午後0時の春


私の少し先を足早に歩くマルちゃんの背中を見ながら、小走りで追い掛ける。その距離をだんだんと詰めながら、思い当たるいくつもの原因の候補を頭に思い浮かべていた。


講義が終わってそのまま講義室でみんなで話していた。正面から視線を感じてちらりと目を向けると、マルちゃんが私を見ていたからドキリとする。
何だか不機嫌そうに見えるその目はすぐに逸らされてしまった。みんなの話の輪に入らず俯いたまま、少ししてマルちゃんが誰にも何も言わず、一人で立ち上がり出て行ってしまった。

さっき私を見ていたし、もしかしたら私が何かしてしまったのかもしれない。

立ち上がってマルちゃんを追い掛けた。
原因は何かわからないけれど、思い当たる節なら...幾つかある。
さっき差し出されたジュースを受け取るときに手に触れてしまったから、思わずジュースを奪い取ってしまったことか。それとも、講義中に見つめていたら目が合ってしまったから、慌ててあからさまに逸してしまったことか。

...その前に、追い掛けて来たのはいいけれど、何を言おうとしているんだろう。
勿論、心配だから来たというのもあるけれど、私が原因だとしたら、私について来られてマルちゃんはどう思うだろう。迷惑ではないだろうか。

その時、横を向いたマルちゃんの目が一瞬ちらりと私を見てから、二度見する。けれどその瞳はどこか冷たくて、足を止めることもなくまた前を向いてしまった。
少し躊躇ったけれどもう気付かれてしまったのだし、駆け寄ってマルちゃんの隣に並んだ。

『...何、...なんでついて来たん』

私の方も見ずにマルちゃんが言った。
...やっぱりこの対応からして、どうやら原因は私らしい。

「...どうしたのかなー、って...」

その言葉に歩きながら俯いて自分の髪をくしゃくしゃと乱したマルちゃんが、ちら、と私を見た。

『...何でもあらへんよ』

その面倒臭そうな口調に心が折れそうで、そっか...と言って歩を緩めた。また私とマルちゃんの距離が開く。その背中を見ていたら、数歩進んでマルちゃんが唇を少し尖らせ、私を伺うように振り返ったから足を止める。するとマルちゃんも立ち止まり、そしてバツが悪そうに前を向いたまま、また髪を掻き乱す。

『...ほんまに、何でもないから』
「...でも、」
『また明日』
「...明日は、」

...明日は、日曜日だよ...。
会う約束なんて、してないのに。
私の言葉を遮るように言葉を投げ、歩き出したマルちゃんの背中に小さく文句を呟いた。



『どうせヤキモチとかそんなんちゃうのぉ?知らんけど』

電話の向こうの章ちゃんが言った“ヤキモチ”に思わず口を噤んだ。少しずつ顔に熱が集まってくるのを感じながらも、それを章ちゃんに悟られないように大袈裟に拗ねたように言った。

「...なに、ヤキモチって。そんなわけないじゃん」

...章ちゃんが言うなら、そうなのかな...。
本当は、少しだけ期待している。最近少し距離が縮まった気はしていたし、ないこともないかもしれない。
けれど、ヤキモチを妬かれるようなことをした覚えは無いのだから不安になる。私がしてしまった事が、もし知らず知らずのうちにマルちゃんを傷つけ、嫌われるような事だったら、と思うとソワソワして仕方ないのだ。

『俺が知るわけないやろぉ?本人に聞いたらええやん』

...聞けないから章ちゃんに聞いてるのに。という心の声が聞こえたかのように章ちゃんが笑う。

『マルもアホやけど汐里もアホやもんなぁ』
「...何それ」
『例えばぁ、男に指触りながらネイル見られてたとか。隣の男に、肩に手ぇ置かれてたとか。なんかあるんちゃうのぉ?...知らんけど!』

絶句しているうちに、出掛けるから切るで、と言われ通話が途切れた。携帯をベッドに放り投げて、熱を持った顔を掌で覆う。

章ちゃんが言ったあまりにも具体的な『例えば』の、両方に覚えがあったのだ。
ネイルの話は、...今日ではない。けれど、今日みんなで話している時に、確かに忠義に肩に手を置かれていた。正確にいえば、手ではなく肘だけれど。肘置きにされていただけなんだけど。
ネイルのことも、まさか見られていたとは思っていなかった。

