見渡す限り青々と田畑の広がるこの一帯は、夜になると、遙か彼方を覆い尽くす漆黒に煌めく銀の星が、きらきらと瞬いているのがよく見える。

 それというのも、ショッピングモールはともかくこの村で唯一日常品を扱っているスーパーに、媼がたった一人で営んでいる八百屋、それから錆びた看板の立てかけてあるコインランドリーに、昼間でも休業の札が屡々かかっている煙草屋という、ごく僅かな店屋の明かりは当然ながら消えている。街頭も、最低限のみなのだ。
 しかるに、こんな時間に外を出歩こうものなら、懐中電灯を頼りにでもしなければ足許も覚束なくなるくらい、無駄な明かりがないのだ。
 おまけに農村の夜は長い。零時を過ぎれば、大抵の家の明かりは消えて、人間は疎か獣だって寝静まる。

 そんな、鬼でも出るのではないかといったような静寂な夜の帳の中でも、耳を澄ませば、ひそひそと囁き合う者達の声が、ほんの微かに聞こえてくる。

 件の家屋は、緑豊かなこの土地の中でも飛び抜けて肥沃な農園に、隣接していた。

 その佇まいは昔ながらの純和風なもので、古色のついた瓦葺きの屋根に木材をコンクリートで固めた壁が、極めて昔ながらの趣を醸す要素の一つとなっていた。

 一人の少女と一人の女は、窓もない、鍵も壊れた母屋にいた。

 家屋の隣にちょこんと構えてあるそこは、昼間は倉庫として機能している。穫れたての果物やら野菜やらの入った木箱が、天井に届く寸でのところにまで積み上げてあって、小さなものから大きなものまで、あらゆる農作業具が置いてある。

 もっとも二人の乙女らが、こんな深夜にこんな母屋に訪ねてきたのは、仕事をするためではない。

 少女と女はこの世にたった二人きり、家族は無論、神棚に祀ってある人ならざる存在さえ見咎められなかろう闇夜に潜んで、互いの全てを曝し出そうとしている最中だった。

 「さぁ、…──。こっちへいらっしゃい」

 少女が女の海の如く澄んだ碧さを聯想する声に呼ばれて、従順な愛玩動物の如く、仕える主(あるじ)の足許に跪く。

 女の腕が少女に伸びていく。
 そして女の白く悩ましげな指先が、少女の淡い色をした寝間着の襟元に辿り着けば、それは今度は、ぱっと見おぼこいような肢体を包み込んでいた薄布のボタンを外しにかかる。

