コイトピア


「章大はさぁ、誰かとしたりしてるの?」

BGMになっていたアコギの音色がプツリと途切れた。ちらりと章大を見遣れば、キョトンとして私を見ていたから膝を抱えたまま一度視線を逸らす。

『......何をぉ?』

覚悟を決めて聞いたのに、返ってきた気の抜けた返事に益々心が乱される。けれど、私の中のこの緊張感を章大に知られるのは抵抗がある。

「セックス」

またチラ、と章大を見遣れば、さっきと全く同じ顔で私を見ていた。表情が変わらないところを見ると、きっと最初から質問の意味を理解していたんだろう。

ふっと息を零して笑った章大がアコギに視線を戻し、またメロディーを奏で始める。
さっきまでと同じメロディーのはずなのに、やけに切なげに聞こえる気がするのは、私の心の不安が関係しているせいだろうか。

『...それさぁ、聞いてどうするん?悪趣味やなぁ』

可笑しそうにくつくつと笑う章大の横顔から視線を逸らして唇を噛み締める。

...だって、気になっちゃったんだもん。
こうして傍にいるけれど、ふわふわとして掴みどころがなくて、私に向けられる笑顔は儚い。
章大をそうさせてしまったのは、私なのだけれど。

弦を押さえる指に視線を向けたまま口元に笑みを浮かべる章大を盗み見る。眩暈の様な感覚で目を閉じたけれど、ふと目を離すとその姿を見失ってしまいそうで手を伸ばした。
けれど章大が目を閉じたから、触れる前にその掌を拳に変えて引っ込め、胸に当てて痛みに耐える。まるでこの拳がナイフを握り自分の胸を抉っているかのような痛みに、く、と喉が詰まる。
きっとこれは狡い自分に下された罰なのだ。

振り返って私を見た章大が手を止めアコギをケースへと戻す。体をこちらに向けて覗き込むように私の様子を伺いふわりと笑う。髪に触れながら顔を近付けられると、その笑い皺がより深くなる。

『自分でしてる。...とか言うたら、相手してくれるん?』

孤を描いたままの唇が私にキスを落とす。唇に触れて食んで、それを何度か繰り返しながら掌が優しく頭を包み込む。
触れる度に甘く痛む章大のキスは、私の心を次第に章大の色に浸食していく。

知りたい、けど知りたくない。私の知らないところで誰かを抱いているのかと思うと、まるで裏切られたような孤独を感じてしまう。どこまでも身勝手な私は救いようもない。

唇が離れ目を伏せた私を見て、ふっと笑い離れて行った章大が、テーブルの上の冷め切ったコーヒーに口を付ける。

『ずっとここ居るな、最近』
「...............。」
『会いに行かへんの?』

視界の端の章大が黙ったままの私を見たのがわかったけれど、目を合わせることは出来なかった。

『行きたいなら行ってくれば?』

その言葉に胸を痛める私は、どこまでも狡い女だ。
でも、もう行きたい場所なんて何処にもない。だから、首をふるふると横に振ってみせた。

『素直やないなぁ。よこちょ、“最近汐里に会うてへんなぁ”言うてたで』

笑いながら明るい声色でそんなセリフを吐く章大は、一体どんな気持ちで私と居るんだろう。

私が誰を好きでもいいと、私と一緒に居たいと言ったあの時と、今もまだ同じ気持ちで私に行けと言うんだろうか。
手の届かないその人の代わりに傍に居てくれた章大は、今もまだ全く変わらない気持ちで私を愛してくれているだろうか。

もう一度首を横に振った。
するとちらりと私に目を向けた章大がカップを置いて私の方へ体を向ける。
伸びて来た手が優しく肩を掴んで抱き寄せられた。緩く体を包まれ章大の顎が私の肩に乗ると、小さな溜息を一つ吐いて章大が言った。

『...俺に遠慮してるん?』

そんなんじゃない。
ここに居たい。
行きたいところなんて、もう他にない。

首を何度も横に振ると、ふっと笑って体を離した章大が私を覗き込む。他で見せる笑顔とは違う、不器用な章大のこの笑顔に見慣れてしまったのが悲しい。それでもこの笑顔ですら愛しくて堪らない。私しか知らないであろう笑顔が、愛しくないはずがない。

「...してない」

困ったように眉を下げて、でも優しく微笑んで章大の唇が私に柔らかくキスを落とした。
反射的に閉じた瞼を上げて章大を見れば、髪に指を通しながらその目に私を映す。言葉のないその僅かな時間が、妙に私の不安を掻き立てた。

『俺が悪いんやな、きっと』

独り言のような呟きに、心臓が止まるかと思った。すぐに大きくドクリと脈打った心臓が、バクバクとすごい早さで鼓動する。狭くなった視界に映るのは、章大の笑顔だけ。
もう一度食むように触れた唇は孤を描いて私から離れた。

『逃げたってええねんで』

思わず息を飲んだ。張り付いたように喉が苦しくて呼吸が止まってしまいそう。狭い世界の中で音までもが遮断され、自分の心臓の音だけが鳴り響く。

章大がふっと笑うのを見て次第に音が戻ってくる。相変わらず煩い心臓は私の体温を上昇させるけれど、ポンポンと頭を撫でられやっと震えるように息を吐き出した。

“逃げる”なんて、そんな言葉使わないで。囚われてるのは、私じゃなくて章大の方じゃない。

するりと腕が離れ、空気を変えるかのように息を吐き出した章大が立ち上がる。空になった二人分のカップを手にした章大の腕を、思わず掴んでいた。

『わ、ちょ、待って!危ないて、』

慌ててカップをテーブルに置いた章大に「ごめん、」と呟いてゆっくりと手を離す。丸くなった目から視線を逸らした私を立ったまま見ていた章大は、再び私の前に座り優しい声色で声を掛けた。

