週末の繁華街は、どことなく浮き足立っている。
これからがっつり遊び回るのだろう若者達や、早々に二人きりの世界に浸っている恋人達が、行き交っていた。
ここは、大通りを外れて細道を入った所にひっそりとある、ダイニングバーだ。
プラネタリウムを彷彿とする内装と、和洋折衷の創作料理が、人気の店だ。週末は予約せずには座れない。
この人気のダイニングバーの一室に、ざっと十五人くらいの女性達がいた。優美で淑女めいた彼女達は、各々、談笑に花を咲かせていた。
服装も、年齢も様々な女性達の共通の話題とは、創立二十年余の「東京乙女歌劇団」だ。
花、鳥、風、月と名の付いた四つのチームから構成された、女性の役者ばかりが揃う歌劇団を支持している女性達は、今夜、非公式のオフ会と称した親睦会を催していた。
小さな銀色の電球があちこちで点灯している天井の下、部屋いっぱいに、青い照明が立ちこめていた。
女性達が愛して止まない、歌劇団の役者達と同じく、彼女達も十代から七十代という、実に幅広い年齢層だ。
自ら崇拝している役者達に倣ってか、オフ会の席にいる彼女達の多くが、知性と気品に溢れていた。
冬の寒さも吹き飛ばすような賑わいの中、天野みほしは、いまいちはしゃぎきれずにいた。
オフ会のメンバーは皆気さくだし、みほしは昼間、自由参加の観劇会にも参加した。
気分そのものは高揚している。が、はしゃぎきれないのと気分は別だ。
先週、「東京乙女歌劇団」のチーム「月」が、初日公演を迎えた。チーム「月」とは、みほしを含めこの席にいる女性達全員が贔屓にしている、チームである。
「東京乙女歌劇団」には、二ヶ月単位で上演チームを交代していくシステムがある。従って、今月から来月は、毎日「月」が乙女大劇場の舞台に立つというスケジュールになっていた。
今回のチーム「月」の上演演目は、かの有名な『ロミオとジュリエット』だ。元は芝居向けの脚本だから、ミュージカルとして書き換えられた箇所もある。
みほしが『ロミオとジュリエット』を観劇したのは、今日で三度目だ。
舞台は、言わずもがな最高だった。
特に、現在チーム「月」の娘役トップに立つ空月えりさは、文句のつけ所がない美女だ。容姿云々を差し引いても、みほしは彼女が大好きだ。愛している。
みほしが黒いロリィタ服を好んで身にまとっているのは、えりさが日頃、白いロリィタ服を好んでいるからだ。何となく、彼女と対(つい)でいられる気がする。
端からは、贔屓目だと受け流される。
しかしながら、みほしは決まって、チーム「月」が公演期間に入ると、見る度にえりさが美しくなっていくように感じる。
空月えりさという、さながら天上人の女性に、みほしは悩殺されていた。いずれ過剰な鼻血の消化で、本当に運ばれてしまうかも知れない。
えりさの声が、言葉が、みほしの頭から離れない。
さっき観てきた舞台上でのえりさの姿が、みほしの瞼の裏側に、いつまでも焼きついていた。
『貴方は、私が後を追う毒も残して下さらなかったのね。ならば口づけを──』
まるで、えりさがみほしだけに囁いてくれた、愛の言葉のようだった。
耳の奥でこだまして、みほしは頭がくらくらする。得も言われぬ切なさから胸が詰まって、身体が、胸が熱くなる。
もっとも、えりさの美しさと、みほし自身が今はしゃぎきれないのとは、別問題だ。
みほしは、気まずさから抜け出せずにいた。
今夜のオフ会が始まってから、溜め息ばかりついていた。
「チーム「月」は綺麗ねぇ。花、鳥、風、月。それぞれ持ち味はあるけれど、月は自然なの!お化粧もお芝居も、とびきり綺麗なのに作った感じがしなくって、現実にいそうなのがたまらないわぁ」
「そうそう、それで思い出したわ、えりさちゃん。ジュリエットの役のために、髪を伸ばしたんでしょう?ウィッグより持って生まれた黒髪を生かしたかったって、インタビューで見たことあるわ」
「それなら碧ちゃんだって!ジュリエットと初めての夜を明かした朝のシーン、あそこのロミオが掠れた声で台詞を話しているのはね、碧ちゃん自身が、寝起きはああだからだそうよ」
「んまぁっ。私もおはようって言われてみたーい!」
みほしの隣で、二人の女性達が、果実酒の入ったグラスを片手に盛り上がっている。
彼女らは友人同士らしい。チーム「月」の公演に合わせて、他府県から小旅行に来たのだと、数十分ほど前にみほしは聞いた。