 「いけません。お義姉様、お母さん達が……起きてしまいます……」

 「そうしたら、あの人達に、一緒に謝ってあげましょうね」

 「ちょっ、あ…──っ、……」

 「貴女は、私が呼べばここに来る。それは、貴女も私と同じ気持ちだからでしょ?」

 女の形の良い目許が、ともすればいにしえの遊女を品定めする富豪の生まれ変わりのそれの如く、気高く卑しいような光を湛えて、少女をじっと凝視する。

 少女は寝間着を剥がれると、一糸まとわぬ姿になった。

 少女は今にも泣き出しそうな顔をして、せめてもと言わんばかりに腕で身体を隠そうと試みる。が、そんな抵抗は何の意味もなさない。

 女の指先が少女の顎をつつと伝って、鎖骨を暫し彷徨った後、小ぶりな右胸を鷲掴みにした。それから、そのぷっくり膨らんだ先端を、指の腹で撫で回す。

 「ほぉら。ここ、もう硬い。私の大事な義妹ちゃん?貴女が私の呼び出しに応じてここに来るのは、こうして見られていじられること、期待しているからではないかしら」

 「そんな、ことぉ……ありません……。お義姉様!こんな……誰かに知られたら……」

 「言いつけ通り、今日は一日、下着をつけないで過ごした?」

 「は、い……」

 「そう。…──それでおねしょをしたのねぇ。はしたない子」

 「…──!!」

 少女の顔が、みるみる紅く染まってゆく。否、そのあどけない妖精の姿を模したマリオネットは、既に身体中を火照らせていたのではないか。

 「昼に自慰は?」

 「サークルの、集まりがあって……」

 「どんな風だったか報告なさいと、昨夜言わなかったかしら?」

 「はい、えと……」

 女の目が一種の加虐的な鋭い煌めきを帯びていく。それに比例して、少女の肩やら声やらも、萎れた花の如く小さく縮こまってゆく。

 もっとも、女の少女を厳めしく見つめていた目は、すぐに和らいでいった。

 「そんな顔をしないで、──…」

 「お義姉様……」

 「仔兎ちゃんが言いつけを守れないのは、飼い主の躾がなっていない証拠なの。だから、貴女が私に逆らうなら、私に否があるということ」

 女が後方に積んである果物を盛った木箱の隙間に手を差し入れて、今夜持ち込んできた物を引き抜く。

 少女が女の手許を確かめる。

 その瞬間、少女の透き通るように白い素肌をしたかんばせが、ぱっと青ざめた。

 「さぁ、この赤いロープを、貴女に綺麗に結んであげる。貴女のだぁい好きな……お仕置きの時間よ……」

 女が少女の真ん前に跪く。そして、瑞々しいほどの生気を漲らせながらもぐったりとした肢体に縄をかけて、慣れた手つきで見事な拘束を施してゆく。

 女は、少女が小さく震えているのを心ゆくまで眺めながら、作業を進める間にも、小さな耳に息を吹きかけたり、あたたかな血肉をくるんだ柔肌の質感を楽しんだり、愛おしすぎるはしためを、思うがままに扱う。

 やがて女は、宙づりになった少女の側にすっくと立つ。その手に、使い古した調教用の鞭を携えていた。

 「お義姉様……許して……痛いのは、怖いです……」

 「私のこと、好きではないの?」

 「──……」

 女が、俯く少女の身体をめがけて鞭を振り上げる。

 小気味良い音が母屋を響き渡って、涙で濁った少女の悲鳴は、やがて官能的な嬌声になる。

 二人だけの淫らな宴は、毎夜、こうして空が白むまで続くのだ。

 少女は女に逆らわない。女は少女を裏切らない。

 少女の可憐な瞳の求めるものが、たとえここではない別のところにあるものでも、女は彼女を愛し続ける。小さな身体をその隅々まで、とけ出さんばかりに愛し求める。
  
* * * * * * *

 私立聖青(せいさい)大学は、郊外の駅から歩いて徒歩十分程度のところにあった。

 宇崎陽菜子(うさきひなこ)は、ここの二回生の一人で、専攻学部は人文学、そして放送サークルに在籍していた。

 陽菜子が放送サークルに入部したのはなりゆきだった。

 それが今では、なかなか気入っている。居心地の良さは言わずもがな、扱う原稿が読み物としても面白いのだ。何せ、それらは全て文芸部が提供してくれているもので、いわゆる文学少女や文学少年が手がけているだけあったのだ。

 放送サークルの打ち合わせや活動は、大方昼休みにある。放課後は、当番に当たった部員だけが、放送室を訪ねる仕組みになっていた。

 陽菜子は午前の講義が終わると、今日も、部室のある東校舎を訪ねていった。

 昼休みの当番に当たっている部員の選曲した音楽が、校舎中を流れていた。

 陽菜子が部室の扉を開けると、先客が一人いた。

 「おはようございます。百垣先輩……、だけですか?」

 陽菜子はこぢんまりした部屋の中央、卓袱台に弁当を広げていた上級生に声をかけた。

 上級生、すなわち百垣めいり(ももがきめいり)は、陽菜子より一学年上の三回生だ。彼女は同じ人文学部の学生でも、陽菜子と違って、国際交流を主に修学していた。

 めいりの腰にまで伸びた黒髪は、頬の周りだけ短く切り揃えてある。一重の目許に小さな鼻先、薄い唇のバランスは、どこか儚い印象があって、身体つきは極めて華奢だ。背丈はぱっと見、百六十センチはある。それだけに、ミニスカートにパンツスタイル、マキシ丈のリゾート風でも、似合う洋服を選ばない。今日は、黒いロングワンピースという、彼女にしてはシックな衣裳だ。

