うだるような暑気が鮮やかな若葉を陽炎の波にいざなう葉月の月初め、真夏の日差しが、地上のそこかしこに照りつけていた。
 黄金(きん)色に染まった真昼の町の風景は、まるで強烈なスポットライトに照らされた模型の如く、無機的だ。

 椎津千路(しいづゆきじ)は、部室にいた。

 大学は夏休みの期間に差しかかったが、部活やサークルに属している千路のような学生達は、長い休日を返上して、屡々、親しんだまなびやの門をくぐっているのだ。

 千路はここ、私立明日木(あすき)女子大学の写真部に所属している。

 本館とは別の校舎の地下一階にある、畳六畳ほどのこぢんまりした部室には、千路の他に、二人の部員達がいた。
 有園ねいな(ありぞのねいな)と宮景こみち(みやかげこみち)だ。ねいなは千路と同じ二回生で、こみちは四回生である。

 もっとも、今日、部員はまだ三人集まっただけだ。

 千路らは、冷房が効くまで適当に時間を潰すことにしていた。

 「あっ。宮景先輩」

 ねいながフォトブックを眺めていた手を止めて、顔を上げた。

 「学祭の写真展に協力して下さる花染さん、午後に来てくれるんでしたっけ?」

 どこかで聞いた名前だ。

 千路がねいなをちらと見ると、彼女のワンサイドポニーに結った栗色の髪が、シュシュの中でさらりと流れた。

 「そうよぉ」

 こみちが折り畳み式鏡を仕舞った。メイク直しをしていたらしい。
 この上級生は、今日も途中、部活を抜けて就職活動に出かけるのだろう。リクルートスーツに髪はシニオンという出で立ちだ。

 千路は、つと、こみちと目が合う。

 「ごめん。まだゆきちゃんに話してなかったね」

 「そっか。先週バイトで早上がりしたもんね。あたしもゆきちゃんいなくなってから聞いたんだけど、吃驚してどきどきしちゃってもうどうしようか」

 ねいなが落ち着かない様子で、フォトブックをぱらぱらめくる。

 「あの……何の話ですか?」
 千路には、彼女らの会話がまるで読めない。
 ただでさえツインテールに被せたウィッグで重たい頭を、余計に悩ませないでもらいたい。

 「花染秋桜(はなぞめあきら)」

 「え」

 「知っているでしょ?」

 こみちが、鞄から数種類の小冊子を、次から次へと引っ張り出す。
 どれも地元の観光名所や洒落たカフェ、ショッピングモールの一押し商品などが紹介されている、駅やコンビニで手に入るフリーペーパーだ。

 千路の目に、つと、赤い文字ででかでかと『セレブリティタウン』というタイトルが飛び込んできた。
 強烈なインパクトがあるフォントより、表紙で微笑む美少女が、目についたのだ。

 「こ、この子……」

 「やっぱり知ってるんじゃない」

 千路の視線の先に、こみちの穏やかな眼差しが落ちる。

 『セレブリティタウン』というフリーペーパーは、何やら格式がありそうなのはタイトルだけだ。実際は、少しばかり気取った店やらサロンやらが紹介されている、至って一般人向けのものだ。

 もっとも、今まさにこみちが拾い上げた地元情報誌の表紙を飾った美少女は、やんごとなき生まれ育ちのようだ。
 全く日焼けしていない肌は、真珠も褪せるほどにまばゆい。垂れ目がちな目許は、黒曜石を填め込んだように崇高な煌めきを宿している。自然な微笑みを湛えた唇は、甘やかな艶を帯びている。首筋も、腕も、折れそうなくらい華奢なのに、痩せこけたイメージではない。
 黒いケミカルレースがふんだんにあしらわれた紺色のシフォンのブラウスが、少女を、とびきり優美に引き立てていた。

