リップ・ヒート


自宅の鍵を開けながら、食材が何も無かったことを思い出し溜息を吐いた。けれど今更買いに出る気にも食べに行く気にもなれずソファーに倒れ込む。

さっきの別れ際の事を思い返してみると、少し後悔してしまう。あんな不機嫌な態度を取ってしまって、村上くんはどう思っただろうか。感じの悪い女だと思われたかもしれない。...気持ちに気付かれた、ってことも、無くはないかもしれない。



“今日、飲み行かない?”
“おぉ、ええけど...誰おるん”
“...2人で、”

2、3度頷いてから『わかった』と言って別れた村上くんの後姿を見ながら、震えるような息を吐き出した昼休み。
それなのに。

井上と約束してたらしいねん。
忘れとったわー。
あいつも一緒でええやろ?

帰り際に言われたから絶句した。
だから恨めしげな目を向けて一言だけ言った。

“...じゃあいい”

黙ったままだった村上くんに背を向けてバッグを掴み、足早にオフィスを出た。

だって何だか悔しかった。気持ちを伝えるつもりだった。だから誘うのだってあんなに緊張したのに、簡単な一言で台無し。普段あまりしないメイクも今日は朝からちゃんとしてきたし、仕事が終ってからこっそり塗り直したグロスも、余計に遣る瀬無い気持ちにさせられる。

別に村上くんが悪いんじゃない。だって何も知らないんだから。悪くないんだけど!
...でも、わざわざ「2人で」と言ったんだから、ちょっと考えて欲しかった...。


携帯のバイブ音がしたからソファーに寝転んだままバッグを探る。手に取る 前に鳴り止んでしまった携帯を掴んで顔の前まで持って来ると、不在着信の文字の下に表示された名前にドキリとした。

掛け直すべきか悩んでいるうちに再び震え出した携帯。出るのを躊躇った。なんで掛けてきたんだろう。気になるけれど、今日二度目の勇気がなかなか出てくれない。

着信が途切れると同時に鳴ったインターホン。
...嘘、そんなはずない。だって村上くんがここに来たのは、1ヶ月程前の帰りに送ってもらった一度だけなんだから。

モニターを恐る恐る覗き込むと、カメラを睨むように威圧的に見つめる村上くんに心臓が一気に煩くなる。
戸惑いと緊張で震えそうな手を握り締めて玄関のドアをゆっくりと開けば、不機嫌そうな顔をした村上くんが隙間から顔を覗かせた。

「...なんでいるの」

何も言わず私を見た村上くんがドアを引いたから、ドアを掴んでいた手が離れた。玄関へ入ってドアを閉めると、私をじっと見つめるから鼓動が早くなる。その目が唇へと移動すると村上くんが私に向かって言った。

『...夜飯天ぷらやろ』
「...帰ったばっかりなんだから食べるわけないでしょ!これグロス!」

...ほんっとデリカシーない!今の一言で、さっきのあれもこれも、やっぱり全部村上くんのせいにしてしまいたいくらい。

『わかっとるがな』
「...............。」
『どうしたん、なんや急に』

井上くんを放ったらかしてわざわざ私を追い掛けて家まで来て、どうしてそんな事を聞くの。

「...たまにはメイクくらいするの」

真っ直ぐに私を見るその目から視線を逸らした。まるで私の気持ちに気付いているかのようなその質問は私を動揺させる。ここから逃げることなんて出来ないのだから。

『俺のためにやろ?』

思わずゴクリと唾を飲んだ。

「...何言ってんの、」

震えてしまった自分の情けない声に後悔してみてももう遅い。無理矢理口角を吊り上げてみても、上手く笑えている気はしない。

『お前好きやろ俺のこと』

俯いたまま口を噤んだ。違う、と言ってしまえばよかったのに、こんな変な間を空けてしまったら、今更どんな誤魔化しの言葉も通用するわけがない。

『...ええから、もうそんなん早よ拭き』

ちらりと村上くんを見遣れば、顔を顰めて唇を拭う仕草をする。
...こんなの、似合わないってことね。

「...ひどい」

睨むような目を向けると、大きな溜息を吐いて面倒臭そうな顔をするから俯いた。

『俺の唇までべちゃべちゃにする気か。早よ拭け』

その言葉に思わず顔を上げれば、目が合った途端に視線は逸らされ、バツが悪そうに村上くんが頭を掻く。

「......何言ってんの、」

動揺丸出しの私の腕を掴んで引いた村上くんと距離が近付いて心臓がバクバクと飛び跳ねる。すると彼の右手の親指が私の唇を拭い取るように一度撫で、すぐに村上くんの唇が押し付けられた。

『俺の前では塗らんでええ』

まるで照れ隠しのように乱暴に掴んだ頭を引き寄せられてまた強引に唇が触れた。繰り返しキスを交わす度唇に僅かに残る甘いグロスの香りが、ますます胸を甘く締め付ける。


End.