* * * * * * *
くすんだ若草色のカーテンが垂れ下がった小窓から、蜜色の光が漏れてくる。しんとした密室に、遠くでざわめくさんざめきが聞こえてくる。
芽室ゆづき(めむろゆづき)は、生徒指導部室にいた。一日の授業を終えて、掃除当番の仕事をこなして、いざ部活に向かうところで呼び出されたのだ。
簡素な机を一つ挟んで、ゆづきの座らされた向かい側のソファに、生徒指導部長の教員がふんぞり返っている。
この教員、仁科こはる(にしなこはる)は、筋金入りの鬼教師だ。
ゆづきの通う、ここ、私立高縞(たかしま)学園中高等部は、とにかく校則が厳しい。校則ではなく拘束だ、と、一部の生徒らが揶揄するほどだ。
その高縞の、高等部三年、つまりゆづきより一学年上の学級に、こはるの一人娘も在籍している。
娘はそれほどでもないというのに、母親の方が手に追えない。
ゆづきは、こはるの嫌みったらしい先入観や偏見丸出しの話をBGMに、睡魔と闘っていた。
「大体、貴女はたるんでいます。染髪もピアスもスカート丈も、何度言えば直すんですか?これは規則です。学生らしく、ちゃんとナチュラルになさい。何です、まぁそんなに赤い爪をして……マスカラだけなら貴女の他にも注意が必要な生徒はいますが、睫毛にエクステを付けるなんて聞いたことがありません……!」
こはるの拳がわなわな震えて、角張った肩にまで振動していた。
彼女の顔はきわめて薄化粧なのに、六十近くの女性にしては珍しく、シミもたるみも全くない。黒い髪は一つの団子にまとめてあるだけで、険しい目つきが、すっきりした容貌に刺々しさを添えていた。
ゆづきは、くるぶしまであるグレーのプリーツスカートのかかった脚を、組み直す。
アッシュの入った金髪を、手櫛でとかす。
「何です。その話の聞き方は」
「別にィ。いっつも同じ話ばっかで、耳タコだなぁって、ウザったいだけ」
「あ、あっ、貴女──」
「それよりあたし、これから部活なんですよねー。センセの可愛い可愛いお嬢さん、部長が心配しやがると思うんで、もう行って良いですか?」
ゆづきはソファを立ち上がる。
こはるの顔が真っ赤になろうと、関係ない。
「待ちなさい!芽室さん!昼休みの件だって──」
「セーンセ」
ゆづきは、こはるに手のひらを突き出す。
無言で制止の姿勢をとって、鬼教師ににんまり笑う。
「昼休みの件は、あっちが喧嘩を売ってきやがったんです。あたしの大事な大事な恋人と、昔撮ったプリクラを、わざわざあたしの机の側に落としやがったんですよ。人の道に反しますよねぇ?」
「あの真面目な禮堂さんが、プリクラや恋愛をなさるはずないでしょう!」
「その真面目な禮堂知幸(れいどうちゆき)。あんたの大事な……おっと」
「何です」
「いーや、何でも」
「とにかく、貴女は生活態度が悪すぎます。制服はまともに着ない、他校の生徒と喧嘩はする……今度このようなことがあれば、反省文を百枚書いてもらいます」
「反省文上等。文芸部なんで、書き慣れてるし」
「英語の課題を一ヶ月分出します!分かりましたか?!髪も化粧も爪も直しなさい!」
「へいへい、じゃ、行きまーす」
「芽室さん!!」
絹を裂くような悲鳴に追いかけられながら、扉の向こうに駆け出す。
廊下は走るな。
また、こはるの喚き声が後方から聞こえてきたが、振り返らない。
ゆづきは、黒髪にグレーのブレザー、もしくは学ランに身を固めた、揃いも揃って同じ恰好をした生徒らの波を縫って、文芸部の活動場所に走っていった。
生徒指導部室がある廊下を突き当たって、右側の階段を昇って三階にある自習室に駆けつけた。
ゆづきの所属している文芸部は、本来、別の校舎に部室をあてがわれている。しかしながら、近年、部員の数が収容数を上回っているために、やむなく自習室を使用することとなったらしい。
