瑞々しい水稲の緑が目に鮮やかな、田圃道が続いている。懐かしいような匂いが雨上がりの風に混じって吹きつけてくる、長閑な小道の真上に、無限の青空が広がっている。

 時は天正、時の太閤が小田原の大名を滅ぼして、泰平の時代が幕を開けて間もない頃だ。

 織笠紫依(おりがさしい)は、この緑溢れる田圃道からほど近い、城下町で生まれ育った。

 紫依は物心ついた頃から、呉服屋で生計を立てている母を手伝っている。一服は、毎日、昼下がりに与えられていた。

 その日も紫依は、太陽が真上から少し傾く頃、一端看板を下ろして町に繰り出した。母娘(おやこ)この時間だけは、各々、自由に時を過ごすのだ。

 見知った者とすれ違えば挨拶を交わして、賑やかな町を散歩する。

 そうしていつもより少し遠くに足を伸ばすと、寂れたような道に出た。

 皹の入った窓枠から硝子戸の外れたあばら家やら、薄汚れて掃きだめと化した木造建築物やらが、あちこちに打ち捨てられている。右も左も荒れ果てていた。
 怪我をした子犬が目の前を通り過ぎていった。小さな犬がゴミ箱に鼻を近づける様を眺めていると、どこからか赤ん坊の泣き声がした。

 ここがどういう町なのか、すぐに分かった。

 紫依の生まれ育った城下町を外れたところに、いわゆる貧民窟があるという。

 ここが、そうなのだ。

 引き返そう。怪我をした犬を置いていくのは良心が咎められるが、生憎、手当してやれる道具もない。

 紫依が踵を返そうとした、その時だ。

 「……ぅっ……」

 小さな少女が瓦礫の山の側に蹲っているのが、目についた。

 梅染の淡い帷子(かたびら)に散りばめられた紫陽花が、少女のあどけなさを引き立てている。ただ、赤い帯が、やせ細った少女の身体にはいやに太いように見えた。
 おかっぱにした黒髪が、梅雨が明けたばかりの初夏の風にそよそよ靡く。なめらかな肌は、外の世界を知らない箱入り娘のそれのようにきめ細やかで、そして白い。

 紫依は、一歩、一歩、瓦礫の山に距離を詰めていく。

 少女と、目が合った。

 はっとするほど澄んだ目だ。

 その面立ちは、とてもこんな裏町で育ったようには思えない、人形と紛うほど端正がとれていた。
 親とはぐれたのか、腹を空かせているのか、少女の双眸は仄かな赤みを帯びていた。頬を濡らすいじらしい色をした涙が、水晶を溶かした雫のようにさえ見える。

 「貴女は?お父様やお母様はいて?」

 少女の側に膝を下ろす。

 目線を合わせてよく見ると、年のほどは、多分、七つか八つだ。

 「ゃ、ひく……」

 少女が首を横に振る。

 涙が喉につっかえて、上手く声が出ないのか。

 「お名前、教えてくれる?」

 小さな紅葉の手を包み込む。

 指先で、そっと、硝子細工に触れるように握ってやった。

 「……ま、お……」

 可憐な桜貝の唇が、柔らかな声をこぼした。

 それが、紫依と、まおという名の少女との出逢いだった。

 姓を持たないまおに、母も父もいなかった。


 まおが、無法地帯のこの裏町で、どのようにして生きてきたのか。いつ家を失ったのか。

 紫依は、まおから話してくれるまで訊かないつもりだ。

 一緒に来ないか、という、些か不躾な提案に、まおは頷いてくれた。

 まおが逢ったばかりの紫依を信じて、手を繋いで、あの賑やかな城下町に一緒に付いてきてくれた。

 それだけで、十分だった。

* * * * * * *

 紫依がまおと同じ屋根の下に暮らすようになって、七年と少しの年月が過ぎた。

 あの頃は幼かったまおも、今や年頃の少女らしい、あえかな娘に成長した。

 紫依も変わった。武者として身を立てる決意をして、一年と二ヶ月前の春、生まれ育ったあの城下町を離れて、近江に城を構える国人の傘下に入ったのだ。

 女人で武士(もののふ)になれるケースはゼロに等しい。そのため、この土地も例に漏れず、保守的な概念に囚われていた。
 紫依も初めは門前払いを受けたものだが、伊達に武芸を鍛えていたわけではない。まおを拾った十四の夏から鍛錬していた甲斐あって、城主の眼鏡にかなうだけの実力は身に付けていた。

