瀬原茉菜(せはらまつな)がその少女を目に留めたのは、ある真夏の朝のことだ。

 午前九時を回ったばかりの郊外は、どこか淋しい。
 会社員らしい数人の男女や、制服姿の少年少女らをちらほら見かける程度で、人は極めてまばらである。今日もじりじりと地上に照りつけよう日差しが、真新しい朝特有の清々しい空気が流れる世界の、そこかしこを蜜色に染め始めていた。

 少女は、つくねんと路肩の花壇に座り込んでいた。
 年のほどは、見た感じ、二十歳前後だ。幼さの残った顔立ちに、華奢な体躯が、妙なるバランスをとっていた。

 少女は、セピアの英字新聞を縫い合わせて仕立てたような、古風なジャンパースカートに身を包んでいた。細い腰から、どっさりフリルが広がっている。
 スモーキーなブラウンの筆記体やら切手やらがプリントしてある、上品な色味の生成の生地に、所々、淡いピンク色の薔薇の花びらが舞っていた。

 少女の、白いシフォンの提灯袖にくるまれたしなやかな腕は、大振りのボストンバッグを抱き締めていた。
 腰まであるピンクブラウンの髪を飾ったヘッドドレスも、洋服も、靴も、まるで隙のない優美なディテールをしているのに、キャンディ柄のエナメル製のバッグだけが、少女の風采をいやにちぐはぐに見せていた。

 毒々しいほどぱきっとした色味の草花が、煉瓦造りの花壇に植え込まれてあるのを背景に、少女だけが、色褪せていた。

 野暮ったいとか、存在感が薄いのではない。

 少女が、色のないドールのようだったのだ。

 穢れない、どんな色にも染まらない無垢なものが、溢れんばかりに漲っていた。

 思わず見つめていたからか。

 茉菜は、少女と目が合った。

 少女の、茉菜を見上げてきたくっきりした目はとろけるように甘ったるくて、雨に撃たれた子猫の如く、酷く淋しい色をしていた。

 「あ……ごめんなさい。あんまり綺麗なロリィタさんだったから、思わず……」

 「お姉さんこそ、とっても綺麗。皇子様?」

 茉菜は、自分の出で立ちをちらと見下ろす。そして頷く。

 「こういうお洋服の店、やってるんです。私自身が似合うかどうかは別として、着ておくのが礼儀だし。お客様や、お洋服達に対しての」

 「ふぅん。そういうものなんですか」

 「貴女は」

 「え……」

 「貴女は、何でこんなところにいたんですか?」

 名前も知らない、初対面の相手に不躾か。

 気兼ねはあったが、勝手に口が動いていた。

 生ぬるいそよ風が、茉羽の、黒とブロンドのツートーンの長い髪を撫でていく。
 臙脂のシフォンのブラウスの、襟元を飾る黒い刺繍の入ったシャボが、そよそよ揺れた。

 「私は……」

 少女が、たゆたいながら目を伏せた。

 「家を出てきたんです」

 「…──っ」

 「家出です。えへへ、別に親に不満があるとか、反抗期とかじゃないんですけど。家、つまんないなぁって。泊まるとこもなかったですから、一晩中ここにいました」

 わざとらしい無邪気な笑顔が、疲れたように見えたのは、途方もない彼女の事情を知ったからか。

 茉菜は携帯電話を引き出して、アドレス帳から勤務先の店舗責任者の電話番号を探し始める。

 瀬原かすが(せはらかすが)。

 名前の欄にそう表示してある番号に、発信した。

* * * * * * *

 『泊まるところがないなら、うちの部屋、使いませんか?』

 花桐ゆいり(はなぎりゆいり)は、瀬原茉菜と名乗る女性から、思いがけない申し出を受けた。
 もっとも、無償で茉菜の厚意に甘えることには気が引けた。
 よく、ただより高い物はないと言う。しかも、茉菜のような美女に無償で施しを受けるなんて、あまりに恥ずかしいではないか。

 幸い、ゆいりのいる大学は、今、夏期休暇に入っている。

 聞けば茉菜の勤務先は人手が足りていないということだ。

 ゆいりは茉菜の身内が経営しているという店で、アルバイトすることにした。

 茉菜は気を使わないでくれと躊躇したが、ゆいりが頼み込んだ末、都内にある某商店街に案内してくれた。

 その賑やかな通りを外れた小路に、縦に高い、石で出来た塔のような建物が、ひっそりとあった。

 石造りの壁を両脇にして、鼈甲色の仄かなランプの明かりを頼りに、螺旋階段を降りてゆく。

 地下一階に突き当たると、両開きの鉄の扉があった。

 わざと古びた見目に作られた、扉を開くと、教会風の洋服店が広がっていた。

 店内は、天井を覆うステンドグラスの裏側からライトが当たっているのだろう、地下なのに陽が射しているように見えて、言い知れぬ幻想的な空間だ。
 白磁のマリアが黒い薔薇を咲かせた茨に捕らわれて、水晶の涙を流して祈りを捧げている。灰色と茶色を混ぜ合わせたような色をした、セメントを固めただけのざらざらした床に突き刺さっている十字架は、欠けていたり血糊がついていたりした。

 入り口付近に看板が立てかけてあった。

 「『Treachery─下剋上─』っていう、ブランド名なんですか?」

 ゆいりが看板の文字を口にして問うと、茉菜が振り返って頷いた。

 茉菜のまとう暗い臙脂と黒の皇子服に、彼女のまばゆい素肌と金色の髪がことに映える。
 シャープな顔立ちに涼しげな目許が、優しげな面立ちに調和していた。

 「基督教における異端とロココを融合させたアイテムを、押し出している。treachery、下克上。どちらも裏切りっていう意味があるのは、ここがそういう二面性を併せ持つブランドだから。ゴシックロリィタや、皇子のお嬢さん達に支持してもらってるかな。開業間もなくて、直営店はここだけなんだ」

 「茉菜さんと店長さん以外、スタッフさんはいらっしゃらないんですか?」

 「君が初めて。いずれ募集かけなくちゃって話があったし、ゆいちゃんが来てくれて助かった」

 茉菜が綺麗に微笑ってくれた。

 ゆいりが促されるまま店の中に入っていくと、奥の小さな扉から、黒いドレスに身を包んだ女性が現れた。
  
 ゆいりはあたふた頭を下げる。

 「初めましてっ。今日からお世話になります、花桐ゆいりという者です。えっと、茉菜さんには色々お世話になっております!」

 型通りの挨拶を並べ立てながら、ふと、頭の片隅に疑問が浮かぶ。

 "あれっ?っていうか、さっき他のスタッフさんはいないって……"

