新学期が明けたばかりの校庭は、甘辛い匂いを孕んだそよ風が行き来していて、どことなく初々しいムードがたなびいている。
何もかも真っ新に感じられる卯月に入って、はや一週間が経つ。窓から覗ける裏庭は、花や緑が瑞々しい煌めきを帯びていて、あちこちで見かける生徒や教師らに、まだまだ程良い緊張感をちらついていた。
ここは、市外にある、とある私立の女子校だ。
千々野眞音(ちぢのまさね)は中等部からここに在籍して五年になる、ごく一般の一生徒だ。 紺色のセーラー服は少しも着崩さず膝丈をキープしているし、肩より少し長い黒髪は、常に二つに結っている。そうした視覚的なところは抜かりなし、成績も、ぎりぎり平均点だ。
つまり眞音は、とりわけ模範的な生徒だ。
にも関わらず、新学期早々生徒指導部室に呼び出しを受けて、今、息苦しいこぢんまりした密室にいた。
生徒指導部室の内観は、どこもかしこも、この部屋の女帝すなわちこの学校の生徒指導部長、小幡麻代(こはたまよ)の趣向が窺える。
窓辺に所狭しと並んだ小さな観葉植物は、ブラインドの隙間からこぼれる西日を浴びて、仄かな朱色に染まっている。オフホワイトの壁を見回せば、日本人画家の作品と思しき絵画の入った額縁が飾ってあって、ソファは、暗い色をしたゴブラン織りでくるんであった。
眞音は、木製の質素なデスクを瞥見した。そこで何やら書類の頁を操っていた麻代と、目が合った。
「あ……」
「ごめん。呼び出しておいて、千々野さんのこと放置しちゃった」
麻代の、生徒指導部の住人にしては官能的すぎるメゾの声に、心なしか親しみのある笑みが混じった。
麻代はいわゆるベテラン教師だ。新卒でここに入って以来、ざっと二十年以上勤務しているらしく、生徒らや教師らからの信頼も厚い。
彼女のいかにも知的な一重の目許に形の良い頬、胸にかかる程度の黒髪が描く内巻きカールはきっちりすぎず緩すぎず、全てのパーツが、その容姿を魅力的に引き立てていた。
眞音は手持ち無沙汰に背凭れのクッションを取り上げて、組んだ膝の上で抱き締めた。
「花館かすか(はなだてかすか)」
麻代が書類を本立てに差して、回転椅子をこちらに回した。
「花館さん。貴女は昨年も同じクラスだったから、知っているでしょう」
眞音は無言で頷いた。花館かすかという名のクラスメイトを知っているし、彼女と二続けて同じクラスになったというのも本当だ。
「ただ私、花館さんとあんまり親しくありません。彼女とはクラスが同じなだけで」
「だと思うわ。あの子、進級もぎりぎりだったほど、学校来ないし」
「先生、花館さんのことで私を呼んだんですか?だったらお役に立てないと思います」
「そうでもないわよ」
眞音が荷物を抱えて腰を浮かせたその瞬間、また、無駄に色香のある声がかかってきた。
「千々野さんはもう察してくれたよね?私、貴女に花館さんの不登校を相談したくて、貴女を呼んだの」
「それは分かりましたけど、何でなんだか分かりません」
「貴女なら何とか出来る気がしたから」
「──……」
眞音が今一度腰を下ろすと、麻代から物憂いげな息がこぼれた。
「こういうのは担任の仕事だって私も承知よ。でも、生徒に甘く出来るのも、忙しいのを理由に面倒事を後回しに出来るのも、担任の余計な特権。だから私が動くしかない。花館さんの場合、理由があって学校に来ないのでもないようだし……千々野さん、行って話してきてくれない?」
「生徒指導部は、生徒に雑用させられるのが、特権なんですか?」
「親御さんに気を遣われたくないの。貴女なら友達だ、とか何とか言って……頼むわ!」
前代未聞だ。
眞音は麻代の、数秒見つめられればきっと胸が何らかの音を奏でよう眼差しを浴びながら、まるで拒否権を与えてくれない彼女に面食らっていた。
生徒指導部の、しかも部長が、理由もなく生徒に雑用させるものか?
