良人(おっと)が亡くなった。

 心筋梗塞で運び込まれた病院で、二日前、息を引き取ったのだ。
 折原聡子(おりはらあきこ)は一人になった。
 もっとも、つがいと分かたれた世の刀自達のように、比翼をもがれた類の哀惜に打ちひしがれることはない。

 ただ、胸が張り裂けんばかりに悲しく、悔しい。

 兄か、親友か。
 さように大切な人間を喪えば、誰でも平気ではいられない。

 聡子にとって、五十年近く連れ添ってきた亡き良人──次郎は、優しい兄で、頼もしい友人だった。

 次郎が綺麗だと誉めてくれた黒髪も、しみ一つなかった肌も、今や徒花の如く衰微した。
 されど最後の最後まで、次郎は聡子を女性として視てくれた。聡子も、彼を一人の人間として尊敬し、慕っていた。

 その良人が、もう、いない。

 聡子は葬儀の列にいた。
 今まさに、聡子の最も近しい人間を弔う葬儀が、厳かにしめやかに行われている。

 五十年近く連れ添った、次郎の眠る棺に菊の花を手向ける。

 聡子の隣で、今年二十七になる孫娘の折原こずえが目を真っ赤にして、蝋人形の如く祖父を懐かしんでいた。
 こずえは洋服店に務めている。普段は着道楽な彼女も、今日は、艶やかな化粧を落ち着かせ、明るい栗色の髪をシニヨンにまとめて抑えていた。

 「安らかなお顔……。お爺様は、お幸せだったでしょう。お亡くなりになる最期まで、お婆様やお母様がお側にいらっしたんだもの」

 こずえのたおやかな指先が、次郎の肩近くに菊を添える。

 今日、こずえが身を包んでいる黒い着物は、聡子が貸してやったものだ。
 昭和末期に生まれた彼女に、箪笥に喪服を備えておくといった習慣がない。しかるに、祖父の急死に応じられるだけの、準備が間に合わなかったのだ。
 聡子は、自分の娘時代に持っていた喪服を、こずえに着せた。
 何十年も押入の中に眠り続けている、もう袖を通す機会はないだろう洋服や着物が、聡子には腐るほどあった。

 「お前が来てくれたのだって、次郎さんは幸せだよ」

 「だと良いわ」

 「お前を、目に入れても痛くない孫娘だと、次郎さんは仰っていた。こんな所で言っては何だが、あたしの和服もよく似合う」

 「お婆様と私、似ているの?」

 「ああ。こずえは若い頃のあたしに似ておる。永子より、下手すりゃ似ているかも知れん」

 永子とは、こずえの母親、つまり聡子の一人娘だ。

 実際、実の娘の永子より、こずえの方が聡子に似ていた。
 姿かたちだけではない。しっかり者で世渡りの上手い永子に引き替え、こずえは人懐っこく辛抱強い。さような気性も、こずえの方が聡子に近い。
 くっきりした目許に小ぶりの鼻──笑うとえくぼが浮かぶ頬は色白で、薄い唇の端は、しかと結んでいてもほんの僅か上を向いている。とりわけ背丈は高くないが、撫で肩が、和服をひときわ引き立てる。

 聡子は、孫娘と顔を合わせる度、在りし日の自分自身を思い出す。

 あの頃が、一番、幸福だったかも知れない。

 良人を得て、子を授かり、家族というものを築いていった。聡子は、周囲の誰もに認められる円満な家庭の中にいて、何一つ不満も不安もなかった。
 二日前、次郎が亡くなる直前まで、聡子には不自由など何もなかった。

 それでも、娘時代に優る幸福はない。

 「こずえ……」

 聡子はこずえを引き寄せる。

 良人の亡骸をだびに付せば、聡子はひとりぼっちになる。
 永子やこずえは頼もしい肉親だが、彼女達には、それぞれの生活がある。毎日構ってもらうわけにはいかない。
 何より、聡子の日常に折原次郎がいないのでは、いかにしても違和感がある。