 ゆいりはおずおず顔を上げる。

 女性が愉快そうに目を細めた。

 茉菜と、似ていないようでどこか似ている。
 女性はドールらしい茉菜と違って、喩えるならギリシャ彫刻を彷彿とする、どこか日本人離れした目鼻立ちをしていた。
 凄い美人だ。気品もある。
 女性のきっちり縦ロールに巻かれた髪に、ワンピースと同じ漆黒のリボンが挿してあった。その、淡い銀色のアールデコ調の模様が仄かに浮かび上がったリボンコームは、よく見ると、ワンピースと同じシリーズのもののようだ。ワンピースは、裾に、黒いリボンを絡めた月がプリントしてあって、ぱっと見では分からなかった。

 「聞いているわ」

 真っ赤な唇が優雅に動いた。

 ゆいりは、その声に違和感を覚えた。

 「初めまして。『Treachery─下剋上─』へようこそ、花桐ゆいりさん。茉菜から話は聞いているわ。私達のお洋服を、こんなに素敵に着こなしてくれるお嬢さんにお逢い出来たこと、デザイナーとして誇らしく思う」

 「えと……」

 「ああ、自己紹介が遅れてしまって失礼しました」

 ゆいりは自分の耳を疑っていた。
 女性のなめらかなハスキーボイスは、煙草の馴染んだ喉によくある声とはまた違う、女性らしからぬものなのだ。

 ゆいりの手前に、黒い名刺が差し出されてきた。

 名刺の表面を確かめると、白い文字で「瀬原かすが 有限会社 Treachery─下剋上─ 代表取締役兼デザイナー」と印字してあった。

 「瀬原……かすが、さん?」

 「いかにも。私が、『Treachery─下剋上─』代表の瀬原かすが、茉菜の兄ですわ。身内だけで運営している店だし、聞けば貴女、茉菜に随分気に入られちゃったようじゃない。ここをホームだと思って、楽な気持ちで馴れていって下さいな」

 ゆいりが名刺を受け取ると、かすがが恨めしそうに茉菜を見遣った。

 「時に、茉菜。ゆいちゃんの着ているボルドー色のウサ耳付きパーカ、私が楽しみにとっておいた新品じゃない。シフォンの茨プリントサンドレスだって、次の休みに着ようと思って、楽しみに残しておいたのよっ?」

 「何の話?お兄様が休日にロリィタちゃんになるところ、私見たことないな。第一、可愛い可愛いゆいちゃんに、野郎のお古は着せられない。私の皇子服着てもらうわけにはいかなかったし、似合うから良いじゃん」

 「む……確かに、悔しいけど……負けたわぁ」

 ゆいりはかすがにじろじろ見られる。

 ごめんね、と、茉菜が耳打ちしてくれた。

 「吃驚したでしょ。ユニセックスがあるのに、お兄様ってばわざわざダイエットして髪まで伸ばして、ロリィタちゃんになったんだから。これがまた違和感ないから詐欺っていうか……」

 茉菜の言う通りだ。

 ゆいりから見ても、かすがは、ロリィタ服をまとった姿があまりに板に付いていた。

 「ま、何はともあれ今日からよろしく。まずは簡単な業務から説明するわ。私のことはかすがと呼んで。苗字だとまぎらわしいでしょう。最初は、店内整理やレジを覚えてもらいましょうか」

 「はい、よろしくお願いします!」

 ゆいりは、踵を返して売場に向かったかすがを追いかけた。

* * * * * * *

 ゆいりが『Treachery─下剋上─』に勤務するようになって、一週間が過ぎた。

 あの教会風の店内にいると、あっと言う間に時間が経つ。

 もとよりゆいりはロリィタファッションに親しんでいたし、以前から、業界には興味があった。
 夢にまで見た業界(せかい)で、まるで歌劇の中でまみえるような容姿の茉菜と、彼女の兄、ロリィタファッションを心から愛しているのだろう若き天才に助けられながら、仕事を覚えていく。

 ゆいりは従業員としてまだ未熟だが、楽しく充実した日々の中にいた。

 およそ一週間前、家を出てきたばかりの頃は、頭に血が昇っていた。
 ゆいりは、されど茉菜の家に世話になって、だんだん、気持ちも落ち着いていった。両親に宛てて、友人の家に世話になっているとしたためた手紙も出したから、捜索願が出される心配もなくなったろう。

 今日は、木曜日だ。

 週末に向けて、ゆいりは朝から、茉菜と品出しやら掃除やらに忙しくしていた。

 時刻は、いつの間にか午後一時を回っていた。

 パニエを二枚仕込んだワンピースを捌きながら動き回って、知らず知らずに体力を削がれていたようだ。

 若干、ゆいりの動きが鈍ってきた頃、かすががバックルームから店に戻ってきた。

 「茉菜、ゆいちゃんお疲れ様。昼、過ぎちゃったわね。お詫びに奢るわ。二人でランチでも行ってきなさい」

 「マジ?後で返せとかなしだからねー」

 「うふふ。ゴールドカードをナメないで」

 かすがが、茉菜に眩しいようなカードを握らせた。

 彼の填めている赤いレースの手袋の下に透けて見える、リングを飾った大粒のブルーダイヤもおそらく本物だ。ゆいりが泊めてもらっている家は広いどころか豪華だし、彼ら兄妹は、もしややんごとなき家柄の生まれか?