 「思い出したかも……知れません。花染さんって……」

 「そう、彼女だよ。うちの大学の一回生。二年前からフリーペーパーや雑誌の読者モデルをやっていて、学内じゃ、演劇部にも専念しているんだって」

 「詳しいですね、先輩」

 「別に」

 千路は、こみちに『セレブリティタウン』を押しつけられる。

 「私は、花染さんに今度の学祭で写真部に協力してもらいたいんだ。そこで彼女の先輩に当たる、演劇部にいる私の同級生に聞いて、色々教えてもらっただけ」

 「はぁ……そうですか」

 「そこで、ゆきちゃん」

 こみちが、神妙に顔を寄せてきた。

 「秋の学祭の写真展。私達四回生が決めたテーマは、『初恋』」

 こみちのヌーディーカラーの短い爪が艶をまとった指先が、千路のウィッグの巻き髪を掬う。
 ピンクのメッシュの混じった亜麻色の髪が、もてあそばれる。

 「ゆきちゃんに、花染さんの彼女役をお願いしたいの」

 「…………」

 「──……」

 「……はい!?」

 千路は思わず声を上げた。

 否、おそらく聞き間違えたのだ。

 千路のような一般人が、秋桜に釣り合うはずがない。

 「あの、宮景先輩」

 「なぁに?」

 「花染さんに、失礼ですよ?」

 プロのモデルを、地味顔を化粧で誤魔化しているだけの一般人と一緒に写真に収めようなんて、前代未聞だ。

 「失礼じゃないよ」

 千路が抗議の姿勢をとると、こみちがあっけらかんと否定した。

 「友人に頼んで、花染さんにゆきちゃんの写真を見せてもらったら、可愛いって言ってたんだって。ゆきちゃんが相手なら引き受けるって」

 「はひ?!」

 「花染さん普段はゴシックロリィタの姿だけれど、ゆきちゃんみたいなデコラーちゃん、好きみたいだよ。だから」

 「──……」

 「自身を持って、モデルの方も頑張って?」

  こみちが、千路の首にかかったパステルピンクのポニーが揺れる、ペンダントの金具が鎖骨に回ってきていたのを直してくれた。

 千路は、ただただ秋桜が表紙になった『セレブリティタウン』を眺める。

 こんな美少女と接触出来るどころか、ポーズだけとは言え、相手役をする。

 こみちに考え直してくれる気配がない以上、近い未来、それは間違いなく現実になろう。

 千路は、心臓がひっくり返って壊れるのではないかと思った。
  
* * * * * * *

 藪から棒に写真展の被写体に指名されて、その僅か数時間後、いきなり相手役の少女と顔合わせさせられた。

 あれから二週間が過ぎた。

 千路は、今日も朝から写真部の集まりに出ていた。
 そして昼過ぎ、もう一人のモデルに抜粋された秋桜が部室に見えて、彼女と、こみちら写真部の四回生らと私立明日木女子大学の裏山に移動して、今に至る。
 『初恋』というテーマの写真展に向けて、とうとう撮影が開始されるのだ。

 夏らしい蒸し暑い風が吹き抜けてゆく裏山に、千路と秋桜、そしてこみちと加保友梨乃(かほゆりの)、八瀬ありあ(やせありあ)がいた。

 千路が秋桜とまともに顔を合わせたのは、これで二度目だ。
 秋桜は、やはりゴシックロリィタの洋服を、さらりと着こなしていた。
 光沢のある綿サテンで仕立ててある、深い青のベビードール風のワンピースの裾で、グリッターの入ったスカイブルーの蜘蛛の巣に舞う桜と思しき花びらが、きらきら煌めく。繊細なレースのあしらわれた姫袖が、秋桜のたおやかな手首まで覆い隠しているのに、本人は汗一つかいていない。大きな黒いシフォンのリボンカチューシャが、彼女の栗色のボブの黒髪を、華やかなシルエットに演出していた。

 「椎津ちゃん」

 千路がピンで撮られている秋桜を眺めていると、凛とした声に呼ばれた。
 振り向くと、友梨乃がプロットの印刷された用紙をめくって、千路の側に佇んでいた。
 A4サイズの用紙をホッチキスで留めたそれは、二週間前、千路らも手渡された台本だ。千路が後輩、秋桜が先輩として設定してあって、恋を知ったばかりの少女と、少女とも少年ともつかない謎めいた美人とが織りなす、初々しい初恋の模様が描かれている。

 「この、さっき二人に撮らせてもらった物語の出だしのところね、椎津ちゃんが秋桜ちゃんを遠くから眺めてるカットにしたじゃない?これだと次の『秘密の花園』の馴れ初めまで、秋桜ちゃん君を知らないことになっちゃうから……」

