幸雨


駅を出たら空から小さな雫がポツリと落ちてきた。見上げれば雲の隙間から僅かに星が光って見える。だから傘を買うこともなくそのまま帰路についた。

暫く歩くと次第に強くなってきた雨脚。再び空を見上げれば、さっきまで覗いていた星は雲の奥に姿を消していた。
スーパーに寄って夕飯の買い物をしようと思っていたのに。スーパーまでは距離があるし、このまま傘もささずに移動するのはちょっと厳しい。

少し先のファーストフード店に目が止まった。いつもは100円のコーヒーにお世話になっているけれど、今日は夕食もまだ食べていないし、ファーストフードが夕食となると少し気が引ける。それでも強く打ち付けてきた雨粒に耐えかねて、ファーストフード店の自動ドアを潜った。

そして、隣のカフェに目を向ける。
外観からお洒落で、店内があまりオープンに見えないから入りづらいと思っていた。入りづらい理由は、それだけではないのだけれど。

数ヶ月前にこのファーストフード店の窓際の席からなんとなく隣のカフェを眺めていた。すると丁度ドアが開いて出て来た綺麗な男の人に目を奪われた。私の前を通り過ぎるその横顔に見惚れて、姿が見えなくなるまで目で追った。
思えば、一目惚れだったのかもしれない。

その時、傘をささずに走ってきた女の人が、雨から逃れるようにハンカチを出しながら隣のカフェへと入って行くのが見えた。それを見て潜ったばかりの自動ドアを出て、雨の中外へ飛び出した。雨に打たれながら隣のカフェの前に立つと、小さな窓から中を覗いた。そして胸を高鳴らせながらその扉を開けて店の中へ足を踏み入れる。

すぐに目に飛び込んできたその背中に思わずゴクリと喉を鳴らした。白いシャツに黒いスラックス、黒いカフェエプロン。その男性が振り返って私に気が付くと、目を丸くした。

『...あ、...こんにちは、』
「...こんばんは、」
『...あ、ちゃうわ』

小さな声でいらっしゃいませ、と訂正した彼に少し笑って見せると、軽く咳払いをして席へ案内される。初めてのその空間を見回す余裕もないくらいドキドキしている。見慣れない彼の姿が余計に緊張を煽るから。

案内されたカウンターの席に座れば、目の前の小さな窓から表の通りが見える。女性がこのカフェに目を向けながら通り過ぎていく姿を見て、いつもの自分を重ね合わせた。

『...初めてちゃう?』

はっとして彼に目を向ければ、私とは目は合わせずにペンを握った手の指で頬を掻いている。

「...そうですね、」
『めっちゃびっくりした』
「...雨、降ってきたんです、」

言い訳のように言葉にすれば、彼の目が窓の外を覗いて頷いた。手渡されたメニューをちらりと見て顔を上げれば、横目で私を見ていた彼と視線が絡んでドキリとする。

「...カフェオレ、を...」
『かしこまりました』

直ぐに目を逸らした彼の顔が少し赤いようにも見えるのは、オレンジ色の照明のせいだろうか。
向けられた背中を見送って、自分を落ち着かせるようにひとつ息をついた。そして、運命のような外の雨粒を見ながらあの日を思い出す。



“...あの、”
“........あっ、はい、...”

彼が隣のマンションに住んでいると知ったのは、初めて彼を見た日から数日後のことだった。

『すんません、いきなり』
「はい、...」

大きな色とりどりの花束の向こうから覗く見覚えのある顔。思わず彼の顔を目を丸くして見つめた。

すんません、と何度も謝りながら隣のマンションを指差して、言い訳のように『怪しくないんすよ、そこに住んでて』を二度繰り返して、横山と名乗ったその男の人は、私に花束を差し出した。思わず手を伸ばした私の腕の中に大きな花束を軽く押し付けて、少し頬を赤く染めたまま言った。

『...誕生日なんすよ』
「...あ、そう...なんですね、」
『冗談半分で用意してくれたやつ、持って帰るハメになってもうて、』

目を逸らして手で口元を隠し頭を下げる。

『俺ん家、花瓶ないんすよ、...だから、もらってください』
「...あ、」
『女の人、花好きでしょ?』

実はうちにも無い、とは言わないことにした。これがきっかけになればと思ったから。

だから今こうして話が出来るようになった。近所に住んでいるとわかった途端に立て続けに出会すようになって、今に至る。一度にする会話なんて2、3分程度なのだけれど。
あの日から、今日で一年が経つ。