ホームルームより一回り小さい教室の、スライド式の扉を開ける。
「ちーっす」
教室内を見回すと、あの憎きこはるの一人娘を始めとする、大半の部員らが揃っていた。
「おはよう、芽室さん。母に絞られていたんですって?」
「お疲れ──」
「衣那ぁぁっ!!」
ゆづきは、部長、仁科たまねの隣で写真集を広げていた少女に目が留まるなり、飛びついた。
「会いたかった会いたかったぁぁっ」
今し方飛びついた少女、同級生の朝飛衣那(あさひえな)の肩に頬をすり寄せる。
まるで飼い主に甘える仔ウサギの仕草で、衣那の隣の席に落ち着く。
衣那を挟んだ一つ隣の席に天敵の愛娘、たまねがいても、気にしない。
「さっき会ったばっかりだけど……可愛いね、ゆづきは」
しっとりした甘いメゾの声に、文字通り胸がきゅんとする。
ゆずきの頭に、ぽん、と、優しい手のひらの感触が降りてきた。
「ひどいんだぜー……あのババァ。あたしがちょっくら昼休みにお前の元カノと喧嘩しただけで、イジメみたいに言ってきやがる。おまけに素行だの服装だの……」
「ゆづは強いから、先生達も先入観あるんだよ。君は心配しないで。色々あったけど、彼女のことは、私、仁科先輩に負けたから」
下ろしっぱなしの金髪が、緩慢な手つきで撫でられる。
とりわけ個性的でもない少女らしい声も、衣那のそれだというだけで、不思議な媚薬を孕んで聞こえる。
「ゆづ」
「衣那……」
衣那に腕を絡みつけたまま、顔を上げる。
彼女の少女にも少年に見える面立ちは、綺麗なドールを彷彿とする。柔らかで切なげな双眸が、ゆづきを見つめてくれていた。
光に当たるとほんのりピンク色のヴェールがかかって見える黒髪は、ゆづきより少し短くて、肩につかないほどのシャギーにしてある。
ゆづきは、衣那のその奥二重の綺麗な目許やきめ細やかな首筋が、不特定多数の生徒の目を惹いていることを知っている。
「負けたなんて、思ってないでしょう」
たまねがワープロのキーボードを叩きながら、ゆづきらに目だけを向けてきた。
「知幸と私が付き合ったのって、貴女達が別れた大分、後だったもの。衣那に振られたって、あの子、初めは私に泣きにきただけだった。あれがきっかけだったようなものだし、今でも不安だわ」
ゆづきは、母親とは似ても似つかないたまねを見つめる。
「芽室さんを、都合良く思っているわけじゃないし……知幸が泣いたのは貴女の所為。だけど、今は、貴女がいてくれて安心している。じゃなかったら知幸、朝飛さんとこ戻っちゃうでしょ」
たまねの大人びた切れ長の目許に囲われた、思慮深そうな瞳の奥が、底知れない色を湛えていた。長い黒髪を一本の三つ編みにしたヘアスタイルがよく馴染む、すっきりした面立ちに、憂わしげな影がちらつく。
ゆづきにはどうでも良いことだ。
鞄から書きかけの原稿用紙を引っ張り出す。
放課後に部活を割り当てようなんて、半年前まで考えてもみなかった。
ゆづきにとって放課後とは、喧嘩やパチンコに精を出すためにあるものだった。
衣那に出逢って、変わった。
ゆづきは衣那と恋人と呼べる関係になって、考え方が一転した。
一秒でもたくさん衣那と同じ時間を過ごしたくて、この部活の門を叩いたのだ。
「ロリィタちゃんと、生徒指導部長の娘。王子様と、元不良。私達の話、冊子で出せば面白いかも」
たまねが、指先でペンを回しながらぼんやり呟く。
衣那が一瞬、固まった。
「あらダメ?だって、恋愛的な交際が固く禁じられたこの高縞で、鬼教師の娘が一コ下の美少女と、毎日甘い時を過ごしている。私服がナチュラルに王子様ばかりの貴女は、私服がナチュラルにロリィタちゃんばかりの知幸を振って、超が付く不良だった芽室さんに傾いた。なかなかある話じゃないわ」
「先輩……マジでやめましょうよ」