 ひとりぼっちになってしまったが、この世にたった一人きりではない。

 確かめたくて、聡子は孫娘の肩を抱く。
 聡子は肉づきの薄いこずえの身体に、やはり、若かりし頃の自分自身を彷彿とするのだった。

* * * * * * *

 次郎の四十九日の法要も経て、聡子の生活は日常に戻った。

 否、「日常に」と言うには些か早い。

 住み慣れた家がやけに広い。

 移り変わる四季に倣って色を変えてゆく長閑な庭が、却って侘びしく寂しく見える。

 聡子には、この広い家の中で何をしていても、それらが失った何かを埋めるべく行為でしかないようだ。埋め合わせ出来ればまだ良いが、何も埋まらない。

 ただ、虚しい。

 聡子は今日も、不毛な行為に打ち込んでいた。
 さして汚くもない居間を掃除していたのだ。

 居間にある引き戸の向こうに縁側があり、庭が見える。

 枯れ葉が、冷たい風にそよいでいた。

 『わしの頭も、あの木みてぇになったらたまらんわ。なぁ?聡子さん』

 聡子は居間から、小石の混じった自然の絨毯に聳える、丸坊主の樹木を眺めていた。

 耳の奥で聞こえるはずない声を聞く。

 『わしの頭があんなになっちゃあ、聡子さんに嫌われりゃあ』

 楽しげな次郎の声が、聡子の意識にこびりついて、離れない。

 あの時、聡子も次郎と一緒に笑った。

 僅かながら散らかったものを片付けていた聡子の手は、完全に止まっていた。

 新聞やら鉛筆やらを卓袱台に置き、腰を上げる。

 押入を開けて、中の引き出しを引くと、一ヶ月前に使ったきりのシャベルがあった。
 使い古した赤いシャベルが、それでもぴかぴかに磨かれているのは、使った後、必ず土を拭っているからだ。

 聡子は、シャベルを持って庭へ向かった。

* * * * * * *

 三波眞子(みなみまこ)という少女がいた。
 聡子が年頃だったその昔、実家の邸に上がっていた奉公人の一人だ。

 五十年以上も前のことである。

 眞子は聡子付きの待女だった。
 控えめで、目鼻立ちもさしてぱっとするところがなく、ただ、とてつもなく思慮深い少女だったことを覚えている。
 手織物工場の女工を母に、少女雑誌の挿し絵を得意とする絵描きを父に持つ眞子は、彼女自身にも腕があった。彼女の絵を、聡子はよくせがんだものだ。
  
 聡子は、眞子とすぐに打ち解けた。

 眞子は、雇い主の娘と奉公人という立場上、聡子に遠慮していたきらいもあった。
 しかしながら、主従という間柄を超えたさながら姉妹愛で、瞬く間に二人は結ばれた。まして同い年だったから、少なくとも聡子は眞子に気安く接した。

 やがて聡子は、眞子に、その他大勢の友人達とは何か違うものを感じるようになっていった。

 いつからだったろう?

 女学校に入って間もない頃は、一緒にいて楽しかった。
 春には花を摘みに行き、夏には川辺で、近所の娘達とかくれんぼをして遊んだ時も、聡子は眞子と一緒が良かった。
 秋、眞子は紅葉狩りを喜んだ。彼女の笑顔がまぶしくて、聡子も紅葉が好きになった。
 冬の寒い日は、手を繋いで町を歩いた。

 だのに、心も身体も大人の女性に近づくに連れ、聡子の眞子に対する友情は、みるみる冷めていったのだ。

 『お嬢様。お時間です』

 『……ん。眞子?!ちょっと、見ないで!』

 朝、寝床に起こしに来てくれた眞子に癇癪をぶつけたこともある。
 寝顔を見られるということが、とても恥ずかしかったのだ。

 もどかしい日々が、続いた。

 聡子と眞子が十八になる春、苦しみの原因が分かった。

 当時、聡子は少女向けの月刊誌に夢中だった。
 モダンガールのファッションから、読者とライターの問答による美容や恋愛相談、そして少女と少女の繊細な心理が交差してゆく模様が綴られた、優美で切ない少女小説が、そこに詰め込まれていた。眞子の父が手がけた挿絵もたくさんあった。

 少女小説のヒロインが、聡子の中で、自分自身に重なった。

 聡子は、それまで不可解だった眞子への感情の正体を、解した。
 顔も知らない赤の他人の文章から、ヒントを得たのだ。

 二人出逢った頃は、毎日が楽しかった。
 今でも一緒にいると幸せな、特定の少女がいる。
 ただ、誰より彼女の近くにいるのに、彼女と関わる度、誰より自分は気が休まらないのではないか。
 彼女とは、本心で交わりたい。それなのに、自分の全てをさらけ出し、否定されたらと思うと怖い。彼女の前に出ると自分は、自ら虚飾してしまう。