「花館さんと、上手く話したら……」
麻代がデスクの引き出しを引いて、中をごそごそ探り出す。
「報酬はこれ」
「こ、こ、こ……!!」
「ロリィタ界のカリスマ、星苺うさ子(ほしいちごうさこ)のサイン入りポスター。欲しくない?」
「…──っ」
眞音は麻代に飛びついて、彼女の広げているポスターの端を凝視する。
写真は無論、直筆サインも本物だ。
「千々野さんがプライベートじゃ甘ロリィタちゃんだって証拠は上がっているの。それでも私が、貴女が補助鞄もペンケースもひらひらリボンちゃん、制服の下にドロワーズまで着用して学校に来ても五月蠅く言わないのは、妹がロリィタちゃんで、他人事ながら気持ちは分かるからなの」
「校則にレースやリボンがダメとは書いてませんし」
「学生らしく、質素に。これを読めば、私ほど寛大な教師でなくちゃ、貴女がこの部屋の常連になっていた可能性はなきにしもあらず」
「──……」
だから、と、麻代がポスターを巻き直す。
美女の微笑むポスターが、みるみるコンパクトになって、デスクの中に戻っていった。
「お願い、聞いてくれるわね?」
眞音は、完全に麻代のペースに巻き込まれていた。
* * * * * * *
花館かすかの住んでいるというマンションは、ありふれた住宅地の中にあった。
眞音は麻代に預かってきた地図を頼りに、昨年度、つまり先月の終業式以来一度も顔を合わせていないクラスメイトの部屋を訪ねて、その軒先のチャイムを押した。
初め、まるきり応答がなかったが、麻代に事前に寄越されていたアドバイスに従って、しつこくチャイムを鳴らしていると、鈴を鳴らすような可憐なソプラノの声がした。
好都合にもかすか本人に出迎えられて、敷居を跨ぐと、両親は不在のようだった。
眞音はそうして、何となく気まずい気がしながら、玄関を抜けてリビングを抜けて、部屋の一番奥にあるかすかの私室に通された。
かすかの私室は、想像通り、否、それ以上のものだった。
眞音はかすかと交流こそなかったが、平素から、彼女が自分と同じ、フリルやリボンに惹かれる体質だろうと感づいていた。
かすかは小柄な体躯に淡いオーラをまとった少女で、ことに存在感が薄いわけではなく、ただ儚いイメージが強い。一重の目許に映える瞳は澄んだドールのそれを彷彿とする清らかさがあって、桜色の唇は、気位の高い淑女の微笑を常に湛えている風だ。彼女は制服姿の時、姫カットにした緩やかなウェーブを描いた髪を、頬にかかる部分だけ残してお下げにしていたものだが、今日は下ろしっぱなしだ。
かすかはどこもかしこもピンクでまとめてあるこの部屋に、よく似合う。
眞音は、寝台やクローゼットに並べてある人形や、チェストや本棚にディスプレイしてあるアクセサリーや少女のイラスト、そしてかすかの可憐極まりない風貌に、心躍る心地がしていた。
かすかが一端部屋を出ていって、暫くして戻ってくると、眞音の前に、甘酸っぱい匂いをまとったティーセットが据えられた。
「苺とルバーブのお茶と、ラズベリーとバニラのギモーヴ。良かったらどうぞ」
「有り難う。……花館さん。気、遣わないで?」
「ううん。お茶やお菓子を出し惜しんだって、特別に得することはないもの」
かすかが寝台に腰かけると、パステルピンクのシフォンのワンピースの裾が広がった。パニエに裏地、サテン、シフォンの織りなすスカートは、苺柄のシーツにふわりと乗っかると、ブーケでも咲いたように見える。
眞音はティーカップを取り上げて、湯気に息を吹きかける。
「誰に頼まれたのかしら?」
「え……」
「千々野さんがわざわざ来てくれたのは、どうせ先生の誰かに、私の様子を見て来いって言われたからじゃない?」
「──……」
「面倒なこと押しつけられて、申し訳なかったわね。誰?」
「えと、うぅ……」
意外と鋭い。否、これが普通か?
