会社を出れたのは定時を当に過ぎた時間だった。突き刺さるような冷たい風がマフラーで隠しきれない頬と鼻に当たって痛い。お気に入りのヒールも足が浮腫んで小指のあたりが痛い。パソコンと長時間睨めっこしていた目が痛い。もう、疲れた。早く帰りたい。ああでも、帰ってから着替えてお風呂に入って…その前にお風呂洗って溜めなくちゃ。夕飯も作らないといけないけど、生憎冷蔵庫には無いもない。だけど、買い物をして帰る元気もない。
 止まりそうになる足を何とか動かして帰路に着く。アパートの階段を、やっとの思いで上りきる。鞄から鍵を出すのにも今日は手間取ってしまった。かちゃり、鍵穴に挿し込んだそれを回した時の軽い感触に首を傾げた。開いてる。あれ、朝鍵し忘れちゃったのかな。思い出せない。ぼんやりしたままドアを開けると大きな靴が私のサンダルの隣に並んでいるのを視界に捉えた。あれ、今日来るって言ってたかな。また首を傾げた私に明るい声が降ってきた。


「おかえり〜」

 遅かったねえ、と手を出して私の持つ鞄を攫っていった男は、寒さで真っ赤になった私の鼻をつまんで笑った。

「あはは、真っ赤」

 寒かった?今ね、お風呂溜まったところだよ。先に入る?ご飯は買ってきちゃった。スープは作ったよ、卵入ってるやつ。彼の口からどんどん出てくる言葉をうまく処理できなかったので、うん、とひとつだけ頷く。にこにこ笑いながら、私の首に巻かれたアクアブルーのマフラーをぐるぐると剥ぎ取った悟は前髪をかき分けて唇を落とした。


「おでこまで冷えてる。早く中入っておいで」




 リビングは暖かかった。いつ悟は来たんだろう。こんなに部屋が暖まってるって事は、結構前から居たのかな。

 はい、と差し出されたマグカップを受け取りながら、私はようやく口を開いた。

「きょう、約束してたっけ」

 ただいま、とか来てくれたんだね嬉しい、とかそんな可愛い言葉は出てこなかった。しかも疲れ果てた私の表情筋は死んでいる為、余計に可愛くない質問になってしまった。そんな事も全く気にする様子はなく、悟は冷たい私の頬を両手で挟んで感触を確かめるように、むにむにと動かしている。


「うーん、今日は早く終わったからね」


 悟は教師をやっている、らしい。というのも私は悟が教鞭を振るっている宗教系の学校である高専とやらをよく知らない。どう考えてもいま目の前にいる男が教師には見えないし、何かの宗教を信仰しているようにも到底見えなかった。本当のことは分からない。悟は何も言わないし、私も何も聞かなかった。気にならないと言ったら嘘になるけれど、この事について執拗に聞いたら悟はきっと居なくなってしまうんじゃないか、そう感じていた。怖かった。


 そう、とだけ返して湯気が立ち込めるマグカップに視線を落とした。中に入ってるのはココアだった。この前、悟が大袋があると興奮しながらスーパーのカゴに入れていたっけ。



「おいしい?」

 ひとくち含んだ私を覗き込むように視線を合わせた悟は、「うん」と頷いた私の返事に満足したのか、手を離してキッチンの方へと向かった。


「なんか食べる?」


 ああでもその前にお風呂の方がいいかな、そう言いながらもコンロに火をつけようとした悟の名前を呼んだ。

「なあに」
「ちょっとだけ、」

 そう言って手を伸ばすと悟は私のマフラーと同じ色の眼を嬉しそうに細めた。「甘えただね」長い足を動かして、直ぐに私を抱きしめに来た悟の香りが鼻をくすぐって、何故だか涙が出そうになった。


「おつかれさま」
「うん、」

 ぐりぐりと額を悟の胸の辺りに押し付ける。ふは、と笑われたのでゆるゆると顔を持ち上げて、少し上にある悟の顔を見つめる。晴れた日の空をそのまま閉じ込めたみたいな眼が綺麗だ。でもあまりにも綺麗なそれや、悟を構成する全てが私の心に少し、不安を植え付ける。違う世界にいる人みたいで、怖くなる。

 ぼんやりしたまま眺めていると悟が腰を折ってゆっくり顔を近づけて来たので、反射的に目を閉じた。
 何でも器用にこなしてしまう彼にしては珍しく、不器用に唇が押し付けられる。音もせず静かに離れていったそれに、少しだけ、寂しいと感じてしまった。


「さとる、」

 口から出た声は思ったよりも掠れていて、甘ったるい。私を視界に捉えた悟は眉を困ったように寄せて、私の名前を呼んだ。

「そんな顔されると、たまらなくなる」

 そんな顔ってどんな顔なの。どうして困った顔するの。私はもういいから、たまらなくなってよ。

 言いたいことは次々と出てきたが、私の口から滑り出たのは「すき」の2文字だった。

「ずるいね、ナマエ」

 今度こそ、たまらなくなって我慢できなくなったらしい悟が私の頬をするりと撫でる。そうしてそのまま、今度は深く口付けされた。くっつけて、離して、またくっつけて。酸素を求めて薄く開いた唇から、悟の舌が入ってきてしつこく私のそれを絡めとる。今まで何度もそうしてきた行為は、何度も私の心を温かくて柔らかな場所へと連れていってくれた。



 悟が本当はどんな仕事をしているのか私は知らないし、知る術もない。ずっと、悟はどこか違う世界にいるような気がしていた。だからこうやって、彼が手を伸ばせば触れられる距離にいる事、抱き締めて体温を感じられる事に涙が出る程安堵する。どうか私を置いていかないで、側にいさせて。祈るような気持ちで彼の首へと腕を回した。



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title by エナメル
非術師の女の子と五条。
Oyasumi
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