 「そうそう。茉菜の好きな『Honey Forest』、夏の新メニューが出たそうよ。ゆいちゃんに案内して差し上げたら?」

 「『Honey Forest』新作出たんだ。ゆいちゃん、ワッフル好き?」

 「はい!大好きです!」

 ゆいりは二つ返事で頷いた。

 甘い物は好きだ。何より茉菜の好きという店が気になる。

 「じゃ、行こっか。お兄様、休憩お先に」

 あれよあれよと言う間に、ゆいりの片手が茉菜の片手に掴まれた。

 優しく手を繋がれて、ゆいりは、ボルドー色とアイボリーの皇子服をまとった美女の一歩後ろに付いて、地上に続く階段を昇っていった。
  
* * * * * * *

 『Honey Forest』という名のワッフル専門のカフェは、『Treachery─下剋上─』から徒歩十分ほど先にある、最寄りの駅の近くにあった。

 小さな雑貨屋とドラッグストアに挟まれた、細い階段を昇っていくと、手動の硝子扉に行き当たる。
 その店先で、クレヨンで描いたようなタッチの蜜蜂の看板が出迎えてくれるのだ。

 店は、商店街に面する壁一面に、硝子窓が張り巡らされていた。
 甘い蜂蜜と香ばしいような砂糖の匂いが、臭覚に、ざわっと働きかけてくる。ピンクと白のストライプの制服を着た給仕達が控えている、レジカウンターのすぐ側に、蝋のワッフルやパフェの模型が、可愛らしくディスプレイしてあった。
 明るく清潔な店内には、さっきから、街でよく耳にするような歌謡曲が流れている。名前も知らない小さな花が、一つ一つのテーブル席に、小振りの硝子瓶に生けて飾ってあった。

 ゆいりは、茉菜と一緒に案内されて、一番奥の席に落ち着いていた。

 メニューを注文して十分ほど経った頃、給仕の女性が一人、ゆいり達のいるテーブルにトレイを運んできてくれた。

 女性は、仔猫を彷彿とする、きゅっと締まった目許をしていた。長い黒髪をシニヨンにまとめて、すっきりした印象だ。

 「お待たせしました。ブルーベリーとホワイトショコラのワッフルと、ストロベリーアイスワッフルパフェ、お飲物のアイスロイヤルミルクティーとアイスのパッションフルーツティーでございます。ご注文は以上でお揃いでしょうか?」

 ゆいりと茉菜を隔てている、真っ白なテーブルの上に、色とりどりのスイーツが並べられていく。

 「ありがと、揃ってるよ。はい、ゆいちゃんフォークとナイフ。ストローね」

 「新人の子?この前までお会いしなかったわよね?」

 「あれ……詩代、知らなかったっけ。そっか、先週会わなかったもんね。彼女、花桐ゆいりちゃん。先週から来てもらってる」

 「ふぅん。そうだったの。どういう繋がり?」

 茉菜が、どういうわけか顔色を変えた。

 「お知り合いなんですか?」

 茉菜に渡してもらったフォークとナイフを、一端、皿の端に休ませる。

 ゆいりはストローをミルクティーに差しながら、茉菜と女性を交互に見る。

 「ごめん。ゆいちゃん初めてだったね。こちら、江上詩代(えがみしよ)。お互い家業の関係で知り合って、今じゃ親同士より親しくしてる。詩代はお洋服、好きでも生業にしたくなかったんだって。家は継がず、ここの店長やってる」

 「そっか……。かすがさんと茉菜さんのブランドって、ご両親の会社から独立なさったんでしたっけ。じゃあ、江上さんのお家もアパレル関係なんですね」

 「そんなとこ、かな」

 「うふふ。ゆいりさんは、 『Treachery─下剋上─』がお好きなんですか?」

 詩代がトレイを腕に抱えて相好を崩した。

 「それはそうですよね。好きじゃなくっちゃ、アルバイト志望しないでしょうし。ゆいりさんが今お召しになってる、臙脂のベビードール風ワンピース、あたしも持っています。色違いで、黒を」

 「わぁ、そうなんですか?」

 「『Treachery─下剋上─』の姉妹ブランド、瀬原秋悟(せはらしゅうご)の『Treachery─Judas─』よりしっくりきます。ユダは可愛らしいけれど、甘すぎて……落ち着かないっていうんでしょうか。なんて。茉菜が下剋上にいるから、思わず足が向いちゃうのかも知れません」

 「──……」

 「あ、ごめんなさい。ワッフル冷めちゃう!ごゆっくり召し上がっていって下さいね」

 はっとしたように視線を宙に泳がせて、茉菜の可憐な友人は、厨房の方へ戻っていった。

 茉菜と二人残されたテーブル席で、ゆいりは、今し方耳にした不可解な単語が頭の中でぐるぐる回っていた。

 姉妹ブランド?瀬原秋悟?

 そんなもの、今の今まで聞いたことがなかった。

 「あの」

 「ゆいちゃん、恋したことある?それとも今、している?」

 ゆいりの声が、茉菜の甘いメゾの声に遮られた。

 ワッフルが体裁良く盛りつけてある皿から目を離して、茉菜を見上げる。

 綺麗だ。

 出逢った瞬間、ゆいりは茉菜を天使みたいな美人だと感じ入ったものだが、日に日に綺麗になっていく。茉菜の眼差しも、声も、仕草も、ゆいりの胸を切なくさせる。

 ゆいりは首を横に振る。

 茉菜が、ふっと息をついた。

 「お兄様は、恋をしてる」

 「え……」

 「詩代に恋して、プロポーズした」

 「…──!!」

 「けど」

 茉菜がアイスティーをストローで混ぜながら、斜め下に視線を流す。形の良い目許に囲われた、水晶の如く凛とした瞳に、まるでゆいりの知らない世界が映っているようだ。

 とびきりたおやかな美をまとう、男装のドールの如く茉菜の憂いを帯びた表情(かお)に、思わず見とれる。

 私は、貴女に恋をしているかも知れません。

 戯れ言でも口に出せないフレーズが、頭をよぎる。
 現実に声に出す勇気もないくせに、少し強気な架空の自分を頭の中に生み出して、シュミレーションする。
 ゆいりは、そうしてとてつもなく幸福な熱に浮かされて、恥ずかしくなる。恋を覚えたばかりの少女のように、自分が自分でなくなっていく、こそばゆいような感覚に、囚われる。

 「瀬原秋悟は、うちの長男。詩代の話はあの言葉の通りだよ。秋悟お兄様も独立して、かすがみたいに店持ってる。そして、詩代を愛してる」

 「それって……」

 「兄弟で恋のライバルってこと。おまけに」

 茉菜が、声を潜める。

 「詩代が……お兄様達どっちの求婚を受けるか、はっきりしなかったものだから。うちが江上さんの取引先だってこともあって、彼女の親が、だったらこの一年間、兄達のブランドの様子を見て、売上が芳しい方に決めればどうかって、話になった。かすがお兄様は下剋上、秋悟お兄様はユダの売上を上げるために、ああ見えて血眼になってる。勝って、詩代っていうご褒美が欲しくて」
  
