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2023/08/08 無題
敬称略
坂口安吾は物書き界の哲学餓鬼大将で、天邪鬼で、捻くれ者で、人をようく観察している様な文体の作品が多い。キレていて、私は好き。夏目漱石は良識的で協調性のある調和の取れた人物像が隠し切れない。大胆さに欠くとも云えるけれど、安心感のある端正な文体の作品である傾向に感じた。太宰治は不器用且つ他作家に愛されている人物という印象。実の所未だちゃんと読めたものは一つも無いので感想も無いけれど、切り抜きで好みだと思う事の多い作家。芥川龍之介の作品は難しい。太宰治と同じで未だちゃんと読めたものは無い。理解出来る日が来ると嬉しい。

こんな名だたる文豪達を語る資格無いけれども、心の底から、尊敬しています。

2023/05/29 文芸的な、余りに文芸的な 芥川龍之介
  一 「話」らしい話のない小説

 僕は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない。従つて「話」らしい話のない小説ばかり書けとも言はない。第一僕の小説も大抵は「話」を持つてゐる。デツサンのない画は成り立たない。それと丁度同じやうに小説は「話」の上に立つものである。(僕の「話」と云ふ意味は単に「物語」と云ふ意味ではない。)若もし厳密に云ふとすれば、全然「話」のない所には如何いかなる小説も成り立たないであらう。従つて僕は「話」のある小説にも勿論尊敬を表するものである。「ダフニとクロオと」の物語以来、あらゆる小説或は叙事詩が「話」の上に立つてゐる以上、誰か「話」のある小説に敬意を表せずにゐられるであらうか? 「マダム・ボヴアリイ」も「話」を持つてゐる。「戦争と平和」も「話」を持つてゐる。「赤と黒と」も「話」を持つてゐる。……
 しかし或小説の価値を定めるものは決して「話」の長短ではない。況いはんや話の奇抜であるか奇抜でないかと云ふことは評価の埒外らちぐわいにある筈はずである。(谷崎潤一郎は人も知る通り、奇抜な「話」の上に立つた多数の小説の作者である。その又奇抜な「話」の上に立つた同氏の小説の何篇かは恐らくは百代の後にも残るであらう。しかしそれは必しも「話」の奇抜であるかどうかに生命を託してゐるのではない。)更に進んで考へれば、「話」らしい話の有無うむさへもかう云ふ問題には没交渉である。僕は前にも言つたやうに「話」のない小説を、――或は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない。しかしかう云ふ小説も存在し得ると思ふのである。
「話」らしい話のない小説は勿論唯ただ身辺雑事を描いただけの小説ではない。それはあらゆる小説中、最も詩に近い小説である。しかも散文詩などと呼ばれるものよりも遙はるかに小説に近いものである。僕は三度繰り返せば、この「話」のない小説を最上のものとは思つてゐない。が、若し「純粋な」と云ふ点から見れば、――通俗的興味のないと云ふ点から見れば、最も純粋な小説である。もう一度画を例に引けば、デツサンのない画は成り立たない。(カンデインスキイの「即興」などと題する数枚の画は例外である。)しかしデツサンよりも色彩に生命を託した画は成り立つてゐる。幸ひにも日本へ渡つて来た何枚かのセザンヌの画は明らかにこの事実を証明するのであらう。僕はかう云ふ画に近い小説に興味を持つてゐるのである。

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