誘惑ドラスティック


「そこ座ってて」
『...んふふ、』
「何?」
『なんか俺、犬みたいや』

...完全に酔ってる。呆れたような顔で章ちゃんを見たけれど、それでも尚ご機嫌な様子でソファーではなくソファーの下のラグに腰を下ろした。それを横目にキッチンに入ると、章ちゃんがラグに寝転んで大きく伸びをしている。
...本当、犬みたい。
こんなどうでもいいことを考えていないと緊張してしょうがない。


飲み会の帰りに、一緒に帰ろうと言われたから同じタクシーに乗った。私も酔っていた。だから冗談を言うように誘ってみた。
“上がってく?”
すると章ちゃんは、最初から決めていたかのように満面の笑みで即答した。
“うん、上がってく”
それを受けて一気に酔いが冷めた気がした。
何かされるとは思ってない。
飲み会の途中に話した時に
“元気ないなぁ。話、聞こか?”
と言われ頷いたから、章ちゃんはそういうつもりで家に上がっているはず。

章ちゃんが好きだと言っていた焼酎を、まさか章ちゃんのために開けるとは思っていなかった。その未開封の焼酎の瓶をあけて薄めにお酒を作る。2つのグラスを手にリビングへ戻れば、寝転んだまま私に向かって手を伸ばした章ちゃんが笑顔を向ける。

『起こして』

ドキリとしたけれど躊躇っていると動揺が隠し切れない気がして、手を伸ばし章ちゃんの手を取った。引き上げればすんなりと起き上がりソファーに凭れて座り直したから、章ちゃんの前のテーブルにグラスを差し出し少し離れて隣に腰を下ろした。
ありがとう、と言って一口口を付けた章ちゃんが、はぁー、っと息を吐いてグラスを揺らしながら言った。

『...で、どうしたん?』
「え?」
『何かあったんやろ?』
「...あぁ、」

本当は聞いて欲しい悩みなんかない。強いて言えば、少し前に彼にフラれたことだ。
『他の奴見てるもんな』
けれど章ちゃんに相談出来る筈がない。だってその“他の奴”が章ちゃんであることは、私の中にしっかりと自覚があるんだから。

わりと酔っているように見えたから、こんなに真剣なトーンで聞かれるとは思っていなかった。今更相談事を考え始めても、頭が働いてくれない。

『どうせ彼氏のことやろ?』

...当たらずとも遠からず。まずは別れたことを言うのが先か。けれど、なんで別れた?なんて聞かれたら一体なんて答えればいいんだろう。

『ほら、おいで』

思わず章ちゃんを見れば私に向かって満面の笑みで手を広げている。
...やっぱり、酔ってる?さっきのような真剣さは今は感じられない。本気なのか冗談で言っているのか、全く読めない。

『はよおいで』
「......いい、」
『なんでぇ?せっかく慰めたろ思てんねんから甘えといたらええんちゃうのぉ?』

文句を言うみたいな口調で眉を下げる章ちゃんから目を逸らして俯くと、膝を抱える腕を急に掴んで引かれたから驚いた。バランスを崩した私の腕を尚も引き寄せ、自分も腰を上げて距離を詰めて座り直すと、章ちゃんが私を横から抱き締めた。

『はぁー、捕まえた』

そうでなくてもドキドキしているのに、今の一言で何だか自分が章ちゃんに追われている立場のように錯覚してますます鼓動が高鳴る。
章ちゃんの顔が私の首元にくっついているから、そのまま動けずにいた。

片方の手が私の頭をポンポンと撫で、よしよし、なんて子供を慰めるみたいに甘い声を出すから、思わずぎゅっと目を閉じて言った。

「...章ちゃん、」
『言いたくないなら言わんでええよ』

...言い出しにくい。タイミングを失った。さらっと言ってしまえばよかったのに、髪を撫でる手と優しい声色のせいで思わず口を噤んだ。

『...あ、やっぱ言わんといて』
「え?」
『ほんまは、全然聞きたない』

ふふ、と笑った章ちゃんが、甘えるように私の首筋にぐりぐりと額を押し付ける。ちょっと、なんなの。
しかも今の言葉、どういう意味だろう。興味がないってことか、それとも...。