「それが人にものを頼む時の態度?」
「…──っ」
ゆづきは、たまねの冷ややかな視線を手許に感じた。
資料やら原稿用紙やらが広げてある机の下で、ゆづきと衣那の片手と片手が、ことに意味なく絡まっていた。
ゆづきは衣那に、白い薔薇のブリザードを握らされていた。
棘が除去してある茎に、小さな紙切れがリボンで結んで留めてある。
「手紙、読んで良いわよ?」
たまねがにっこり微笑んだ時、扉の開く音がした。
「たまね様ぁぁっ!」
鈴を鳴らしたように軽らかな、俗に言うウィスパーボイスが、教室内に凛と響いた。
「知幸!」
たまねの顔が、みるみる輝く。彼女の天使が現れたのだ。
朗らかに現れた知幸は、昼、ゆづきに罵詈雑言を浴びせたことなど、すっかり忘れているようだ。白くて小さな顔を煌めかせながら、たまねに手を振っている。ツーサイドアップに結ったロングヘアは、どう見ても形状記憶パーマとやらがかかっているのに、生徒指導部室に呼び出されないのかが果たして疑問だ。
もはやたまねの眼中に、ゆづきや衣那は入っていなかろう。
ゆづきは、ブリザードに結んであるリボンを解きにかかる。
衣那のくれた紙切れを開くことが出来たのは、皮肉にも、昼休みの喧嘩相手が押しかけてきたお陰だ。
* * * * * * *
衣那が白薔薇に添えてくれたメッセージは、今夜、泊まりに来ないかというものだった。
彼女の両親は共働きで、姉は都会に上京している。そのため屡々、夜、家に一人になることがあるのだ。
部活の後、ゆづきは衣那の家を訪れた。
衣那の住む一軒家は、ごく普通の住宅街の中にある、きわめて一般的なものだ。
敷居を跨げば、やはりさして特徴らしい特徴もない廊下が続いていて、扉や額縁がちらほらある。
二人、玄関から衣那の私室に真っ直ぐ向かった。
二階に上がってすぐ手前に、通い慣れた部屋が見えた。
ゆづきは、衣那の開けてくれた扉を抜ける。
視界がぱっと明るくなった。
途端に、小さな悲鳴が、思わず喉から飛び出た。
ゆづきの部屋とはまるで違う。格闘漫画にパチスロの攻略本、原付のカタログやロックミュージシャンのブロマイドなど、どこを見回しても見当たらない。
否、根本的に、住む世界が違うのか。
「おい」
「ん?」
「豪華になってねぇ?」
照明が、まず白熱電球ではなくなっている。
先週まで、文字が見やすい程度に室内の明かりは白かった。それが赤いシャンデリアと蜜色の豆電球に変わっていたものだから、早速、目がぱしぱしし出す。
見渡せば、そこかしこに球体間接人形や、包帯を巻いたパンダのぬいぐるみ、髑髏のオブジェや燭台や、百合十字の刻まれた収納ボックスが並べてある。量が、増えている。
ベッドは変わらず、赤い花柄のシーツが目に鮮やかな、天蓋付きだ。カーテンはレースで蜘蛛の糸が張ったような装飾がしてある黒いもので、遮光の効果は抜群だ。クローゼットやテーブルは、某乙女系家具専門店のウェブ通販で揃えたものだと、前に聞いたことがある。
ゆづきが唖然としていると、腰にたおやかな腕が巻きついてきた。
「君のため」
「んあ?!」
柔らかな吐息が耳許に触れた。
ゆづきは、それを振り払うように声を強めた。
衣那のゆづきを抱き締める腕の力も、強まる。
「女の子は、皆、生まれた時からお嬢様だから」
「…──っ」
「ゆづは私のお嬢様。いい加減な部屋になんか、迎えられないじゃん」
衣那の甘ったるい声が、ゆづきの胸を顫わせる。
ゆづきはこうして、どんどん、硬派な女でなくなってゆく。衣那の好む乙女のようになってゆく。
「冗談キツっ」
長い年月を費やして培ってきたドスを効かして、受け流す。
衣那の腕から抜け出すと、わざと大股で歩いていった。
このままでは身体がとろけて、心のかたちを失ってしまう。