 表向き泰平の世と謳われていても、屡々、小さな戦が起きる。
 とりわけ紫依の仕える国人は、現在の豊臣政権に好意的ではない。契機があればいつでも行動を起こすつもりのようで、各地の田舎大名らを、次々と屈従させていた。

 紫依はそれらの戦の中で、華々しい手柄を立てた。

 そして、その功績が認められて、一つの部隊を任された。

 同時に褒賞として近江の屋敷をあてがわれて、半年が経つ。

 一切の生活は保障されるが、戦が起きればすぐさま危地に身を投じる。
 紫依を絶対的存在と信じて疑わない、武骨な家臣らや女房らの集う広い屋敷も、決して落ち着ける場所ではなかった。

 まおが、紫依に唯一、安らかなものをくれる存在だった。

 彼女は紫依が武者の道を志した時、猛反対した母に代わって、この土地に付いてきてくれた。妹同然の彼女だけが、紫依の、ただ一人のソウルメイトなのかも知れない。

 今夜は、満月だ。

 紫依はまおと、そして側近の女房の一人である野伊倉光(のいくらみつ)を伴って、縁側に出ていた。

 まおのまとう水浅葱の淡い色をした小袖の裾に、黄丹の金魚が泳いでいる。袖口から覗くレースに織り込んである錦糸が、夜空に浮かんだ真珠の光に反射して、妙なる煌めきをまとっていた。

 紫依が血の繋がらない妹の艶姿を眺めていると、視線を感じた。

 光の落ち着いた上品な黒い双眸が、紫依をじっと見つめていたのだ。

 「どうかした?光さん」

 「いいえっ、し、失礼をっ……ただ……」

 光が、その身にまとった二藍の帷子の袖を握る。

 「このように静かな夜が永遠に続けば、と、考えていただけでございます」

 「右に同じ。まおや貴女、それに私が生きている内に、明日の心配をしなくて良い世界を見たいものだわ」
  
 「紫依様。わたくしめは貴女様がこのような社会においででなくても、貴女様に生涯、この心身を捧げる所存です。戦など、ますらお共にやらせておけば良いもの。紫依様のようにお美しい女人が、御身を危険に晒されてまでお務めになる理由がどこにございましょう」

 「またその話?」

 紫依は、下ろしっぱなしの自分の髪を弄ぶ。
 母に似ない黒髪は、一風変わった色をしている。細いからか元々の色素が薄いからか、光を浴びるとほんのり黄金色の艶を帯びるのだ。

 「私は、望んでこの道を選んだの。弱そうだからって、外見しか見ようとしない、愚かな敵に鼻で笑われたことは何度もあるわ。けれど世の中が移ろってゆくのをぼんやり眺めているだけが、女じゃない。第一、戦なんて血生臭い仕事を男に任せきりにしては、あまりに気の毒じゃない」

 「姉様……」

 まおのなよやかな身体を引き寄せて、彼女をそっと抱き締める。

 「そして」

 「──……」

 「あの太閤に出来なかったことをしてみせる」

 「紫依様……」

 「天下をとっても、所詮、農民上がりの男はただの猿」

 まおと出逢ったあの場所の情景が、思い起こされる。

 彼女のいたあの裏町は、死んでいた。誰の目にも触れないあすこに、それでも生きている命がたくさんあった。

 世界は天下泰平だの戦のない世だのと謳われて、浮かれきっている。その片隅で、今も、一縷の希望(ひかり)も垣間見ず、日々糊口をしのぐのに精一杯な人間が、きっと何万といる。

 紫依は、変えるつもりだ。

 かたちだけの天下をとった男を、その玉座から引きずり落とす。

 そう幼い頃から決めていた。ただ、それは個人的な思いが絡んでいたからでもある。

 まおに出逢って、変わった。

 「皆のために……まおを守るために、私は天下をとる」

 「お待ちしております。まおは、いつもいつも、姉様のお帰りをお待ちしております」

 紫依の耳が、甘ったるいメゾの声に撫でられる。

 「そしていつか」

 「──……」

 「姉様が、まおの側にずっといて下さる未来を願って……姉様を信じております」

 香を焚きしめた少女の髪から、淡い花の匂いがした。

 紫依は、まおの瞳を覗き込む。

 「まお」

 「はい……」

 「貴女が待っていてくれるから、私は負けない」

 「はい」

 「戦を終わらせたら、いつまでも私、ずっとまおの側にいる。だから、これからも」

 待っていてくれる?

