ナイーヴ・キス
部屋のドアがノックされ、ベッドに横たわったまま流れる涙を拭う暇も与えてくれずに、亮が部屋へ入って来た。
咄嗟に寝たふりをした。夢を見て泣いていると勘違いしてくれたらそれでいい。亮のために流した涙だなんて、絶対に知られたくない。
『...おい』
ベッドの前に立ったまま、亮が遠慮がちに声を掛ける。
『...なぁ、』
明るかった瞼に暗い影が差したから、近くに来たのかもしれない。早くなる鼓動に動揺してしまいそうで、気付かないで、と願った。
軽く頭に触れた手にドキリとしたけれど目は開けない。一度髪を梳いて離れた手に安堵すると同時に唇に温かい感触を感じた。
すぐに立ち上がったらしい亮が部屋から出て行ったと同時に目を開ける。驚き過ぎて、涙は止まった。止まったけれど、胸が痛くて苦しくて、どうしようもなくてベッドに顔を埋めた。
思い出したくもないのに頭に浮かんでくるのは、昼間に見た亮とあの子のキスシーンばかりだ。
『キス、したことある?』
『ある!小学生の時!』
『早くない?ていうかそれ、本当にキス?』
この会話、高校に入ってから何回目なんだろう。わからなくはない。興味はやっぱりあるし、話しているメンバーも違うんだから何回出てもおかしくはない話題だ。私も少し前までは興味津々で話を聞いていたんだし。
でも、今はこの話題にノリたい気分ではない。
『錦戸くんて、すっごい経験ありそう!』
『モテるもんねー。何人くらいしたんだろ』
『#name1#、知ってる?』
いきなり振られたその話に固まった。けれどすぐに笑顔を作って返した。
「いくら幼馴染みでも、そこまで踏み込まないよ」
そっか、と納得したような反応の周りに安堵して息をついた。やっぱりこの話題、好きじゃない。
『あ、亮ちゃん!』
思わず顔を上げると、教室に入って来た亮の腕を掴み友人が空いている席へ亮を無理矢理座らせた。亮の耳元で、きっとさっきと同じ質問をしている友人を見て心臓が激しく動き始めたから、目を合わせないように深呼吸する。
『そりゃ、...あるけど』
『何回?』
『な、何回?...なんで言わなあかんねん!』
いいじゃん早く!と捲し立てる周りに、亮は『誰が言うか!』と一蹴した。
『じゃあさ、キスって、どんな感じ?』
『え、マジで?キスしたことないんや?』
ない、という友達を指さして笑う亮の姿が、数日前とダブって見えた。あの時も私に同じことを言って、同じように笑っていたんだから。
それを思い返していたら亮と一瞬視線が絡んだ。逸らそうとしたけれど先に視線を逸らしたのは亮で、口元に少しだけ笑みを浮かべて俯いた。
『なんてことないんちゃう、...キスくらい』
亮の言葉に盛り上がるみんなを横目に、何だかすごく惨めな気分になっていた。
なんてことないんだ。あのキスは何か意味があるわけじゃなく、なんとなくのキスだったんだ。
「私、そろそろ帰るね」
暫くして話が一段落したところで、みんなに笑顔を向けた。教室から出て歩きながら振り返る。亮がついて来たらどうしようと思ったけれど、まだ話し声が聞こえるから少し安心していた。
部屋に入って脱いだ制服をベッドに叩きつける。どうしようもない苛立ちをぶつけてはみたけれど、皺になるのを気にしてすぐに拾い上げてハンガーへ吊るす。...これがまた、余計に惨めな姿に思えて仕方なかった。
着替えてベッドに倒れ込むと、インターホンが鳴って下で話し声が聞こえたから飛び起きた。足音が階段を一段一段上がって近付いてくるにつれ、早まる鼓動を少しでも落ち着けなければと深呼吸する。
ノックとほぼ同時にドアが開いて、亮が顔を半分覗かせた。ベッドの上にペタリと座り込んだままゴクリと喉を鳴らす。
『おう』
「...開けるの早い」
『別に大丈夫やろ。見せられん秘密でもあるん?』
「...そうじゃないけど、」
ふっと笑った亮が、部屋へ入ってドアを閉めた。私の椅子に座って背もたれに背を預けると、無駄にクルクルと椅子を揺すっている。今は会話のないこの空間が、妙に居心地が悪い。