自分らしさがぼやけていくのではないかと思うと、怖かった。
* * * * * * *
「わぁ!たまね様、ドーナツにお絵描きするの上手ぅ」
天使のような美少女が、大きな瞳をきらきら輝かせながら、たまねに拍手を送ってくれた。
たまねは、知幸の家に来ていた。
家が近所ということもあって、生徒指導部長のあの母親も、ここなら夜の外出を許してくれるのだ。
今夜の夕飯はドーナツだ。
知幸の私室で、二人、生クリームのたっぷり詰まったドーナツに、チョコペンで飾り付けしていた。
たまねの手前に置いてある、ホワイトチョコレートでコーティングされたドーナツの表面で、ココアの色をしたウサギが手を繋いでにこにこしている。
「知幸も出来るわよ。チョコペン、柔らかいし」
「そうかなぁ。でも知幸、たまね様のウサギさん食べたいかもぉ」
知幸がその口許に緩く握った拳を当てると、白いワンピースの姫袖が、はらりとまくれた。
パステルカラーの十字架を連ねたブレスレットが、細くて白い手首でしゃらんと揺れた。
「じゃあ、知幸」
「なぁに?」
「知幸アルパカ上手かったわよね?貴女のその可憐な手先で……」
たまねは知幸の右手をすくって、それを両手に挟み込む。
すべすべの指先を撫でながら、キスしたい衝動は抑え込む。
「アルパカさん、私にご馳走して?」
たまねがやんわり微笑むと、知幸の双眸が大きくなった。
白いフランス人形の恰好をした白い天使が、チョコペンの入った袋を開けた。
* * * * * * *
ゆづきは例の落ち着かない部屋で、文句を垂れながらも寛いでいた。
授業で出た明日提出の課題をこなして、文芸部で書き進めているエッセイを評論し合って、夕飯を食べてシャワーした。
それからゆづきは衣那の部屋着を借りて、現在、寝台と同じ色のソファにもたれかかって、手持ち無沙汰に雑誌をめくっていた。
衣那は、ゆづきの隣で何やらファーを縫っている。どこかのロックブランドのTシャツにハーフパンツという、きわめてラフな恰好だ。
ゆづきの借りた、パステルブルーのパイル地で出来た、うさみみフードの付いた上下セットは、衣那らしくない。もしや元カノの残り香でも着いていまいかと、勘ぐってしまう。
「なぁ」
「どした?」
衣那が、ファーを縫っていた手を止めた。
「お前さ、こんなんが好みだったんじゃねぇの?」
ゆづきは見ていた雑誌の見開きを、衣那に向ける。
衣那の書棚から引っ張ってきたムック本は、開けば、貴族や絵本の登場人物のまとうような洋服ばかり載っている。
無論、それらは舞踏会や王族と謁見するためのものではないから、ある程度は機能的に作られている。それでも、豪華は豪華だ。
可愛らしすぎたり、美しすぎたり、ともすれば特攻服より着こなしづらいのではないか。
ゆづきが衣那に示した頁は、ことに華やかだ。
芝生の上で、モデル達がシャボン玉を吹いている。
彼女らは、赤い苺の切り口からピンク色のウサギが顔を出しているプリントが裾一周に施してあるワンピースやら、白いストローを編んだ柄が全面にプリントしてあるところに、白いレースや青い巻き薔薇、リボンがふんだんに飾りつけてあるジャンパースカートやらをまとっていた。
皆、昼に拾ったプリクラに映っていた同級生にそっくりだ。
「──……」
「…………」
「……え?」
「え、じゃねーよ」
間の抜けたような声に苛立ちながら、雑誌を閉じる。
「衣那はさぁ、放課後、あたしが呼び出されてどうだった?」
「どうだったって?」
「あの禮堂が、センコーの毒牙にかかんねーで良かったって、ほっとしてたんじゃないか?」
「それはないけど」
「あたしだけ呼び出されて、罵られて。被害者はこっちだっつーの」
絵になっていた。
あの野暮ったい制服さえ、知幸がまとえばドレスに見える。
