恋味リワード


約15分前、残業していた最後の同僚がオフィスを出て行った。残業中に会話を交わすわけではないけれど、一人居るのと居ないのでは全然違う。
節約のために半分消された電気。妙に静まり返る一人のオフィス。...ちょっと怖い。
もうすぐ終わるのに。一人になってから何だか怖くて集中出来ない。

その時、扉の向こうで物音がしたから思わず体が強ばる。少し開いた扉を掴む手を見て緊張がピークに達した。
次の瞬間、アーモンド型の目がふたつ、ドアからちらりと覗いた。瞬時に恐怖が吹っ飛んで、別の緊張感に支配された。

『え、一人やん』

入って来て後ろ手にドアを締めたヤスがオフィスを見回しながら言うから黙って頷いた。
パソコンに向かう振りをしながらヤスをちらりと盗み見るとまんまと目が合って、私の方に真っ直ぐに歩いて来たからドキリとする。そのまま私の後ろを通り過ぎて、隣のデスクの椅子に腰を下ろしたヤスがパソコンを覗き込んだ。

「...何、」
『何って?』
「...なんでもない」

なんで戻って来たの?...と聞いたら彼は何て答えるんだろう。
“待ってたのに来ないから”...なんて照れもせずに平気でそんな台詞を吐いてきそうな気がして、聞けなかった。

一昨日の帰り、ヤスに“好きや”と言われた。びっくりして言葉を失って「私も」という一言がなかなか出て来なかった。すると同僚に後ろから声を掛けられ、溜息をついたヤスが私に言った。
“3日待ったる”


『ここ』

急に話し掛けられてはっとしてヤスの指す指を見た。

『間違うてる』
「...あぁ、うん...」

慌ててパソコンで打ち直しにかかると、ヤスが席を立ったから横目でちらりと見た。私の後ろを通ってドアへ向かおうとしているから、慌てて声を掛けた。

「...あの、さ」
『んー?』

振り返ったヤスを見て、自分の言おうとした言葉を思わず飲み込んだ。
“怖い”なんて、子供みたいで恥ずかしい。

『何ぃ?』

ドアに凭れたヤスをちらりと見れば、笑いながら首を傾げて私を見ていた。

「...もう少しで終わるからさ、」
『うん?』
「待っててくれない...?」

照れ隠しにパソコンに向けていた目を伺うようにヤスに向けると、キョトンとして私を見ていた。
するとその手の中から、チャリ、と小銭のような音が聞こえたから、もしかして帰るつもりではなく、自販機にでも行くつもりだったのかもしれない。

『あは、勿論そのつもりやけど』

掌の小銭をポケットに押し込んでヤスが戻って来た。引き留められたことに安堵しながらも、ふたりきりという静かな空間はやっぱり緊張を煽る。

「...ありがと」

ヤスが私の斜め後ろで足を止めた。立ったままパソコンを眺めているらしいヤスのせいで、手が上手く動かない。

『キスでええよ』
「...え、」

思わず振り向いて声にならないような声で聞き返す。ヤスはポケットに手を入れたままパソコンを見つめている。
...笑っているわけではないから、ふざけているようには見えない。かと言って、冗談ではないとしたら...

『お礼。手伝うし待ってるからさ、キスくらいさせて?』

私を見下ろすように見たヤスが、再び隣の椅子に腰を下ろした。ドキドキしてヤスの顔を見ることが出来ずにパソコンの画面を見つめていると、私の背凭れに腕が乗って背中に触れたからドキリとした。

『...なぁ』

ヤスが私の椅子をくるりと回して向かい合うと視線が絡んだ。背凭れを掴まれたままだから距離が近くて、どうしようもなく緊張してしまう。真っ直ぐな目にドキドキしてしまう。

『まだ?』
「...何、」

何、なんて聞かなくてもわかってるのに。仕事のことならわざわざこんな体勢を取るわけない。...返事のことに決まってる。

『明日まで言うたけど、待ってられへん』

鋭く私を見つめる視線にごくりと唾を飲んだ。答えが出ているのになかなか言葉にならないのは、この静かな空間と煩い心臓のせい。
目を逸らして息を吐き出しながら精一杯の言葉を準備した。けれど、ヤスがいきなり私に顔を寄せるからその言葉をまた飲み込み掛けた。

『やめてーとか、言わんでええの?』
「............、」
『ええなら、するけど』
「.......っ、」
『...ん?』
「...好、」

言い掛けたところで唇が塞がれた。背凭れの手が移動して私の頭を撫で、緩く髪を掴んだまま唇が離れる。目が合うとヤスがふっと笑って視線を逸らした。

『“ごめん”言われるか思て、塞いでもうた』

笑いながら頭を引き寄せられてもう一度キスをすると、目の前で私の顔を覗き込んだままヤスが髪を撫でる。

『もっかい言うて?』
「...........、」
『...言われへんの?』
「...........、」
『...なぁ』

ヤスの唇が何度も啄むようにキスを落とす。一回ごとに離れて見つめて、言葉が出ない私に微笑みながらまたキスをして、更に椅子を引き寄せた。

『...ま、ええか』

笑って押し付けられた唇がまた私の唇を啄むと、擽るように唇に舌が這わされ触れ合った舌が柔らかく絡められた。頬を撫でて包むヤスの掌の熱に溶かされてしまいそうで手を掴むと、その手に強く抱き締められて熱に浮かされる。


End.