 彼女を、世界で一番好きだからだ。

 彼女の瞳が自分以外の少女を映し出せば、得も言われぬ不安と寂しさに襲われる。
 彼女と確固たる結びつきを欲しては、まだ見ぬ二つ目の世界に閉じ込められて、新たなアダムとイヴになるというような空想を想い描く。そうして溜息をこぼす自分がいるのだ。
 しかし、自らエゴで彼女を縛り付けたくはない。それなら、空虚の痛みが膨れ上がる前に、彼女に忘れ去られてしまいたい。

 というのは虚心だ。

 自分がどこか遠くへいっても、せめて魂(こころ)の片隅で、彼女が覚えていてくれるなら、どんなに良いか。自分が消えてしまったら、美しい涙を捧げて欲しい。忘れられることが怖い。

 否、どこか遠くへゆくことを、彼女が縋って止めてくれるなら──。

 あらかた、ヒロインの心理描写はこのようだった。

 聡子は悔しかった。
 自分がどこかの知らない誰かに観察されて、ロマンスの材料に使われた。
 ともすればさような被害妄想にとり憑かれてもおかしくなかった。それだけ聡子は、件の雑誌の少女小説のヒロインから、自分自身を聯想したのだ。

 聡子も、眞子に、身を焼かれるほど愛慾の焔を燃やしていた。

 眞子を嫌いになったのではない。

 聡子はそれが分かった途端、一種の苦しみから解放された。
 眞子に気安く接することが出来なくなったのは、醜い感情が差し込んだのではなかったのだと分かったからだ。

 もっとも、それからが大変だった。

 一度意識した感情は、自覚のなかった頃より、操作しづらい。

 聡子は、眞子の顔を、とうとうまともに見られなくなった。







 聡子はある時、眞子に対する想いを、信頼している母に打ち明けて、相談した。

 『聡子さんは優しいのね』

 『優しい……?』

 母の第一声は、まるで不可解なものだった。

 母から、もっと適切なアドバイスが欲しかった。
 聡子が首を傾げてみせると、母は聡子の大好きな穏やかな表情を浮かべて、言葉を続けてくれるのだった。

 『聡子さんは、眞子さんに十分、慈悲を与えて差し上げていらっしゃるわ。こう言っては何だけれど、お嬢さんが奉公の娘にこれほど良くしてあげるなんて、滅多になくてよ』

 『あのね、お母様。あたしの話、聞いて下さっていた?あたしが今悩んでいるのは、あの人を侍女として見られなくなったことで……お友達として、やっていけなくなったからなの。女性として、眞子さんに愛情を持ったからなの』

