酷い現場だった。
 どんなに惨い死体も見慣れていた筈だったが、今回はどうにも気持ちの折り合いがつけられなかった。
 重たい足を引きずり部屋のドアを開け、中へと入る。靴も脱がず電気も付けることなく、壁へ体を預けて溜息をついてそのままずるずると壁伝いに脱力して床へと座り込んだ。一度座り込んでしまったらもう、立ち上がる気力はひとつも残っていなかった。それくらい、精神的に参ってしまっていた。

 この前購入したブラウンのアイシャドウがのった目を閉じると、嫌でも先程の事を思い出してしまう。呪いによって姿形を変えられてしまった小さな子供。頭は半分抉り取られて口元は歪んでいた。おそらく死ぬ直前泣き叫んでいたんだろう。それを想像するだけで心臓が張り裂けるようだった。すぐ側にいた呪霊は大きく裂けた口でニタニタと笑っていて、それを視界に捉えた瞬間沸いた、爆発的な怒りの感情のままに祓った。後になって考えれば、もっと苦しませながら殺せば良かったと思った。

 どの被害者にも感情が揺さぶられないと言ったら嘘になるが、まだ未来ある小さな子供を見てしまうとどうしてもやるせない気持ちになる。



 固く目を閉じても、奥歯を噛み締めても堪えきれない涙がとうとう頬を伝って、ぱたりと真っ黒な服の上に落ちた。


「、っ…」

 一度流れてしまえば引っ込める術は分からない。堪えるのを諦めた途端に涙が溢れ出てきた。

 ーーもう少し、早く着いていれば変わってたかもしれない。そんなどうしようもない後悔ばかりが頭に浮かんでいく。

 投げ出していた膝を引き寄せて両腕で抱え込んでいると、すぐ横のドアノブがガチャリと音を立てた。


「物騒だなあ鍵してないじゃ、ん…ナマエ?」

 こんな所で何してるの、続けられた声に答えることなく、抱えていた膝をもう一度自分の方へと引き寄せた。悪戯が見つかってしまった子供のように、身体を小さく丸める。

 突然来訪した五条は、何の反応も無い私に対して特段何を言うわけでもなく、白くて大きな手を私の頭へと乗せた。外から来たにも関わらず温かい五条の掌の温度がじんわりと伝わってきて、それだけで胸が苦しくなった。


「冷えるよ」
「おいで」

 初めから返事を期待してないのか、五条は私が口を開く前に背中と膝裏にするりと腕を回して簡単に抱き上げてしまった。
 所謂お姫様抱っこの状態でリビングへと足を進める五条の首にぎゅっとしがみつき、顔を埋めてぐりぐりと押し付ける。「犬みたい」すぐ近くの喉を震わせて五条は笑った。

 扉を開けてリビングに着いたが電気を付けないままで居てくれるのは、五条なりの配慮なのだろう。いつも揶揄うくせに、こういう時は驚く程優しく扱ってくれる五条に少しだけ戸惑ってしまう。小さな丸いダイニングテーブルと合わせて買った椅子にゆっくりと座らせられるが、私は五条の首に腕を回したままだ。膝裏を抱えていた手が今度は私の背中をさする。柔く撫でる手付きは、赤ちゃんをあやしているみたいだった。


「伊地知に聞いたよ」


 何が、とは言わなかった。分かって来てくれて、こうやって優しくしてくれる彼に申し訳なさと恥ずかしさと、嬉しさが込み上げた。
 五条の首に顔を埋め、また流れてくる涙をそのままに、骨張った肩へと押し付ける。肩口の所、すごく濡れてしまいそうだ。



「こんなになるなら僕としては呪術師辞めて家にいて欲しいんだけどなあ。僕の帰りを待っててよ」


 何時ものように軽薄さを含ませて、五条が本音を口にした。真偽は分からないが、これは何年にもわたって言われ続けているから、きっと心の奥ではそう感じているんだろう。そして私達は、次に出てくる言葉もよく知っている。私が言い続けている言葉だ。


「…辞めない」

 絞るように出した声は随分と掠れていたが、五条にはしっかり聞こえたらしい。「やっと返事した」笑いながら息を吐いた五条は、私の頭に置いた手をぐしゃぐしゃと動かした。



「泣くのはいいけど一人で泣くなよな、何のために僕がいると思ってんの」
 

 頼れよ、と少し乱暴な口調で話す五条の顔は、抱きしめられているから見えないけれど子供っぽく不貞腐れてるんだろうな。


「悟」
「んー?」
「…やっぱ何でもない」

 ありがとうと口に出すのが何となく恥ずかしくてやめた。その代わりに五条の首に回している手の力を強くした。


「どういたしまして」

 言葉にしなくても分かったのか、穏やかに笑いながら返事をした五条に、回した腕の力を更にぎゅっと込めて抱きしめる。それに応えるように五条も私の背中に回した手を引き寄せてくれた。

 強がりで意地っ張りでなかなか素直に言葉にできないけれど、こうやって抱きしめて気持ちが伝わるならそれでいいかなと思ってしまう。どんなに辛い事があっても優しく甘やかしてくれるこの腕の中に帰って来れるなら、もう少し頑張れる気がした。



Oyasumi
eyes