彼女達の斜め向かい側をちらと見遣る。
キャンディの模様がプリントされた、淡いピンク色のジャンパースカートと、ベーシックな白いブラウスを合わせた少女が、古風な女性と話していた。
栗色の髪を縦ロールに巻いた少女の肌は、とびきり白い。
目が小さく、健康そうな顔立ちをしているからか、彼女は、化粧して甘ロリィタの姿でなければ少年のようにも見えただろう。
しとやかな女性達ばかりが集う宴席で、愛らしくもどこか快活な心象のある少女は、みほしから見て浮いていた。
もとより、少女が良い意味で浮いているから、みほしはこうして窮屈なのだ。
みほしが気まずい思いを持て余しているのは、甘ロリィタの少女が原因だった。
"似てる……。似てる、けど……まさかね"
みほしは、少女を密かに観察していた。
カクテルグラスに口付けながら、中身はまるで減っていない。
それと言うのも遡ること五年前、みほしの通っていた高校に、一人の下級生がいた。
少し面識があった程度の彼女と、今目前にいる少女とが、とてつもなく似ているのである。
会いたくて、会いたくなかった。
会いたくなくて、会いたかった──。
一つ年下の下級生は、みほしの中で、曖昧な位置にいた。
甘ロリィタの少女が本当に本人だとしても、みほしに気付いてくれていないなら、それはそれで構わない。
みほしは、とりわけ彼女との再会を、願っていた訳ではなかった。
"うーん。化粧してるし、日焼けしていないし、ピンク着てるし、女の子してるし、分かんないなぁ。せめて声、聞きたい"
みほしは眉間に皺を寄せる。
何せ斜め向かいの席にいる少女は、みほしの知っている少女とは、あまりに違う。覚えがあるのは、顔立ちや雰囲気だけだ。
手がかりに声を確かめるにしても、無理がある。宴席は、あちこちに談笑の花が咲き、がやがやしている。みほしから、少女の声は聞き分けられない。
もし少女がみほしの知る、思い出の中の下級生なら、澄んだメゾの声をしているはずだ。
『ロミオとジュリエット』の登場人物、モンタギュー家の嫡男ロミオを彷彿とする、さながら無邪気な少年の声をしているはずだ。
みほしは、少女と女性の会話に耳を澄ます。
「お姉ちゃん、お人形さんみたいに可愛らしい恰好をしているわねぇ。肌、白いわぁ……どこのお化粧品を使っているの?」
「そんなことないですってば。奥様こそ、とってもお洒落ですね!あ、チーム「月」のご贔屓はどなたなんですか?」
「うふふ、お婆ちゃんねぇ、白珠碧ちゃんのファンなのよ」
「きゃあー!私もです私も!!じゃ、碧様の舞台は、いつも観に行かれるんですか?!」
少女が、目をきらきら輝かせた。
化粧していても彼女は素朴な顔立ちだ。未だ言葉は交わしていないが、みほしには、何となく彼女の素直な心が目に見えるようだ。
飾らない笑顔があたたかく、眩しい。
声のトーンがメゾかどうかは、曖昧だ。
飛び抜けて力強くもなく、頼りなくもない。魅力的な声音であることは分かったが、みほしには、手放しにはしゃぐ少女の地声がいまいち分からなかった。
"純粋そうな子、だなぁ。あの人も……そうだったなぁ"
甘ロリィタの少女がみほしの顔見知りか否か、どうでも良くなりそうだ。
みほしは、ピンク色の洋服に身を包んだ可憐な乙女に、無条件に好感が持てる。
記憶の中の下級生は、少しいいな、と認識していたくらいのものだ。今更彼女に再会しても、みほしは自分がどうしたいのか分からない。
みほしの通っていた高校では、文化祭、二つのクラスが合同で催し物を出すしきたりがあった。
学年をごっちゃにして、クラスの代表がクジを引く。同じ番号を引いた二クラスが、協力して、一つの催し物を準備するのだ。
高校最後の文化祭、みほしのクラスは一学年下のクラスと協力し、演劇を上演した。演目は、『ロミオとジュリエット』だった。
みほしはそこで、星河ありす(せいがありす)という少女と出逢った。
ありすがロミオで、みほしはジュリエットだった。
ただ、それだけのことだ。
ありすに特別な感情はなかった。
今更、ありすに少し似ている少女が現れたからと言って、自分は何を狼狽えているのだ。
みほしは、自分で自分が分からない。
何故、胸が落ち着かないのだ。