 『そう。ねぇ、聡子さん。聡子さんに、眞子さんをそこまで面倒見て差し上げる責任は、ないのよ。眞子さんには、お父様がちゃあんと、給与を支払って下さっているのだから』

 『お金の問題ではないわ。それに面倒を見てもらっているのは、眞子さんじゃなくって、あたしよ』

 聡子は歯がゆさを感じ始めた。
 母との会話が、まるで噛み合っていなかったのだ。

 昭和の初期、まだまだ良妻賢母が優れていると、評価されがちな時代だった。
 誰が決めたのか、女は男を愛するもので、男は女を愛するという偏った考え方が蔓延していた。

 女である聡子が、女である眞子を愛しているという現実が、母にはぴんとこなかったのかも知れない。

 『あたしは、お母様……眞子さんをお嫁さんに迎えたい、そういう愛情で愛しているの』

 母は、やはり穏やかに口許を弛ませるばかりだった。

 『聡子さんの愛は、同情よ。第一、議員の娘と奉公人なんて、お友達としても感心しないわ』

 ああ、そうか、と聡子は覚った。

 父にも母にも、さような性格が昔からあった。
 女や男の問題ではない。人間の価値は、地位や家系で決まる。
 彼らには、かくいう考え方が定着していた。

 聡子と眞子とでは、生来、友人にもなれなかったのである。
  
 女学校を卒業して、聡子は茶道や縫い物を習いに通った。しかるべき家柄の娘らしく、箏や舞踊も嗜まされた。

 当然、聡子の側には眞子がいた。
 日陰に咲く花の如く聡子の侍女は、自ら仕える令嬢に誠実だった。

 聡子が十九歳になった秋、見合いの話が舞い込んできた。

 相手は、折原次郎(おりはらじろう)だ。

 次郎は、聡子の父が属する政党の有力なパトロンの息子だった。彼との縁組みは、聡子の家にとって、またとない話だったのだ。

 本人二人は蚊帳の外──親同士が話を進めて、翌年の春、華やかな婚礼の式が挙がった。

 夏に、眞子の縁談もまとまった。聡子の母の知人がとりなしたのだ。
 実家に近い都会の邸の若夫人となった聡子に引き替え、眞子の嫁ぎ先は片田舎の農園だった。汽車で片道四時間かかる。

 眞子が旅立つ二日前、聡子は、活動写真に彼女を誘った。
 軽佻な男女の恋愛模様が描かれた、よくある活動写真だった。唯一、誉められる点を挙げるなら、役者達が並外れて美形だったくらいではないか。

 夕方、薄い余韻を引きずりながら、聡子は眞子と川辺を歩いた。

 あんな活動写真を観た所為か。
 聡子は、久しく眞子への感情が分からなくなっていた。
 昼間観た美しい男女の関係を恋と呼ぶなら、聡子の想いは恋ではない。眞子に抱く感情は、彼らの内包していたものほど薄っぺらくはなかったからだ。

 『お嬢様』

 眞子が足を止めた。彼女の方から立ち止まるなんて、珍しかった。

 このまま時が、止まれば良い。

 明日という日が来なければ良い。

 聡子はそんなことばかり考えていたものだから、眞子の稀に見る態度を気にかけるだけの余裕がなかった。

 風に揺れる川の水面(みなも)が、まるで聡子の願いを嘲笑っているようだった。

 聡子は、眞子の隣に立ち止まった。
 ろくにおしろいも叩かない、二本の長い三つ編みを耳許から垂らした侍女は、いつまでも少女らしさが抜けなかった。

 聡子と眞子は見つめ合っていた。

 どれくらいの間そうしていたか。
 長いようで、うたかたにも似たひとときだった。
 動きそうで動かない、二人の唇は、きっと何かを押し隠していた。

 沈黙を打ち切ったのは、眞子だった。

 『お嬢様に、贈らせていただきたい物が御座いますの』

 いつもの眞子らしくいじらしい、恥じらいを含んだ声だった。

* * * * * * *

 背の低い、こんもり丸みを帯びた椿の木の根本から、シャベルを抜いた。

 聡子は、若干の汗をかいていた。
 これだけ何かに熱中したのは久々だ。

 胸が熱い。聡子が良い汗をかいたように、その鼓動も激しく動いて、熱を得たのか。

 今し方掘ったばかりの、三十センチメートルほどの穴の中に、手を伸ばす。
 更に一、二度、湿った土を爪で払うと、白い小箱の角が見えた。

 土を掘る。

 爪に土が入らないよう、優しく、優しく、土を掘る。

 聡子は、とうとう白い小さな箱を取り出した。五十年近く椿の木の根本に埋まっていた禁断の箱は、ほぼ全体が薄茶や灰色になって汚れていた。

 "眞子さん……"

 この箱を探し出す間、聡子の目蓋の裏側に、ただの一度も次郎の顔は浮かばなかった。十九の夏、別れた侍女に、一目会いたいとばかり考えていた。

 眞子は今、どこかで幸せに暮らしているだろうか?

 聡子がそれなりの平穏を得たように、眞子も、ぬくぬくとした人生(まいにち)の中に身を置けたろうか?

