「『海の戦士ソラ』という物語を知っていますか?」

一部崩れてはいるものの立派な本棚の前でマンフレートに尋ねたのは件の青年兵士だ。本などろくに読んだことのないマンフレートはすぐに首を横に振った。納得したような反応をして本棚から一冊の本を抜き取った青年はそれを手渡す。

「新聞で連載されていたヒーロー物語で、内容としては主人公が特殊な力や合体ロボットを駆使して悪の軍団をやっつけるっていうよくある話です。北の海では大人気で、俺たちの世代は皆はまってました。その物語に出てくる悪の軍団の名前が"ジェルマ"……つまりジェルマ66をモデルにした悪役なんです」
「ジェルマが出てくるのか」
「そうなんです。今回ジェルマを見てびっくりしましたよ。物語に出てくる姿そっくりでしたから」

マンフレートは渡された本をまじまじと見た。表紙からして子供向けと分かる作りで捲ってみると中のページには文と絵がバランスよく並んでいる。
ほとんどがロボットや主人公の絵だったが、時々見覚えのある揃いのマスクを被った兵隊たちが絵の端の方に描かれていた。これが作中のジェルマ軍の兵隊なのだろう。実物とよく似ていた。

「その本、ジェルマ撃退記念に差し上げます」
「向こうが自主的に引き上げただけで撃退はしてないぞ」
「まあまあ、細かいことは言わずに」

北の海の小国で行われていた紛争は最終的に反乱軍の勝利で終わった。元国王や元軍務大臣、その他元国王軍の中心人物たちは全員捕まり、兵士たちは反乱軍の監視の元で国の再建作業に奉仕させられている。先日反乱軍が亡命させた非戦闘員たちも数日のうちに戻ってくるらしい。

マンフレートは紛争の後処理の最中に青年と約束した通り子供向けの本を選んでもらっていた。しかしこの国の状況では本屋も開業しておらず、それならばと青年の住居に案内されたのだ。街や住居自体には紛争の爪痕が見られたものの、頑丈な作りの本棚は青年の集めた本の大半をしっかりと守り通していた。

「後は……これとこれとこれ、これも!甥っ子さんか姪っ子さんが成長したら読んであげてください」
「だがこの本、あんたが大切にしてきたもんだろう。せっかく戦火から免れて手元に残ったのに良いのか?」

青年は本棚から数冊の絵本や小説を抜き取りマンフレートに渡すと晴れやかに笑う。平和を享受できることに安堵している顔だった。

「もちろんです。俺がこうしてここに立っていられるのもマンフレート殿が最後まで力を貸してくれたおかげですから」





マンフレートは活字を読むという行為とは縁遠い人生を歩んできた。進んで読む文章といったら弟とその嫁が送ってくる手紙くらいのものである。新聞の一面すら読んだとしても流し読みで済ます程だ。
そんないかにも脳筋人間であるから、例え子供向けの物語とはいえ小説を読むのは一苦労だった。続かない集中力に四苦八苦しながら読むのは青年から譲り受けた『海の戦士ソラ』だ。そこまでしてこの本を開いた理由は、単に「実在のジェルマとそっくりの悪役」という説明に興味が湧いたからである。

作中のジェルマ66は世界の平和を乱すために色々策を弄するも結局は主人公と合体ロボットにやっつけられてしまうという立ち位置である。そんな悲しき悪の軍団の幹部の一人に"ポイズンピンク"は存在した。毒を使った技を繰り出すジェルマ66の紅一点で、他の幹部たちと同様に狡猾で無慈悲なキャラクターだ。

——名前まで一緒なのか。

マンフレートはこの出来すぎた偶然に違和感を抱くこともないまま、実在する方のジェルマのポイズンピンクを思い浮かべる。
狡猾で無慈悲という表現は己の記憶にある少女の印象とは似ても似つかないものだった。少女から掛けられた言葉は優しく、触れる手つきは常に丁寧で、自分との別れを惜しんでくれた人。少女がマンフレートに優しくして得られるものなど何もなく、あの時与えられた優しさは純然たる善意であったのは間違いない。
しかし、人間は成長と共に変化するし、相対する人間によっても態度を変える。今の彼女は、そして今の己に対する彼女はどうなのだろうか。
マンフレートは一時間にも満たない彼女との邂逅を振り返り、己が実在のポイズンピンクを判断するにはあまりにも本人のことを知らないという結論に辿り着く。

「直接知らなければ意味がないな」

活字を追うのを止めて手の中の本をぱたりと閉じた。
それに今のポイズンピンクが例え本当に狡猾で無慈悲な女であっても、マンフレートが恩を受けた事実は変わることはない。まだ直接、礼も述べられていない上に恩返しもできていないのだから。

探すべき島と人の名前は既に手元にある。今までの放浪の日々に比べれば、地道に追い続けるのは容易いことだ。
一般的にそういった行為はストーカーと称されるのだが、もちろんマンフレートがその事に思い至るわけもなく意気揚々と小国を後にするのだった。