「生徒指導部部長の、小幡先生」
「──……」
「今日いきなり呼ばれてね、何だろうって思って行ったら、花館さんの話をされたの。私なら何とか出来るだろうから、話してくるようにって。……迷惑だった?」
振り向くと、かすかが首を横に振った。
「取ってもらえる?」
眞音が卓袱台に向き直ると、芳しいソプラノの囁きが、耳をくすぐってきた。
「ギモーヴ、バニラ取ってもらえる?」
「あ、えと……」
眞音は頭に靄がかかっていく錯覚にいざなわれながら、皿にに盛ってあるギモーブから、ようやっとの思いで白を見分ける。
フォークはない。
「手掴みで平気。ケーキじゃないし」
「…………」
「取って?」
「──……」
意外としっかりした生マシュマロをそっと摘んで、ピンク色をまとったドールの前に持っていく。
「…──っ、花館、さん……」
「かすかで良いわ」
「手、手、……!!」
「深い意味はないわ。私、人間に興味はないもの」
「──……」
「眞音の手は、ちょっと、月子(つきこ)に似てるなって……思っただけ」
「か、かす、か……」
熱くて柔らかな舌先が、指と指とを行き来する。象牙のように艶やかな歯が時折触れて、小さな唇の奥に閉じこもっていた体温が、じかに伝わってくる。
まるで飼っている猫にお菓子をやっているに等しい行為だ。
それでいて、言い知れぬ恍惚に引きずり込まれる。
バニラ味のギモーブは溶けて潰れて、もはや甘い匂いをまとったメレンゲでしかなくなった。だのにかすかは、尚、それを味わおうとしているようだ。
眞音は何もついていないところにまで、かすかの舌にしゃぶられて、いっそギモーヴが永遠になくならなければ良いと、刹那、心の片隅で願った。
* * * * * * *
明くる日、眞音が例の報酬を受け取るべく生徒指導部室を訪ねていくと、思いがけないお預けを喰らった。
「こんな程度で報酬をあげられるはずないじゃない。家に行ってお茶をして、彼女と話した?話すだけなら誰でも出来るわ」
麻代が髪を後ろに払って、教師ならではの横柄な仕草で頬杖をついた。
「第一、千々野さん。貴女の話じゃ花館さん、完全に引きこもりを決め込んでるようじゃない。お部屋を可愛らしく飾って、校則もお構いなしに髪染めて、お人形さんをお友達呼ばわりしているですって?」
「はいっ、金髪すごく似合ってました!かすかの親友は、星苺うさ子も御用達の人形師に特注で作ってもらったビスクドールで、月子ちゃんっていって、もう美しくって」
「月子?」
「生きた女の子みたいに精巧な子です。かすかとちょっと似てるかな。亜麻色のふわふわの髪の子で、伏し目がちな表情に、血色の良い白い肌!ピンク色のドレスを着てまして、それは人形師じゃなくて、なんと、かすかの手作りでした」
思い出すだけで胸が顫える。
ドールの如く可憐なクラスメイトの親友は、生きた少女にも稀に見るような、清らかな色香を醸すドールだったのだ。
眞音はかすかのあの部屋で、奇跡の生んだ幻の生命を腕に抱いた。
月子の穢れのない双眸は、じっと見つめ合っていると、ともすれば美しいものだけに魂を冒されかねないエクスタシーにいざなわれる。人肌ではないドールの硬い柔肌は、されど吸いつきたくなる色相があって、それが無機質な存在だと忘れかけるほど、しどけない妄想が頭をちらつく。
月子と、かすかを結んでいる見えないものは、多分、とてつもなく崇高だ。
「とにかくポスターが欲しければ、花館さんに心を入れ換えてもらって、ちゃんと登校させて頂戴。学校は勉強するためだけの場じゃないんだから、進級、卒業出来ればそれでオーケーってわけじゃないの」
「うぅ」
「頼むわよ?本当に」
眞音は受け答えに惑って二、三度唸った。
麻代の理論も一理あるが、それはあくまで一つの考えに過ぎないからだ。