 友梨乃が、裾の長いジョーゼットのチュニックをたゆたわせながら、頬にかかったシャギーの髪を耳にかける。

 「さっきこみち達と相談して、逆バージョンも撮らせてもらうことになったの。良い?」

 「秋桜ちゃんが私を見てる感じに、ですか?」

 「うん、そう」

 異論はない。

 現実的に、秋桜が千路に憧れるシチュエーショはなかなか想像し難いが、そこを掘り下げてはきりがない。

 「分かりました」

 「ありがと。次で休憩入れるから、緊張ほぐして頑張って」

 「緊張……しているように見えますか?」

 開き直ったつもりでいただけに、心外だ。

 千路が頭をひねり出すと、友梨乃に頬をつつかれた。

 「ここ」

 「はぅっ?!」

 「秋桜ちゃんほど柔軟性を付けろとは言わないけれど、顔、ちょっとばかり堅いのよねぇ」

 友梨乃の手が、千路の胸元に下りていく。

 パステルカラーのボーダー柄がプリントしてある、カットワンピースのセーラーカラーに結んだリボンが、僅かに弛んでいるのが見えた。

 友梨乃が、そのチェリーピンクのリボンを器用に結び直してくれた。

 「ま、『初恋』だから。それが椎津ちゃんの自然な表情なのかもね」

 「初恋……」

 千路は経験したことのない未知の単語が意味するものに、いまいちぴんとこなかった。







 山の中にしては足場がすっきりしている広場に造花が散りばめられて、こみち達が『秘密の花園』と呼ぶ撮影セットが完成した。

 そこで千路と秋桜がいよいよばったり出逢うシーンを撮って、休憩が挟まれることになった。

 千路は適当な岩根に腰かけて、山腹の景色を眺めていた。

 背の高い木々が、緑を繁らせている。
 遥か彼方の青空を染め尽くそうほど豊かな自然のグラデーションは、猛暑の日差しを程良く遮ってくれていた。

 ふと、視界の端に青い影が触れた。

 「…──っ」

 「お隣、良いですか?」

 「は……はい」

 千路はやっとのことで一言頷く。

 秋桜がワンピースの裾を押さえながら、優雅な身のこなしで隣に腰を下ろす。

 その様を横目にしていると、妖精の姿を借りたドールが、白い棺型のスクールバッグから冊子を引き出した。
 桜の花びらとリボンが刺繍してあるレースがたゆたう姫袖から、しとやかに伸びた秋桜の両手が支えた冊子は、表紙に『眠れる森の美女』と書いてある。

 「演劇部の……台本?」

 緊張より沈黙に耐えかねて、唇が、とうとう動いた。

 千路がそっと自分の膝を抱えると、はい、と、慎ましやかな声がした。

 垂れ目がちな目許を飾る、黒い瞳に千路が映る。

 「ごめんなさい、写真部の撮影中にこんなもの。ちょっと役が掴めていなくて、ここ環境がよく合っていたものですから、黙読してイメージを掴みたくって。その……まず声に出すより、頭の中で喋ってみると、何かと自由が利くんです」

 「なるほど、茨のお城の話だもんね。確かに、こんな街から隔離されたような山の中なら気分出そう」

 「あの……先輩」

 千路の耳に、秋桜の柔らかな声が触れた。
 高くもなく低くもない、少しも掠れていない甘い声に、胸が顫える。

 「先輩なんて……い、いいです……そんな敬語……」

 心から畏れ多くなって、逆に敬語が口からこぼれる。

 すると、千路の手に、柔らかなフリルレースが触れた。すべすべの指が重なってきたのだ。

 「…──!!」

 「椎津さん」

 「は、はい……」

 「こんなこと、とてもお願いしづらいのですけれど」

 秋桜が申し訳なさそうに眉を下げる。

 俯き加減な少女の表情(かお)を、これだけあえかに感じたことが、未だかつてあっただろうか?

