マンフレートには十数年もの間、ずっと忘れられない人がいる。温かくて優しくてとびきり可愛い人だ。
マンフレートはその人に一生分の恩を受けた。だからその人に全身全霊で報いたいと思い再び会いに行くことにした。
しかし件の恩人がいた島はどうやっても見つけることができず、近隣の島も探してみたが恩人に会うことはできなかった。それならばとマンフレートはフリーターをしながら海を渡って各地を彷徨って探しはじめたのだ。
そう語ると大抵の人間は「諦めた方が良い」「お前の妄想ではないか」と口にする。この広い世界で大した手がかりもなく、たった一人を見つけることがいかに難しいことか、そんなことは身に沁みて分かっている。
底意地の悪い奴には「既に死んでいるだろう」とすら言われたことがある。その時はうっかり相手の鼻面に全体重を乗せて拳を叩き込んでしまったが、特に反省も後悔もしていない。それどころかその出来事はすぐに記憶の遥か彼方へ捨ててしまって覚えてすらいない。
とにもかくにもマンフレートはそれくらいその人の記憶を己の宝として大切にしていた。再会する日を何度も何度も夢に見た。

——だからすぐに直感したのだ。戦場の真っ只中に降りてきた女こそが、己の探し続けたその人なのだと。

擦り切れるほど思い出した記憶と同じ、華やかなピンク色の髪にぱっちりとした瞳。その瞳の上の眉尻は愛嬌のあるカーブを描いている。とびきり可愛い少女は今やとびきり美しい女へと成長していた。
どうやって話しかけるべきか、何と言って話しかけるべきか、未だ戦いの中にあるにも関わらずマンフレートは真剣に考え込んでいた。

「ジェ、ジェルマがこのまま引き上げるもんか!罠に決まってる!」

しかし反乱軍の兵士から上がったであろう言葉にそれを脳が認識するより早くマンフレートの身体は動いていた。最前線から女と向き合う位置へと更に進み出たのだ。
そのまま女を見つめると、相手もまたマンフレートを見上げた。口元は微笑みの形をたたえているが目はマンフレートを探るような色が伺える。突然目の前に出てきた敵側の兵士を見定めようとしているのだろう。
しばらくそうしていると女がマンフレートの背後を見やった。

「後ろのお仲間が慌ててるわよ。そこに立っていると危ないんじゃない?」
「まあ、そうだな。だがこの体格差だ、誰かがうっかり発砲してもあんたの盾くらいにはなるだろう」
「どういうつもり?」
「おれに敵意はない。ただ、その……」

背後から「そこから退いてくれ」だの「何考えてんだ」だのといった声がとんでくるが、全て無視だ。ジェルマの兵隊の静かさも引っかかるが今は置いておく。
そんなことよりも目の前のことの方が重大事である。結局、どう会話を切り出すかの考えもまとまらないまま、あろうことか女の真前に出てきてしまったのだ。
しかも既に少し会話を交わしてしまった。最初の会話は本当はもっと気の利いたことを言いたかったというのに。
マンフレートは落ち込みそうになる自分を押さえつけて、おそらく今までの人生で一番緊張しながら、深呼吸をした後、どうにか言葉を紡いだ。

「……あんたの名前を教えてほしい」
「………………」
「む、すまない。こういう時はこちらから名乗るものだな。おれの名はマンフレート、主に傭兵や護衛稼業で生計を立てている。24歳の独身で恋人もいない。両親は既に他界していて南の海に既婚の弟が一人——」

レイジュは目の前の男の意図を測りかねていた。ジェルマ軍を従える自分を潰すつもりで進み出たのかとも思ったが、全く戦意を見せない。むしろ言葉だけを拾えばレイジュに歩み寄ろうとしているようにも感じられる内容だ。
どうしたものかと一瞬悩むも、男に敵意がないと言うのならその言葉に乗らない手はない。
レイジュは無愛想なポーカーフェイスで未だ自己紹介を繰り広げる男の口元に自身の人差し指を近づけた。男は素直に口を閉ざすと切長の目を二、三瞬かせた後に小さく首を傾げる。レイジュからすると見上げるほどの大きな男だが、その小鳥のような動きはどこか愛嬌があるように思えた。
男が静かになったところで本題を切り出す。

「このまま引き上げたいのだけれど、協力してもらえる?」

マンフレートは名前を教えてもらえなかったことにいよいよ落ち込みかけたが、確かにこの場では落ち着いて世間話もできないと考え直した。それに恩人たる女の頼みを引き受けることの方が先決だ。
懐から無線用電伝虫を取り出し通信を繋げる。反乱軍全員に状況が伝わった方が手っ取り早くて良いと判断したからだ。女もマンフレートの意図を汲んだのかそのまま気にする様子もなく会話を続ける。

「ジェルマは敗北を許さない戦争屋だと思っていたが、そういうわけでもないんだな」
「私たちは金額に見合った働きをしているの。だけどこの国は勝つために必要な金額が出せなかった、それだけのことよ。それに依頼人がそちらの手に落ちたとなれば私たちの仕事は終わり、当然でしょう」
「それじゃあこのまま引き上げるんだな?」
「ええ、もちろん。でも攻撃を加えられたら反撃くらいさせてもらうわ。無駄な怪我は負いたくないもの」

レイジュの言葉に男は頷いた。これでこちら側ジェルマの意向は伝わっただろう。後は反乱軍の対応次第だ。
男は無線用電伝虫の受話器を自分の方に寄せると、堂々たる態度で宣言した。