 「そんな……」

 言葉にならない得も言われぬ感情が、胸を渦巻く。

 釈然としない。気持ちが良くない。

 ゆいりは何故こんなくさくさするのか、自分で自分が分からない。

 茉菜が、何を憂い、苛立っているのかも分からなかった。

 血を分けた兄弟の争いが、それだけぴりぴりしているからか。
 それとも、友人である詩代の行く末を案じてか。

 ゆいりは、客席のあちこちで飛び交う賑やかな談笑のざわめきが、やけに遠くにあるもののように感じつつあった。

* * * * * * *

 「いつ来ても辛気臭ェ店だなァおい!」

 ゆいりと茉菜が『Treachery─下剋上─』に戻ると、店先の古びた両開きの扉の向こうから、乱暴な男の怒声が響いてきた。

 茉菜が地下に続く階段を、駆け足で降りる。

 ゆいりも続いて地下に降って、店の中に入っていった。

 すると、店の片隅に、今し方耳にしたばかりの声からは想像つかない、たおやかな見目の男が仁王立ちしていた。
 男はかなしみの聖母の像に背を向けて、腕を組んでじろじろ店の中を見回している。
 彼は、乳白色に群青を溶かしたようなブラウスに、青い薔薇の刺繍が入ったロングジャケット、青いむら染めがしてある白いスラックスをとり合わせいた。胸元で何連にも重ねられた銀色の薔薇のネックレスが光り、その出で立ちを、より貴族的に見せていた。栗色の髪の影がほんのり落ちた、白い面(おも)には、ほんのり化粧が施してある。耳も、ピアスできらきらだ。

 男がゆいり達に振り返ってきた。

 「新人か?」

 「彼女は──」

 「私の友達。今夏休みだから、来てもらってるんだ」

 ゆいりは、男にまじまじ凝視される。
 品定めされているような嫌みったらしい目つきに、ぞっとする。

 「はんッ。こっちは一人でやってるっつーのに、良いご身分でござんすなァ?かすが」

 男がかすがににじり寄る。

 今にも殴りかからんばかりの殺気が、男の全身から漲っていた。

 かすがも、負けじと男をねめつけていた。

 いつも優雅に微笑んでいる、かすがも、こんな顔を見せることがあるのか。

 ゆいりはただただ居心地悪くて、茉菜の側に、小さくなって控えていた。

 「茉菜」

 男が茉菜を瞥見した。

 「不公平と思わねェのか?俺はユダを立ち上げて、今日まで一人でやってきた。客のニーズにどれだけ応えられるか、どんな人間が、どんなものを求めているか……それを手に取らせるために、どんな術(すべ)を使えば良いか。そればかり考えて、一人で必死になってやってきた。だのに、こいつはお前に頼ってきたどころか、バイトの娘まで雇う始末だ。内装だの宗教だの、趣味やこだわりばかり優先させやがって、挙げ句に妹に男装させて、自分は女装か。こんなふざけた商売で、売上を上げてェなんざ、自己満足も良いとこだぜ」

 「何が言いたいの?秋悟お兄様」

 「えっ……」

 「詩代さんに相応しいのは、俺だ」

 「…──っ」

 男、否、秋悟が、これでもかと言わんばかりにかすがに軽蔑の視線を向けて、踵を返す。

 「かすが」

 「……何」

 「一つ、教えてやろう」

 秋悟が売場をずかずか闊歩して、地面に突き刺さった十字架の一つに足をかけた。

 「お前のような経営では、この先、長くはもたん。飽きられるか、忘れ去られるかのどちらかだ」

 「兄さんみたいに……売れることだけ考えろって?そんな気持ちで成功しても、私は詩代さんを迎えられない」

 「なら、彼女のことは諦めろ。お前みてェな甘ったれに、女を幸せには出来ん」

 秋悟が血糊の着いた十字架を、乱暴に蹴る。

 頑丈に埋め込まれた十字架は、まるでびくともしなかった。

 何という信仰心のなさだ。

 ゆいりが呆気にとられていると、秋悟は、そのまま店を出ていった。

 両開きの扉が大きな音を立てて閉まった。

 優雅なクラシック音楽の流れる店内が、久しく柔らかな空気を取り戻す。

 「ごめんなさい。格好悪いもの、見せてしまったわ……。ゆいちゃん、彼は」

 「話した」

 茉菜がすかさず話に割り入ってきた。

 かすがが、瞠目して茉菜を見る。

 「『Honey Forest』で、さっき詩代に会ったんだ。ゆいちゃんに隠しておく理由もないし、私はお兄様を応援してる。ゆいちゃんと……一緒に応援したいから」

 「それで、話したの?」

 茉菜が頷く。

 かすがが、ふんわり笑った。

 それから、ふっと眉尻を下げる。

 ゆいりはかすがと目が合った。

 「ゆいちゃん」

 「……はい」

 「貴女に隠すつもりはなかった。私は、兄さんとは違う。本当にこのお洋服が好きだわ。だけど、あの人のことが、心から好き。あの人に選ばれたい」

 「かすがさん……」

 「詩代さんは、私が欲しかった感情をくれた。大好きなお洋服をお金に変える、生きるための人間らしい行為に囚われても構わない、そう割り切れるだけのものを、詩代さんはくれた。だから、兄さんにだけは負けたくない。お洋服を使って、勝ちとか負けとか言いたくないけど、これだけは譲れない願いなの」

 「──……」

 かすがの、茉菜と同じ色をした瞳に一縷の迷いも見られなかった。

 愛する人のために、どれだけ信念を覆せるか。

 それは重要なことなのだ。

 ゆいりは、かすがの気持ちが分かる気がした。

 茉菜に出逢って、ゆいり自身、『Treachery─下剋上─』の虜になった。それまで好きだったショップの洋服は、この先もうまとうことはないだろうし、茉菜と一緒の世界にいたい。ゆいりは茉菜のいる世界で生み出されたものに、身を包んでいたかった。