『お待たせ致しました』

はっとして振り返れば、横山さんが私の前に静かにカップを置いた。続けて置かれた皿に乗ったひとつのパン。

「あ、」
『サービス』
「...いいんですか?」
『雨宿りってことで』

ありがとう、と言ったら横山さんが口元に手を当てて背を向けた。その照れたような仕草のせいで、胸をきゅっと掴まれたように苦しくなる。

気持ちを落ち着けるようにカフェオレに口をつけながら窓の外に目を向けた。さっきよりもだいぶ雨脚が強まっているのに、それを感じさせない程ここには静かな空間が広がっていて、心地良い音楽が控えめな音量で流れている。
少し振り返ってその姿を探せば、レジの向こう側の彼と目が合ったような気がしてドキリとする。顔を前に戻してカフェオレを啜りながら小さく深呼吸。やたらと緊張してしまうから困る。

完全に帰るタイミングを失っていた。
まだまだお客さんがいるところを見ると閉店までは時間があるようだけれど、ここに来てからだいぶ時間が経っている。ちびちびと飲んでいた冷め切ったカフェオレも最後のひと口を飲み終えた。
周りを見回すけれど、さっきから横山さんの姿が見当たらない。せっかく会えたのだから、声を掛けて帰りたいのに。

“誕生日、おめでとうございます”

私が今日言ったら、彼は驚くだろうか。覚えていたのかと、気持ち悪がるだろうか。
それでも、私にこのチャンスを与えてくれた運命のような雨に、縋ってみたくなった。

『#name2#さん』

驚いて振り返れば、横山さんが立っていた。さっきまでとは違う、少しラフな格好の横山さんに言葉を失っていると、外を指差して言った。

『送るから、帰る時声掛けて』
「...え、」

状況が飲み込めずにいる私から目を逸らして、横山さんが周りを見回す。

『傘、ないやろ?俺上がったし、傘持ってるし...せやから、帰る時、』
「...あ、もう、帰ります...」

慌てて立ち上がりカップに手を伸ばすと、横山さんが先にカップを手に取った。

『俺裏から出るから、そこ出たとこで待ってて』
「...あ、はい...」

思いもよらない展開に顔に熱が集まる。お会計をして外へ出て空を見上げれば、雨は止んでいた。
すぐにこちらに歩いて来た横山さんに気付いて少し頭を下げた。

『止んでもうてたな』
「...そうですね」
『行こか』

その言葉が少し気になっていた。
“止んでもうてたな”
残念みたいな言い方をするから。

傘を手にした横山さんの隣に並んで歩き出した。今まで一緒に歩くことなんて一度もなかったから妙に緊張してしまう。10分程の道程の中で、伝えなければいけないのに。

会話もないまま隣を歩く横山さんを盗み見る。俯いていた横山さんが空を見上げたから、びくりとして慌てて目を逸らす。
話したいのに、どう声をかけていいのかわからない。

『...なんで来たん?』

不自然な程小さく咳払いをして、横山さんが顔を背けた。

「え、」
『珍しいから、...なんでかなーって』
「...なんでって、...急に降ってきたから、それで...」

...言えたらよかったのに。誕生日おめでとうって、一言言いたくて、って。
それきり沈黙が続いて、なかなか言葉が見つからない。
...どうしよう。今日は何だかすごく緊張してしまう。

少し向こうに横山さんの住むマンションが見えてきたから、ますます緊張が高まる。せめて、別れる前に伝えなきゃ。せっかく会ったのだから、どうしても伝えたい。

『...雨やったから、来たんや?』

...違う。そうじゃない。

「......誕生日、おめでとう...」

顔を見ることは出来なかった。鼓動が早くて、顔は血液が集まったみたいに熱い。

『...知ってて?』

ちらりと横山さんを見ると、口元を手で覆って顔を真っ赤に染めていたからその反応に驚いた。

『...知ってて、来てくれたん?』

小さく頷いて、恥ずかしさを誤魔化すように笑って見せれば、いきなりぶつかるように正面から抱き締められたから心臓が跳ねる。

『それって、どういう意味なん?』

緊張して体が硬直する。それでも、私と同じくらい早い胸の鼓動を聞きながら、期待せずにはいられない。

『普通に期待するやん。そんなん言われたら』

その言葉にただ頷いた。すると私を抱き締める腕にますます力が篭って胸までぎゅっと苦しくなる。
ぽつりと頭に雨粒が当たると横山さんの腕が緩んだ。そして顔を上げると同時に雨粒よりも先に優しいキスが降ってきた。


Happy birthday!!  2016.5.9