 紫依が首を傾げてみせると、少女の純粋な双眸が、優しく微笑んでくれた。

* * * * * * *

 いつでも負ける気がしなかった。
 どれだけ勇猛な武将の部隊を相手にしても、あらゆる手段を講じて討ち破ってきた。

 まおの笑顔を、一秒でも早く見たい。彼女の待つ優しい部屋に帰りたい。

 紫依はその絶対的な思いを力に変えて、しかるべき勝利を修めてきた。

 そして、いつか天下をものにする。

 いずれ首を取りたい男がいたから、尚更だった。

 その日も、紫依は確実に敵陣に攻め込んでいた。信頼出来る武士らを采配して、彼らを護りにつけながら、敵将の首を取るまであと一歩のところまでいった。

 ほんの少しの隙につけ込まれたのは、本当に突然のことだった。

 銃砲の音にはっとした、次の刹那、腕が酷い痛みを受けた。

 銃弾に、睡眠作用がある薬物が塗られていた。

 それに気が付いたのは、次に意識が戻ってからだ。

 「ん、ん……」

 目が覚めるなり、腕がずきりと痛み出した。

 い草の匂いが鼻を掠める。

 不自然な眠気にまとわりつかれながら、目をこすって辺りを見回す。

 すると、見知らぬ部屋が広がっていた。

 仄暗くこぢんまりしたここは、どこかの城の廓(くるわ)のようだ。
 薄汚れた木材の壁と、床の間に飾ってある上等なものと思しき掛け軸の他に、特徴らしい特徴はない。

 「お目覚めかい?負け知らずのニンフ様」

 後方から、囁くようなアルトの声に耳を打たれた。

 「…──!!」

 紫依が振り向くと、白緑の壁に、一人の女性がもたれかかっていた。

 否、男性か?

 にわかに判断しかねたのは、女性が、独特な出で立ちをしていたからだ。
 女性は、くすんだ藍色の素襖をまとって、男物らしい肩衣を羽織っていた。首筋に毛先がかかる程度に短く切られた黒髪が、どこからか漏れてくる西日を受けて、仄かな色を醸していた。
 どきりとするほど、強い眼差しだ。美人の分類に入るのだろう面立ちに、冷たいほど凛とした目がひときわ映える。

 紫依には、女性が何者か、そしてここがどこかも分からない。

 そこで、はたと気が付く。

 小袖に重ねていた具足が外されていた。機能性を重視したそれらに代わって、華やかな間着(あいぎ)が、紫依の身体を包んでいた。
 浅緋色の袂に咲いた白い鈴蘭が、まるで血の海に浮かぶ雪花だ。首許から覗く単衣の襟に、西洋から取り入れたような綿糸のレースがあしらってあった。

 「これ……は……」

 「名を申そう。私はこの城の主の娘、染伊桜珠(そめいおうじゅ)。お前の着物は、女房に調えさせたものだ。細い肩に大きな瞳。小動物みたいなお嬢様に、鎧は相応しくない。弾を抜いたついでに取り替えた」

 「…──っ」

 「お前の噂は聞いている。あやかしの力を借りているのではないかと訝しまれるほど、美しい戦いをいたす……とな。そして強い」

 桜珠と名乗った女性が、紫依の側に歩み寄ってきた。

 腰を下ろした桜珠を間近で見ると、やはり、目を合わせるのも躊躇するほど美しい。

 「お前達と戦をした兄上に……お前を生け捕りにするよう頼んだのは、私だ」

 「私を……知ってるの?」

 「お前が有名人だから。……という理由ではないことくらいは、気付いてるだろう?」

 「…──っ」

 もちろんだ。おそらく桜珠が父親と呼んでいよう染伊の主、忠繁(ただしげ)こそ、紫依がいずれ討ち破りたかった男だからだ。
  
 此度(こたび)、紫依は染伊の部隊に応戦するよう命が下された時、久しいような高揚感にせき立てられた。そうして赴いた戦場に、忠繁の嫡子を名乗る武将が軍馬に跨っているのを認めた瞬間、身体中の力がどっと抜け出た気さえした。