 出逢ってたったの二度目なのに、まるで愛慾に飢えた人間の生み出すような空想が、頭を駆け巡ってゆくようだ。

 引き寄せられるようにして、秋桜の手をやんわり握る。

 千路は、秋桜に話の続きを促した。
  
* * * * * * *

 季節は巡って、例の裏山もめっきり秋めいていた。

 長月の風が、緑溢れる広場に花を咲かせたコスモスを、そよそよ撫でて通り過ぎてゆく。

 千路と秋桜がモデルを務める『初恋』は、順調に撮影が進んでいた。

 ここ一ヶ月間、千路は自分達の学年が手がける写真展の準備を進めながらモデルを務めて、空いた時間をアルバイトに使っていた。
 一方、秋桜はやはり読者モデルの仕事をしながら、日々、写真部と演劇部を往来していた。

 もうすぐ夏休みが終わる。

 夏休み中、千路は秋桜の稽古に付き合っていた。
 秋桜のいる演劇部では、来月、学祭で『眠れる森の美女』が公演される。秋桜はその舞台に準主役、つまり美女の相手役である騎士として立つのだが、写真部の撮影が始まったあの真夏の昼下がり、その稽古相手に千路を指名してくれたのだ。

 今日も、千路らは裏山の山腹を陣取っていた。

 さっき植物園デートのシーンを中途まで撮って、今、休憩時間を挟んでいるところだ。

 千路は秋桜と、こみち達から少し離れた木陰にいた。

 秋桜は、ペチコートのみ仕込んだような、フレアの控えめな紺色のロングドレスをまとって、下にジョーゼットのリボンタイ付きブラウスを合わせていた。髪は、右側のサイドに銀色のパールをスプレーしただけだ。
 彼女の『初恋』での設定が、中性的な美女というだけあって、可憐なゴシックロリィタの他に、屡々、今日のような出で立ちを披露してくれていた。

 千路は、秋桜の敷いてくれたレジャーシートに横たわっていた。
 今日の撮影にデートシーンがあると聞かされていた。だから千路は、お気に入りのフリルスカートに、パフスリーブカットソー、ハートの透かし模様が入ったボレロという、よそ行きの恰好をしていた。

 草花の匂いを感じながら、秋桜の気配に包まれる。

 千路は、世界一幸せな眠り姫になった心地にいざなわれていた。

 砂糖菓子みたいな台詞を連れて、秋桜の吐息が、千路の官能をくすぐってくる。
 舞台で本当に口付けることは、滅多にない。二人のキスも見せかけなのに、胸が、五月蝿いほどどきどきしていた。

 秋桜の気配が離れると、ゆっくりと、身を起こす。

 永遠のような眠りから覚めて、久しく、世界を目にする。

 そこに奇跡のような騎士(ひと)がいたなら、どうする?

