トランキライザー


目を開けると、素肌の背中が一番に目に飛び込んできてドクリと心臓が脈打った。
たった今ベッドが沈んだように感じたのは、章ちゃんが寝返りを打ったからだろうか。
小さなオレンジの電球だけが控えめに灯る薄暗い部屋で、僅かな明かりに照らされて陰影のついた蠱惑的な背中を眺めていると、どうしようもなく苦しいような切ないような感覚で胸が締め付けられた。

数時間前に体を重ねて、ふわふわとした快感の余韻をそのままに眠りに落ちてしまった。
ただ夢中だった。求められて、嬉しくて幸せで、私に触れるその手が優しくて、ただ体を預けた。言葉を交わすことなく、ただ見つめ合って抱き合った。確かに幸せだった。
それなのに。

布団から出ていた自分の冷えた肩を布団に埋めると、急に章ちゃんが寝返りを打ちくるりとこちらを向いたから心臓が跳ねる。目を閉じたままの章ちゃんを体を強ばらせたまま見ていると、その腕が私を引き寄せるように背中に回ったからますます鼓動が早くなる。

すぐにまたゆったりとした寝息が聞こえてきて、目を開くことなくすやすやと眠る章ちゃんを腕の中から見上げた。無意識に引き寄せられた冷えた体は、温かな腕に包まれ徐々に熱を取り戻していく。

もしも今、章ちゃんが目覚めたとしても、こうして同じように抱き締めていてくれるだろうか。困惑したように引き剥がされたり、気まずそうに目を逸らされたりしないだろうか。

酔っていた。私も章ちゃんも。
流されるように体を重ねた。
気持ちの確認なんて何一つしていない。
愛の言葉なんて何も交わしてはいない。
私に気がある素振りなんて、今まで一度もなかった。
確実なのは、ただ、体を重ねたという事実だけ。
冷静になってみれば、少し怖かった。
この幸せが続く保証なんて何もなかった。

包まれた腕の中で眠れずにいた。
この時間が終わるのが不安で仕方なかった。友達にすら戻れないとしたら、私達は終わってしまう。
腕の温もりに泣いてしまいそうで、ただ只管、ずっとこの体温を感じていられるようにと祈りながら、きつく目を閉じていた。


章ちゃんの向こう側に見えるカーテンの下がぼんやりと薄明かりを零し始めた頃、小さく身動ぎをした章ちゃんの腕が私を抱き直した。

『...どうしたん、』

寝起きの低く掠れた声にドキリとして鼓動が早くなる。心も体も強張り、体が動かせなかった。

『...寒いん...?』

上手く声が出せそうになくて、小さく首を横に振る。けれど、それでも布団を引き上げ、私を抱きながら章ちゃんの掌が私の肩を包んだ。

『...震えてへん、?』

温かい掌が、私を温めようと背中や腰を撫で、引き寄せてぴたりと体を密着させた。その優しさに、強ばった胸が解れかけて胸の奥が熱くなる。

...安心してもいいのだろうか。
私達の関係は、終わりではないと信じていいんだろうか。
祈るような気持ちで章ちゃんの胸に額をくっつけて目を閉じた。

すると、背中にあった掌がぽんと頭に置かれ、くしゃくしゃと髪を乱すように撫でる。そのまま髪をくい、と軽く引かれ、胸から額が離れたところを、章ちゃんが覗き込むようにして私の唇を掬い上げた。軽く唇を触れさせながら髪を指で弄び、啄むように何度も柔らかくキスを落とすから、次第に目の奥が熱くなる。
離れた唇は私の額にキスを落とし離れて行った。

ぴたりと章ちゃんの動きが止まったからちらりと見上げれば、目を丸くして私を見ていた。すぐに、ふっと表情を緩めて笑みを浮かべ、また髪を撫でる。

『なんで泣いてるん?』

...泣いてない。という反論は飲み込んだ。泣いてはいないけれど、瞼が焼けるように熱いから、きっと既に目が充血している。
目を逸らして伏せると、撫でていた頭を引き寄せ章ちゃんの胸に押し付けられた。宥めるように背中を擦り、髪を撫で、頭にキスを落とし、至れり尽くせりでますます泣いてしまいたくなる。

『...俺のせい?』

笑みを浮かべながらのような明るい声色で章ちゃんが問う。
...そうなんだけど。その通りなんだけど。それでも、不安に思っていたことを知られたくはなかった。

章ちゃんは答えない私の頬を包み、機嫌を取るように再び唇を触れ合わせた。目を閉じたらいよいよ涙が一粒弾き出された。それを章ちゃんの親指が頬に暈しながら、舌を緩やかに絡ませるように愛撫する。涙のせいで少し荒くなった呼吸が二人の口の端から漏れると、また宥めるように背中をぽんぽんと優しく撫でられた。

『まだ足りてへんかったんかな、愛が』

章ちゃんが目の前でふざけたように笑い、また食むようにキスを落とした。
ふざけたように見せてはいても、きっと章ちゃんは、私の不安に気付いていた。心を見透かされたのが恥ずかしい。
けど、...ひどく安堵した。
章ちゃんが私を見つめる暖かい色の目は、優しく私を閉じ込めていたから。

初めて章ちゃんの背中に腕を回して縋り付くと、それに応えるように腕がより強く私を抱いた。

心地好い腕の中で、包み込むようなあたたかな愛情がつかえていた心を溶かしていく。まるで安堵感の中に落ちていくようで、ふたつの鼓動を聞きながらこの幸せを噛み締めるように目を閉じた。


End.