誘惑未遂


前を歩いている章大の背中を見つめていたら、涙が込み上げてきたから俯いた。と同時に、すれ違う人と肩がぶつかってふらついた。

『あー、すんません』

支えようと私に向かって伸びてきたサラリーマンらしき人の手よりも先に、章大の手が私の腕を掴んでその人に謝罪した。だから私も頭を下げると、視界に入った革靴は遠ざかる。
そこへ私の顔を覗き込んだ章大と目が合うと、ふっと笑って私の腕を引き歩き出した。

『...な?飲み過ぎたらあかん言うたやろ?』

そう言って笑う章大の手を振り払うと、章大が足を止めたから目の前を通り過ぎて先に足を進めた。

...誰のせいだと思ってんのよ。
言葉に出来ない苛立ちのせいで、いつもとは比べ物にならない程のペースでアルコールを流し込んでいた。途中、章大にグラスを取り上げ止められたけれど、うるさい、という一言で何も言わなくなった。

...だって、知らなかった。今まで一度も彼女がいるなんて言わなかったじゃない。そんなの、知らなかった。どうしてくれるの。こんなに好きだったのに、この気持ち、今更どうすればいいの。

みんなより先に外に連れ出されたけれど、普段ならきっとドキドキするこんなシチュエーションも、今はただ苦しいだけ。後ろからついてくる章大の足音さえ苦しい。一人で帰れるのに。一人にして欲しいのに。こんな優しさ、今の私には必要ないのに。

前から来た人を避けてふらつく体がもどかしい。いつもなら何でもないのに。章大に手を借りるわけにはいかないのに。

後ろから腕を掴まれたからさっきと同じように振り払う。すると、一度離れた手が今度は強く手首を握った。振り払おうとしても離れない章大の手のせいで目に涙が溜まって視界が霞む。力が抜けて垂れ下がった手に、章大の手が滑るように移動して手を握られた。私を引っ張るように少し前を歩く章大の手は、私よりも少し冷たい。逃げないようにと強く握られたその手が胸を締め付ける。

『...なんか今日、...アレやな』

章大の言葉に返事を返すことはしない。下手に言葉を発したら、泣き出してしまいそうだから。
章大が振り返って私の方を見たのが視界に入ったけれど、私が黙っているから何も言わずに前を向いた。

胸が痛いのに、この手を離したくなくなってしまう。本当は、気に掛けてくれる優しさだって嬉しくないはずがない。
...本当に飲み過ぎた。そうじゃなければ、きっと家に帰るまで涙は我慢できたはず。こんなに格好悪いところを見せなくて済んだはず。

『タクシー、呼ぶ?』

ちらりと視線を上げて章大を見れば、哀れむような顔で眉を下げて笑って私を見ていたから目を逸らした。

『それとも、少し醒ましてから帰る?』

子供相手のような柔らかい話し方は狡い。こんな時でも、勘違いしてしまいそうになる。優しさに甘えてしまいそうになる。
答えずにいたら大通りを通り過ぎ、信号が青になると先の公園に向かって歩き出した。

『いつもは泣き上戸ちゃうのになぁ』
「.............。」
『...フラれた?』
「.............。」
『...あー、ごめん』
「..............嫌い」
『...あは、めんどくさ』

面倒臭いと言うわりに笑う章大を睨むように見れば、また視界が霞むからどうしようもない。章大の手を振り払うと、簡単に外れたからその手で涙を拭う。
困ったように笑った章大が私の手を取ろうと手を伸ばしたから少し距離を取って俯いた。私の方へ一歩踏み出した章大のスニーカーを見ていたら、章大が片腕で引き寄せるようにして頭をポンポンと撫でて離れた。
...だから、なんでこんなことするの。

『ちょっと座って落ち着いたら帰ろ』
「..............、」
『...な?#name1#?』

首を横に振ると、章大が笑う。
自分でもどうしたいのかわからない。一人になりたいと思っていたけれど、やっぱり一緒に居たい。胸は痛いけれど、それでも章大を離したくない。

『座らんの?...えーじゃあどうすんねん』

言いながら公園の塀に凭れた章大が、ここでもええけど、と言って笑う。そして公園の入口に突っ立ったままの私の腕を掴んで塀の方へ引き寄せた。章大の横に立って俯くと、覗き込むように微笑んで私を見た。

『ふふ、』
「...なに」
『...めんどくさ』
「......置いて帰ればいいでしょ」
『それはでけへんよ』
「..............、」
『なんかあったら俺が困るもん』