* * * * * * *
眞音は麻代の雑用を引き受けて以来、度々、かすかの住むマンションの部屋を訪ねるようになっていた。
少女の姿を借りたドールを説得して、薄紅色の楽園から学校へ連れ出さなければ、麻代から報酬は受け取れない。
さりとて眞音は、敬愛して止まないロリィタ界のカリスマ、星苺うさ子の直筆サイン入りポスターのためだけに、かすかとコミュニケーションを重ねているのではなかった。
満開だった桜の花も、いつしか若葉に姿を変えて、快晴の空は薄紅ではなく新緑の色に染まりつつあった。わびしくも初夏の気配がそこはかとなく漂うような風景が、地上を覆っていっていた。
ある土曜日の朝、眞音はかすかと、市街地からほど近い駅で待ち合わせをしていた。
眞音は静かに賑わう改札口の周辺で、とりわけ苦労もしないでかすかを見付けた。
かすかのまばゆい存在感は、ありとあらゆるくすんだ色を華やがせる。この、ロリィタとして生きるために生まれてきたも同然の少女は、今日もリボンやフリルと同化していた。
彼女の金色のウェーブヘアは例の如く下ろしっぱなしで、四、五本編んだ細かい三つ編みのあちこちに、小さなリボンが飾ってあった。華奢な体躯は、どこまでも繊細なディテールのあるパステルピンクのワンピースに包まれている。スクエアカットの襟刳りに、縦にリボンの並んだ身頃、姫袖はたっぷりギャザーが寄せてあり、ウェストから広がるスカートは、ドレープから五段のフリルが覗かせてある。バッグはファーで仕立ててあって、ころんとした丸みがあって、白い薔薇の模様の入ったタイツとくるぶしソックス、そしてピンク色のストラップシューズのバランスも、抜群だ。
眞音は、かすかを改めて機械的な街の背景に映して、奇跡を見ている錯覚にいざなわれていた。
「おはよう」
「おはよ。可愛ーい、眞音の私服姿、初めてだわ」
無邪気な少女の笑みがこぼれて、飾り気のない、それでいて無垢な双眸が細くなる。
「眞音、やっぱりピンク似合う。あんな地味な制服よりずっと」
「かすかが言っても……、説得力ないよ」
「どうして?」
「貴女が一番、似合うから」
眞音は改札口に背を向けて、かすかと並んで歩き出す。
どこへ行くかは決まっていない。されど人の波に流されながら歩いていれば、その内、きっと立ち寄る場所も見えてくる。
一週間ぶりに穿いたパニエがくすぐったい。
眞音は苺ミルクの色をした、胸元にはレースの切り替え、バックスタイルにはドットチュールのバッスルのあしらわれたジャンパースカートにブラウスをとり合わせて、ふんだんにリボンがあしらってあるボレロを羽織っていた。
こうしてお気に入りの洋服を身に着けて歩いていると、ともすれば身体に羽根でも生えるのではないかといったような恍惚が押し寄せてくる。平日は、帰宅した後でもこれだけしっかりロリィタ服を身に着けないし、先週の土日も、装飾性より動きやすさを重んじていた。
もとより眞音は、かすかほど感覚の近い相手と外出するのは、初めてだ。
とっておきの装いで、街を歩くのも久しかった。
ウィンドウショッピングしながら街を歩いてプリクラを撮って、また洋服やら雑貨やらをとりとめなく眺めている内に、昼過ぎになった。
眞音はかすかとスウィーツで評判のあるカフェに入って、二人、昼食を兼ねたお茶を楽しんでいた。
「月子は、一緒にいて楽」
かすかが彼女好みの甘酸っぱい苺の紅茶を味わいながら、今日は留守番しているドールの話題を持ち出した。
眞音はロイヤルミルクティーの入ったカップを置いて、タルトのサブレにフォークを突き刺す。
「人間(ひと)は、怖いわ。一緒にいて耐えられないとか、そういうんじゃなくって、私には相容れられられないから、怖くて関わるつもりになれない」
「かすか……が?」