そんな恋敵が落としていったプリクラは、雑誌のスナップを切り取ったみたいに美しかった。
衣那は、ほんのりピンクのかかった黒髪に、よそいきの化粧を合わせていた。豪奢な白いブラウスにスラックスをとり合わせた姿が、絵本の登場人物も色褪せようほどだった。
シンデレラより幸せだったろう姫君も、緩やかな曲線を描いた長い髪を結い上げて、とびきり優雅な白いワンピースをまとっていた。
ゆづきが衣那の隣に立つのと、知幸がそこに立つのとでは、違う。
「あたしは……こんなの、似合わねーし……」
これは嫉妬だ。
ゆづきは、衣那の世界に何の努力もしないですっととけ込んでいた知幸が羨ましい。
だからこそ、かっとしたのだ。
腹が立って、昼休み、知幸に手を上げた。
知幸も、その外見に似ず刃向かってきたものだから、ますます頭に血が上って、教師らが駆けつける騒ぎにまでなった。
ゆづきには、ゆづきのポリシーがある。それを信じて生きてきたし、これからも変えるつもりはない。
だのに思う。
衣那と同じ魂(こころ)を持って生まれていたなら、こんなに悩まなくて良かったのではないか?
衣那は知幸との恋に終止符を打ってまで、ゆづきを選んでくれた。
だのに、自信が持てない。
膨らむところまで膨らんだ、ゆづきの頬に溜まっていた空気が抜けた。
衣那の手に顔を挟まれて、ぷしゅっという音を立てて、口から抜けていったのだ。
「ほんと、ゆづはそういうの似合わないからねぇ」
「…──っ」
「でも」
どきりとするほど真っ直ぐな、凛とした大きな瞳がゆづきを見ていた。
「似合わないとこが、好き」
「は?」
「やんちゃなくせに乙女だから、守ってあげたくなっちゃうな」
ゆづきの肩が抱き寄せられる。
無造作に伸ばした前髪が、衣那の指先に撫でられる。
衣那がドールを慈しむ少女の手つきで、否、それよりずっと優しくゆづきを撫でてくれる。
「…──っ」
ゆづきは、衣那の着ているTシャツの袖をぎゅっと握った。
* * * * * * *
母、こはるに言い訳して出てきたからには、一応それを事実にしておかねばならない。
だから、たまねは知幸がデコレーションしてくれたドーナツを平らげた後、彼女に明日提出の課題を見てやっていた。
しかし今夜は、いやに虚しい。
否、今夜に限らない。文芸部の部活に出た放課後、大抵、得も言われぬ虚しさに迫られるのだ。
すらすら答えの埋まっていく問題集から外れた目が、つと、たまねに向いてきた。
ペンを握った華奢な指先は、匂やかなその首筋と同じくらい白い。抱き締めれば折れそうな知幸の身体は、しかし、まるで天使を捕まえたように柔らかだ。
「たまね様?」
鈴を転がすような軽らかな声に、はっとした。
「何でもない」
「嘘ぉ」
知幸が冗談みたいに笑った。
声に混じった吐息が、馨しい。
半年前まで別の少女がこの気持ちを味わっていたのだと思うと、淋しくて、やりきれなくて、気が狂いそうになる。
そして気が付く。
部活を終えた後もどかしくなるのは、たまね自身が不安定だからではない。半年前までこの天使を独占していた同じ文芸部の下級生、衣那に対する劣等感が募るからだ。
「ごめんね……たまね様」
たまねの腕に、知幸の腕が絡みついてきた。
「知幸、今日、芽室さんと喧嘩しちゃったの知ってるでしょ?」
「ああ、あのこと。あれは向こうが乱暴してきたんでしょう?怪我、なかった?」
知幸がふるふる首を横に振る。
「えっ、それ」
「違うの」
「…………」
「知幸ね、衣那ちゃんに未練があるわけじゃない。プリクラだって、昨日お部屋の整理をしていた時、偶然出てきたものだった。帰りに神社に納めるつもりで、学校に持って行ってたんだけど……」
そういうことだったのか。
たまねが納得していると、知幸の腕に、ぎゅっと力がこもった。