 唇が、自然と動き出す。

 『私は、眠っていたのですか?』

 『レディ。目蓋を開いた貴女の瞳は、何と美しい……』

 『貴方が、私を救って下さったのですね……。お慕いしております』

 愛しております。

 千路が心の中で呟くと、足音が、砂利を踏みながら近付いてきた。

 「お待たせ。撮影再開したいんだけど、準備良い?」

 千路は、こみちに顔を上げた。







 「最近、力抜けてきたわね」

 ほとんど千路が秋桜にリードされるかたちで、数枚のショットが撮られた後、ありあがふっと呟いた。

 「力ですか?」

 「ええ。最初はゆきちゃん、がちがちだった。告白のシーンなんて、リアルな女子より不憫な表情していたのに、このところ本物の恋人同士より楽しそうだわ」

 「本物!?」

 「秋桜ちゃんはプロだから、分かるけれど。ゆきちゃんは、どんな魔法にかかったのかしら?」

 ありあが楽しげに目を細める。

 千路は、この上級生の戯言が、あの美しい下級生の耳に入りはしまいかと冷や冷やする。

 どんな魔法か。

 千路に分かるはずがない。

 ただ秋桜が大好きで、彼女と一緒にいたい気持ちだけが一人歩きしているようだ。

 「さて、続き頑張るか。こみち、友梨乃ー。確認出来た?」

 千路の肩越しに、ありあがこみちらを覗き込む。

 その時だ。

 穏やかだった秋の風が、やにわに凍った。

 「…──っ」

 「秋桜ちゃん?!」

 秋桜が、腕を庇ってその場に崩れ落ちたのだ。

 苦しげに顔を歪めた彼女の姫袖が、はらりとまくれて、細い手首が露わになる。

 人間にあるはずのない、球体間接と思しき線が、その柔肌に浮かんでいた。







 千路は、こみちらが医者を呼ぼうとしたのを止めた。

 見間違いでなければ、秋桜の手首に浮かんでいたものは、球体間接人形を繋げるパーツだ。

 千路はそれを、こみちら四回生の面々から咄嗟に隠した。
 秋桜は厳しい真夏日でも、決して腕を見せなかった。おそらく身体を隠していたのだ。

 今日あれから予定していた撮影は、延期になった。
 秋桜はしばらく休めば痛みが引くと言っていたが、こみちらが彼女を気遣って、切り上げたのだ。

 千路は上級生達のいなくなった裏山に、秋桜に付いて残っていた。
 肩にもたれかかった秋桜の顔を覗き込むと、さっきより、血色が良い。

 「ありがと、ゆき」

 秋桜が、つと呟いた。

 いつしか上級生と下級生という枠に囚われなくなっていた、千路と秋桜は、互いを気軽に呼び合う仲になっていた。

 「見えた、でしょう?」

 「──……」

 「ごめん」

 「何が……」

 「ごめんね……ゆき」

 千路の右手の甲に触れた、遠慮がちな秋桜の手が、酷く冷たく感じられた。そして、切ないような温もりを孕んでもいた。

* * * * * * *

 『私の先祖に、学者がいたの。彼は、人間を人形に変える研究をしていた。私は、人体実験に使われた、彼の従姉妹の曾孫なんですって……』

 千路が秋桜に秘密を打ち明けられたのは、あの、植物園デートの撮影を中断した日から一週間後のことだった。

 秋桜がドールシンドロームと呼ぶ、彼女の家系の人間に稀に現れるらしい体質は、その先祖の非人道的な欲望が遺した禍(わざわい)だった。

 血肉がビスクに変質して、手足の間接が球体になる。症状が進行する際、激しい痛みや眩暈に襲われる。
 但し、それらに耐えられなくなるまでに、心身、完全なドールの器に変わる。ドールという化石になって、永遠の眠りにつくというのだ。
  
 今日は、十月最後の月曜日だ。
 千路は秋桜と、そしてこみちらと共に、中庭の花壇の側にいた。
 『初恋』という甘酸っぱい二人の絵物語が、もうすぐ、完成する。
 このたった今始まった休憩時間が終われば、いよいよラストシーンの撮影が開始されるのだ。

 「秋桜どうする?眠り姫の練習」

 千路は撮影に使っていたベンチから、秋桜を見上げる。

 写真部が最後の追い込みをしているこの時期、演劇部も同様だ。千路は、少しでも秋桜の稽古に力添えをしたかった。

 「──……」

 秋の風が、奇跡の如く少女を優しく撫でてゆく。

 細い腰をふんわり飾る、紺色のリボンが緩やかに靡く。

 「ゆき」

 秋桜が、儚げに空を見上げて囁いた。

 「お話が……あるの」

 千路から、薔薇をとかしたみたいな白い頬が見えなくなった。

 「ゆきに、お願いがある」

 「お願いって?」

 「この撮影が終わったら、聞いてくれない?」

 秋桜が背を向けていた。

 また、千路の知らない痛みに耐えているのか?