『どうしたん』

頬に手が触れたから視線を上げると、章大が首を傾けて私を見つめていた。

「...好きだよ」

言葉は意外にもすんなりと唇から零れた。
けど、これじゃダメ。こんな安っぽい言葉じゃダメなの。

『うん、わかってるよ』

...ほら、ね。
顔を近付けて笑う章大は、私の言う「好き」の意味を知らない。

「好きなの、」
『うん』
「...章大、」

柔らかく微笑んで頷き私に応える章大に、どうしたら伝える事が出来るんだろう。どんな言葉を使ったらこの気持ちを信じてもらえるんだろう。私の心の全てを、どうしたら理解してもらえるの。

『ん、わかってるて』
「...わかってない、」

表情を変えずに穏やかに私を見つめる章大は、私のために、心を捨ててしまったのかもしれない。

『汐里が思てるより、汐里の事わかってんで。俺』

...わかってないよ。全然。わかってない。

ふっと息を零してくしゃりと頭を撫でる手を思わず振り払った。驚いたように目を丸くした章大を睨み付けて、もどかしさや苛立ちに押し潰されそうで奥歯を噛み締める。

それでもまた笑顔を作って私の頭に手を置いた章大から、視線を逸らして俯いた。

「...一緒に、居て、...」

胸が締め付けられて痛くて苦しくて、やっと振り絞った呟くように小さな声に、頭を撫でる章大の手がぴたりと止まる。

『なんなん?今日おかしいで』

あは、と笑うから首を横に振る。俯いて唇を噛むと、目の奥が焼けるような熱に包まれた。
私に泣く資格なんてないのに。私が勝手に章大を利用して章大をこんな風にしてしまったのに、勝手に傷付いて泣くなんて出来ない。

『...なんで泣く?』
「.....てない」

途切れる言葉のせいで隠しようもない。ただ、涙を零さないように耐えるばかり。

『...ほら、おいで』

また頭を撫で始めた章大の手を拗ねる子供のように振り払えば、宥めるように抱き寄せられて息が詰まる。

『わかってるよ。大丈夫』

何度振り払ってもその手は私に触れ、私を慰め、宥める。
縋り付くように章大の体を抱き締めれば、章大の頬が私の頭に押し当てられて目を閉じた。

浮かんでくるどんな言葉も、私の気持ちを伝えるのには足りない。チープな言葉ばかりが私の中にぐるぐると渦巻く。章大を想う気持ちを表現出来る言葉が見つからないまま、気持ちは焦るのに、時間だけが過ぎていく。

ふと頬が密着した胸から、私よりも早い鼓動を感じて目を開ける。章大の息遣いに変化を感じて、ゆっくりと章大を見上げた。

はっとして私を見た章大の目に溜まっていた一粒の水滴が、瞬きと共に弾き出され零れ落ちる。慌てたように不器用な笑みを作って目元を拭う章大を見て、体の力が抜けるような感覚で堰を切ったように涙が溢れた。

章大の中に、まだ確かに心はあった。涙はその証だ。
私の中の罪悪感にふっと浮かんで出てきた安堵は、私の心に染み込んで溢れ出す。

震える唇を章大の薄く開いた唇に押し付けた。いつも私の涙を拭う章大の指は、私の頬に触れることなく背中を這って体を掻き抱く。
いつも章大がしてくれるように頬を包んで唇を食めば、章大の目からまた一粒涙が零れて二人の間に滲んだ。

『誘惑、...上手やな』

私の肩を掴んで体を離し、章大が笑った。章大の頬から滑り落ちた手で力なく拳を作り、負けないように掌に爪を食い込ませる。

『俺な、その言葉、...信じられへんねん』

私に向けられる笑顔には、やっぱりぎこちなさが紛れる。また一粒浮かんだ雫が章大の下睫毛に留まっているのを見て目を伏せた。

『信じたらあかんねん』

今度は章大の掌が私の頬を包み込み、顔を上げさせられるとゆっくりと唇が触れた。目を閉じると同時に頬を伝った涙を章大の親指が拭う。

ポンと頭を撫でてから章大の首筋に顔を押し付けられると、そこからまだ早いままの脈が伝わる。

『...騙されてみよかな』

小さく呟いた章大が私の体を締め付けた。ますます章大の鼓動が早くなるのを感じて緊張が高まる。力なく腰に回した手で、章大のパーカーをやっとの思いでぐっと掴んだ。

『...騙されたら、どうなんねやろ』

ふふ、と自嘲気味に笑った章大に、返す言葉を選んでいる余裕なんてなかった。

「...幸せにする、」

大きく息を吸い込んだはずなのに、声になってみれば情けない程弱々しく溶けた。

『あは、汐里が?』

頷いてみてせても、章大は鼻を啜ってからまたふっと息を零して笑う。
そのまま息遣いだけを感じて章大の言葉を待つ。期待より大きな不安に押し潰されそうで、呼吸さえも忘れていた。

『...ほんなら、...信じてみよかな』

章大の口から出た言葉が、“騙される”ではなくて“信じる”だったから、今までの気持ちが溢れそうな程胸が一杯になる。
必死で何度も頷く私を抱き締め、背中を撫でる章大の吐息が震えていた。泣いているのか笑っているのかわからないようなその息遣いが更に私の感情を昂らせる。
隙間がなくなる程力を込めてしがみつき、思いつくままに安っぽい言葉を幾つも並べる。私の心が少しでも伝わるように願って、その言葉たちを章大に囁いた。


End.