 会いたい。

 五十余年越しの想いを伝えたいなんて、大それた贅沢は言わない。

 聡子はただ、眞子に会いたかった。

 箱を開く。
 中に、眞子が発つ二日前、彼女がプレゼントしてくれた首飾りが収まっていた。
 ペンダントトップがリングになったシルバーの首飾りが、奇跡さながらにまぶしく輝る。
 聡子には、この美しい贈り物をしてくれた眞子の真意が、未だ分からない。ただ、この首飾りのように、眞子自身も、永遠に穢れないような美しい魂(こころ)の持ち主だった。

 「眞子さん……眞子さん……」

 首飾りのリングに口づける。
 無機的な銀色の塊が、どういうわけか、たまらなく温かい。

 折原次郎は優しかった。
 されど、それだけでは彼を愛する理由にならない。
 聡子は、いつだって、今掘り返したペンダントをくれた少女の面影を追い求めていた。聡子の身も、魂の一欠片さえも眞子のものだ。
 ただ一言、眞子に好きだと伝えていたら、運命は変わっていたかと何度悔やんだことだろう。

 銀のリングは、指に填められそうなほど存在感がある。
 それでいて、聡子の人差し指に填めるには、僅かに小さい。

 もしや、薬指なら合うのか──。

 ペンダントの留め具を外しかけた時、チャイムが聞こえた。
 聡子は、玄関から聞こえた機械音に耳を打たれて、久しく昭和から平成の浮き世に引き戻された。

 縁側に上がる。
 掘り返した土もシャベルも放ったまま、ペンダントは手首にかけて小箱を手に、急いで玄関へ向かう。

 聡子の靴と、未だ片付けられないでいる次郎の靴とが並んだ玄関の土間に降りる。

 聡子は手近な下駄をつっかけて、引き戸を開けた。

 戸口の外に立っていたのは、夢にも思わなかった訪問者だ。

 思いがけない訪問者、一人の刀自は、しゃんと背筋を伸ばして聡子を待ってくれていた。
 聡子は一瞬、彼女が誰だか分からなかった。

 刀自は、垢抜けていた。

 「お嬢様……でしょう?聡子様……」

 紅をひいた唇が、なめらかな声を発した。

 「お嬢様……お嬢様っ……」

 聡子は、久しい訪問者に背を向けたくなった。恥ずかしく、穴があれば入りたい衝動に襲われたのだ。

 聡子は変わった。

 かつての黒髪は衰えて、顔中シミや皺だらけだ。世辞にも、娘時代の名残はない。
 それに引き替え目前の刀自は、変わった分、美しさに脂が乗っていた。

 聡子には、自分を訪ねてくれたこの女性──眞子に合わせる顔がない。
  
 眞子の腕が伸びてきた。
 聡子の身体が動かなくなる。

 小箱が、地面に落ちた。
 手首にかかったペンダントが、黒いひっつめ頭の眞子の羽織ったショールの裾に引っかかる。

 懐かしさでいっぱいになる。

 「眞子さん……」

 思い直す。
 聡子とて、募らせてきたものがあったのだ。胸を張れるものがある。

 生涯をかけて愛するだろう、今自分を抱き締めてくれている女性への、愛の深さだ。

* * * * * * *

 いつもと変わらない朝だ。

 こずえは、勤務先の洋服店のシャッターを開けた。

 売り場を抜けた先の、関係者以外立ち入り禁止のバックルームの少し手前で、先に出勤していた小高きさら(こだかきさら)とはち合わせた。

 「あ……おはよう御座います」

 「おはよう。早いわね」

 「電車、いつもより一本早めに乗ってしまいましたので」

 きさらが、爽やかに口許を弛めてはにかんだ。清楚な目鼻立ちが好ましい。
 彼女の真珠の如くまばゆい素肌を、肩より少し長いくらいの黒い巻き毛や、黒いゴシックロリィタの洋服が、今朝もひときわ引き立てていた。

 こずえはバックルームの扉を開けて、ハート型のショルダーバッグをラックに乗せる。
 襟元にファーがあしらってある、裾のスカラップから二段のケミカルレースのフリルが覗いたコートを脱いで、ハンガーにかける。

 毎朝の身嗜みチェックに備えて置かれた、前身鏡の前に立つ。
 深いピンク色のワンピースを着た、栗色の髪をしたもう一人のこずえの姿が、その向こうに確かめられた。
 パニエの膨らみ具合は問題ない。ワンピースの下に合わせた、ブラウスの襟も曲がっていない。

