エフェメラル


『ふーん。いつ?』

...私は勝手な女だ。

「...2週間後」
『よかったやん』

こんな言葉に勝手に傷付いたりして。

『なんなんその顔。せっかく帰ってくんのに。彼氏』

顔を傾けて意地悪な笑みを浮かべ、俯いた私を覗き込むように見た章大の顔に、視線を返すことは出来なかった。

遠距離恋愛中の彼が戻ってくると知った時、喜びよりも大きな戸惑いで心に靄がかかった。浮かんだのは、章大の顔だった。

『そんな余裕こいてる場合ちゃうやろ。この部屋ちゃんとせな。俺の痕跡一つも残さんように』

私の部屋のソファーで、彼の物とは違う章大専用のマグカップで、呑気に章大がコーヒーを啜る。章大専用のバスタオル、歯ブラシ、章大が好きな焼酎の瓶。増え過ぎた思い出に胸がぐっと詰まる。

一つも寂し気な表情なんて見せず、いつもみたいにスマホを眺めながらコーヒーを啜る章大に少し苛立つ。
自分で望んだ関係だったはずなのに。狡いのは、私なのに。

『嬉しないん?寂しかったんやろ?俺に手ぇ出すくらい』

マグカップをテーブルに置きながらもスマホから視線を外さず、さらりと意地悪なことを言う章大を睨むように見遣る。
たまに零される皮肉にいちいち心を痛めるようになったのはいつからだっただろう。
暫く視線を向けていたけれど、その目が私を見ることはなかった。

章大の背中に残した自分の細い爪痕を思い浮かべてまた苦しくなる。まるで自分はひとつも悪いことなんかしていないみたいに、自分勝手に苦しくて痛くて、思わず顔を顰めた。

『俺の方が良くなった?』

俯いたまま視線が泳ぐ。動揺していた。自分で自分の心はわかっていたのに、いざ言われてみれば返す言葉が見つからない。
唇を噛んでちらりと視線を上げれば、章大が薄笑いを浮かべて流し目でこちらを見ている。すぐに視線を逸らし、呆れているみたいに見えるようにわざと大きな溜息をひとつ吐いた。

『んなわけないよなぁ?そうならんように俺を選んだんやろ?』

...しょうがないのだけれど。そんなに酷い女だと思われている事にも傷付いてしまう。私が悪いと分かっているのに、そう思われて当然なのに。それなのに、やっぱり泣いてしまいたくなる。

「...当たり前でしょ」

強がっていないと本当に泣き出してしまいそうで、そうなってしまったらもう戻れない気がして怖い。けれど、本当はもう既に戻れないことに気付いている。章大が私を見る目が、変わってしまった。きっと軽蔑している。この関係が終わっても、元に戻れることはない。

終わる以外には、進めるしかない。けれど、それも怖い。この関係が成り立っているのは、私をそういう女として見ているからなわけで、本気だと知ったら突き放されてしまうかもしれない。章大に拒絶されてしまったら、私はどうなってしまうんだろう。

『...帰るわ。その辺のもん全部捨てといて。もういるもんないし』

ソファーから立ち上がった章大はパンツのポケットにスマホと財布を押し込み、部屋を見回した。それを床に座ったまま見上げて「あーあ、終わっちゃったんだな」とぼんやりと考えた。
...もう一度、キスしたかった。抱き合いたかった。嘘でもいいから、もう一度だけ、愛して欲しかった。

『はよ部屋片付けや。俺問い詰められんのごめんやし』

立ち上がらない私を見下ろした章大は、私の言葉を待っているようにも見えるし、何か言いたげにも見える。

「...ごめんね」

また皮肉を言われるのが怖くて目を逸らした。思わず言った“ごめんね”は、きっと許して欲しかったのだと思う。今までのことを忘れて欲しかった。私の狡い気持ちも自分勝手も、許して忘れて欲しかった。

『“ごめん”言う相手、間違うてるやろ。謝られる覚えないし』

章大がふっと息を零して笑った。
最初から期限付きだとわかっていたから、この関係が終わることに「ごめん」はおかしいということなんだろう。
伝わるはずもない言葉足らずの謝罪は、ますます私の胸を苦しくさせた。皮肉を言われても軽蔑されても、そういう女だと割り切って抱いてくれたら、それでよかった。

わかってる。最初から、彼が戻って来るまでと決まっていたのだから、いつかこういう日が来るとわかっていたはずだったのに。
すぐそこにいる章大は、もうとても手の届かない遠い人になってしまったようにすら感じていた。

夢の中のように上手く働かない頭で最後の言葉を探すけれど、本当に言いたい言葉はひとつしかなかった。でもそれを口にする勇気はない。

章大が黙ったまま私に背を向け部屋を出て行った。ゆっくりと立ち上がって後をついて行くと、章大がスニーカーを履き靴紐を結び直しながら、私に背を向けたまま言った。

『バレてまえばええのに』

立ち上がりながら振り返り、嘲笑うように流し目を寄越した章大を、息を詰めたままただ見つめることしか出来なかった。

『捨てられたらええねん。お前なんか』

低くて冷たい声に、喉の奥が熱くなる。固く拳を握り締めると掌に爪が食い込む。痛みと引き換えに涙を閉じ込め、黙ってただ章大を見つめた。

睨むように私を見つめた章大がゆっくりと伸ばした右手が、私の頬に触れたからドキリとする。俯いた章大はすぐに顔を上げ、頬から後頭部に回った手に引き寄せられて、ぶつかるように唇が触れた。押し付けられた唇は、一度離れてから今度は優しく触れ、私の唇に熱い吐息を残して離れて行った。

肩に滑り降りてきた章大の手が私を突き放すように肩を押して、章大が背を向け、玄関のドアノブに手を掛けた。

きっと、傷付いていたのは私だけじゃなかった。...私じゃなかった。悪いのは私だ。

咄嗟に章大の腕を掴むと、ドアを開きかけた章大が足を止める。

「...行かないで、...」

本当に言いたかった“好き”は言えなかった。今の私は章大を引き止めることしか出来ない。伝えるのは、それから。

『...ほんま、調子ええ女』

振り返った章大はやっぱり私を睨むように見つめ、溜息を零した後に抱き寄せられた。
言葉の割に大事そうにきつく腕の中に閉じ込められて、胸が熱くて息が詰まる。ごめん、と絞り出すように呟いた消えそうな涙声は、震える唇ごと章大の唇に奪われた。


End.