 「『Treachery─下剋上─』が、好きです」

 「ゆいちゃん……」

 「私は『Treachery─下剋上─』を選ばれた、茉菜さんの気持ちに従います」

 ゆいりが両手を胸元に組むと、そこに、優しい人肌が重なってきた。

 茉菜が、切なくなるような力加減で、ゆいりの手を握ってくれた。
  
* * * * * * *

 色々あった木曜日から、瞬く間に週末という三日間が過ぎていった。

 長い長い日曜日が終わって、深夜二時を過ぎた頃、ゆいりは寝台に横たわっていた。

 ここはあの商店街からやや離れた郊外にある、一軒家の一部屋だ。
 兄妹二人が暮らすには、やはり大きすぎよう彼らの家で、ゆいりは来客用の部屋を一つ貸してもらっていたのだ。

 さっきまで、深い眠りに落ちていた。
 『Treachery─下剋上─』の仕事は楽しいが、日曜日はどっと疲れる。明日が月曜日という夜は、いつもならぐっすり眠っていられるのに、こんな時間に目が覚めたのは、夏特有の暑さで部屋がむしむししているからか。

 ゆいりはかけ布団を抱き締めたまま、自分の身体が、汗でびっしょりしていることに気が付く。

 喉が、渇いている。

 暑いし、水分も欲しい。

 身体の温度を下げたいところだが、冷房をつけて、眠っている間に冷えても嫌だ。

 寝台の上で半身を起こす。

 ゆいりはネグリジェの裾を押さえて、絨毯の上に降り立った。

 キッチンに氷があったはずだ。

 客室の扉を開けて、勝手知ったる一軒家の廊下に飛び出した。







 ゆいりが一階に降りて、廊下を曲がろうとした時のことだ。

 物音と、女性達の囁き合うような声が、耳に触れた。

 思わず足をぴたりと止める。

 別段やましいことはないのに、心臓が跳ね上がる感覚がした。

 ゆいりは、息を潜めて、真っ暗な闇の中に立ち尽くしていた。

 「良いの?…──が、来ちゃうかも……」

 どこかで聞いたことのある、ソプラノの声だ。大人びた、それでいて鈴を鳴らしたようなその声は、落ち着いた気品を帯びていた。

 ゆいりは、ついつい、耳を澄ます。

 「関係ないよ。君は、…──か、私。どっちが好き?」

 「今更、訊くんだぁ。……あ、はぁあっ……」

 「かわい。ボディソープ、変えた?……良い匂い」

 「あっ……あん、そこ、声、出ちゃ……っ」

 「どうせ誰も起きないし……啼いて良いよ。君を見せて。感じさせて?私を……忘れられなくしてあげる」

 「……っ、忘れるはず……ないじゃな……はぁん、あっあぁっ、あっ……」

 甘美な色を孕んだソプラノの声が、いっそう、妖しく高らかな音色を奏でる。
 壁で仕切って、更に扉を一枚隔てた向こうで漏れているだろう吐息の熱が、ここにまで伝ってくるようだ。時折衣擦れの音がして、何かがぶつかるようなそれが混じる。

 声は、どうやらリビングから聞こえてくる。
 物音は、多分、そこにテーブルやキャビネットが所狭しとある所為だ。

 ゆいりは、初めて耳にしたわけではないような女性達の声に意識を囚われて、胸が迫る。
 言い知れぬ切なさが押し寄せてきて、立って、息をしているのも苦しくなる。

 「……詩代……」

 知っている。

 ゆいりは、あのメゾの声の主が誰か知っていた。

 「愛してる。君は肌も、温もりも、心も……あんなやつらに触れさせちゃ、ダメだよ」

 耳を両手で覆っても、悪夢から逃れることが出来ない。

 「──……」

 「詩代」

 「茉菜……助けて……」

 「詩代が、こんな私でも許せるなら」

 「あたし、もう……」

 ソプラノの声の主が、否、あの甘く香ばしいワッフルをもてなしてくれるカフェの店主が、嗚咽をこぼす。

 ゆいりは、胸が麻痺していた。

 氷を欲して降りてきたのに、もう何も欲しくない。

 感覚を失くした目許から、何かしみるようなものがこぼれ出て、頬を伝った。

* * * * * * *

 葉月が終わって、長月になった。

 あと半月で、長い夏休みが終わる。

 しかしながら、ゆいりは、未だ生まれ育った家に帰る覚悟が決められずにいた。

 それというのも、このところ、ゆいりは屡々、『Treachery─下剋上─』の妙な噂を耳に挟んでいた。そして、さような心ない噂がまことしやかに囁かれるだけの事象も、何度か見てきた。

 それだけに、ゆいりは仮に両親が自分の帰宅を歓んでくれたとしても、ここに気がかりを残したまま、安心して元の生活に戻れる気がしなかった。

 茉菜はゆいりを無償で拾ってくれて、至れり尽くせり、生活の場を与えてくれた。
 ゆいりが茉菜に淡い恋心を自覚しようとした矢先、失恋らしいものを経験したが、それでも側にいたかった。

 さすがに、今となっては、素直にかすがを応援しようと思えない。
 それでも、ゆいりの気持ちは、今までも、これからも、『Treachery─下剋上─』にある。

 「……またやられた」

 静かな平日の午後、かすがが小さく舌打ちした。

 ゆいりは振り向く。

 黒い姫袖から伸びた手に、薄っぺらい冊子が丸めて握られていた。『Treachery─Judas─』の最新カタログだ。

 ゆいりは、ステンドグラスの光に照らされている教会風の店内にいた。
 茉菜はさっき備品を買いに出かけたから、今、ゆいりとかすがの二人だけが店にいる。

 「あの……」

 「気にしなくてよ。気付くのが早くて、助かっただけのこと」

 「──……」

 ゆいりは、皺だらけのカタログに片手を伸ばす。

 ユダの最新カタログがどんな中身か、開かなくても分かる。

 遡ること二週間前、『Treachery─下剋上─』の姉妹ブランドであるユダから、かすがの未発表のデザイン画をそのまま形にしたような洋服が出た。
 ユダは、下克上はより甘く少女らしい作風を押し出しているブランドだ。だから、さすがに配色や柄は違っていたが、土台を始め、フリルやリボンの位置までまるきり同じに仕立ててあったのだ。
 かすがは、こんな偶然もたまにはあろうと割り切って、試作していたデザイン画を、そのまま商品化に運んだ。