ちらりと視線を上げて体を起こした章大に目をやる。
...思わせ振りな言い方ばっかり。そういう無自覚なところ、今だけは大嫌い。浮かんだ涙を拭って俯くと、少し笑いながら優しい声で問い掛ける。

『...なんでそれで泣くん?』

なんでって何よ。章大のせいに決まってるじゃない。もう、本当はわかってるんじゃないの?...悔しい。弄ばれてるみたいで、悔しい。

感情が高ぶって勢いに任せて章大の腰に腕を回し、顔を寄せた。キス、してやろうと思った。彼女がいるのに、って慌てればいい。困ればいい。私ばかり弄ばれるなんて悔しいから。
...なんて、本当は、私を見て欲しかっただけなのかもしれない。誰にも渡したくなかったから。

けれど、思いの外唇には遠い位置で静止した。こんなに酔っているのに、密着した体から早い鼓動が伝わってしまうのが怖くて、どうしても出来なかった。

『...どうしたん』

驚いたように私を見ていた章大の目が、私の後側を通る人に動いた。通り過ぎたその人を見送って私に戻って来た章大の目は優しく私を見つめる。
その問いに答えられずにいると、声のトーンを落とした章大が私に言った。

『...何?...キス?』
「...............、」
『人、居るよ?』

ふっと優しく笑ったその顔を見て、ゆっくりと章大から離れた。すると壁に凭れていた体を起こした章大が、辺りを見回してから顔を傾け私を覗き込む。目が合ってすぐに、軽く唇が合わせられて章大が離れていった。

昂った感情のせいで少し荒くなった呼吸。自分の心臓の音で何も聞こえない。落とした視線を合わせることが出来ない。

「...なんでしたの、」

そんなことを聞きたいわけではなかった。けれど興奮状態の頭は、私に勝手に言葉を紡がせる。

『...して欲しかったんやろ?』

少し間を空けて言った章大を思わず睨むように見れば、眉を下げて困ったように笑う。

『...我儘やなぁ、』
「...彼女、いるくせに...」

苦笑いの章大を見てから俯いて言えば、二人の間に暫く沈黙が流れた。

『...俺はええの。居れへんから』
「......え、?」
『...#name1#こそ、好きなやつ居るくせに』

...何それ。意味わかんない。さっき、居るって言ったじゃない。彼女。...好きなやつって、何?なんで章大がそんなこと言うの?

顔を上げて章大に視線を向けたら、一粒涙が零れ落ちた。口元に笑みを浮かべた章大は、私の涙を見て目を逸らした。

『好きやないなら誘うなよ』

俯いた章大が笑いながら言って、私にちらりと視線を寄越した。

「......好きじゃないなら、しないでよ...」

消えそうに呟いた言葉に、章大が顔を上げて私を見た。暫くじっと見つめた後、目を逸らしてまたふっと笑みを浮かべ呟いた。

『...好きやもん。誘われたらするに決まってるやん』

章大から目が逸らせなかった。頭は真っ白で、周りに音はなくて、目に映る章大だけが全てだった。一瞬だったのか時間が経ったのかもわからない。沈黙が続いて、私をちらりと見た章大は、切り替えるように短く息を吐いて笑顔を向けた。

『...帰ろか。送るから』

ゆっくりと歩き出した章大の手を思わず掴んだ。振り返って私に向けられた章大の目に、一瞬言葉を失った。首を傾げて優しく私を見つめる章大を見ながら発した声は、自分でも驚く程震えていた。

「...彼女、いるって言ったじゃない...」
『...だって“好きな子居る”言うたら、みんなの前で言わなあかんくなるやん』

いつもの笑顔で私を見た章大が、更に零れた涙を見て反対の手でくしゃくしゃと頭を撫でる。

『今日はまたよう泣くなぁ』
「...章大のせい、」
『あは、俺のせいなんや』
「...すき、だもん、...泣くに決まってるじゃん、...」

私を見つめる目が丸くなって、暫らくすると口元の笑みと共に細められた目。さっきよりも深くなった笑い皺が何だか照れ臭くて目を逸らすと、ふふ、と漏れた章大の笑い声。私を覗き込む章大があまりにも嬉しそうに幸せそうに笑っていたから、思わずほっと息をついた。

私の手を取って握った章大の手が熱い。手を繋いで引かれるままに歩き出せば、すぐに足を止めた章大が振り返って、弧を描いた唇が私にキスを落とした。


End.