 陽菜子はさっと上履きを脱ぐと、めいりの側に腰を下ろした。

 「宇崎ちゃん以外、今日は会合休みにしたんだ」

 「そうなんですか?」

 陽菜子が首を傾げると、冊子が一つ出てきた。
 それは裏表刷りのコピー用紙を十枚くらい綴じたもので、表紙に活字で『堕ちたうさぎ』と書いてある。

 「これ原稿。今日の放課後当番、宇崎ちゃんと私でしょ。かけ合いありでも二人だけの朗読だから、皆にわざわざ来てもらっても悪いと思って」

 「なるほど」

 陽菜子は冊子を取り上げる。

 「この原稿を書いて下さったの、大千里先輩ですか?」

 「ご名答。咲ちゃんは宇崎ちゃんのフリークだからー」

 「いや、でも、これ、からかわれているとしか……」

 陽菜子は、改めて冊子に目を通す。
 どことなく官能小説を聯想するタイトルをした朗読劇は、蓋を開ければ、中身も全くその通りだ。目を通すだけで顔が熱くなるのに、こんなものを声に出して読むなんて、恥ずかしいにもほどがある。

 大千里咲乃(おおちりさくの)。

 さっきから、陽菜子とめいりの間にぽつぽつ出ているその名前の持ち主こそ、この美しくも淫らな物語の書き手だ。そして無論、文芸部の部員である。

 「でね」

 ふっと、めいりの改まった声が耳に触れた。

 陽菜子が原稿から顔を上げると、そこには、真剣にもはにかんでも見える上級生の顔があった。

 「私、今日は放課後無理なの」

 「じゃ、じゃあっ、一人でやるってことですか?!」

 「咲ちゃんに代理を頼むから」

 「ああ、復讐ですね」

 何せ咲乃の提供してくれる朗読原稿が淫猥なのは、今に始まったことではない。

 咲乃は学校行事の告知やら購買の新商品の宣伝やらの原稿となれば、プロの広告の文面並みに的をついたものを書いてくれるし、図書室にある本の紹介文でも、そこいらの評論家よりずっと聞き手の興味をそそってくれる。
 しかしながら、オリジナルのものだけが、いかにしても声に出すのもはばかられる内容ばかりなのだ。しかも、それらのヒロイン始めメインキャストに指名されるのは決まって陽菜子で、いわゆるサディスティックなタチのかけ合い相手は、ほぼ決まってめいりなのだ。しかるに陽菜子は、親にも聞かせられないような声を公共の面前で出さねばいけないし、めいりだって、そこそこ恥ずかしい思いをしていよう。

 もっとも、めいりが咲乃に復讐したかろうというのは、陽菜子の単なる想像だ。

 「違ーう」

 「ご用事ですか?」

 「私はね、宇崎ちゃん」

 「はっ、はい」

 めいりの顔が、ずんと迫ってきた。

 されど陽菜子は、いつの間にか両手を握られていて、後退出来ない。

 「宇崎ちゃんにお願いがあるんだ」

 「お願い……、ですか?」

 「咲ちゃんに、アリス族のお姉様のハートを掴めるくらいの、相手をそそる手ほどきを受けてきて!」

 「──……」

 「…………」

 「…………」

 「…………」

 「──…。えぇえええ?!!」

 陽菜子の喉から、今日一番の絶叫が飛び出ていった。

 アリス族とは、昨今、フリルやレースやリボンを愛してやまない女子達を指す。
 彼女らは、大抵スカートの下にパニエを仕込んでとびきり豪奢なシルエットを実現し、頭に、ちょこんとドレッシーなカチューシャやら帽子やらを被っている。その姿はドールの如くで、また、異国の貴族の令嬢のようでもある。

