明治末期に開校したカトリック系ミッションスクール、清和(せいわ)と名の付けられたこの女学校は、都心から離れた長閑な自然の中にある。

 清和女学校の、藩閥だの米騒動だのと騒がれている今日日(きょうび)にしてはハイカラすぎるような正門のアーチを出て、五分ほど歩いていく。
 すると、じきに、やはり欧風の建物が見えてくる。清和女学校に附属している寄宿舎だ。

 寄宿舎では、数多の女学生達が生活を共にしていた。

 小野内あさ(おのうちあさ)も、その乙女らの内一人である。

 あさは二人に一室あてがわれた部屋で、東宮杏子(とうみやきょうこ)という上級生と共に起臥していた。

 杏子は、あさより一年上級だ。
 あさが清和に入学して、寄宿舎に入った三年前の春、杏子は既にここにいた。あさは、その一ヶ月前、三月に卒業して去っていった杏子の前のルームメイトと入れ違いでここに入ったらしかったのだ。
 杏子は、すっと通った鼻筋にくっきりした目許が印象的な、並外れた美人だ。あさは、後に彼女の校内での人気を知った。
 あさは杏子にまみえた瞬間、生まれて初めて肩が縮こまる思いを覚えて、また、彼女が一歳しか違わないとはとても信じ難かった。
 杏子と出逢ったあの春の日、彼女が名前を名乗ってくれて、今度は自分が名前を名乗らねばならなくなった時、危うく舌を噛みかけた。ようやっと目を合わせると、全身から汗が滲んで、心臓が、何かに握り潰されるのではないかと思ったものだ。

 『可愛らしいお嬢さんだこと』

 じわりと官能に働きかけてくる、少し掠れたとろけるような声だった。

 あさはそれから、桜貝の色をした引き締まった唇からこぼれ出たあの杏子の声に、彼女の永遠の虜にされたものだ。

 あれから三年と三ヶ月の年月が流れた。

 あさは四年生、杏子は五年生と、それぞれ進級していった。

 今日は、夏期休暇中の土曜日だ。

 朝、あさは杏子と暮らす部屋にいた。

 文机に立てた鏡を覗く。

 梅の花が染めつけてある縮緬にくるまれた鏡の中で、長いお下げを二本垂らした少女が微笑んでいた。
 あさは藤色と瑠璃紺の矢絣の着物に、熟れたオレンジの如く黄丹の女袴を合わせていた。襟元から、間着にあしらった綿素材の白いレースがちらと覗いていた。

 化粧した顔と、結ったばかりの髪をチェックする。

 うっすら白粉(おしろい)をはたいた顔は、常より少し大人びて見える。
 美人でなければ可憐でもない、目立って特徴のない顔立ちでも、笑顔にはこだわりがある。

 あさは、きっちり編んだ自分の黒いお下げの髪に満足し、微笑の出来にも満足した。

 一輪挿しの中で咲く、白い薔薇の花びらが、一枚落ちた。

 柔らかな花びらを受けたノートを手に取って、頁をめくる。

 勿忘草の押し花の栞が挟んである、薄紫の表紙をしたノートの中に、ぎっしりこまやかな文字が詰まっていた。

 あさは最新の頁を開く。

 教本から飛び抜けてきたような、それでいて、それらよりずっと素直な字が、白い頁に行儀良く並んでいた。



親愛なるあささんへ。

おはようございます。
わたくしの可愛い貴女がこのノートを開いてくれている頃、貴女はとびきりお洒落をして、昨夜話した待ち合わせ場所に思いを馳せてくれていることと思います。
急にデートを思い立って、わたくし舞い上がってしまって、貴女をなかなか寝かして差し上げなかったわね。夜更かしが過ぎてしまったこと、堪忍して頂戴。
夏期休暇に入った街は、どこも混雑していることでしょう。あささんとわたくしの大好きな、あの美しい向日葵が見られる自然公園も、繁華街も、はぐれないよう手を繋いでおかなくちゃあねぇ……。
わたくしは、ひと足、先に支度をして、舎監の板橋先生に外出許可をいただいて参ります。朝食はスコーンで構わなくって?あささんの身支度が終わる頃、一階のサロンで紅茶を用意して待っております。