「芽室さんに、落としたのを拾われちゃって……呼び出されて、衣那ちゃんとの思い出をたくさん話して喧嘩したのはね」
「…………」
「たまね様が噂を聞いて、妬いてくれるかなぁって、期待したから」
知幸の腕が、少しほどけた。
代わりに強い視線を感じたかと思うが早いか、天使が、その瞳に言い知れぬ色を浮かべていた。
「知幸は衣那ちゃんとお別れした時、文芸部やめちゃったし。たまね様と共通点、ほんとは何にもないね。優等生なんかじゃないし、校則も、地味にいっぱい守ってないことあるし」
「知幸……」
「不安なの」
「…──!!」
同じだ、と、たまねは思った。
知幸も同じだったのだ。だからゆづきに売られた喧嘩を買って、たまねを試すようなことをした。
可愛らしい。そんなにまでして想ってくれる、知幸が可愛らしくて仕方がない。
「知幸」
たまねは知幸を抱き寄せる。
「ありがと」
「……っ」
「衣那みたいに、校則破りまくりの恋愛は……私、まだまだ下手かも知れないけれど」
ううん、と、知幸の小さな声が聞こえた。
「知幸を好きな気持ちは私だけのもの。愛してる」
「たまね様……」
「いつか」
「──……」
「いつか、知幸のこと、ちゃんと親に紹介するわ」
いずれ二人共、校則というもののない世界に出る。それまで、否、その先の未来もずっと一緒に歩いていこう。
たまねは知幸と約束を交わす。
この想いが、きっとライフスタイルにも優る、二人の共通点になる。
* * * * * * *
ゆづきは衣那の親切な手解きを受けながら、ぬいぐるみ作りに挑戦していた。
衣那に釣り合う女を目指しているわけではない。ただ、ゆづきはゆづきらしく、彼女と同じものを見て感じて、同じ時間を共有したいだけだ。
だから、愛らしいパンダのぬいぐるみを作る気はない。リボンには「四露死苦」と刺繍して、頬には切り傷をアップリケして、粋なパンダに仕上げるつもりだ。
「衣那に薔薇、寄越されてから初めて尽くしだ」
頭の側面とマチを縫い合わせながら、ふと思い出す。
「薔薇?」
「あたしが初めて衣那に絡んだ時。ダチとカツアゲしようって話になって、衣那があいつと歩いてたとこ奇襲かけたじゃん。よく見りゃクラスメイトだって気付いて、吃驚したぜ」
「あれか。金出せって言われて、なんか身体が反応して、私が薔薇出しちゃったやつね」
「ったく、お前みてぇなやつ聞いたことねーぜ。王子やロリィタの世界じゃ、ブリザードが金なんかってビビったし」
「まさか」
「……けど」
衣那が手がけているパンダの顔に、眼(がん)を飛ばす。
つぶらな瞳や上品ぶった顔立ちに、あの憎き恋敵を思い出させられる。
「羨ましかった」
「え」
「衣那、咄嗟に禮堂庇ったじゃん」
「それはっ……」
「なんか、格好良かった。……憧れっつーより、あんな風にあたしも守られたいって……思った」
衣那が知幸と恋人としての関係を断って、ゆづきに交際を申し込んできたのは、あれから一週間後のことだった。
ゆづきの人生最後のカツアゲの戦利品は、赤い薔薇のブリザードだけではない、初恋の少女の心でもあったのだ。
遠いようで近い、半年前の記憶を思い起こしていると、衣那が笑った。
「……何だよ」
「何でもない」
「言えよ」
「話に関係ないことだし」
「気になるじゃん!」
「好き」
「……っ」
ゆづきのファーを掴んだ左手が、衣那の右手に包み込まれる。
「ゆづのそういう気取らないとこ、好き。やんちゃなのに可愛らしいから……」
「うるせぇっ」
「君のそういう柔らかいとこに、一目惚れして良かった」
「──……」
柔らかい。
確かに、そうかも知れない。
ゆづきは出来かけのパンダをちらと見る。
さっきは知幸に見えていたそれが、少しだけ、自分に重なって見えた。
──fin.
妖精カテドラル