 敵は、忠繁ではなかった。期待を外した。

 しかし今、その娘が目前にいる。

 「忠繁の許へ、案内なさ──…っ」

 やにわに、紫依のまとう間着に巻かれた赤い細帯の脚が、桜珠に引かれた。
 朱い絹の紐がほどけて、鈴蘭の咲いた浅緋の着物が、身を隠す役目を失う。

 頭の中が真っ白になった。

 何が起きたのか考えられずにいる間に、間着の下に重なっていた簡素な小袖が剥がれていった。
 無防備な身体がむき出しになる。
 昼間、桜珠の兄と思しき男に撃たれた跡を覆う包帯が、腕に巻いてあるのが見えた。

 「何のつもり!?」

 「へぇ。見かけがちっさいから、ガキっぽいんだろうって、期待はしていなかったのに……良い身体だ」

 「やっ」

 「感度はまずまずか。初(うぶ)な女人も悪くはない。紫依……私の寵妾になれ。さもなくばこの土地の国人、染伊忠繁に謀叛いたした罪がある。お前を晒し首の刑に処す」

 「ふざけないで!……あぅっ」

 頬を撲たれて、電流を流したような衝撃が走った。

 桜珠に掴まれた方の腕に巻かれた包帯に、赤いシミが広がっていく。
 真新しい傷口は、少しでも圧力をかけられると血がこぼれる。

 「女人を泣かせる趣味はないが……苦痛に顔を歪める美人も、趣がある」

 「い、たぃ……はぅっ」

 「一つ、忠告してやろう。お前の従えていた、武士(もののふ)達の処置だ」

 「…──っ」

 「一日一人、銃殺か。一日一人、解放か。慈悲深いニンフ様なら、どちらを選ぶ?」

 「皆……ここに……いるの?」

 「折角お前を我が物にしても、ひと月と経たず自決でもされてはたまったものではないからな」

 人質か。

 紫依は覚った。自分に腹を斬らせないためだけに、戦友達まで囚われたのだ。

 「何……で……」

 まおに会いたい。あの愛おしい少女を裏切るような真似はしたくない。

 だのに紫依の歪んだ視界に、どこかに繋がれていよう武士(なかま)達の姿が浮かんだ。

* * * * * * *

 愛妾などというものではない。

 紫依は桜珠に、慰み者も同然の扱いを受けていた。

 煌びやかな着物や簪で飾りたてられたかと思えば、身体の隅々までいじられて、拓かれて、気を失うまでまさぐられる。

 紫依は、城から一歩も出られなかった。
 それでいて監視が極めて甘いのは、人質の武士らがいるからだ。紫依が桜珠に逆らえば、彼らが、自決も認められず敵(かたき)に手を下される。

 紫依が日々をやり過ごしている間、約束通り、一日一人、里に帰されているようだった。
 今日は誰が解放されたか、桜珠が報せてくる名前は、親しい者のそればかりだ。処刑の報せは聞きたくない。