 陽菜子は、いまいちその定義を分かっていない。

 しかしながら、陽菜子も、見る人によっては件のタイプに含まれるらしい。
 セミロングの黒髪をいつもツーサイドアップにして、ガングロメイクがもてはやされようと素肌は焼かない、化粧はことごとくナチュラルな仕上がりを心がけて、さり気ないレースやフリルのついた洋服を好んでいるからか。もっとも、パニエやドロワーズを合わせられる類の洋服は、持っていない。

 「でも、何で大千里先輩に?それに百垣先輩、アリス族に気になる女性なんていらっしゃいましたっけ?」

 「──……」

 めいりの顔が、みるみる恋する少女の如くになってゆく。

 そうして陽菜子は、めいりに、今度こそ絶叫では済まないような事実を聞かされることとなる。
  
* * * * * * *

 夕陽も沈んで、カーテンの隙間にちらつく空の群青色が深まる頃、陽菜子は放送室にいた。
 そして、今日本来ここにいるはずだった上級生の代理の少女と、ソファに並んで落ち着いていた。

 殺風景な室内は、機材とテーブル、ソファと、それからぬいぐるみが一つあるだけだ。

 陽菜子は、今隣にいる少女の手がけた官能的な冊子の頁を操っていた。そうしてなまりそうな単語にアクセントを打ったり、読み違えそうな漢字にふりがなを書き込んだりしながら、少女に、つまり咲乃に、めいりとの昼休みの終始を打ち明けた。

 「それってさ」

 ふっと隣でこぼれたソプラノともメゾともつかない声は、どこまでも澄んだ艶やかなトーンをしていながら、心なしか気怠げな色を含んでいた。

 「あたしが出るとこじゃないね」

 「はい、ですよね。こころさんをお好きなのは百垣先輩であって、大千里先輩は、こころさんとはお知り合いなだけであって……」

 「うさぎちゃんのお知り合いでもあるけどねぇ」

 「はふぇっ?!」

 陽菜子は素っ頓狂な声を上げた。
 手の甲が、不意に羽根でくすぐられるような感覚を得たのだ。

 陽菜子の手が、咲乃に、思わせぶりに撫でられていた。

 「先輩、わっ……私……、うさぎじゃありませんっ……うさきです……!!」

 「めんどくさーい。似てるんだしうさぎで良いじゃん。う、さ、ぎ、ちゃん」

 「はわっ」

 陽菜子の手から、原稿が滑り落ちていく。

 あえかな声に、あだ名でも語尾にハートマークでも付きかねんトーンで呼ばれて、耳に息を吹きかけられては、平気でいられる方がおかしい。

 陽菜子は咲乃をちらと見る。

 美しい。

 毎年選出されるミス・聖青並みに見目麗しいのだとか、演劇部のエースのように臈たけているのだとか、そういった類の美しさではない。陽菜子にとって咲乃とは、ただその存在がそこにあるだけで、まばゆくて、何ものにも代え難いのだ。

 咲乃の匂やかなオーラはどこまでも白い。そしてオフホワイトやら銀の混じった純白やらの洋服が、いつでもしっくり馴染んでいる。それらは奢侈なデザインでありながら、クールでどこかメランコリックなものがあって、見方によっては退廃的で、アリス族達の好くものとはまた違う。きめ細やかな艶のある肌、よく見るとくっきりしたたれ目がちな目許が、そのたおやかな風采を引き立てていて、毛先だけくせ毛に見える自然なウェーブのかかった黒髪は、肩にぎりぎりかかるくらいだ。

 「──……」

 「にしても」

 陽菜子から、咲乃がすっと離れていった。

 「吃驚だ。めいの片想いがここちゃんだったとは」

 「はい、私も驚きました。まぁ、確かに、百垣先輩が親しくされてるアリス族の女性なんて、こころさんくらいですけど……それにこころさんは有名人です。この村でたった一人の手芸教室の先生で、アリス族って言えばお年寄りなんかじゃちょっと顔をしかめられるのに、こころさんはおばあさん達にも人気があって。ただ、世界って狭いなぁ、って」