押し付けられていた額がぴたりと止まって、章ちゃんが私の髪に顔を埋めたまま大きく息を吸い込むから恥ずかしい。吐き出された熱い吐息が首筋に掛かるから心臓が煩い。

『...ムラムラする...』

その言葉に驚いて、思わず章ちゃんを見ようとしたけれど私にくっついているから顔が見えない。
体ごと私に擦り寄ってより強く抱き寄せられたから、戸惑いながらも鼓動が早まる。

「ちょ、章ちゃん、...」

顔を上げた章ちゃんと目が合うと、へら、と私に笑って見せた。さっきの言葉が冗談とも取れるその表情に、ただただ困惑する。こっちの緊張はもうピークに達しているというのに。

すると腕が緩んで、少しだけ腰を上げた章ちゃんが座り直す。私の正面に。
再び正面から抱き締めようとするその肩を押して距離を取ると、章ちゃんが首を傾げて私を見つめた。

「ちょ、...待って、」
『何ぃ?まだなんもしてへんよ』
「...............、」
『ほんまはすぐにでもしたいけど』

相変わらず笑顔を向ける章ちゃんが、肩にあった私の手を掴んで離し一気に距離を詰めた。呼吸すら躊躇う程の距離に動揺する私を見つめて、ふっと笑うと、ゆっくりと額が合わせられる。

『...する?...せぇへん?』
「..............、」
『はよしてくれんと、迷ってるうちにしてまいそうやねんけど』

普段とあまり変わらない声色で笑う章ちゃんは、本当に酔っているだけなんだろうか。この誘いにノっていいものか、後悔することになるのか、酔いが冷めかけた頭がごちゃこちゃと思考回路を混乱させる。

視界に入っていた章ちゃんの口角が上がった。と思ったら、その唇が触れていた。押し付けられて離れていったその唇を目で追えば、章ちゃんが口元を手で隠す。

『...あ、くっついてもうた』

可笑しそうに笑ってまた私を抱き締める章ちゃんは確信犯。きっと、私が拒まないとわかっている。
どういうつもりなの。なんでキスなんてしたの。彼氏がいると思っているなら、尚更。

章ちゃんの顎が肩に乗ったまま抱き締められて動けない。火照る私の頬を章ちゃんの髪が擽る。今の私に、少し先の行動を考えている余裕なんてない。

『...なぁ、』
「...........、」
『#name1#』
「........ん、」

やっと出て来た声が動揺丸出しで恥ずかしい。すると章ちゃんが動いて私を覗き込むように至近距離で見るから目を逸らした。私の反応を笑ったところを見ると、やっぱりからかっているのかもしれない。

『...今日はキスだけにしとく?』
「............、」
『浮気するなら加担すんで』
「...ふざけないで」

責めるつもりで言ったわけではなかった。本心がわからないからそうするしかなかった。
冗談なら、私が勘違いする前に訂正してくれなきゃ困るの。

『ふざけてへんよ』

思いの外すぐに返事が返ってきたから息を飲んだ。さっきよりも優しくふわりと笑みを浮かべた章ちゃんと目が合って、逸らすことも出来ないまま胸が高鳴る。

『はよ別れたらええなぁ...とは思てる』

...なんで。それがなんでかが知りたいの。
私から視線を逸らして、切なげにも見える表情で章ちゃんが笑う。

『弱みに付け込んだろかなぁ...とも思てる』

私に戻って来た視線に動きを止められた。突然頭の後ろに手が添えられ引き寄せられて唇が触れる。惜しむように一度唇を啄んで章ちゃんが離れると、引き寄せるように背中に腕が回って抱き締められた。
首筋に溜息のような吐息が掛かって、ますます腕の力が強まる。早過ぎる鼓動が伝わってしまいそうな密着度に、思わず息を押し殺した。

『...ついでに言うと、このまま俺のもんになれへんかなぁ...って』

私の胸に響く、重ならない2つの早いビート。それに気付いて押し殺していた震える息を吐き出した。
胸がいっぱいで上手く言葉に出来る気がしない。ただ強く私を抱き締める腕を掴んでその首筋に顔を埋めれば、隙間を埋めるように尚も強く抱き寄せるから、切ないような胸の苦しさに目の奥が熱くなった。


End.