7.28 貴女の東宮杏子



 最後まで目を通すと、あさはノートを抱き締めた。

 あさにとって、杏子と代わる代わる書翰をしたためている、このノートは宝物だ。

 今朝も杏子の残していってくれたものを、何度も何度も読み返しては、夢見心地にいざなわれるのだった。

* * * * * * *

 蝉の声が、黄金色に照りつけられた新緑の間を吹き抜けてゆく風に混じって、五月蠅いほど鳴り響いている。
 どこまでも広がる青空は、見上げれば、雲がうっすら流れているだけだ。眩しくて、とても直視していられそうにない。

 あさは、杏子と自然公園にいた。

 ここは寄宿舎から二十分ほどバスに揺られた先にある、山の麓に建設されて間もない施設だ。

 門を抜けると、丹念に手入れされていよう木々の立ち並ぶ芝生に囲われて、湖が、日の光をきらきら反射させていた。

 ぐるりと視線を巡らせると、綺麗に整備された小路が、左右そして斜め後ろに続いていた。

 老婦人らの団体が、楽しげに談笑しながら水辺を散策している様や、青年が大きな石に腰かけて、スケッチブックに鉛筆を走らせている姿が、真夏の瑞々しい自然の景色にとけ込んでいた。

 「この公園は、いつ来ても空気がとっても綺麗です。木陰があって、優しい風が吹いてきて、あたし、ここが好きです」

 「うふふ、あささんはもう満足?この後お揃いの髪留めを見繕って、洋品店にお洋服のデザイン画を依頼しに行くお約束は、反古になってしまったのかしら」

 「いえ!!それとこれとは別で──」

 声が裏返らんばかりに焦って、はっとした。

 杏子がその口許に片手をあてて、笑可しそうに小さな息をこぼしていたのだ。

 「杏子様ぁっ。本気にしてしまうじゃありませんかー」

 「あら、焦った?」

 「そんな冗談、仰ってはいやです」

 あさは頬を膨らませる。

 そうしながら、小路に入っていった。

 二人、杏子が差してくれているパラソルの影の下に寄り添って、時たますれ違う人々や夏の草花を眺めながら、歩いていく。
  
 学校で一番に親しくしている上級生を、ちらと見る。

 杏子のすらりとした上半身を包み込む、日に焼けたような白色をしたシルクで仕立てたブラウスは、遠い異国の貴婦人らのまとう洋服の如く形をしている。たっぷりのギャザーで飾ってある立て襟に、海老茶より明るいような色味の絹のリボンが結んである。肘から豪奢に広がる袖に、幾重もレースが重ねてあって、アイボリーのビスチェと呼ばれるアウターが、杏子の形の良いウエストラインを強調していた。
 そこから、真っ白なシフォンに上品な色味の花々が染めつけてあるスカートが、ふんわり広がっている。中に、化学繊維で出来た下着が重ねてあるのだ。
 ガバレットに結った黒髪を覆ったボンネットと、それと同じ色をしたくすんだ白いブーツが、杏子の見目を、ことごとくロマンチックに仕上げていた。

 生来あさは、かような杏子の好むようなものに、心を惹かれていた。杏子に出逢う以前から、異国情緒に胸を打たれるところがあったのだ。
 あさは、それで常から和服にレースをとり合わせたり、ハイカラなリボンを髪に飾っていた。
 もっとも、いかにしても洋装に優るものはない。
 そこで杏子に相談した末、彼女の懇ろにしている絵師を紹介してもらえることになったのだ。

 洋服を新調するためには、まず、絵師に希望や好みを伝えて、デザイン画を仕上げてもらうことから始まる。それから初めて生地を選んで注文し、職人に作ってもらうのだ。
 しかるに洋裁の腕が皆無の場合、洋服は、袖を通せるまでに時間も資金もかかる。

 「杏子様がお召しになっているような……素敵なお洋服に、あたし小さい頃からずっと憧れていたんですの。お慕いしている杏子様と、偶然でも、近いようなものを美しいと感じられる魂を持って生まれられたこと……あたしの、誇りです」

 「まぁ」

 「お揃いの髪留め、楽しみです。そしてあたしもふわふわの下着を穿いて、杏子様とお揃いのシルエットになれるのですわ。この美しいパラソルの似合う乙女に、あたしも、なれるでしょうか?」

 つっと、暫し続いていた小路が途切れた。

 目前の景色ががらりと変わって、足を止める。

 太陽神に恋をした、少女の精霊の化身とも言われる真夏の花が華麗に咲いた、広場に出たのだ。
 花壇に寄せ植えしてあるそれら向日葵の他に、アガパンサスやニチニチ草、とけい草が、緑の芝生に鮮やかな色を添えていた。

