ボーダーライン


さっきまで居た賑やかな居酒屋が恋しい。二人で歩く帰り道は、沈黙でいちいち緊張してしまうから。

『家で飲み直そか。な』

その言葉を聞いた時から意識し過ぎてずっと鼓動が早い。
居酒屋では見るからに酔っていて笑い上戸だったすばるが、外に出たら少し落ち着いてしまったこともまた緊張を煽る。

二人で居るのは慣れているはずなのに。
そこに、深夜、家、酒、酔。このワードが並んだだけで変に意識してしまうようになったのは、もう何年も前のこと。

『お前彼氏居るん?』
「...い、いない、」
『へぇ、そうなんや』

ドキリとした。急にそんな話題を振るから。しかも聞いたくせに反応が薄い。

「...すばるは?」

...やばい。沈黙が流れたから、思わず軽々しく聞いてしまった。聞くつもりなんてなかったのに、うっかり聞いちゃった。

『...2年?くらい居れへんのちゃう?覚えてへんなぁ...』

ほっとした。多分、すばるがそう言うならそうなんだろう。仲間と一緒でも二人でも何度か会っていたし、すばるのそういう話は確かに最近聞いていない。

『#name1#は?』
「3年、くらいかな」
『一人がええの?』
「...そういうわけじゃないけど」

そういうわけじゃないけど、すばるが好きだからずっと一人。付き合えるとは思ってないけれど、すばる以外の人を思い浮かべてみると、キスも出来ない気がする。

『俺もやわぁ』
「...だから、そういうわけじゃないよ?聞いてる?」
『あれやろ?めんどくさいねんな』
「...んー、や、...まぁ、...なんだろ、」
『...わっかるわぁ。出会って一から始めんの、しんどいねん』
「...それって終わってない?」
『終わってるてどゆことやねん。そんな性格やねんもん』

面倒臭いなんて言われたら、それこそどうしようもない。安心ではあるけれど、自分に対しても同じということだから。

少し前を歩いていたすばるが、立ち止まって足元の石ころを蹴飛ばし、私の横に並んだ。ちらりとすばるを見たら、俯いて笑っている。...覚めたかと思ったけれど、まだ結構酔ってるのかもしれない。いつもよりヘラヘラしてる気がする。

『なぁ、ムラムラとかせぇへんの?するやろ』

ニヤニヤとしながら私に顔を向けたすばるに動揺して思わず目を逸らしたけれど、動揺を悟られるのが嫌で、なんでもない振りをしてまた目を合わせた。

「...普通さ、そういうこと聞く?」
『聞くやろぉ。友達やねんから』

友達、だけども。そんな類の話をすばるにされるのは、やっぱり抵抗がある。すばるはどうしているんだろうとは思ったこともあるけれど、無理。聞けない。すばるのそういう事情は聞きたくない。

「......いや、普通聞かな」
『そんなに彼氏居れへんと、蜘蛛の巣とか張ってもうてんちゃうの』
「ちょ、!」

酔ってるからってなんてこと言うの!恥ずかしくて死にそうなんだけど!
私の表情を見て、口元に手を当てすばるが含み笑いしている。

『冗談やろ』
「当たり前でしょ!」
『心配したったんやないか』
「...心配してくれなくたって、」

言いかけて顔を上げたら、すばるがじっと私を見ていたから止まった。笑っていなかったからちょっとドキリとして尻すぼみになってしまった。

『居んの?...そういうやつ』
「...いないよ」
『居るような言い方やったやろ』
「違うよ」
『そうなん』
「...そろそろちゃんと見つける、ってこと...」

何度か頷いたすばるが目の前の建物を指差す。ついに来てしまった。すばるのマンションは初めてだ。再び心臓が早鐘を打ち始める。
ロックを解除した自動ドアの先のエレベーターのボタンを押したすばるが振り返って少し笑いながら私を見る。

「...なによ」
『緊張してるやろ』

思いもよらない言葉に動揺したけれど、「何言ってんの」と言って目を逸らし階数表示を見つめた。
この静かな空間が嫌だ。エレベーターに乗っても部屋に行ってもこれが続くのかと思うと先が思いやられる。

『無理に見つけんでもええんちゃうの』

何の話かと考えたけれど、ほんの数分前にした会話の続きだとすぐに理解した。
「...そうだね」と言いながら扉が開いたエレベーターに乗り込む。また居心地の悪い沈黙が訪れて俯きバッグを弄っていると、到着を知らせる音と共に扉が開いた。
顔を上げるとすばるが口の端を上げて私を見ている。

『俺が抱いたるやん』

今なんて?と思っているうちに手を掴まれてエレベーターを降りた。解けないほど強く掴まれているわけではないのに、手を離せなかった。
ドアの前で止まったすばるが鍵を差し込み私の手を離した。

『なぁ』
「...はい」
『口説いてんねんで』
「えっ」
『どうすんねや』

どうするって、どうしたらいいんだろう。すばるはどういうつもりでそんなことを言うんだろう。本気なんだろうか。
試すみたいに少し笑いながら言われたら、わからない。

『入ったら友達では居れへんで。...わかるやろ』

急に真顔になったすばるが玄関のドアを開け一歩部屋へ入る。
ドクドクと激しく脈打って、全身が心臓になったようにその音が耳に響いていた。

『...帰るか?』

ちょっと待ってよ。ちゃんと言ってくれなきゃ、わかんない。そんなの狡い。

『泊まってくんか?』

真っ直ぐに見つめるすばるのその目は痛い程に強い。

「......待っ、」

腕を掴まれ部屋へ引き入れられた。閉まったドアに押し付けられ始まった性急なキスで、もうごちゃごちゃと考えるのはやめた。

『...誰が帰らすか』

痛いくらいに強く抱き締めるその腕と、私を見つめるその強い瞳が、いとも簡単にボーダーラインを越えさせた。
すばるの震えるような吐息を感じながら唇を開いて愛を囁くと、照れ隠しに呼吸も出来ない程の甘いキスが返ってきた。


End.