でも、見ていたのは本当にマルちゃんなんだろうか。章ちゃんがたまたまその現場を見ただけで、マルちゃんが言っていたとは限らない。でも今日のことは章ちゃんも知らないはずで。でも、...あー、もう。

いくら考えたってわかるはずもない。けれど落ち着かない。気になって気になって、どうしようもない。
明日はマルちゃんの誕生日だというのに、あんな別れ方をしてしまったし、どうしていいかわからない。
おめでとう、のメッセージですら緊張してしまうのに、なんて言ったらいいの。
“ごめんね”?
“大丈夫”?
“昨日どうしたの?”?
そのどれも相応しくない気がして、結局一晩中、スマホの画面に同じ言葉たちを何度も下書きして並べては消してを繰り返した。



気付けばもう正午を回ろうとしていた。数日前までは日付が変わると同時にメッセージを送ろうかなんて考えていたのに、それどころではなかった。
並べた言葉は、あれもこれも削除して“誕生日おめでとう”だけを残した。
12時間遅れ。時計の針が正午を指した瞬間にメッセージを送信した。

すると画面右側の自分が送信したばかりのメッセージに、すぐに開かれた印が表示されてドキリとした。
次の瞬間、トーク画面は着信画面へと変わったから心臓が飛び跳ねた。けれど出るのに躊躇っている暇はない。

「...はい...?」

通話ボタンを押して恐る恐る携帯を耳に当ててみると、ザワザワとした人混みの中にいるような音と、小さな話し声が聞こえて耳を澄ます。

「...もしもし、」

少し遠くに聞こえるマルちゃんではない聞き覚えのある豪快な笑い声は、きっと忠義。

「マルちゃん...?...もしもー...」
“指輪てお前それ告白ちゃうやん!プロポーズやん!”
『うるさいなぁ。今章ちゃんに電話、』
「...ーし...、」

途中、驚くような言葉が飛び出して動揺する。ごくりと唾を飲み込むけれど、喉が張り付いたような感覚で息が詰まる。

『...あ、章ちゃん?章ちゃんが紹介してくれたとこで指輪買うてな、今から汐里呼び出すとこ!』

そこに出てきたのは私の名前だったから思わず息を飲んだ。頭が上手く働かない。手が震える。顔が火照る。

『もうさぁ、さっきからめっちゃ緊』
「マルちゃん、」
『えぇ?何ぃ?章ちゃん、聞こえへん!』
「...マルちゃん、...私、」
『...えっ』

間抜けな声を発したっきり黙ってしまったマルちゃんに、忠義が小声で問い掛けるのが聞こえる。
ひどく体温が上がった頭は、次の言葉すら見つけられずに、ただ震える手で携帯を握っていた。
するとガヤガヤとした周りの音がプツリと途切れて、携帯を耳から離して画面を見れば、通話は終了していた。

携帯をテーブルに置いて深呼吸すると、呼吸が震えた。心臓がバクバクと激しく鼓動していて、噛んだ唇も震えていた。

再び鳴り出した着信音に体がびくりと揺れる。表示された名前はやっぱりマルちゃんで、恐る恐る手に取って耳に当てた。

『...あ、汐里...?』
「.......うん」
『ごめん...間違えて切ってもうて、』

見えていないのに思わず頷いて、慌てて「うん」と小さな声で返事をした。

『...ていうか、間違って掛けてもうたっていうか、...な、』
「...うん」
『...あの、ありがとぉ...メッセージ...』
「...うん、」

おめでとう、と直接言えばいいのに、言葉が出て来ない。電話の向こうはさっきよりも静かで、忠義の声もしなくて、ただ変に緊張感の漂う空気のせいで思考を止められたみたい。

『...今は、言わへんから』
「...え?」
『会ってからやないと、あかんねん』

マルちゃんが唾を飲んだようなコクリという音が僅かに聞こえてきて、ますます心臓が煩くなる。マルちゃんの言葉を一言も聞き逃したくないのに、お願いだから邪魔しないで。静かにしてよ。

『だから、会いに行くから』

だから、見えないとわかっているのに。それでも頷くことしか出来なかった。息が詰まったように声が出なかった。

『だから、待っててな』

私の声を待つことなく電話が途切れた。今にも泣いてしまいそうに熱が込み上げてくるのは、緊張のせいか期待のせいか。
誕生日ではない私への逆サプライズの予告は、胸を甘く締め付け想いを加速させた。


Happy birthday!!  2017.11.26