「例えば、私、小さい頃からリボンやフリルが大好きで、ピンク色のお城に住むのが夢だった。ただそれは、お姫様への憧れとは違う。どちらかと言えば、お姫様を守る騎士になりたいような子だったわ」
「なるほど、綺麗な女性(ひと)の側に永久就職ね」
「貴女、分かる?!私の気持ち」
眞音は頷く。
眞音自身、ステレオタイプの乙女でありたい一方で、その条件を備えたような姫君に、無償の愛を誓いたいという願望がある。物語のヒロインより、いつだって、騎士や王子に自分を重ね合わせてしまうものだ。
「こんな話、寄越してきたのはかすかが初めて。いつも周りには理解不能って顔、されるから。挙げ句には、じゃあ何でふりふりなんだって訊かれるし」
「そうなのよぉ」
「見かけは大事だけどさ、見かけだけで全部決められるのは、微妙」
「うんうん」
「ちょっと話は逸れるけど、初対面の子と話す時ね、お互い差し障りない話題から入るじゃない?それで私がロリィタだって分かった途端、無理に話を合わせてくれようとしているのが見え見えになるの。お洋服は好きだけど、ロリィタじゃない子って、ロリィタは頭ん中お洋服しかないみたいに思ってるタイプ、結構いたりしない?」
「納得!」
「私、他の話題だってしたいし、その子のことも知りたいんだよ。変に会話が進展しなくて、私が口下手なのかなぁ」
眞音はフォークに掬ったタルトの欠片をまた一口、口に含んだ。
ブルーベリーの酸味とカスタードクリームの優しい甘み、そしてバターの利いたサブレの香ばしさが口いっぱいに広がって、とろけるような心地になる。
つと、世にも芳しい吐息のこぼれた感じがした。
「……生きにくい、と、思うの」
眞音は、妙なる透明感を含んだ声に振り向く。
「皆と同じように学校へ行って、勉強して、皆の期待する通りの話を楽しそうに口にする。……そういうの、面倒臭いわ」
「──……」
色素の薄い、少女の姿をしたドールが、甘ったるい目を伏せていた。
* * * * * * *
かすかは帰宅して寝支度を済ませると、どこもかしこも甘ったるい苺ミルクの色でまとめた私室の窓辺に落ち着いて、月明かりを浴びていた。そうしながら、最愛の親友を抱き締めていた。
親友、すなわち月子は、国内で屈指の腕を持つ人形師を指名してあつらえた、ビスクドールだ。
月子はかすかを裏切らない。永遠の乙女でいてくれる、大切な、大切な、ただ一人の魂の理解者(ふたご)だ。
「月子」
かすかは月子の、どれだけ澄んだ海にも優る、どれだけ煌めく星にも優る、純粋な深みを湛えた瞳に微笑んで、彼女の肩を撫でてやる。
「貴女は、私の最初で最後の眷属だと思っていたわ。私と同じものが好き。貴女は私と同じ世界を、同じように感じてくれているでしょうから……」
けれど、と、柔らかな髪に頬を寄せて、小さなこめかみに口づける。
「もう一人、大事な人に出逢ってしまった。こんな私を、貴女は尻軽だって呆れるかしら?」
それでも、柔らかな月明かりが地上を包むこんな夜、ふっと頭を過ぎるのは、眞音のことだ。
かすかには眞音が必要だ。
自分を理解して受け入れてくれる少女(ひと)ではない。
眞音はかすかの、生まれながらに合わせ鏡に映したような魂を持った、なくてはならない存在だ。
「月子」
かすかは、月子の精巧に象ってある耳朶に唇を寄せる。
「私は貴女が羨ましい」
「──……」
「だって私の大好きな人は、貴女しか見てないんだもの。貴女の大好きな人が、私の──」
初めて愛した人なのに。
優しい乙女は永遠の姫君を探し求めて、月明かりに見守られるに相応しい、白磁のプリンセスに恋をしていた。
かすかは、眞音達といつも一緒に過ごしている小さな狭い楽園を、とりとめなく見回した。
* * * * * * *
「失礼します」
眞音は麻代から念願の報酬を受け取って、生徒指導部室を出た。