 それが一度なら良かったろう。

 が、二度、三度と続いたのである。

 ユダの方がいつも先に新作を出すものだから、四度目には、本当にオリジナルのはずの下剋上の商品に、盗作の疑いがかかるようになっていた。
  
 「デザイン画は、かすがさんと茉菜さん、私以外に見られません。もし、本当に秋悟さんがこちらのデザイン画を隠密に見ていらっしゃるのでしたら、一体どうやって……」

 ゆいりはかすがからカタログを受け取って、開いて見る。

 案の定、先週仕上がったばかりの下剋上のアイデアが、誌面を飾っていた。

 かすがは、多分、相当疲れている。

 時折こぼれる憂いのこもった溜め息が、彼の疲弊を物語っていた。

 一つや二つ使い物にならなくなっても、かすがの中に、次のアイデアは浮かぶ。されど傑作というものは、そう頻繁に生み出せるものではなかろう。
 下剋上の新作の、全部が全部、秋悟のユダと被っているわけではない。ただ、被らなかったものと言えば、一押しと言い難いものばかりなのだ。
 このままでは、下剋上からユダに優るものがなくなる。あっても盗作だの模倣だの、きっとまた、オリジナルとして受け入れてもらえない。

 「心当たりはあるわ」

 「心当たり?」

 「パタンナーと、トワレチェックに当たっている人間……」

 「あっ」

 「そう。私がデザイン画を決定してからそれを商品化出来るまでの過程で、この店の人間以外の目に触れざるを得ないの。特に、パターンの製図や試作は、私達瀬原の人間が経営している会社の下請けに委せているから、ユダとも繋がりがあるわ。いくら兄さんでも、工場の人間を買収なんてしないでしょう。あっちだって生地やプリントを考案して、製作する時間が必要だもの。それも、私達より一歩先に。だったら、早期の時点でデザインを写せる、且つ顔がきく協力者を得ているはずだわ」

 ゆいりは、得心がいった。

 一枚のデザイン画が既製品になって売場に出るまで、なるほど、あらゆる外部の人間の手が必要になる。中小企業との契約は不可欠だし、それがかすが達の親族らの抱えているものなら、秋悟の息がかかってもおかしくない。

 「どうすれば……」

 「決まってるじゃない」

 かすがが時計をちらと見る。

 棺の形をした壁時計が、ステンドグラスの光を浴びて、正午過ぎを示していた。

 「茉菜は、もうじき戻ってくるわね。ゆいちゃん、少しの間、店、任せても良い?」

 「えっ……」

 「誰か来ても、接客はマニュアルに沿ってくれなくて構わない。レジや梱包は、ゆいちゃん文句のつけ所がないから、安心して」

 ゆいりは、慌ててかすがを目で追う。

 「あのっ……どちらへ?」

 「本社」

 「──…」

 「話をつけてくる。いいえ、吐かせてくるわ」

 金色の縦ロールの髪を揺らして、かすががゆいりに背を向けた。

 ゆいりには、かすがの背中が、不安そうにも酷く淋しそうにも見えた。

* * * * * * *

 茉菜が商店街を曲がった小路に戻ってくると、『Treachery─下剋上─』のある塔を模した建物の地下に続く階段から、ことに目を惹く女性が出てきた。

 女性はまばゆい金髪をこまやかに巻いて、頭に被ったボンネットに、黒い小鳥が白い薔薇を啄んでいるコサージュを挿していた。
 そして、やはり頭の天辺からつま先まで、黒いドレスで身を固めていた。

 もっとも、彼女を女性と呼ぶには語弊があるか。

 「お兄さ──」

 駆け寄ろうとして、足が竦んだ。

 茉菜の、優雅な漆黒をまとった女性の姿をした兄、かすがが、耳にあてていた携帯電話を壁に投げつけたのだ。

 鈍い金属音を発した壁は、続いて、かすがの拳に直撃される。

 かすがの目が、どれだけ餌を食んでも満たされない、飢えた獣の双眸の如く色をしていた。
 どんな時でもたおやかで、穏やかなはずの彼のオーラが、まるで魂(こころ)の貧しい人間のそれのように変わろうとでもしているのか。

 茉菜は顔をしかめる。

 兄の手に、目を背けたくなるほどの擦り傷が浮かび上がっていた。

 かすがが携帯電話を拾い上げた。

 彼は一度の打撃で壊れることのない携帯電話を操作して、また、黒い薔薇でデコレーションしたそれを耳にあてがう。

 ほのかに化粧した顔が、みるみる、醜い嫉妬にも似た仮面に蝕まれていく。

 かすがの、美しいものだけを好んでいた双眸に、呪いの涙がじんわり浮かんでいた。

 そうして真夏の日差しをまとった空に、携帯電話が高らかに振り上げられた瞬間だ。

 「かすが!!」

 乱暴な怒声に耳を打たれた。

 茉菜は視線を巡らす。

 かすがの斜め後方に、数日ぶりにまみえる兄、秋悟が腕を組んで立っていた。

 秋悟は今日も完璧なロココの皇子服に身を固めながら、その優雅な出で立ちに不似合いなほどの剣幕で、かすがを睨みつけていた。

 茉菜は、そっと死角に身を隠す。

 兄弟喧嘩に進んで巻き込まれたくなかったし、日陰で少し休みたかった。

 小路の路面を覗き見る。

 「私が貴方に何かした?」

 「はんッ。俺を兄と呼ぶ気も失くしたか。とんだ兄貴不幸だぜ」

 「出来れば、同じ苗字も名乗りたくないものね。貴方のような恥知らずと同じ血が流れているなんて、世間様にどんな顔をすれば──」

 やにわに、かすが達の側に並んでいた自転車が、ドミノのように倒れていった。

 茉菜は思わず耳を塞ぐ。

 秋悟に蹴飛ばされた自転車が、怒濤の如く轟音を辺りに響かせる。

 「もういっぺん言ってみろ!!」

 「…──っ」

 恐る恐る路地を覗くと、かすがが秋悟に襟を掴まれて、壁に叩きつけられていた。

 「詩代さんが、お前の家から出てきたのを見た」

 「何のこと?」

 「とぼけるな!!」

 「ぅぐっ」

 かすがの手から、携帯電話が滑り落ちていく。

 茉菜は、肩にかけていたポシェットから携帯電話を取り出す。
 かすがと色違いで貼っている青い薔薇のデコレーションシールが、白い本体を覆っていた。

 発信履歴を確かめる。

 ほとんどの名前の欄に、「江上詩代」と表示されていた。それらの中に、一件だけ、非通知発信で「瀬原秋悟」という名前があった。
  
* * * * * * *

 茉菜が戻ってかれこれ十分が過ぎた頃、扉の開く音がした。

 ゆいりが振り向くと、教会風の店の出入り口に、常連客の姿があった。

 「いらっしゃいませ!あ、江上さんっ」

 常連客のこの女性、江上詩代は、今日は全身を『Treachery─下剋上─』の洋服やアクセサリーでまとめていた。
 詩代は、ワッフル専門のカフェ『Honey Forest』でこそその店の店長らしく給仕の姿をしているものの、オフの日は存分にめかし込むのだ。