「こちらマンフレート。これよりジェルマ軍の撤退完了までの監視にあたる」

マンフレートが言いたいだけ言って通信を切ると背後から喧しい声があがった。監視という言葉を使ったものの実質ジェルマの護衛をすると同義だからだ。多少の反発はあると予想していたので特に気にせずにおく。
それよりもこれで多少は女と落ち着いて会話ができるだろうとマンフレートは期待した。相手もそれに応えるようににこりと笑う。

「あなたの厚意に感謝するわ。私は先に船に戻るから、兵隊の監視はお願いね」

言葉の意味をマンフレートが理解するより早く、女は地面を蹴り空へ駆け上がった。そのまま船を着けた港があるであろう西へとあっという間に遠ざかって行く。
マンフレートが自分が体よく使われたということに気付いたのは女の姿がすっかり見えなくなってからのことだった。





ジェルマの兵隊たちは驚くほど"私"の部分を削ぎ落としている、というのがマンフレートの感想だ。交戦中はあえてそうしているのだろうと感じていたが、戦闘以外のところでもその傾向は顕著に見られた。

その場に残された兵隊たちは淡々と引き上げの準備をしはじめる。問題なく動ける兵隊は約半数で、残りは既に息をしていないか動けない程の怪我をしていた。
しかし動ける兵隊たちは己の怪我の手当てはしても誰も重傷者に手を貸す様子はない。それどころか何事もないように出発する素振りすら見せた。
マンフレートが負傷した兵隊はこのままで良いのかと尋ねると、さも当然と答えが返ってくる。

「我が軍では自力で帰還できない一般兵は捨て置くことになっている」
「ふむ、厳しい世界だな」

マンフレートは己こそが負傷させた当事者であることを棚にあげたまま呟く。負傷兵たちも置いていかれることに思うところはないようだ。
世界最恐の軍隊ともなるとこうなるものなのだろうかと考えながら、整然とした隊列を組んで移動しはじめた兵隊の後を追った。





反乱軍には情報が通っているのか誰も移動するジェルマ軍に突っかかってくることはなかった。敵意がないと宣言している集団に構うよりも、頭を切り落とされても未だ動いている尻尾への対応に忙しいのだろう。実際に無線用電伝虫からは国王と共に好き勝手やっていた某の姿が見当たらない、未だどこそこで交戦中などといった報告が上がってきている。
マンフレートは女の要望通り、スムーズにジェルマ軍の撤退が完了できそうだと安堵した。

兵隊の後に続いて港に到着するとそこには"巨大な何か"があった。マストが立てられ海に浮かび港に停泊しているので辛うじて船かと思われるが、巨大な巻貝のようなものの上に城が建てられているという異様な風体である。
しかしマンフレートの目を引いたのは、船上の城が長らく探し続けていた島に建てられていた城によく似ているという点だ。朧げに記憶にあるそれよりも小ぶりではあるが、堅牢な石造りの雰囲気は覚えがある。
粛々と兵隊たちが船だか城だか分からない巨大な乗り物に乗り込む傍で、マンフレートはぽかんと口を開けたまま見上げていた。

「本当にここまで連れてきたのね。あら?どうしたの、そんなに驚いた顔をして」

そこへ先に帰還していたであろう女が船の縁から顔を出す。マンフレートは慌てて開いたままになっていた口を閉じた。

「船に城が……いや、これは船……なのか?」
「船とも言えるし、ジェルマ王国の一部とも言える。ジェルマ王国は領土を持たない海遊国家なの」
「一部ということはこれが他にも何隻かあるのか」
「まさか、何十隻の規模よ」

予想外の規模に驚きつつマンフレートは再びジェルマの船を見回した。この城を積んだ巨大な船が何十と寄り集まれば島と勘違いする可能性もあるだろう。
己が探していた島の正体は、船の集合体だったというわけだ。島ごと消えた理由という、十数年来の謎が解けてマンフレートは思わずしみじみと頷いた。

『マンフレート殿!マンフレート殿!どちらにいますか!!』

不意に無線用電伝虫がこちらを名指しで叫びはじめた。マンフレートの出産祝いの相談に乗ったあの青年兵士の声だ。

「こちらマンフレート。現在は西の港だ」
『やっぱり!今すぐそこから退避してください。港から北東にある砲台が発射体勢に入ってるんです!』

マンフレートが確認するために北東に顔を向けるとレンガ組みの塔の上に設置された3基の大砲がこちらを向いていた。多少距離はあるが大砲そのものの大きさや角度からすると十分に港は射程範囲内に入るだろう。
未だわあわあと騒ぐ電伝虫に一言礼を述べてから通信を切る。ジェルマの船を振り仰ぐと女と目が合った。

「何かトラブル?」
「少し野暮用がな。あんたたちの出航準備は出来たか?」
「心配しなくてももう発つわ」
「じゃあ最後に一つ。まだあんたの名前を聞いてない」
「……"ポイズンピンク"よ。機会があればまたね、"渡り鳥"さん」

女が船の縁から姿を消したのでいよいよ船が出るのだろう。もしこのタイミングで砲弾が飛んでくれば女が怪我をしたり出航の妨げになったりするのは間違いない。絶対に阻止しなければ。
マンフレートは不慣れなスキップをしながら北東に見える塔へ足を向けた。





塔の頂上へたどり着くと国王軍の制服を着た男たち数名が今まさに大砲に火をつけようとしていた。マンフレートは火種をブーツの底で踏み消して、騒ぐ男たち全員を手早く制圧する。その中の制服にやたらと勲章をつけた男が「ジェルマの裏切り者」などと罵っているので手刀で静かにさせる。

「こちらマンフレート。手配中の軍務大臣を見つけた」

無線用電伝虫に話しかけながら港の方を見やる。巨大な城を乗せた奇妙な船は、既に海の彼方で点となっていた。