何故、ありすと過ごした短い季節が、今更頭を駆け巡っては、少し寂しい気がしているのだ。
目前の少女が、みほしを落ち着かなくさせる。
かつて恋人役を演じた下級生とは似ても似つかない、さりとて似ている甘ロリィタの可憐な少女は、みほしの苦衷を知る由もない。
みほしは、いかにしても気まずく窮屈だった。
プラネタリウムの如くダイニングバーの宴席に、前菜、スープ、メインと続いて、パスタが運ばれてきた。
「東京乙女歌劇団」の非公式のオフ会は、今まさに宴もたけなわだ。
もっとも、みほしは斜め向かいに座る甘ロリィタの少女が気になって、折角の美味しそうな品々が、あまり喉を通らない。
しかしながら、同じものを好きな女性達との交流は、やはり楽しい。
チーム「月」の娘役トップ、空月えりさを崇拝している、みほしより十五歳年上の女性とは話が合ったし、仲良くなってアドレスまで交換した。みほしはえりさを好きになって、まだ二年と短いが、彼女はもう十年以上、いわゆる追っかけをしているという。今度みほしに、レアな雑誌の切り抜きを見せてくれるらしい。
"えりさ様、ジュリエットだもんね……。五年前の私がえりさ様を好きになっていたら、文化祭で黒歴史は作らなかったわ"
みほしは肩身狭かった。
今日はよく、高校にいた頃を思い出す。
ありすにそっくりな少女が近くにいるからか、かつて演じた『ロミオとジュリエット』を観たからか。またもや五年前の情景が、みほしの頭を横切った。
えりさに対する感情は、憧れではない。
だから、あの頃みほしがえりさを好きになっていたなら、ジュリエットではなくロミオを演じたがっただろう。
みほしは、えりさのようにたおやかでいじらしい女性の隣にいるに相応しい、凛々しくも無邪気な少年の如く女性になりたかったと思う。
"うぅ……学校行事だったとは言え、ジュリエットをさせてもらったなんて、口が裂けても言えないよぉ"
タリアテッレの味が分からない。
面倒見の良い、母娘(おやこ)でオフ会に参加している女性に取り分けてもらった小皿の中身を咀嚼しながら、みほしは過去を嘆いていた。
それでも心から悔やめないのは、かなしいかな、ロミオがありすだったからか。
「ぇええ?!!うさちゃん、ロミオ演じたことがあるの?!!!」
突然、みほしの耳に悲鳴が聞こえた。
悲鳴と言うより、歓声だ。
──何事だ。
みほしは、パスタの入った小皿を置いた。
今し方、黄色い声が聞こえた方へ、視線を移す。
キャンディ柄の甘ロリィタの洋服に身を包み、栗色のミディアムヘアを巻いた少女が、二人の女性達に挟まれてはにかんでいた。
原則として、オフ会で本名は名乗らない。ネットや雑誌の投稿と同じだ。
みほしは「みぃ」というニックネームを名乗ってここに座っているのだが、成る程、あの可憐な少女は「うさ」と名乗っているらしい。
"ありすで……うさ、ぎ?違うよね"
みほしは首を横に振る。
我ながら単純な発想を振り払った。
「でも分かるわ!声、綺麗だもん。碧さんにちょっと似てるかも。うさちゃん立っていた時、背もあったし……何で今日はロリィタなの?」
「いつもですよ。男役の碧様を愛しているので、私は女の子で生きていこうかと」
「ぇえー!!もったいないっ。昔は違ったんでしょう?」
「黒歴史なんですから、あまり掘り返さないで下さい」
「うさちゃーん……」
「でも」
うさが、ふっと目を細めた。
「私の大事な思い出です」
どきりとした。
うさの熱い眼差しが、まるで誰かを見つめているようだった。
彼女の綺麗な瞳には、ここにいない、かつて彼女のロミオを愛したジュリエットが映っているのか。
誰かを懐かしんでいるような、優しくあたたかい声の余韻に、みほしの脳髄がとろけさせられる。
耳に心地好いうさの声は、高くもなく低くもない。何もかもが曖昧だ。
胸が、切なくなる。
うさは、誰を懐かしんでいるのだろう。
みほしはうさが懐かしい。
星河ありすは、上級生にも同級生にも人気があった。
気立てが良く、お調子者で、冗談が上手な後輩だった。ボーイッシュの類に入っていたのだろうが、ありすは皆から可愛がられていた。
今振り返ると、ありすは、ロミオ役の似合う学園のアイドルと言うより、マスコットみたいな存在だった。みほしの親友も、彼女を「いじられキャラ」だと口にしながら、彼女に好意的だった。