 「いらっしゃい、わー……詩代可愛い!」

 茉菜が顔を上げるなり、輝かんばかりに頬を弛めた。

 ゆいりは茉菜の、他の客には決して振る舞わないような眼差しに、ほんの少しいつもと違う吐息の漏れ方に、喉から手が出そうになる。詩代が世界一幸せな女性に思えてならなくて、狂おしくなる。

 そんな自分の本能を、鎮めようと必死になる。

 「茉菜ってばー。ここであたしにお世辞言っても、何も出せないわよ。どうせならハニーで言って欲しいな」

 「前みたく氷山並みに、生クリームを盛ってくれるって?あれ多すぎて、休み時間終わっちゃうかと思ったよー」

 「あら、余計なサービスだった?声かけてくれれば手伝ってあげたのに……」

 詩代が茉菜の肩に抱きつく。

 金と黒のツートーンの髪がさらさら流れる、白とボルドーに身を包んだ皇子に後方から囁きかける、黒い髪に黒いドレスを合わせたドールは、得も言われぬ艶めかしさをまとっていた。

 詩代の銀古美の王冠のリングを填めた左手が、茉菜の鎖骨を悩ましげに彷徨う。

 「ちょっと、詩代……っ。ゆいちゃんが困るでしょ?」

 「むぅぅ」

 茉菜が振り向くと、詩代が渋々、後ろに下がった。

 詩代のまとったワンピースの裾が風を受けた。
 するとその、サテンに被せた黒いシフォンにプリントされた破れた聖書が、ふわっとたゆたう。

 ゆいりは努めて何でもない風を装いながら、いつの間にか移動していたヘッドドレスやお袖留めを、元の位置に戻して整理していた。

 茉菜は、きっと知らない。

 ゆいりが茉菜と詩代の関係を、疾うに知っていることを、本人達に知る由もない。

 「あ、そうだ」

 詩代が不意に語調を変えた。

 「ゆいさんって、大学生でしたよね?夏休みが終わったら、下剋上どうされるんですか?」

 「あ、えと……」

 「時間減らして来てもらう」

 「えっ」

 「ダメ?んー、それともゆいちゃん、いっそ永久就職しちゃう?」

 茉菜が可愛らしく首を傾げた。

 永久就職。

 何故だ。二つの単語をただくっつけただけの造語が、茉菜の唇からこぼれたものというだけで、ゆいりをどきどきさせてくれる。

 ゆいりは夏休みが終わった後のことなんて、考えてもいなかった。
 この人生初の家出をいつ終えるかも考えていなかったから、正直、頭の中は混乱していた。

 ただ、茉菜の側にずっといたい。
 詩代が彼女の側にいても、構わなかった。

 「私は……」

 「分かってる」

 ゆいりの側に、茉菜がすっと来てくれた。

 「ゆいちゃんが、まず家に戻るか戻らないかで悩んでること、分かってる」

 「──……」

 「親と喧嘩したわけじゃないんでしょ?」

 ゆいりは頷く。

 生まれ育った家が嫌いなわけではない。
 ゆいりはあすこで、何不自由なく生きてきた。おそらく世間の大多数が認める普通の学生らしく学校に通って、平凡でも穏やかな家庭の中でぬくぬく生きていたのだ。
 あの生活が、嫌だったはずがない。
 両親の仲は良好だった。たまに喧嘩もしていたが、それはよくある些細なもので、家族は至って円満だった。

 ただ、許せなかった。

 ゆいりは、父親と、母親の、大人(にんげん)らしいところが、どうしても好きになれなかった。

 両親の、精神的な、或いは物理的な利益を最愛としているような生き方が、いかにしても受け入れ難かったのだ。

 人間は、時には他人を蔑ろにしようとしてまで、自分の損害を疎んじる。かたちなど、どうでも良い。ただただ生きることを善として、未来の安寧を願う。
 生き抜く本能こそを正常と見なし、それ以外の感情を毛頭否定するような、固定観念に囚われている。

 ゆいりは、さように実益を求める人間の、大人の醜さが、理解し難い。

 ゆいり自身も、偏見の塊である人間の、眷属だ。人間に生み育てられた以上、身も心も、無垢でいられるはずがない。

 気が付けば荷物をまとめて、生まれ育った町を出ていた。

 「生きることに、答えはないって……皆言ってるけど、そんなの、口先だけだと思います。皆、自分が正しいと思ってる。親だって、私のやりたいようにさせてきてくれた……けど、本当はそうじゃない。あの人達にはあの人達の哲学があって、私も、無意識の内にそれに合わせて生きてきました。お互い妥協してるから、上手くいってる。合わせなくちゃいけない雰囲気が、どこかに……あるんです」

 ゆいりが許せなかったのは、自分自身だ。

 動物だって、生きるための努力をする。住処を見つけて、食べ物を得るために、走り回って知恵を練る。

 呪うべきは人間に限らないと分かっていたのに、疲れたのだ。

 「学校じゃ良い成績をとって、その後は、そこそこの仕事に就く。社会で上手くやって、勝って、勝って、勝ち続けるか……或いは後世に家名を残すために、経済的に支え合うために、女と男が結婚して、二人仲良く老後を送る。人間が、幸せと呼ぶ生き方ですよね?くだらない」

