唇に攫われる
『...あー、押してもうた...ちょっとごめんな』
相手を確認するつもりで見た携帯の通話ボタンを誤って押してしまったらしい章大が、申し訳なさそうに断りを入れて電話に出た。
終電に間に合うように今会計を済ませて店を出たばかり。もうすぐふたりの時間が終わろうとしているというのに、今日は満たされていた。
いつも素直になれず可愛くない態度ばかりとってしまうのだけれど、今日は少し違った。仕事ぶりを褒めてくれた章大に「ありがとう」が言えたから。
いつもは呆れたような顔をする章大も、私の「ありがとう」に笑顔になった。だから一歩だけ進めた気になれたのだ。
本当は、何も進んでいない。
ただの同期で、たまにふたりで飲みに行くくらいの関係。仕事の時以外に「章大」と呼ぶようになったのも、つい最近。ふたりで居るからと言って別にいい雰囲気だとかそんなんじゃなくて、仕事の愚痴をこぼすためにふたりで飲むようなものなのだから。
隣を歩く章大が耳に当てた携帯から微かに漏れてきた話し声で、相手が女だとわかった。
章大の交友関係なんて、私が知るはずもない。その電話の向こうが一人なのか複数いるのかはわからない。けれどこんな遅い時間に誘ってくるのだから、それなりの関係なのだろうと勝手に解釈した。
誘いを断るような言葉を並べて2分足らずで電話を切った章大が、私の横顔をちらりと見たのがわかったからなんてことない顔をして章大を見遣る。
「モテますねー」
『ただの友達ですー』
...本当にモテるくせに。恋心を隠してただの同僚を装っている私みたいに、きっと章大の周りにもそんな人がいるに違いない。隠してでもそばに居たい気持ちは、私が一番よくわかっている。
『終電「そう思ってるのは章大だけだったりして」
章大の言葉に被った上に、思いの外トゲのある口調になってしまったことに少し後悔した。これじゃあまるで拗ねているみたい。だからといって今更謝るのも気が引ける。
俯いていた章大が私の横顔を見たのが視界に入ったけれど、視線を向けることは出来なかった。
すると私の横から章大の顔が現れたからビクリとして思わず目を向けた。
『ヤキモチ?』
私を覗き込んで笑った章大は、きっと私をからかっている。
シャレにならない。だって、本心はそうなんだから。
密かに想い続けていたけれど、言えなかった。ずっと隠したままここまで来た。今みたいに馬鹿にしたようにそんな言い方されたら、ますます、絶対に気付かれるわけにはいかなくなる。
だから精一杯笑って首を横に振った。目を合わせることは出来なかったけれど、章大を嘲笑うように、そう見えるように。
...それなのに、興奮したように妙に鼓動が早くなって、上手く笑えていない気がするのは何故だろう。
何も言わない章大をちらりとだけ見遣れば私を見てふっと笑うと、章大の右手に手首を掴まれたからドキリとした。
その手をぐっと引かれ、突然角を曲がって少し細い路地に入ると、ビルの壁に体を押し付けられた。
冷静さを失って泳ぐ目を、章大の真っ直ぐな瞳が捉える。左手が滑るように頬に触れ、その手が髪に差し込まれ首の後ろに添えられた。触れられている首も耳も、熱が集まったように熱い。
章大の視線が私の唇に落ちた。吸い寄せられるように近付いた唇は数センチの距離を残して止まり、章大の目の中に私が映る。顔が傾くと同時に閉じられた章大の瞼を見ていたら唇が触れた。
優しく食むように私に触れる唇の温度に酔いが回ったようにふわりと眩暈がする。呼吸さえも忘れていた。触れる唇の感触と体温に溶かされてしまいそうで、必死で章大のシャツを掴むだけ。
塞がれていた唇が離れ、艶を帯びた瞳が再び私を映す。
「......なんなの、急に、」
急、ではなかった。唇を寄せた章大は、確かに拒む時間を私に与え、拒まないことを確かめてからキスを仕掛けたのだから。...私が、拒めなかったのだ。
「...酒臭い、」
アルコールと香水が混ざり合った章大の妖艶な香りのせいでますます眩暈がして心臓が煩くなる。
照れ隠しの言葉を吐いても、ただ黙って私を見つめる章大の視線に耐えかねてまた言葉を探す。
「...見られたらどうすんの、」
動揺を隠す為の言葉にも表情を変えることなく、章大が瞳の中に私を閉じ込めた。
きつく押さえ付けられているわけではないのに、体が思うように動かない。腕を掴む手も、首の後ろにある手も、振り払うことが出来ない。
『...文句、それだけ?』
優しい声色に相応しくない艶を纏った表情に思わず口を噤めば、腕から離れた指が頬を這い両方の掌が頬を包む。吸い込まれそうな瞳に息を飲むと、章大の熱い吐息が唇を掠めた。
『ほんなら、もう黙ろな』
噛み付く様に唇を塞がれ、震えた息は章大の口内へ消えた。
End.