濃藍(こいあい)
あと1時間足らずで日付が変わる時計を見て溜息を吐いた。月に一度の女性特有の日の前兆がじわりと腹部を刺激して、ますますセンチメンタルを煽るからベッドに蹲る。
誕生日を一緒に過ごしたい...なんて贅沢過ぎる。可哀想だとか寂しい女だと言われても、誕生日になるその瞬間に一緒に居て欲しい人は他にいないのだから仕方がない。
章大は普段から優しいけれど、ここに来る間は私との間に一線を引いているように感じる。体だけの関係だということを常に意識させられているみたいに。
どんなに遅くなっても泊まることはないし、シャワーを浴びたらすぐに家を出る。ここに居てもセックスをする以外で触れてくることはない。寧ろ、なくなった、と言った方がいいのかもしれない。頭を撫でたり手に触れてネイルを見たり、ただの友達だった頃の“当たり前”はこの関係と引き換えになくなった。
枕元にあった携帯を手に取ってみるけれど、章大からの連絡は当たり前のように来ていない。
誕生日に私から章大を呼ぶなんて、そんな想いを匂わせるようなことをする勇気はない。体調も良くはないのだから、尚更。それでも今ここに章大が来て私を求めてくれるなら、この痛みさえも耐えて受け入れてしまうんだろう。
仰向けになって天井を見つめた。いつもこうして見上げる私で感じるその顔を浮かべようとするけれどぼやけて浮かばない。章大の体温を思い出そうとするけれど思い出せない。その苛立ちは胸の奥を焦がすように熱くなって目の奥へと熱を運ぶから、閉じ込めるように目を閉じた。
インターホンの音がしてパチリと目を開けた。すぐに目に飛び込んできた時計の針は40分程進んでいる。いつの間にか眠っていたみたいだ。
起き上がって鼓動が早くなった胸を押さえた。こんな時間にインターホンを鳴らすのは、きっと章大しかいない。戸惑いながら携帯を手に取って、インターホンのモニターへと向かう。携帯を見てみるけれど、やっぱり連絡は来ていなかった。そしてモニターを覗くと同時に携帯が震え出したからドキリとした。
携帯の通話ボタンを押してモニターの向こうで携帯を耳に当てている章大に問い掛ける。
『あ、』
「...どうしたの、」
『今誰か居んの?』
「...いないよ、」
『ほんなら開けて』
戸惑っていた。連絡もなしに突然家に来ることなんて初めてなのだから。
玄関へ向かい鍵を開けると、すぐに章大がドアを開けた。ちらりとだけ私に目をやって部屋の中を覗き込むと、ふっと息を漏らして笑った。
『出て来おへんから彼氏でも来てるんか思た』
彼氏がいるなんて言ったことはないのに。こんなところはいつもの優しさに反して本当に意地悪だと思う。
黙った私を見て章大がまた笑う。
『あは、眠そ』
「...そう?」
『寝てたん?』
「大丈夫」
思わず被せるくらい慌てて出てしまった言葉に、すぐに後悔していた。
...だってセックスしないのであれば、すぐにでも帰ってしまうかもしれないと思ったから。けどこれじゃあ、帰って欲しくないと言っているのと同じだ。
「...とりあえず、上がれば、」
誤魔化すようにすぐに言葉を続けたけれど、章大は玄関で一段下に立ったまま靴も脱がずに私を見上げていた。
“終わりにしよう”なんて言葉が頭を過ったから、思わず急かすように章大の腕を掴んで引いた。
お邪魔します、と靴を脱いで部屋に上がった章大を見て密かに安堵の息を吐いた。
リビングでソファーにバッグを置いた章大が寝室に入って振り返り私を見つめた。すぐに伸ばされた手に引き寄せられて唇を塞がれると、高めるように背中や腰を撫でながら舌が絡められ徐々に深くなる。
離れて私を見つめる色気漂う眼差しから目を逸らすと、噛み付くように唇を合わせてベッドに倒された。
...なんだ、いつもと変わらない。
期待してみたけれど、たまたま近くに来たからとかそんなとこかもしれない。誕生日だとわかっている様子もない。そもそも、まだ誕生日にはなっていないのだけれど。
いつもと同じようにキスをして、ベッドに押し付けられて、同じようにセックスをする。...はずだった。
『生理?』
首筋から顔を上げた章大が私を見たからドキリとした。
「...違う、...まだ、」
『ふーん』
興味の無さそうな返事のわりに私をじっと見つめるその目は、気持ちまでも見透かされてしまいそうで怖い。
『体調悪いんちゃう?』
その予想外の言葉に口を噤んだ。
まさか、そんな事を言われるなんて思ってなかった。
黙ってしまった代わりに慌てて首を横に振るけれど、章大が私から少し体を浮かせる。
『今日はええわ』
...そんな事言わないで。私にはこれしかないのに。セックスをしたいということ以外に引き留める理由なんかあってはいけないのに。
私から体を起こした章大の腕を掴んだ。
「大丈夫、」
こんな顔したら、気付かれちゃう。
引き留めたいことも、私の気持ちも。
『ええて』
困ったように笑った章大が腕を引くからするりと手が離れた。
その笑みの裏で何を考えているの。面倒臭い女だと呆れているの?