 この城の主、忠繁は、未だ見かけない。

 もどかしい日々が続いた。

 今日も、また、一日が終わろうとしている。

 黄昏の光が漏れてくる廓に、見慣れない女房が見えた。

 「失礼いたします、織笠様。いつもの者が具合を壊しましたので、今宵はわたくしが……夕餉をお持ちいたしました」

 引き戸の隙間が大きく開くと、落ち着いた声の主の顔が露わになった。野井倉光を思い出す、知性に溢れた優しげな女性だ。

 女房が運んできた盆に、綺麗に盛りつけてある精進料理が、こまごまと並べられていた。

 「ご苦労様。……貴女も大変ね。毒も入っていない料理を運んで、敵に慇懃な態度を見せなくてはならないなんて」

 「とんでもございません。織笠様は、桜珠様のお大切な愛玩物であらせられます。お噂通り、何と可憐な……」

 女房の目が、紫依を頭の天辺から小袖の裾まで、じろじろ見回す。

 「お髪は、まぁ桜珠様に似て、西洋のお人形のようなお色をなさっていますね。織笠様も、ご両親のどちらかから譲り受けられたのでしょうか」

 ふふ、と、だらしないような笑みがこぼれる。

 もっとも、紫依に父はいない。あの城下町で紫依を生み育ててくれた、母は、真性の黒髪美人だ。

 「時に、織笠様。わたくし、ある噂を耳に挟んだのでございますが……」

 口の達者な女房が、思わせぶりに声を潜める。

 薄紫の小袖に包まれた小さな膝が、紫依につつと近づいてきた。

 「織笠様が武士の道に進まれたのは、女人としての幸せを避けたがっていらっしたため……と、女房達の間でお聞きしたことがございます。大の殿方嫌い、大の女人好きでいらっしゃいましたから、桜珠様との取引は、実は一挙両得だったとか」

 「なっ……」

 「ああ、失礼を。女の幸せとは、何も結婚だけではございませんね。かくいうわたくしの幸せは、生涯、この城にお仕えいたすことですわ」

 女房のしとやかな指先が、紫依の腰に巻かれた赤い帯の結び目をなぞる。

 「いかがなものでございましょう?我が主のお大切なお嬢様に──わたくし共がお慕いし、尊敬申しております桜珠様に愛され、抱かれ、この上ない贅沢を独り占めなさって、さぞ気持ちが良うございましょう」

 「莫迦言わないで!」

 一喝したのとほぼ同時、赤い帯がほどかれた。
 水浅葱の色をした小花と小鳥が戯れる、臙脂の小袖が、しどけなくなる。

 「無礼者っ!女房ごときが何するの?!」

 「あらあら。朝から晩までだらしなく喘いでいるだけかと誤解しておりましたけれど、さすが織笠様、気位だけは高いですこと。安心しました」

 「んっ……やめ……」

 「どこを、どんな風に、桜珠様は貴女を可愛がられていらっしゃるのです?」

 「あ……ああ……」

 女房の豹変ぶりに動揺して、頭が上手く働かない。

 どうすべきか分からないまま、両の手首を頭の上に持ち上げられる。
 手首から、包帯を外せたばかりの腕にかけて、細帯を巻きつけられていく。
  
 「細い肩……しとやかな肌。このたおやめらしい淫らな身体で、桜珠様を惑わされるのですね。負け知らずのニンフ。……そのような織笠様のご評判は、ねや事にも言えることですか?」

 「いい加減になさい。……っ」

 「可哀相に」

 「え……」

 無遠慮な手が、紫依の身体をあちこち彷徨う。

 「お約束の時が過ぎたら、自決なさると仰りながら……桜珠様に止めていただきたいなんて、大それた望みでもお持ちなのでございましょう?叶わぬ想い。敵ながら同情いたしますわ」

 「ふぇっ……そ、なんじゃ……」

 情けない。女房ごときに不遜な仕打ちを許している自分が、みじめだ。

 身体を見られて、触れられるだけで、かの男装の美女の指を思い出すからか。
 それとも、この城のどこかに囚われている仲間がいずれ全て解放されれば、紫依がこの城にいる理由がなくなるからか。

 紫依はこのかなしみがどちらの理由からくるものなのか、自分で自分が分からない。

 ただ、これだけは分かる。

 桜珠は紫依に、決してこんな荒々しいことはしてこない。

 懐かしいような視線を感じたのは、脚が、無理矢理開かされようとした瞬間だ。

 「紫依を……妹を、離してもらおうか」

 知っているのに、聞いたことのない声だった。

 吃驚して顔を上げると、桜珠が、今にも殺しかねないような目で、女房をねめつけていた。

* * * * * * *

 父親は、田舎のさる城にいると、幼い頃から母に聞かされていた。
 紫依が生まれて間もなく、父、染伊忠繁は、当時の羽柴に取り入った。そして立身出世に専心するため妻子を置いて、武家の出である側室を、新たな正室にしたという。

 紫依が武者を志したのは、母を孤独にした忠繁に、復讐したかったからだ。

 戦場で忠繁の側室の嫡子と切り結ぶことになって、この城で彼の長女にまみえた時、二人にさえ殺意を覚えた。

 紫依は、憎き父親(かたき)の娘、桜珠に辱められるだけの日々の中で、仲間を解放した後の未来ばかりを思い描いていた。
 のうのうと暮らす彼らを殺めて、その後、自裁する。そればかりを考えてきた。
 近江の屋敷に残してきたまおだけが、気がかりだった。

 されど武者の誇りも人間の尊厳ももがれた後、どうして平気で帰れよう?

