ビターハニートラップ


どうしたらいいか、わからなかった。とにかく焦っていた。
さっきの店で章ちゃんの隣に座ったあの子に、章ちゃんを取られるかもしれないと思ったら居てもたってもいられなくなって、みんなで店を出た瞬間に章ちゃんの腕を掴んで無理矢理引っ張って来た。

章ちゃんは驚いたように『どこ行くん?』と私に向かって言葉を投げたけれど、振り返らずにいたら何も言わずに引かれるまま私に着いて来た。

どうするかなんて考えていなかった。けれど、私にはきっと、これしかない。
立ち止まった視線の先に並ぶ建物達に、今自分が正に口にしようとしている単語が目に入ったから、どうしようもない程緊張が高まる。
私の後ろで立ち止まった章ちゃんを振り返ったけれど、顔を見ることは出来なかった。

「...ホテル、行こ」

掴んだままの章ちゃんの腕を軽く引いて言った。
...この沈黙が怖い。急に我に返って、驚く程大胆なことをしている自分にもう既に後悔が押し寄せていた。

『…どしたん、急に』

暫しの沈黙の後、章ちゃんが少し戸惑ったように言った。
...けど、もう引けない。こんなことを言ってしまったからには、酔っていたじゃ済まされない。

「...いいから」

もう一度掴んだ腕を引くと同時にちらりと章ちゃんを見れば、視線が絡んだからすぐに俯いて先に目を逸らした。

困っているのか哀れんでいるのか、それとも迷惑しているのかわからないけれど、章ちゃんの顔にいつもの笑みはなかったから胸が痛い。...友達だと思っていた女に「ホテル」なんて言われたんだから、笑ってるはずがないんだけど。

『...シたいの?』

“ごめん” か “いいよ” しか想像していなかったから、その質問に口を噤んだ。

「シたい」って言うしかないじゃない。だってホテルで何をするかなんて、それしかないでしょ?
...でも、違うの。本心は違う。気付かれたくないと言えば嘘になる。気付いて欲しいけれど怖い。
喉の奥がつっかえて、胸の奥が苦しくて、油断すれば泣いてしまいそうで奥歯を噛み締めた。

『...“どうしてもシたい”って顔には、見えへんけど』

...気付いて欲しかった。けれど、勢いに任せた誘い文句とは違って、ここまで大事に育てて来た気持ちを伝えるだけの勇気は持ち合わせていなかった。

ますますどうしたらいいのかわからない。なんと答えれば正解なんだろう。どう答えたとしても、誘ってしまった時点で既に不正解な気がしている。それを弁解する言葉も、撤回する言葉も見つからない。

『…するだけ?』

...軽蔑されたのかもしれない。
シたかったわけじゃない。帰りたくないから、誰かと居たかったから誘ったわけじゃない。
章ちゃんじゃなきゃ意味がない。ただ、誰かの物にならないように、くっついていたかっただけ。独り占めしたかった。

頷けばいいだけ。誘ったのは私。この言葉に頷いたら、今夜一緒に居ることが出来るだろうか。臆病者で困る。頷くことさえ躊躇してしまう。

『...本気はあかんの?』
「え、」

声になっていない程微かな声で聞き返しながら思わず顔を上げた。俯いた章ちゃんの顔に、やっぱり笑みはない。
何を言っているんだろう。冗談...?でも、そんな顔には見えない。けれど、自惚れるには確信が無さ過ぎる。

章ちゃんの顔が少し上がって、前髪の隙間から覗く瞳が私を捉えた。その目にドクリと心臓が脈打って、忙しないビートを刻む。

『…ホテルやなくて、俺ん家がいい』

...なんなの、からかってるならそんな顔しないでよ。そんな期待させるような言葉は狡い。

章ちゃんが腕を引いたから、私の手の中からするりと章ちゃんの腕が外れた。すると逆にその手を取られドキリとする。
ホテル街に背を向けて歩き出した章ちゃんに手を引かれて、縺れそうな足を必死に動かした。
斜め後ろから章ちゃんの横顔をちらりと盗み見て、手で口を覆う。

「...いいの、?」

探ろうとするけれど上手い言葉が見つからない。はっきりとした言葉が欲しい。一緒に居られればそれでいいと思ったけれど、章ちゃんの期待を持たせるような発言のせいで欲張りになってしまう。

『誘ったのはそっちやんか』
「...うん」
『ひとつ言うとくけどさぁ、』
「...ん、」
『...離したれへん思う。#name1#が、部屋に居ったら』

章ちゃんの口の端が上がっていた。さっきまでとは違う、冗談の顔。くるりと私の方を見て、章ちゃんがふっと笑う。
きっと冗談...のはずなのに、心臓が跳ねたように一気にドクリと脈打って、全身がカッと熱くなる。章ちゃんに目を逸らされても、その横顔から視線を逸らせずにいた。

『...どうする』

章ちゃんが足を止めて振り向いたから、立ち止まって章ちゃんを見つめた。何だか頭が真っ白で、言われていることはわかるのに頷くことすら出来ずに息を呑む。

『なぁ、行かへん?...帰る?』
「.............、」
『俺は連れて帰りたいねんけど』

繋いでいた手を引かれて距離が縮まった。射抜くように真っ直ぐに見つめる瞳に吸い込まれそうで胸が高鳴る。
近付いたのは、私の方だったんだろうか。もう友達とは呼べない程の距離まで顔が寄せられて章ちゃんが言った。

『...帰らん、よな?』

囁くような問い掛けに小さく頷けば、吸い寄せられるように章ちゃんの傾けられた顔が近付いて唇が触れた。


End.