りなのに、章大を避けるように不自然なのは私だけ。
だっていざ顔を合わせたら、どんな顔をしていいか分からなかった。

夕陽でオレンジに染まるビーチでみんなで写真を撮る時に、私の後ろに立った章大の手が肩に置かれ、それだけでひどく緊張してしまった。
写真の中の私はきっと強ばった表情をしていたに違いない。こんな写真、章大に見られたくなかった。
章大が触れた掌の感触で、肩が焼けるように熱く痺れるように熱を持っていた。




夕陽が沈む頃、一部屋だけ借りたバンガローに荷物を移し終えたところで腕を突かれて振り返った。

『大丈夫?』

振り返った途端耳元に寄せられた章大の顔にドキリとして鼓動が早くなる。

『さっき、肩めっちゃ熱かった』

触れられたせいか日に焼けたせいかわからないけれど、きっと前者に違いない。
視線を合わせないまま、大丈夫、と言いかけたところで章大がみんなに向かって言った。

『ほんなら俺帰るわ。汐里、俺が乗せてくし』

ますます鼓動が早くなり、息が詰まったように苦しくなる。
手を振って私達を見送るみんなに背を向けバンガローを出ると、先を歩く章大が振り返って私を見遣る。何も言わずにただ優しい笑顔を浮かべ私を見るその目から、思わず視線を逸らした。

何を話していいかわからず俯き視線を落とし、章大のビーチサンダルを目で追う。またあの熱が戻ったように体が熱くて胸が苦しい。

『家着くの、20時くらいやな。多分』
「...うん」

それだけ言って会話は途切れた。
後ろでバンガローから出てきたらしい友人達の声が聞こえてくる。楽しそうな彼等のその声が小さくなっていくのを聞きながら、向こうに見える章大の車を目指した。


助手席に回り、アンロックされたドアを開く。少し先に乗り込んだ章大が私を見ているから、シートベルトを締める手に無駄に力が籠る。
ちらりと章大に目を遣ると、視線が絡んで章大が笑顔を浮かべ、アクセルを踏んだ。

『めっちゃ暑かったな』
「...そうだね」
『...今日、全然喋らんな』
「...そんなことないよ」

嘘。自分でもわかってる。
けど、顔が見れないんだもん。しょうがないじゃない。

膝の上に置いていた手に章大の手が触れて、驚いてぴくりと体が揺れる。強ばったままの私の手に章大が指を絡め、その手を握った。

章大に目を向けると前を向いたまま口角を上げている。繋がれた手に視線を落としても、なんだか現実味のないその光景。けれど体温は上がり、鼓動は早くなっていく。

『ちょっとさぁ、さっきひどない?』
「...何が」
『写真の時。俺の手ぇ振り払ったやん』

笑いながら私を見た章大にちらりと視線を合わせ、すぐ前を向いてしまった章大の横顔を盗み見ていた。

写真を撮る前に私の顔なんて見ずに手を握ったりするから慌てて振り解いた。それを章大はやっぱり目も合わせずに俯いて笑っていた。

「...からかってるでしょ」
『なんで?』
「............。」
『ちょっとくらいええやん』

この想いを、今まで誰にも打ち明けずにここまで来た。親しい友人にすら、誰にも打ち明けることをしなかった。...出来なかった。
章大やみんなとのバランスが崩れてしまうのが怖かったから。

黙った私の気を引くように私の指を章大の指が弄ぶ。こんなに長く触れ合うのは初めてで、まだその体温には慣れていない。息が詰まるように胸が苦しくて、頭の中も心の中も章大でいっぱいだった。
自由に手を動かす事すら出来ずに、2日前から自分の物になったその体温をただただ感じていた。

好き。と言ったのは私で、
ええよ。付き合お。と言ったのは章大だった。
だからなんだか戸惑っていた。今まで友達だった私に、急にこんな風に接してくれる章大に、戸惑っていた。

絡めた指を引き寄せ、二人の真ん中でしっかりと手を繋ぎ直した章大が、赤信号でブレーキを踏み私を見た。優しすぎるその目が今はまだ恥ずかしい。私の気持ちを知った上で私を見るその目に、全てを見透かされてしまいそうで堪らなく緊張してしまう。

思わず視線を逸らすと、ふっと息を漏らして章大が笑うから、またちらりと目を向ける。

「...何、」
『や、なんかさ、』

ふふ、とまた声を漏らして笑うから、なんだかからかわれているような気がして頬が熱を集める。

『コレ』

繋いだ手を持ち上げて笑みを浮かべるから、え?と思わず聞き返した。青になった信号に目を遣りアクセルを踏んだ章大は、相変わらず口角を上げたまま私の指を弄ぶ。

『だってさ、今までで隣におっても、触りたくても、こうやって触るってあかんかったやんか』
「...どういうこと、」

章大の言うその言葉の意味は、私が欲しかった答えのような気がして聞き返さずにはいられなかった。

『もう好きな時に触ってええねんなぁーって。汐里のこと』

好き。と言ったのは私で、
ええよ。付き合お。と言ったのは章大だった。
好きだなんて一言も言われていなかった。だから急に友達を壊して私に触れる章大に戸惑っていた。好きなのは、私だけかもしれないと思っていた。

けれど違った。
絡んだ指も、私を見つめる柔らかい色の瞳も、ちゃんと章大の想いが篭っていた。今の言葉でそれを確信した。

『...なんか言えや』

繋がれた手に力を込めながら章大が笑う。
「嬉しい」は恥ずかしくて、
「ありがとう」もなんだか違う気がして、
何より胸がいっぱいで、言葉が見つからなかった。

「....うん」

なんやそれ、と笑った章大の手がするりと解けて行った。ハンドルをきって再び赤信号で停車すると、章大がこちらを向いて私の髪に触れるから胸が高鳴る。

『一日我慢してんからとりあえずキスくらいさせて』

さっきよりも幾分かトーンを下げた声に鼓動が早くなる。
頷く間もなく頭の後ろに滑った章大の掌に引き寄せられ、唇が合わせられた。
すぐに離れて行った章大に視線を向けることも出来ないまま前を向くと、車が走り出す。

『俺らが2人で抜け出してこんな事してるて、誰も思ってないんやろな』

その言葉に追い打ちをかけられ、ますます鼓動が早くなる。
好きで、愛しくて、堪らない。
けれど、まだ自分から触れに行くような余裕はない。触れるのさえ照れ臭くて、章大の言動にいちいち緊張してしまう。

『俺んちでええよな?』

力が入り膝の上で握り締めていた拳に章大の指が触れ、再び指が絡んだ。きっと拳に篭っていた緊張は章大に伝わってしまった。それが恥ずかしくて唇を噛み締める。

けれど私を見た章大は、私をからかうこともせず、優しい笑みを浮かべて指を解き頭をぽんぽんと撫でた。
私の気持ちなんて全て見透かしたように。

「...うん」

私の返事を聞いて再び絡め取られた指を繋ぎ、唇よりも僅かに低い章大のその体温に充分過ぎるくらい現実味を感じていた。


End.