亮の動きがぴたりと止まって体が私の方に向けられたからちらりと亮に目をやる。黙って私を見ているから堪らず目を逸らすと、すぐに亮が言った。
『さっきのさ、』
「...なに」
『キス』
亮に目を向ければ、自分の指を弄んでいる。さっきまでとは違って、私を見ようとしない。
今はそれで丁度いいけれど。
『#name1#、もうしてんで』
まさかそんな話を振られるとは思わなかったから驚いた。動揺して黙ったままでいる私に、暫く間を空けてから亮が聞いた。
『びっくりせぇへんの?』
「................、」
『...あー、...起きてたん?』
「...起きてたわけじゃないけど、...起きた、っていうか、」
『...そ』
「...なんでしたの」
亮の目が私をじっと見つめたから目を逸らしてしまった。思わず聞いてしまったけれど、返ってくる答えが怖い。決定的な言葉が返ってくれば、十数年にも及ぶ曖昧だったこの恋に終止符を打たなければならないのだから。
『見てたやろ』
「.............、」
何のことかはすぐにわかった。
亮のキスシーンを見てしまったことに決まっている。目が合った気がしたなんて、遠くだから絶対に違うと言い聞かせたけれど、やっぱり間違いではなかったみたいだ。
『せやから、...なんてことないって言うたやん、あんなキス...』
どういう意味?と聞きたかったけれど、不安と期待が入り乱れて言葉に詰まった。
あのキス、を指すのが私とのキスじゃなくて、あの子とのキスだったらいい。
『怒ってるん?...キスしたこと』
「...そうじゃない」
『...別にええやん、キスくらい』
思わず亮を睨んだ。
“なんてことない”とか
“あんなキス”とか
“キスくらい”とか、さっきからなんなんだろう。
『...起きてたんやったら突き飛ばすことだって出来たやろ』
「..............、」
『嫌がらへんってことは、...俺を受け入れる気、あるってことなんちゃうの』
亮がベッドの前まで歩いて来て立ち止まった。立ったままベッドに座る私を見下ろす。
受け入れるって、何よ。そんな言い方、私のこと好きみたいじゃない。
亮が私の前に腰掛けて、ベッドに手を付いた。顔が近付いたから鼓動が早くなってビクリと体が揺れたけれど、亮が何を思っているのか知りたいから、動かずにいた。
『...ほら、...逃げへんやん』
軽く触れただけで離れた唇を噛み締めた亮が顔を背けた。
わかった。亮の気持ちが。きっと、私と同じだ。
「...“キスくらい”で、何震えてんの、」
『...は?...それはお前やろ、』
「亮だって、震えてた、」
『......うっさいわ、ボケ』
私に背を向けた亮が俯いて溜息みたいな息を吐き出す。それを見ていたら、背中だけでもわかるくらいに落ち着きがない。
『...もう一生出来んくなるかもしれんやん、...#name1#と、』
呟くように聞こえたその言葉から、不器用な亮の気持ちは十分に伝わった。
けど、やっぱり言って欲しいのに。私から言うなんて、悔しすぎる。
「...もう1回、していいよ、」
『言われんでもするし』
遠回しのつもりで言ったその言葉があまりに大胆だと気付いたけれど、振り返った亮の真っ直ぐな目に見つめられたら、それで正解だったような気がしてきた。
『...一回しか、あかんの?』
「...ううん、」
『何回でもしたる』
ベッドに乗り上げた亮の腕が背中に回って、唇がぶつかるように合わせられてベッドに倒れ込んだ。
昨日の光景を思い出していた。
突ったったままの亮の首に巻き付いたあの子の腕。唇が触れて直ぐに腕を掴んで引き離した冷めた目をした亮。
『...#name1#、好きや』
目を開ければ、愛おしむように私を見つめ、口角を上げた亮がきつく私を抱き締める。
また目を閉じても、瞼の裏にもう昨日の光景はない。浮かんでくるのは、私にだけ向けられる今見たばかりの亮の笑顔。
End.