月に溶ける夜


インターホンを押して少しすると、プツ、と部屋と繋がった音がした。けれど信ちゃんの声が聞こえてこないからそこに立ち尽くしていた。

『...何突っ立っとんねん。あほんだらぁ』

暫くの沈黙の後、信ちゃんが低く小さく暴言を吐いてロックが解除され、ドアが開いた。奥に進んでエレベーターに乗り込みながら、少し緊張してしまう。

もう彼氏とも言い難いその男と言い争い飛び出して、足は勝手にここに向かっていた。
今まで散々頼ってきたからここに来たと言うよりも、今会いたいのが信ちゃんだった。信ちゃんでなきゃだめだった。私の心は随分前から、もう既に信ちゃんにあるのだから。

信ちゃんの部屋のドアの前に立つと、勝手にドアが開いた。不機嫌そうな、呆れたような表情の信ちゃんが私の頭をバシ、と叩いて『はよ入れや』と巻舌で言う。だから控えめに「お邪魔します...」と呟いて玄関に入ると、私を置いて不機嫌丸出しのガニ股でリビングへと入って行った。

『何時でしょうか』
「23時...です」
『あと10分でてっぺんやろがボケぇ』

チンピラみたいな口調でソファーに足を組んで座り眉間に皺を寄せる信ちゃんから目を逸らす。盛大に舌打ちをかまされてもう一度ちらりと信ちゃんを見遣れば大袈裟にメンチを切る。

「...泊めて」
『なんでやねん』

間髪入れずに返ってきた返答にゴクリと唾を飲んだ。下心がある、というわけではないけれど、それなりに大胆な事を言った自覚はあるから鼓動が早い。

「...もう無理、だから...」
『いつもの事やんけ』

散々浮気をされ揉めて別れ切れずにここまで来たのを知っている信ちゃんは、私が今日ここに来る前に初めて一方的に彼に別れの言葉をぶつけてきた事をまだ知らない。ただ、彼はというと私の背中に『別れない』と言ったのだけれど。

鼻で笑って呆れたような視線がまた私に向けられた。

「...違うよ、」

黙ったまま睨むように私を見る信ちゃんから目を逸らす。けれど言おうとした言葉は飲み込んだ。

本当に好きなのは信ちゃん。だから泊めて。
...なんて、ただ信ちゃんに乗り換えようとしている最低な女でしかないことを自覚してしまったから、言えなかった。
もう彼に気持ちはないのに、決定的な別れのセリフを言えずに今まで逃げて来た私が悪い。

『人のもんに興味ないねん』
「...何それ」

信ちゃんがじっと私を見据えた。その心が読めない目は、堪らなく私を緊張させる。

『泊まるゆうたらそういう事なるやろが』

ドキリとした。私をそういう風に見てくれているのかわからずにいたから、本心はわからないけれど堪らなく胸の奥がカッと熱くなる。

「......ならないよ」
『浮気相手言われたらたまらんわ』

信ちゃんが言うそれは、私が期待した関係を否定する言葉でしかなかった。やっぱりさっきの一言は私を冷静にさせるための言葉だったのだと理解して、虚しさに胸が苦しくなる。

『奪うで』
「.......え、?」

信ちゃんの発した言葉に間抜けな声が出た。さっきまでの苛立った表情は一変して、信ちゃんの口元に笑みが浮かぶ。何か企んでいる様に持ち上げられたその口の端を見て、口を噤んだ。

『お前に覚悟あるなら奪ったるわ』

冗談とも取れる言葉に動揺する。信ちゃんを見つめたまま立ち尽くす私を見上げて、信ちゃんが急かすように言った。

『おいコラ、汐里。どないやねん』

笑みが消えた真っ直ぐな目に、期待を込めてただ頷いてみせた。
私の心を見極める様に見つめる鋭い視線に胸が高鳴る。すると腕を掴まれ信ちゃんが立ち上がった。その腕を引かれて信ちゃんが座っていたソファーに押し付けられると、信ちゃんが私の上に乗り上げる。

『本気やで。ええな?』

バクバクと壊れそうに脈打つ心臓のせいで体が熱い。頷いた私の頭をぐっと掴んで噛み付くように唇が触れた。信ちゃんの昂りが表れたその荒々しく溶かすようなキスは、狡い私までも全て受け入れてくれるみたいな少し痛いキスだった。


End.