 千路はベンチを立ち上がって、腕を伸ばす。

 後方から秋桜の華奢な肩を抱くと、酷く硬質な感触がした。

 「大丈夫」

 「──……」

 「物語の中の私達は、とっても幸せ」

 千路の手に、懐かしい人肌にくるまれた指が絡みつく。

 「写真って素敵ね。泡沫みたいな幸せが、ずっと、いつまでも残るんだもの。ラストシーンまで、ゆきのこと、忘れない」

 「現実でも、幸せになりたい。秋桜と一緒に」

 「ゆき……」

 千路は秋桜を抱き締める腕に力を込める。

 彼女の身体のどこかが軋む音を立てた。

 小さな悲鳴が聞こえた気がした。

 秋桜の細い指先に、微かな線が浮かび上がってくるのが見えた。

* * * * * * *

 『初恋』は、終わった。後はこみちらが編集して、パネルの絵物語を組み立てるだけだ。

 千路は秋桜と、二人、初めて恋人同士を演じた裏庭に来た。

 夕陽に照らされた秋の山腹は、初夏と違って、紅葉の色に染まりきっていた。

 休憩時間ごとに『眠りの森の美女』の稽古をしていた芝生に、腰を下ろす。

 千路は、ことに意味なく、秋桜と手を繋いでいた。

 「怖かった。……今も怖い」

 柔らかな指先が、だんだん、ビスクのそれになってゆく。

 「ゆき」

 千路は、秋桜をただただ見つめる。

 「写真は、永遠のかたちを残してくれる。お芝居は、私を……永遠の時の中に残してくれる。演じることが、好き。生きている感じが味わえるから、好きだった」

 「──……」

 「こんな身体だと分かってからも……モデルのお仕事をして、お芝居をしている時だけは、平静な気持ちでいられたの。気休めだって分かってた。それでも、絶望に、私は気付かない振りをしていられた」

 けれど、と、秋桜がしとやかに顔を伏せる。

 「それは、違ったのかも知れない」

 「──……」

 「一生分の幸せを、ゆきと一緒に過ごして、違うと思った」

 「秋桜……」

 「どんなに好きになれる写真を撮ってもらえても、どれだけ役と一体化しても、満たされなかった。ゆきが、私の空っぽなところに……素敵なものをたくさんくれた」

 「──……」

 「だから」

 千路の手が、ぎゅっと、強く優しく握られる。

 「貴女に、演って欲しい」

 「何……言って……」

 「『眠れる森の美女』の騎士を、ゆきなら、やれる。魂を賭けて……演じたかった。この想いを委せられるのは、貴女だけ」

 「…──っ」

 「ゆきは素敵な人だから」

 「秋桜……」

 そういうことだったのか。

 千路は、秋桜が何故、練習相手に自分を選んでくれたのか、今やっと分かった。

 秋桜が、千路に騎士を演れるだけの経験を積ませてくれていたのだ。
 彼女がドールに蝕まれれば、代役が、必要になる。そこで彼女は、いつからか、千路にその役を引き継がせようとしていたのだ。

 千路は嫌だ。認めない。

 「眠り姫は、キスで目覚める。それは騎士に必要とされたからなんでしょう」

 「そう、解釈したわ。あの夏の日から、ゆきの眠り姫を何度も何度も起こしていて、感じた」

 「だったら」

 「ゆき……」

 「私は秋桜を必要とする。悲しい魔法が解けるまで、秋桜のこと、離さない。……信じるから」

 「…──っ」

 「秋桜が好き」

 秋桜の顔色が、みるみる変わる。綺麗な双眸が得も言われぬ情緒を帯びて、甘く匂やかな潤いが浮かぶ。
 『初恋』の撮影でも見られなかった、秋桜の表情(かお)だ。

 千路は秋桜が羨ましかった。眩しくさえあったのに、憧れに似た気持ちはなかった。
 愛おしすぎて、別の個体でいたかったのだ。秋桜と個々であってこそ、恋をして、二人、未来を夢見ることが出来る。

 千路は自分に自信がなかった。
 何の取り柄もない千路が、何故、秋桜とこんな縁に恵まれたのか今でも不思議だ。

 しかし、二人の出逢いに意味はある。

 秋桜は千路を愛してくれた。芝居でも、千路という存在を認めてくれた。

 「私が秋桜の騎士になる」

 秋桜は、決して恵まれた少女ではない。されど同情すべき人でもない。
 千路と同じだ。見えない痛みを抱えながら、それでも笑って生きてきた、千路と同じ眷族だ。

 失いたくない。

 「いや……」

 離れたくない。終わりたくない。

 桜貝の色をした、形の良い唇から、初めて涙を孕んだ声がこぼれた。

 「秋桜」

 千路は秋桜を抱き締める。

 柔らかだった体温が、刻一刻、朧になってゆく。

 それでも諦められない。

 一晩中、否、何日、何ヶ月、何年でも惜しくない。千路は秋桜の側にいる。
 騎士の思いが少女を眠りから救い出すなら、秋桜が望んでくれたように、千路は彼女のそれになる。

 森が、闇夜に包まれていく。

 祈るように瞳を閉じると、優しい風が、二人にまとわりついてきた。







──fin.
妖精カテドラル