※現パロ



 当直明けの重たい身体を引きずり、やっとの思いで新居へとたどり着く。未だ段ボールの積まれた部屋でひとまず寝ようと目を閉じてみたものの、カーテンも付けていない中では深い眠りにはつけない。結局、陽の光の眩しさで目を覚ましてしまった。
 頭はぼんやりしているが、眠れていない割に気分は良かった。昨日から一食もとっていないお腹が盛大に音を立てた所で、たまには外で食事でも摂ろうかと財布と家の鍵を手に玄関の扉を開ける。普段はそんな気分にはならないが、新居へと来た事で少し浮き足立っていたのかもしれない。まあそんな浮いた足も、玄関を一歩出た瞬間に地面へとめり込んでしまったけれど。

「最悪」

 清々しい気持ちで玄関を出たというのに、隣の部屋から丁度出てきた男はよく見知った顔だった為、私の気分は急降下した。やっとこあり付ける昼食を救急搬送やヘリ要請により食べられなくなった時の方が何倍もマシだ。

 整った顔立ちにすらりと伸びた身長、それに見合った長い脚。黙っていれば良い男なんだろうが、性格はクソだ。口が悪いかもしれないけれど、もう一度言おう。クソだ。

「こっちの台詞だ」

 私の声に不快感を表した男はガチャリと部屋の鍵をしめた。ということはこいつ、やはりこの部屋の住人か。つまり私の隣人はこの最低男という事なのか。最悪だ。何度も言おう、最悪だ。
 鍵穴から抜いた鍵をポケットに仕舞った男、トラファルガー・ローは私の顔を見て少し驚いたような表情を見せた後、深い息を吐いた。ふざけんな、こっちの行動だよそりゃあ。


「ガタガタうるせェと思ったら、引っ越してきたのはお前だったのか」
「…悪かったわね!」

 トラファルガーは私と同じ病院で働く外科医である。私はそこの救命医として働いているのでトラファルガーと関わる事は少ないのだが、なんの因果かこの男とは大学の同期でもあるので、昔から顔見知りである。そして私とトラファルガーは仲が悪い。病院の関係者に聞けば、全員がそう言うだろう。顔を合わせれば言い争いになる、いや一方的にあいつが突っ掛かってくるだけなんだけど。いや私もそれに負けじと言い返しちゃうからいけないんだろうけど。わかってるんだけど。

 そんな男と心機一転新しく引っ越してきたマンションが同じ、しかも隣同士という事が今し方判明してしまったのである。最悪だ。



「大体なんであんたがここに住んでるのよ」
「お前が後から引っ越してきたんだろうが」
「知らなかったの、知ってたら死んでも同じマンションになんか住まないっつーの」
「相変わらず可愛くねェな」
「あんたに可愛いだなんて思われたくありませーん」

 そう言って舌を出すとやれやれといった様子で溜息を吐かれた。なんであんたがちょっと上の立場みたいな態度なんだよ、腹立つ。小さい財布を手にした私は新しい部屋の玄関前で項垂れた。折角病院から近くて間取りも完璧な部屋に出会えたというのに、隣に住んでる男がこいつじゃあ全てがパーだ。引っ越し初日から早速次の部屋への引っ越しを考えなくてはならないのか?いやいや折角の良い部屋、この男の為に引っ越すのもそれはそれで腹が立つ。なんか負けた気分。そんなの絶対に嫌だ。


「お前料理得意か?」
「…は?」

 項垂れた私に横から声がかかった。トラファルガーの口から出された、病院では聞き慣れないワードに疑問符を浮かべる。料理なんて殆どした事ありませんけど。正直、包丁握るよりもメス握っていたほうが落ち着く人種だ。女らしさの欠片もないと言われればそれまでだが、医者の鑑とも言えるだろう。というより今はスマホで頼めば家まで届けてくれる良いサービスが充実しているのだ。わざわざ疲れ果てた身体で自分の為だけに料理なんてするもんか。
 私の表情から何かを読み取ったトラファルガーは「作れそうにねェなお前」と失礼な事をボヤきながら「飯行くぞ」と歩き出した。は?何言ってんだこいつ。