...何も言葉は出てこなかった。
潤んだ目に気付かれたくはないから顔を背けると、章大がべッドから下りて私に背を向けリビングのソファーへと向かった。
思わずその背中を追い掛けて、気付いたらバッグを掴もうとした章大の腕を掴んでいた。
『...どうしたん』
答えられずに手を離すと、章大が私を見つめるから俯いて言った。
「...大丈夫だから」
言うしかなかった。逆に私は、こうする事で一緒にいられるのだからそれでいい。シたいから一緒にいる。そう思われることで成り立っているんだから。
再び章大の腕を掴んで引いた。何も言わずにベッドまでついて来た章大を振り返ると、私を伺うように見つめた後、背中に腕が回った。引き寄せられて唇が重なる。深く唇を合わせて舌が絡められると、ゆっくりと労わるようにベッドに倒された。
絡んでいた舌が解けて唇に優しいキスが落とされたから少し驚いた。こんなに優しいキスは、初めてしたキス以来だったから。
章大がふっと笑って私を抱き締めたまま横向きに転がった。背中にあった片手が私の頭を章大の首筋に押し付け、ポンポンと頭を撫でるから心臓がドクリと音を立てる。
『今日はほんまにええから』
耳元に聞こえてきた優しい声に唇を噛み締めた。
...恥ずかしい。気付かれてはいけなかったのに。
子供をあやすように頭を撫で続ける章大は、気付いたはずなのにどうしてこんなことをしてくれるの。
『その代わり、抱っこさせてな』
...なんで私にそんな事を言ってくれるの。
優しい声色の裏で触れた章大の胸の鼓動が、いつもより少しだけ早い気がするのは気のせいだろうか。
『...俺以外、居る?』
その言葉に息を詰めた。それが何を指しているのか考えるけれど答えに繋がらない。
『...誕生日祝いに来てくれる奴、今日、俺以外に居んの...?』
じわりと滲んだ涙を堪えるために奥歯を噛み締めた。
そんな言い方したら、その為だけに来てくれたみたいじゃない。
悔しいけれどやっぱり嬉しい。
『...ん、そ』
私が小さく首を横に振ったら、短い返事をした章大が溜息を吐き出して、ふふ、と笑った。
『...じゃ、今日は泊まってこ』
...触れることなんてずっとなかったくせに。私を抱き締めて今更そんなに優しい言葉を掛けて期待させるなんて、どういうつもりなの。
少し距離を取り、章大の掌が私の頬を包んだ。されるがままに章大を見上げれば、目に浮かぶ涙を見て困ったように笑う。照れ隠しに睨むように視線を向けると、ゆっくりと顔が近付いて優しくキスを落された。
『...やっと言えた...』
また強く私を抱き締めて首筋に顔を埋め、溜息混じりに口にした章大のその言葉が、堪らなく胸を締め付けた。
「泊まっていって」
何度言おうとしたかわからない。
『泊まっていい?』
口に出せないそんな言葉が章大にもあったなんて、知らなかった。
『誕生日、おめでとう』
背中に腕を回せばより強く抱き寄せられ、ありがとうと呟いた。あまりに震えてしまった声に章大が笑うから顔を見遣れば、細められたその目が潤んでいたからより強く抱き締めた。
『...好きやった、ずっと』
End.