ラブ微炭酸


目の前のスケッチブックと少し先にある彫刻を睨み付けて項垂れた。
一人の美術室は気味が悪いから、先生に頼み込んで彫刻を持ち出し教室にいる。
先週休んだばっかりに提出期限が過ぎてしまったこの絵を、今居残りで書いている。

なんでこうも絵心が無いかな。
スケッチブックの中で歪んだ彫刻の絵を見ると本当に泣きたくなる。絵なんか書けなくたって生きていけるのに。

突然教室の扉が開いてびくりと肩が揺れた。静かに振り返ると、侯隆がバッグとそれなりに分厚い本を持って教室に入ってきた。
すぐに目を逸らしてスケッチブックをぼーっと見つめる。ちょっと気まずい。今日の朝喧嘩してからまだ一言も話していないから。

『...へったくそ』

小さな声で言ってふっと笑った侯隆を睨み付けた。目が合うとまた馬鹿にしたように笑って自分の席に座ったから、唇を尖らせて鉛筆を動かす。

「小説とか、...ほんっと似合わない」
『はぁ?...んやねん、』

別にそんなことが言いたかったわけじゃない。似合うとは思っていないけど、話し掛けられたことに少し安心している自分がいたのは確かだ。

朝の喧嘩は何がきっかけだっただろう。小さい頃から繰り返してきた喧嘩は、歳を重ねるにつれてお互い素直になれず仲直りに時間が掛かるようになってきた気がする。それが最近不安だ。ちょっとしたことで失ってしまうんじゃないかと思うけれど、それでも素直になれずにこんなことを言ってしまうんだから本当にしょうもない。

スケッチブックと鉛筆が擦れる音と侯隆が本を捲る音だけが教室に響く。ちらりと侯隆を盗み見て、何となく落ち着けずにいる。

「...帰らないの、」
『...俺の勝手やろ』

そう言われてしまえばそれまでだ。けれど、侯隆のことだ。多分私を待っている。

実物よりも遥かに貧弱に見えるスケッチブックの中の彫刻を真似た絵を見つめた。納得、行く訳が無い。けど、妥協に妥協を重ねこれで終了。
鉛筆をペンケースに片付け始めると、侯隆が立ち上がった。侯隆を見たけれど、私に目を向けることなくそのまま教室を出て行った。

バッグを持ってスケッチブックと彫刻を抱え教室を出る。
侯隆は先に帰ったんだろうか。そんなはずない。...と思う。

スケッチブックを提出して下駄箱に向かうと、玄関の先に目をやった。
...ほら。何だかんだ言ったってやっぱり待っててくれていたんだ。

外に出ると歩く私の横に侯隆が並んだ。暫く言葉も交わさずにただ黙って俯いていた。

『...普通さ、言うやろ』
「.........帰るの、遅いね」
『...はっ、...アホか』

わかってるよ。ごめん、って言えばよかったんだよ。よく覚えてないけど、朝の喧嘩は私の暴言がきっかけだった気がする。

『普通、待ってて、とか言うやろ。こんな遅い時間に一人でどうする気なん』

ちょっと驚いた。まさか今その心配をされているとは思わなかった。仲直りするために待っててくれたのかと思ってた。

「...侯隆でも、そんなこと考えるんだ、」

照れ隠しのつもりが、またこんなことを言ってしまう。けれど侯隆は予想外の反応を見せた。
ふっ、と笑った気がしたからちらりと侯隆を見れば、口元を隠して笑っていた。少し顔を赤らめて。

「......なに、」
『や、別に。...たまには、考えるんちゃう?』
「私襲う物好きなんていないとか思った?」

そこまで考えているとは思えないけれど、なんで笑っていたのかわからないし、妙に恥ずかしくなってまた自分の首を絞めるようなことを言ってしまった。
さすがに侯隆の顔から笑みが消えていた。
あぁ、もう。

「.......ごめ」
『探せば居るんちゃう』
「え?」
『#name1#でも襲う物好き』
「...そう、かな...」
『.........俺、とか、?』

驚いてすごい勢いで侯隆を見た。
落ち着きなく髪を触りながら顔を背ける侯隆を見ながら、今の言葉を反覆させて赤面する。
ちらりと伺うように私を見るから、赤い顔を隠すように掌で頬を覆って今度は私が顔を背けた。

『...赤、』

小さな声で言って笑うから、気付かれたのが恥ずかしくて顔は戻せない。

「...自分だって」
『お前はさっきからな』

なんだ。だから笑われたのか。思いの外わかりやすい自分に絶望しているうちに、頬を押さえていた手の手首を掴まれて塀に押し付けられた。
バクバク。驚きと緊張と期待で心臓が煩い。
顔が近付く。こんなに真っ直ぐに私を見るなんて、侯隆らしくない。侯隆が、男の顔をしている。

『あんなん言うてたら、何されたって文句言われへんで』
「......なに、してんの、」
『...キス、するで』

どうしよう。キス、するんだ。侯隆って私のこと好きだったの?まだ聞いてないんだけど。

『...するで、?』

有り得ない速さの鼓動のせいで言葉が出てこない。けれど威圧するような表情の割に無理矢理する気はないらしい。

『...おい、』
「.............、」
『ほんまにす』
「早くしてよ、」
『...なっ』

侯隆の言葉を遮って言うと驚いた顔で私を見つめた。恥ずかしくて睨むように見つめると唇がぶつかる。触れただけの唇はすぐに離れ、照れ臭くてお互いに視線を逸らす。
背けた私の横顔に投げられた言葉は、今日1日期待していた“ごめん”ではなくて、何年も前から期待して期待して、欲しくて堪らなかった侯隆の心。


End.