 「うさぎちゃんのことだってあたし、吃驚したもん。ここちゃん、今も君のアッシーちゃん?」

 「そんなんじゃありません……。ただバイトが終わるの遅いから、危なっかしくて送って下さってるだけです」

 「ほぼ毎晩でしょ?良いなぁ、あたしも免許取ろっかな」

 「ぇええ?!」

 「だってね、この前あのお姉様、レッスン中に君の話をしていたよ」

 「わわわわ私?!」

 「うさぎちゃんのこと、気に入ってるっぽいんだなぁ。思わずあの時、うさぎちゃんはあたしのうさぎちゃんですって、突っ込んじゃった」

 「何なんですかぁ……先輩にあたしなんて釣り合いませんよぉ……」

 「じゃあ」

 「…──!!」

 「試してみる?」

 「はぅっ?!」

 「恋敵(ライバル)があの天羽こころ(あまうこころ)様ってなったんじゃ、笑い事じゃなくなるからさ」

 陽菜子は飛び上がりそうになる。

 右手首が咲乃の左手に、左手の指が彼女のそれに絡め捕られて、動けない。

 今日一番の至近距離に、陽菜子にとって世界で一番美しいかんばせがある。

 真摯な瞳にやられてしまう。裏表のない、優しいオーラに気圧される。

 「ああ……あの……」

 「ん?」

 「朗読、そろそろ始めなくちゃ……時間が……」

 「良いよ」

 「ひゃうっ?!」

 「さ、うさぎちゃん。……君の妖精さんの声を聞かせて」

 「そ……」

 「そ?」

 「そんなんだから先輩は、百垣先輩に女たらしのレッテル張られちゃうんですよぉっ!!」

 陽菜子はありったけの勇気を出して、目前の美少女の手を振り払う。

 これ以上、くっつけない。好きで好きでたまらないから、くっついて、見えないところまで見えてしまうのが怖い。

 「…………」

 「──……」

 「めいが、ここちゃんに告れるまでうさぎちゃんのかけ合い相手をしないっていうのは本当?」

 「じゃないと、大千里先輩が協力してくれないだろうって」

 「それまであたしに、うさぎちゃんの相手をしろっていうのも、まじな話?」

 「大千里先輩は、ああ見えてシャイだから、全校生徒の前でお芝居するくらいなら、モテ技を伝授してくれるだろうって……」

 「──……」

 「…………」

 参った、と、天使の呟く声が聞こえた。

 ややあって、陽菜子は再び咲乃と目が合う。

 「分かった」

 「して下さるんですか?!モテ技伝授!」

 「明日、空いてる?」

 「午前は、講義が」

 「なら午後。午後にデートしよう」

 「で、で、デー──」

 「うさぎちゃんも、上級生の頼みは聞いてやらなくちゃ部室にいづらいでしょ?明日、十二時半に東校舎の玄関ね」

 「はぅぅっ?!」

 信じられない。

 陽菜子は、一生分の心拍数を使いきってしまう思いがしながら、胃にまで痛みを覚えながら、口をぱくぱくさせていた。
  
* * * * * * *

 陽菜子は咲乃とデートの約束をした翌日、指定された通りの時間、指定された通りに東校舎の玄関に出向いた。

 咲乃が友人や後輩を待たせたことがないという噂は、本当だった。

 陽菜子は咲乃に、彼女がいつから待っていてくれたのかを確かめることも出来ないまま、普段運動系クラブが占拠している更衣室に連れ込まれて、洋服をいきなり脱がしにかかられた。さすがに全力で暴ると、目の前に、見たこともないような奢侈な洋服が現れた。