 「ゆいちゃん……」

 「私は、そんな人間の幸せが悲劇にしか見えない私自身が、許せなかった」

 「──……」

 ゆいりの商品を整頓していた手に、茉菜の手が重なってきた。

 不意に身体がバランスを崩す。

 ゆいりの肩が、茉菜の胸に柔らかな力でぶつかった。彼女の腕が絡みついてくる。

 詩代が、側にいる。

 だのに、ゆいりは茉菜に、勿体ないほどの優しさを与えられていた。
  







 棺の形をした時計を見ると、午後三時を過ぎていた。

 ゆいりは、かすがが気になり出していた。本社に行くと言い残して出ていったきり、もう三時間経っている。

 茉菜はと言えば、詩代が売場を見て回っているのに付き添っていた。

 「じゃあ、この黒いステンドグラス柄のスカートと、薔薇の透かし編みが入った姫袖ボレロ。さっきのシフォンのブラウスと合うか試してみたいんだけど、良い?」

 「お嬢様の仰せのままに」

 茉菜が詩代の腰に腕を回したのとほぼ同時、軽快な機械音のメロディが、長調のクラシックのBGMを遮った。

 ゆいりはバックルームに走り込む。

 「お電話有り難うございます。『Treachery─下剋上─』×××商店街東入ル店の、花桐です」

 受話器から、聞き慣れない男の声が聞こえてきた。

 「はい。え……警察の、方、ですか?はい。…──瀬原かすがは当店のオーナーです。はい……」

 ゆいりは男に問われるまま、答えていく。

 妙な胸騒ぎに責められながら、最後に、受話器を茉菜に引き渡した。







 そのニュースは、街中を騒然の渦に巻き込んだ。

 派手な恰好をした一人の男が、弟を、商店街の路地裏にあるガレージに連れ出して、刺殺した。

 よくあるような事件だが、渦中の兄弟が、そこそこ名の通った大手アパレルメーカーの嫡子だっただけに、人々の好奇をそそったのだ。

 兄弟は、親続らの間でも有名な不仲だったという。
 彼らの仲違いがことに深刻化したのは、彼らの親が営む会社の、取引先の娘に求愛してからだった。
 娘は、彼らのどちらにも快い返事を寄越さなかったらしい。が、半ば古風な政略結婚に則ったような家の運命が、彼女に選択を強いた。
 兄弟がそれぞれ独立して建てたブランドを、より大きくした一方に、娘との交際権及び婚約を認める。
 それが娘の両親、江上の出した結論だった。
 以来、瀬原兄弟の営む二つのブランドは以前に増して対立し、とうとう、今回の殺人事件が勃発したのだ。

 それにしても何故、温室育ちの御曹司が、仮にも血を分けた弟に、そこまでの殺意を抱いたのか?

 真相は、きっと当事者──瀬原秋悟にも明かせまい。

* * * * * * *

 深夜零時が近付いていた。

 茉菜は寝室に帰り着くと、飾り気のないスーツを脱いだ。線香の匂いが、つうっと、鼻を掠めた。

 詩代が寝台から起き上がって、すたすた側まで歩いてきた。

 「まーつな」

 しとやかな腕が、茉菜の下着だけを着けた身体に、まとわりついてくる。

 詩代のさらさらの黒髪か、すべすべの素肌か、くすぐったいのは、どちらだ。

 茉菜は、詩代の腕を軽くあしらう。
 部屋着のかかったハンガーに、腕を伸ばす。

 「あの子に……幻滅、されたかな」

 「ゆいさんのこと?」

 茉菜は頷く。

 何せゆいりは、筋金入りの純粋な少女だ。いっそ潔癖性なほどである。

 「黙ってれば、分からないじゃない」

 「ゆいちゃんは、お兄様を尊敬しているみたいだったし。私があいつをハメるために、下克上のデザイン画を秋悟お兄様にプレゼントしてあげてたこと知られたら、あの商店街で、もう一回殺傷事件が起きるかも。それに」

 茉菜は詩代に振り向いて、彼女の形の良い唇を、指先でなぞる。

 「詩代を啼かせながら、非通知でお兄様達にコールして聴かせたなんて、ゆいちゃんじゃなくても怒るだろうな。詩代にも酷いことした。ま、あれをお互いにお互いの仕業だって早とちりした、お兄様達もお兄様達だけど。……何で、二人共、自分が踊らされてることに気付かなかったんだろう」

 「愚かだから」

 茉菜の手が、詩代にとられた。

 「かすがさんも、秋悟さんも、救いようがなかったわ」

 「──……」

 「茉菜は、あたしを助けてくれただけ。悪くない。あたしは茉菜が好きよ。大好き」

 「詩代……」

 茉菜は、詩代の手をきゅっと握る。

 実の兄達の喧嘩に油を注いで、撃ち合わせて、両者を破滅に追い込んだ。

 全ては計画通りにいった。茉菜には、かすがを亡くした悲しみもなければ、秋悟が今頃どんな取り調べを受けているのか興味もない。

 詩代を、ただ、守りたかった。

 「ゆいちゃんは、昔の私に似てるとこがある。もし詩代があいつらに狙われてなかったら、私も、静かで穢れなくて良い生活を……理想にしていたかも知れない。けど、君の愛を、ブランドの売上のご褒美か景品みたいな目で見てた、お兄様達や親達を、憎まずにはいられなかった」

 詩代が家同士を懇ろにする道具として、かすがか秋悟の想いを受け入れるよう強要された。そうして少なからず精神を壊しかけた時期もある、彼女の苦しみを、痛みを、誰も解ろうとしなかったのだ。

 やらなければ、やられる。

 ここがそういう弱肉強食の世界なら、茉菜とて、勝つしかなかった。

 「君を連れて、どっか逃げちゃっても良かったけど」

 茉菜は、ハンガーから外した部屋着を羽織る。

 「下剋上とユダは、どっちも可能性がある。だからこそ、ばらばらじゃ、いつまで経っても未完成なブランドのままだ。お兄様達の創った二つを『Treachery』として合わせれば、きっとそれぞれの持ち味を活かした、新しい店に生まれ変わらせられる」

 「茉菜……」

 「やってみたい。私が詩代を瀬原に迎える、最高の条件を整える。『Treachery』を、お兄様達には目指せなかった店にする」

 茉菜は、詩代と鏡越しに目が合った。

 どれだけこの手を汚しても、人間社会に染まっても、構わない。
 詩代が、茉菜に無垢なものを見切る覚悟をさせてくれた。

 魂なんて、関係ない。

 今この世界で、最愛の人と、力いっぱい生きていきたい。

 「これからは、毎日、貴女の家のキッチンで、ワッフルを焼かせて……」

 茉菜は振り向く。

 鏡の中でまみえるよりずっと綺麗な、詩代と、言葉にならない想いを交わした。







──fin.
妖精カテドラル