扉を閉めて振り向くと、ドールになり損ねた乙女が一人、立っていた。
「かすか!待っててくれたの?」
「偶然よ。私も呼び出し。髪の色を戻せって、小幡先生が五月蠅くって」
「そっか。金髪を暗くするって、大変だもんね。それで先生、さっさと私を帰らせたんだ」
「眞音、報酬おめでとう。それが例の、私を登校させれば先生からもらえるって言っていたあれ?」
眞音は頷く。
もっとも、今となっては、さして必要なくなった。
眞音は、報酬以上に、遙かに大事なものを手に入れた。
「かすか。……あげる」
「直筆サイン入りでしょ?」
「かすかも、うさ子さん好きでしょ。私の今の一番は、貴女だから」
「──……」
眞音はかすかを尊敬していた。憧れの斜め上で膨らんでいった敬愛が、いつしか友情とも恋情ともつかない愛情になって、かすか以外の何を大切と呼べるのか、今や分からない。
ずっと周囲に倣っていた。普通とカテゴライズ出来る定義などどこにもないのに、皆と同じように学校に通って勉強して、理解出来ない会話でも、楽しそうに頷いて、世界に馴染んでいるつもりになっていた。
眞音はがむしゃらに生きているつもりでいながら、何もかも諦めきっていただけだ。
かすかに出逢って世界が変わった。魂(こころ)が、その生き方に共鳴した。
彼女なしの毎日なんて、もう考えられない。
かすかは眞音と入れ替わりで生徒指導部室に入っていって、そこそこ早く戻ってきた。
眞音はかすかと校門を抜けて、下校中の生徒らの波に混じって、家路をゆっくり歩いていた。
「今日どうする?家、来ない?」
「かすかの?うーん……いつもお邪魔してばっかりだし、なぁ……」
「どうせ親は夜まで帰ってこないもの、来て来て」
腕に、無邪気な細い腕が絡みついてくる。
眞音は鈴を転がすような笑い声に酔い痴れながら、いかにしても頬が緩んでゆくのを自覚する。
「じゃあ、今日はかすかがうちに来て」
「良いの?!」
「とっても可愛い絵本があるの。かすかも私も、お姫様には憧れられない性分だけど……ドレスはうっとりしちゃうよぉ」
「え……。何で?」
「何でって、……お姫様になるよりは、綺麗な女性(ひと)の側に永遠の愛を誓える騎士や王子に憧れるって……」
子供騙しなお伽噺の話題をしていて、意気投合したはずだ。
眞音が言外にいつかの週末交わした会話をほのめかせると、かすかの一重の目許を飾った瞳が、不思議そうにたゆたった。
「私……そんなこと、言ったの?」
「──……」
つと、眞音は、得体の知れない違和感を覚えた。
以前ならかすかを見つめて押し寄せてきた感覚が、まるで色を変えていたのだ。
目前の少女は、確かに少女の肉体を借りた、気高いドールの魂を宿したような姿をしている。それはかすかが持ち得ていた雰囲気で、眞音は彼女のそんなオーラに惹きつけられていたものだ。
今のかすかは、ドールの魂を宿したような、とは言い難い。
本当にドールの魂を宿した、とでも言うべきか。
「つ……つ、き……」
ありえない。ある一つの可能性が頭を過ぎるも、すかさずそれを否定した。そんなことがあってはならない。
「眞音」
「…──っ」
肩に、柔らかな重みが乗っかってきた。
公共の面前で頬を預かるなんて、はしたない。
そうして気が咎めるのに、やはり嫌な感じがしない。
「人間の皆さんの中に、ドールに焦がれる女の子がいるように、ドールの皆の中にも、人間に焦がれすぎちゃう子がいるみたい。そして」
「か、かす……」
「好きになった人の側に行きたくて、月の魔力を使っちゃう子も」
「…──!!」
やにわに寒気が押し迫ってきて、かすかの顔を覗き込む。
どれだけ澄んだ海にも優る、どれだけ煌めく星にも優る、純粋な深みを湛えた双眸が、まるでガラスの硬さを帯びていた。
──fin.
妖精カテドラル