 かくて陽菜子は、今、生まれて初めて袖を通したような類の洋服に着替えて、咲乃と、駅前に移ってきていた。

 昼を過ぎたばかりのここいらは、店員の数の方が客のそれに上回る。

 無理もない。世間の若者達は、この時間帯、学校やら会社やらに拘束されている。

 陽菜子と咲乃がショッピングモールに入っていくと、雑貨屋もスーパーもどこもかしこも、貸し切り状態同然だった。

 もっとも、この空き具合は幸いだ。

 陽菜子が咲乃に貸してもらった洋服は、ずばりアリス族のそれだ。
 オフホワイトのバーバリー素材で仕立ててあるワンピースは、襟元やら袖やらは無論、裾にまでふんだんにレースやフリルがあしらってある。一枚で着ても十分にふわふわとボリュームがあるそれは、パニエとドロワーズを合わせると、妖精にでもなったような気分になれる。その上、更にワンピースにとり合わせているレース編みのボレロも、半端ではないディテールだ。手首より少し上から豪奢な姫袖が広がっていて、前身頃のボタンの上に、ころんとしたリボンが三つ連なって留めてある。しかも陽菜子は、平素は小さなリボンをちょこんと飾るくらいのツーサイドアップの髪の結び目に、片方のヘアゴムなど余裕で隠れるほどのレースで出来た小さな帽子を戴いて、足許を、フリルで縁取ってあるソックスと、クロスリボンのあしらってある合皮のストラップシューズで装っていた。

 つまり、目立つのだ。

 陽菜子は、屡々すれ違う通行人らのおもむろに振り向いてくる視線を痛感していた。これが夕方や土日であれば、もっと酷かったろう。

 小さな村にぽつんとある二階建てのここは、一周するのに、一時間もかからない。二人、ウィンドウショッピングもそこそこに、早くもカフェに落ち着いた。

 「うぅぅ……疲れましたぁ……」

 「お洋服、わさつく?慣れないとキツいかな」

 「うーん……ちょっと重たいのもありますし、やっぱり、着慣れないって言うか……」

 陽菜子はお冷やの入ったグラスを両手に包んで、窓の外をちらと見る。

 ここは、テレビや雑誌で見かけるような駅ビルの中の洒落たカフェではない。昔ながらの茶店がただ屋内に入っただけのような、野暮ったい店構えだ。こうしてテーブル席から見える眺めも、ただの婦人服売場と電気屋だ。

 それだけに、これだけめかし込んで、しかも真向かいにいるのが咲乃でなければ、否、親しくも密かに憧れていた上級生でなければ、きっとこれだけ気持ちも引き締まっていなかった。