「え、ちょっと待ってよ何?一緒に行くの?」

 思わず聞き返した私にトラファルガーは何言ってんだお前、という顔をした。むかつく。

「当たり前だろ」

 何が当たり前なんだよ、むかつく。


△▼△


「…なんなの」
「見りゃ分かるだろ定食屋だ」
「いや分かるけどそうじゃない」

 なんでこんな所で私は当直明けの疲れ果てた体に鞭打ってトラファルガーなんかとご飯食べてるんだ。このアジフライ定食すごい美味しい。

「そうじゃなくて!」
「うるせェな、静かに食えよ」

 なんであんたは落ち着いてるんだ、苛立ちながらも目の前に座る男の綺麗な箸遣いに目を見張った。トラファルガーは見た目や言葉遣いに反して、食べている時の所作がとても綺麗だ。そういえば育ちのいい坊ちゃんだったか。そう思いながら魚を口に運ぼうとすると、トラファルガーの手が伸びてきた。

「一口寄越せ」
「、はっ?!」

 そのままトラファルガーが持つ箸が私のアジフライを一口分攫っていった。何こいつ、なんでこんなこと平気でやってのけるわけ。当直明けのぼんやりした頭が混乱に混乱を重ね、もう正常には機能していない。何にも考えられないので諦めて目の前の美味しいご飯に集中する事にした。

「美味いな、これも食うか?」
「もうあんた喋らないで」



△▼△

 何だかんだで食事を堪能し、満たされたお腹にほくほくした気分になりながらトラファルガーの隣を並んで歩いた。もう何も考えるまい。
 昼間とは言え冬の空気は刺すように冷たかった。トラファルガーが着ているムートンジャケットが羨ましい。首までもこもこして暖かそうだった。思い返すとこの男、昔からもこもこしたものが好きだったような気がする。顔に似合わずもふもふの動物とかを愛でているのかもしれない。愛でているトラファルガーなんて想像したくないけれど。

 真っ黒なマフラーを巻き直して白い息を吐いた。寒い。だけどどことなく心は暖かくて、久しぶりにちゃんとした食事を摂ったからなのか、新居に引っ越して気持ちが入れ替わったのか、隣にトラファルガーがいるという事を入れても、気分が良い。
 そんな私を見て、隣の男が口元に柔らかく笑みを浮かべている事なんて露知らず、私は少し軽くなった足取りでマンションへと向かうのだった。


 まだ見慣れぬ住処に着き、無言のままエレベーターに乗り込む。珍しい事だった。顔を見合わせても言い争いにならない時間をこいつと過ごすことになろうとは。
 部屋の前まで来て、じゃあなと口にしたトラファルガーを見送ろうとして、思わず待ったをかけた。

「あ、まって」
「なんだ」

 ポケットから鍵を取り出したトラファルガーは少し怪訝そうにこちらを見た。寒さのせいか鼻の頭が少しだけ、赤くなっていた。


「なんでご飯誘ってきたの」

 少なくとも今までの態度からすると、一緒に食事なんて摂るような仲ではなかったのだ。いくら部屋が隣になってしまったからといって、態々誘ってくるような男じゃない筈なのに。
 疑問を口にした私にトラファルガーは、当たり前だろという顔をしてきた。本日二度目だ。なんだよ、腹立つなやっぱり。


「はァ?お前死にそうな顔してたじゃねェか、どうせ碌なもん食べてないんだろ」
「まあ、お前に実力が無いからオペにも時間がかかって無駄に疲れるんだろうな」


 いつもの様に100%の嫌味を口にした後、今度こそ「じゃあな」と言って隣の部屋へと入っていくトラファルガーの後ろ姿をぼんやりとしながら見送った。…なに?何言ってんだあいつは。碌なもん食べてないって、そりゃあそうだけれども。え?気を遣った?いやいや、そんな筈ない。だって最後に物凄く腹立つ事言ってたし。

「…なんなの」

 今日はとことんトラファルガーの言っている事が理解できそうにない。
 色々な事が重なって頭が痛くなってきた。部屋はまだまだ片付いていないが、幸い明日は休みだ。寝ればいくらかこのとっ散らかった頭と状況もマシになるかもしれない。混乱した頭の中は考えない事にして、淡い期待を胸に新しい部屋の扉を開けた。


Oyasumi
eyes