 紫依は、この命を桜珠に惜しんで欲しいとは、これっぽっちも考えなかった。

 「城下町に父親が同じ妹がいることは、知っていた。紫依の噂を聞いた時……名前を知っていたのもあったけど、私の妹だと、分かった」

 「──……」

 「一度、遠くからお前を見たことがある。的確な指導力に、身軽な身のこなし。ああ、紫依は負けないなって、安心した。けど」

 紫依の右肩に、桜珠のしとやかな腕が絡みつく。

 小袖は左手で前身頃を押さえているだけなのに、全然、心許なくない。

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無情の響きあり。沙羅双樹の花の色……」

 「盛者必衰の理を、あらはす?」

 紫依が桜珠をちらと見ると、彼女が静かに頷いた。

 「紫依が、他の誰かに討たれたり……取られるなら、私がこの手でって、思った。こんな世の中だから、絶対はない。変わらないものもない。だから」

 「──……」

 「心まで、なんて贅沢は望まない。見えるものだけ奪って、ここでなくしてしまいたかった」

 身体も、命も。

 そう、桜珠の甘い媚薬を帯びた声が、紫依の胸に染み込んできた。

 紫依は、分からない。

 今でも桜珠を許せない。

 ただ紫依が辱められたのは、武者としてではなく、桜珠の個人的な感情が絡んでいたものだった。

 だからか、救われた。紫依は、ただ一時の慰み者ではなかったのだ。

 「私……」

 「もう好きなやつでも、いる?」

 分からない。まおとは生涯を約束したが、彼女はあくまで妹だ。
 桜珠が紫依を想ってくれるような感情ではない、城下町にいる母が、紫依を慈しんでくれていた気持ちの方が近い。

 まおは、何と思うだろう?紫依に敵の娘と血縁があって、しかも彼女を愛していると打ち明けたなら、あの可憐な少女は何と思う?

 どのみちあの屋敷へは帰れない。

 さりとて桜珠に返事をする根拠に、それを含めたくはない。

 「父上は……」

 桜珠が、さっき女房の出て行った引き戸の隙間を見つめていた。

 「前の正室は美しすぎて、一緒にいるのが恥ずかしかった。だから出世を言い訳にして別れたのだと、私達家族によく話している」

 「…──!!」

 「私は、あんな情けない人間になりたくない。紫依が美しくても、同じ血が流れていても、諦めない」

 「あ、姉様……」

 「手に入らないなら、どんな卑怯なことをしても手に入れる。紫依の好きなやつが、愛人として付いてきても構わない。……妬くだろうけど、それは許せ」

 「──……」

 無理だ、と、思った。

 紫依はまおを側室にするには、桜珠を愛しすぎている。彼女以外、今更、誰かに愛と名の付く想いは持てない。

 「姉様。……いいえ、桜珠」

 紫依は桜珠の左手に、自分の右手をそっと重ねる。

 「私の大事な妹は、きっと、貴女と私のことを……認めてくれると思います」

 そして光も、きっとまおと同じ答えを寄越してくれる。

 「私の大事な女房は、私がこの社会を外れても、側にいてくれると言ってくれたことがあります。桜珠は……」

 「紫依……」

 「私が貴女の本命になりたいと言っても、身も心も……命も、欲しいと誓ってくれる?」

 変わらないものはここにある。

 時代が移ろっても、季節が流れても、紫依は桜珠の側にいたい。
 花は散っても、香りは永久(とわ)に変わらない。

 「紫依」

 囁くような低い声が、耳許にかかる。
 頬を優しく引き寄せられると、味わったことのないような口づけが、降ってきた。

 とろけるような花の匂いは、愛おしい人の香か、胸にまとわりつくものか、神のみぞ知る。







──fin.
妖精カテドラル