 「このお洋服、大千里先輩のなんですか?」

 「まさか」

 「じゃあ……」

 貴女に親しい誰かが、貴女に貸したものなのか。

 喉元まで突き上げてきた言葉を呑み込んだ。

 知りたくない。咲乃に、こんなに大切な洋服を貸すような女性がいるなんて、仕方がなくても聞きたくない。

 「作った」

 「えっ?!」

 「ほらぁ、忘れた?あたし、これでもここちゃんの教え子なんだってば」

 「──……」

 「でさ」

 陽菜子がメニュー表を眺めている振りをしていると、切なくなるほど熱いような視線を感じた。

 耐えかねて、顔を上げる。

 陽菜子は、くすんだパステルカラーの退廃的な衣裳をまとった堕天使に、吸い込まれそうに澄んだ瞳で、じっと見つめられていた。

 咲乃の真摯な眼差しが怖い。

 陽菜子は、そのまっすぐな目に見つめられれば見つめられるほど、自分の罪深さが浮き彫りになる気がしてならない。

 「うさぎちゃんに着て欲しかった」

 「──……」

 「それは君のために生まれた洋服だから、あたしのじゃないんだ」

 「…………」

 嘘だ、と、笑い飛ばせればどんなに楽なものかと思う。

 陽菜子は、されど冗談として流せない。咲乃の気持ちが冗談なら楽なのにと仮想しながら、都合の良い自惚れが、ただの自惚れでない気がしてならない。

 「せんぱ、い……」

 貴女が好きです。大好きです。

 陽菜子は心の中で囁く。

 伝えられれば幸せになれる。咲乃のくれる想いを信じて、彼女に少し甘えれば、きっとそれ以上にない幸せが待っている。

 そんな予感は過ぎるのに、踏み出せない。それだけのしがらみがある。

 「あ、あの、それでぇ」

 陽菜子は今度こそメニュー表の文字を目で追って、努めておどける。

 「アリス族の女の子の気持ちは、ちょっとだけ、理解出来ました。うーん……、軽いのか重たいのか分かんない、そんな感じです」

 「はは。そっか」

 「ですけど、私の今日の目的は、アリス族の女の子の気持ちを知ることではなくて、アリス族の女の子をきゅんっとさせる方法を身につけることです。百垣先輩に、教えて差し上げなくちゃ」

 メニューを選ぶ振りをしたり、研究熱心な振りをしたり、大変だ。

 陽菜子は、口が裂けても伏せておきたい心理状態にいた。

 めいりの頼みに応じるために、咲乃の言葉に従って、彼女から得るべきものを得なければいけない。

 そんなものは、咲乃と一緒にいたいための口実だ。

 アリス族も、陽菜子のようにありふれたタイプの人間も、関係ない。ましてやモテ技というものなど、いつか死語になるだろう。

 現に陽菜子が咲乃に惹かれるのは、彼女がそこにいるからだ。

 「うさぎちゃん」

 「──……」

 陽菜子の耳に妙なる声が触れた瞬間、やにわに、ピンク色のシルエットが、寂れた婦人服売場の前を通り過ぎていくのが見えた。
  






 陽菜子は、通りがかりの給仕の女性に無難なアイスティーを注文すると、荷物を席に置いたまま、店の外に飛び出した。

 咲乃も一緒だ。

 陽菜子は咲乃と肩を寄せ合って、電気屋を曲がったすぐ先にある、本屋の柱の陰に隠れる。

 本屋を覗くと、今まさに、さっきのピンク色のシルエットの主が、書棚に腕を伸ばしていた。その隣に佇んで、見慣れない顔の女性が一人、彼女に寄り添っていた。

 陽菜子は逸る胸を持て余しながら、二人の女性を、遠目に見守っていた。

 ピンク色のシルエットの主は、つまるところアリス族の一人だ。
 件の彼女の光が当たればブロンドにも見えるウェーブヘアは、腰に届くまで長く、ちょうど天使の輪が浮かび上がっている辺りに、綿レースを何重にも重ねたヘッドドレスが乗っかっている。甘ったるい目許に自然な微笑を湛えた口許、可憐とも美人とも称せられる顔かたちは、慈愛と知性が滲み出ているようなもので、陽菜子と同じくらいの背丈でも、良い意味で官能的な曲線に欠けるその肢体は、とびきりデコラティブなピンク色のドレスがしっくりしている。生成のレースを重ねた姫袖がしゃらしゃらと広がり、童話の世界を舞う蝶を聯想する腰リボンはふんわりとしたフリルスカートに淡い影を落としていて、その洋服は、屡々見かけるアリス族らのまとっているものと同じようでありながら、格別なディテールがあった。

 彼女こそ、天羽こころ本人だ。

 「大千里先輩」

 「なぁに?うさぎちゃん」

 「こころさんの隣にいるの、あの方も、生徒さんですか?」

 「花園愛来(はなぞのあき)。好山(すきやま)商店の五代目オーナー。歳は……、確かここちゃんより三つ上だから、三十二。レッスンでは見かけない」

 「うぅーん……ということは……」

 「好山は、訪問販売や宅配サービスしてるでしょ?それで知り合ったって聞いてるよ」

 「なるほど!」

 陽菜子は両手をぽんと叩いた。

 それにしても親しげだ。

 こころが眺めているものは、彼女らしい、手芸に関係している本ばかりと見てとれる。そうしながら、時連れの女性を時折ちらと見遣っては、何やらひそひそ話をしたり、楽しそうに笑みをこぼす表情は、いかにしても講師の一生徒に対するものではない。愛来という名の女性にしても、こころに対するその一挙一動が、村の少女達や老女達の態度とは違う。