 ただ、二つに結んだ髪が少し乱れていた。

 こずえが手櫛で自分の髪をとかしていると、きさらが開店準備に取りかかっていた。

 「あ、ごめん」

 「大丈夫です。それより折原さん、ピンクやっぱりお似合いですね」

 「きさらちゃんこそ似合うわよーきっと。着ないの?」

 「クローゼットに黒しかありませんから」

 「貸してあげるわ。そうだ。二ヶ月前のお礼も、まだだったでしょ?お食事。その時ね、お洋服取り替えっこしてみない?」

 こずえは、鏡から踵を返す。
 きさらが、金庫を開けて、今日使う釣り銭をレジの中に準備していた。

 二ヶ月前、こずえの祖父、折原次郎が亡くなった。
 急な訃報だったから、こずえはスケジュールを調えるのに一苦労した。既にシフトは決定していたものだから、店を休んで通夜と葬式に行くために、代わりに出勤してくれるスタッフを見付ける必要があったのだ。

 そこで、きさらが快くこずえの代理を引き受けてくれた。

 無事、通夜と葬式に参列したこずえは、後日きさらに礼をすると約束した。

 それきり今に至るのだ。

 「気にしないで下さい。冠婚葬祭と病気は仕方がないって、よく言うじゃありませんか」

 「本当に、助かったわ。あの日、きさらちゃんが出てくれないと、店長一人になっていたし……」

 こずえは、掃除用具のある戸棚からはたきを出す。
 アクセサリーが並んだショーケースに向かう。

 「お祖母様は……」

 きらさが、こぼれ出た声を止めた。

 こずえに遠慮してのことか。

 祖父を亡くしたこずえはもちろん、つがいと分かたれた祖母のことも、彼女は案じてくれていた。

 もっとも、こずえには、きさらを安心させられるだけの言い分がある。
 しかしながら、こずえはそれを正直に打ち明けるか打ち明けまいか、結論を出すまでに暫しのゆとりが欲しい。

 「あのね」

 「はい」

 「あのね、きさらちゃん」

 深呼吸置く。
 きさらの緊張した面持ちに、良心の呵責を起こしながら、こずえは重い口を開けた。

 ──お祖母ちゃん、昔の彼女が戻ってきて、今すごく絶好調なの。

 きさらが相好を崩した。







 「そう言えばきさらちゃん。きさらちゃんのお祖母様って、お亡くなりになる前、幻をご覧になっていたそうね」

 開店準備を一通り終えたこずえときさらは、手持ち無沙汰に洋服を畳み直していた。

 きさらの祖母は、生きていれば、奇しくもこずえの祖母と同い年だ。亡くなったのは十五年前らしく、特に感傷に浸る風でもなく、たまにきさらは亡き祖母の思い出を語って聞かせてくれていた。

 「とっても綺麗な女の人の幻をご覧になっていたって……」

 「そうですよ。五十代でボケが入っちゃっていたんでしょうか」

 「まさか」

 それはありえないだろう。
 こずえは首を横に振る。

 「ええ。祖母にも、ボケた自覚はありませんでした。でも、彼女が恋人と呼び、愛していると目を輝かせて私達に紹介してくれていたらしい人の姿は、私達家族にはちっとも見えなかったんです」

 「それって、幽──」

 「祖母のお父様は、小さな女の子達に割りと人気の絵描きさんでした。祖母にも、若い感性があったのかも知れません。幻の女の人に、とうとう名前まで付けちゃって」

 興味本位で訊ねたことを、後悔した。

 こずえは、この手の話が苦手だ。

 そう言えば、赤信号は、時に渡りたくなるから危険なのだ。
 もっとも自分から訊いておきながら、今更、きさらに話を止めさせられない。

 「もし」

 きさらの声から、心なしかトーンが落ちて聞こえた。
 彼女が、羨ましいほど器用な手先で、五枚目のカットソーを畳み終えた時のことだ。

 「もし本当に、祖母が見ていた幻の女の人が、祖母の昔の記憶にいた人なら」

 「いた人なら?」

 「祖母は、亡くなる直前まで、その女性を愛していたんだと思います」

 祖母は彼女の面影を想って、添い遂げられなかった苦しみから、神経衰弱にかかって死に至ったのですから──。

 「祖母の愛した幻の名前は、聡子といいます」

 瞬間、目眩がした。

 こずえは、折原聡子の許に現れた彼女の恋人の名を、きさらに明かすまいと決めた。







──fin.
妖精カテドラル