みほしが高校三年生で、ありすが二年生だった。
二人が出逢うこととなった夏、秋の文化祭に向けて『ロミオとジュリエット』の準備を進めていった中、彼女がいると、その場の雰囲気が明るくなった。
稽古中、ありすはよく肝心なところで台詞を噛んだし、ロミオが毒薬を呷るシーンからカーテンコールまでの間、本当に熟睡した記録を持つ。
ジュリエットとのかけ合いで、いきなり笑い上戸に変貌したこともある。本人曰く、急に照れ臭くなったらしいが、つられてみほしまで笑えてきた。
全てが天然として受け入れられた。いかにしても愛されたありすは、実に不思議な少女だった。
"でも、ふとした時、どきっとしたんだよね。一緒にいると温かかった"
時たま、みほしは、ありすの目を見られなくなった。
幸か不幸か、恋人同士の役を演じていた分、台詞をかけ合う相手から目線が外れても、周囲は芝居と見なしていたようだった。が、ジュリエットとしての芝居ではない。
いつもふわふわしていた下級生は、みほしから見て、緊張するほど格好良かったのだ。
みほしは、ありすが近くにいると、落ち着かなかった。恋する少女のようだった。
うさと名乗る、甘ロリィタの少女も同じだ。
みほしを落ち着かなくさせる。
不意に、うさを挟んで座っている、女性達の一人と目が合った。
"あ。見すぎちゃってた"
みほしはすかさず目を逸らす。
「お姉さん、みぃさんといったかしら?」
手遅れだった。
「はい……。みぃです」
「お姉さんも、可愛らしい恰好してるわね。東京乙女ファンの二十代の子の間では、そういうのが主流なのかしら」
そう言って笑みをこぼした女性は、見たところ五十代くらいだ。
全身を黒でまとめた彼女は、もしや空月えりさのファンなのか。
胸が、ひっくり返ってしまいそうだ。
みほしがどきどきしているのは、無論、今知り合ったばかりの黒ずくめの女性の所為ではない。
彼女の隣に落ち着いている、愛らしい少女が原因だ。
「先輩……?」
一瞬、空耳かと思った。
「え」
「先輩、ですよね?」
「……っ」
空耳ではなかったようだ。
みほしは、とうとう甘ロリィタの少女に声をかけられた。
「あ、あの」
「私です、ありすです!」
「うゃっ」
みほしは変な声が出た。
アリスが追いかけた、うさぎ──。
うさというニックネームの由来は、間違いではなかったらしい。
信じられないような顔をして、ありすがみほしを見つめていた。しかしながら、信じられないのは自分の方だ、とみほしは思った。
* * * * * * *
みほしは、深夜のプラットホームで、終電車を待っていた。ありすが隣に座っている。
話すことがたくさんあって、話せない。
高校時代は特別に仲良しでもなかったし、『ロミオとジュリエット』を終えた後、みほしとありすの交友は、自然消滅した。
それでも、忘れられない存在だった。
みほしは、ありすにのめり込みたくなかった。だから、会いたいようで会いたくなかったのだ。
不可解な想いを抱いたまま、ありすを、思い出の一片にしたかった。
恋に溺れて、自分を見失うのが怖かった。
"なんて。今でもそうだけどさ"
しかし、ありすとの関係を、今夜で終わりにしたくない。
自ら印象を変えたありすが、宴席で、ロミオを演じた過去を「大事な思い出」だと口にした真意も、みほしは気になる。
あの時の、懐かしそうで、甘く優しかったありすの表情(かお)が、声が、忘れられない。
「みぃちゃんみぃちゃん」
みほしが物思いに耽っていると、ありすが腕を絡めてきた。
「みぃちゃん」というのは、みほしがありすにそう呼ぶよう頼んだ呼び名だ。学校を卒業して五年も経つし、そもそも、部活の先輩後輩ではない。
いつまでもありすに「先輩」と呼ばれるのは、何となく他人行儀で嫌だったのだ。
ありすとぴたりとくっつくと、少し温かい。
白いショートコートを羽織った彼女は、本当に白ウサギを彷彿とする。
「何?ありす」
「今夜、メールしても良いですか」
そんなことか。ありすの、変なところで律儀な性格は、健在らしい。
みほしは、今日一番の微笑みを浮かべて頷いた。
返信メールで、次の休みの予定を訊けば、ありすはどんな返事をくれるだろう。
空想しながら、みほしはまだもう暫し、ありすとここで電車を待っていたかった。
──fin.
妖精カテドラル