 「先輩」

 「ん?」

 「お店に戻りませんか?」

 陽菜子は咲乃の袖を軽く引く。

 軽らかでも暖かい、オフホワイトのガーゼ素材の姫袖は、触れてみて初めて分かったが、下から綿レースが覗いていた。

 めいりには気の毒だが、陽菜子に出来ることはなくなった。

 こころがあれだけ幸せそうに、愛来と一緒にいるところを目の当たりにしたのだ。どうして行動を起こせよう。

 めいりやこころの苦悩の種になるものは、蒔きたくない。

 「ま、うさぎちゃんが気を遣うのは分かるけどねぇ」

 「花園さんも、アリス族ですか?」

 陽菜子は、今一度、こころと並んで背を向けている女性を眺める。
 女性の栗色の長い髪は、やはりこころと同じくらいの長さがあって、こめかみに小鳥の人形があしらってあるレースのコサージュが咲いている。上品なくすんだ青をしたレースのボレロは七分袖で、あえてシフォンのブラウスの提灯袖が覗かせてある。スカートにパニエは入っていない。それでも、そのこまやかなギャザーの寄せてあるティアードスカートは、チュールと麻が重ねてあって、ともすれば遠い異国の庭園を散歩するマドモアゼルを彷彿とする。

 「花園ちゃんは、自由人。だからここちゃんと気が合うんだ」

 「自由人……」

 「何にも囚われないし、縛られない。アリス族も大変でね、こうしなくちゃいけないとか、ああしちゃ邪道だとか、暗黙のルールみたいなのがある。ヘアアクセを忘れて家を出た日なんて、白い目で見られるらしい。どんなに暑い夏の日でも、ドロワーズは必須。履かないとはしたなくなるんだってさ」

 「大変ですねぇ」

 「でも、愛来ちゃんはそういうのにこだわらない。パニエなんか履かないし、ドロワーズも必要ない。靴も、彼女がストラップシューズを履いてるのは見たことないな……。ここちゃんは、そういう花園ちゃんが好きみたい」

 「こころさんは、ステレオタイプのアリス族じゃありません?」

 「そうだけど、違う。ここちゃんは、アリス族っていう言葉自体を好いていないから。ここは特に田舎でしょ?アリス族が歩いていたら、振り返らなくちゃいけないみたいに、皆、振り返る。だけどアリス族の女の子達にとって、あれこそがありのままの生き方で、フリルやレースを好まない方が非日常的なんだ。それでも、ここちゃんは、そういう非日常的な人達を異端視しているわけじゃない。彼らにとって、それがありのままの生き方だから、認めてる」

 「カテゴライズがお嫌なんですね。こころさん。だから、かたちに囚われない花園さんが好きなんだ……」

 「そういうこと」

 「付き合ってるんですか?こころさんと花園さん」

 「さぁ」

 「え?」

 「めいが心配?……だけどね、うさぎちゃん」

 陽菜子が首を傾げると、不意に咲乃と目が合った。

 「あたしだったら、相手がいてもいなくても、想うのも奪うのも勝手だと思う」

 「…──!!」

 「相手がいるから諦める?そんな半端な気持ちは恋でも愛でも何でもない」

 「そ、それは……」

 陽菜子は狼狽える。

 それはめいりに伝えたい激励か?それとも、咲乃自身の本心か?

 「先輩……」

 それが貴女の気持ちなら、もし私が誰かのものなら、貴女は奪いにきてくれますか?

 陽菜子は声にならない思いを呟く。

 ただ、もう少しだけ、このまっすぐな人の、無邪気な一下級生でありたい。

 それは陽菜子が、人間の手には触れられない自由な妖精になれなかった、せめてもの願いだ。







──fin.
妖精カテドラル