 あさが噴水に駆け寄ろうと踏み出すと、手首に、しとやかな指が絡みついてきた。

 「きょ、うこ……さま……?」

 「あささんは」

 杏子のパラソルの柄を握っていない方の手が、あさの片手をやんわり捕らえる。

 「あささんは、わたくしのこと、いつになったらお姉様と呼んで下さるのかしら」

 「…──っ」

 「わたくしは、貴女が好き。貴女も、可愛らしい瞳でわたくしを見つめてくれているじゃない。これは……わたくしの一方的な、ほんのとり違えなのかしら?」

 あさは、杏子の言い知れぬ柔らかな眼差しを受けていた。

 女学校では端然と背筋を伸ばして学舎を歩く彼女と、今目の前にいる彼女とは、果たして本当に同じ人物なのか?疑いたくなる。

 ああ、自分は今、この人を独占している。

 身に染みて、切なくなる。
 このまま鼓動が止まっても、甘美な心地に溺れたままでいられようほど、胸が満ちる。

 今日(こんにち)、あさ達のような関係の女学生らは、もっぱら互いを姉妹のように呼び合って、愛情表現する傾向にある。
 その実、彼女らは、本物の姉妹の間にはないような感情で結びついているのだ。

 お姉様。

 あさも、杏子をそのように呼べば、彼女と今よりもっと確かな絆で結ばれるのか?

 甘い誘惑が風に混じって、耳に囁きかけてくるようなのに、あさは杏子に、色めいた呼びかけが出来ない。

 「おね……」

 唇を動かして、いつも、躊躇う。

 「杏子様」

 今朝予行演習していた通りの微笑みを、顔に張りつける。

 「噴水のお水、冷たくて気持ちが良さそうです」

 行きませんか?

 そう、続けようとした瞬間だ。

 「…──?!」

 植え込みの一角に、まばゆい薄紅色のフリルを見付けた。

 あさは驚きながら目を凝らす。

 するとフリルのすぐ側に、絵本から抜け出てきたような、小さな小さな、木々に隠れるほどの建物があった。







 あさは、植え込みの向こうに入っていった。

 少女が一人、やはり小屋の側にかしこまっていた。

 人間か?

 にわかに目を疑ったのは、少女が、まるで大和の仮面はただ被っているだけで、その柔らかな皮膚の下に、実は異国の血が流れてでもいのかと思えるほどの見目だったからだ。
 英国の令嬢らしい佇まいが、これでもかと言わんばかりに馴染みきっていた。

 可憐、という言葉がしっくりくる。

 少女の白い顔はすらりとした骨格に象られていて、濡れた黒曜石の色をした双眸は、吸い込まれそうな輝きを湛えている。色の良い唇も、頬も、紅を挿しているわけではなかろうに、そうと見まがおうほど艶やかだ。
 年のほどは、十三、十四といったところか。少なくともあさや杏子よりあどけなく見える。 豊かな黒髪は束髪くずしの形に結ってあり、その天辺に、帽子ほどの大きさのリボンが乗っかっていた。

 少女のまとう薄紅色の洋服は、ワンピースと呼ばれるものだ。
 襟刳りはスクエアカットに仕立ててあって、柔らかなレースの仄かな影が落ちた身頃に、ピンタックとリボンが縦にあしらってある。両脇に、襟元に付いているものと同じレースが付いていた。
 小さな肩を包み込むのは、半透明の水玉シフォンのパフスリーブだ。細い腰から、やはり少女によく似合う、薄紅色のスカートが広がっていた。裾に、薔薇とリボンが刺繍してあった。

 あさは、少女に目を奪われていた。

 美しいワンピースやリボンにではない。それをさらりと身に着けている、少女そのものに感じ入っていたのだ。
  
 「あ……あの……」

 「いらっしゃいまし」

 春の野に咲く花を撫でるそよ風の如く声に、はっとした。

 斜め後ろから土を踏む音が聞こえた。

 「杏子様っ……あの……」

 「絵描きさん?」

 あさが振り向くと、杏子が、瞠目した目をやんわり細めた。

 「──……」

 あさの隣に杏子が並んだ。

 少女に視線を戻す。そして、なるほど、と、納得した。

 少女の側にひっそりある、人形を住まわせるような愛らしい小屋は、よく見ると、ボール紙で出来ていた。壁紙やペンキで塗装した上にビニールで頑丈に保護してあったものだから、ぱっと見、気付かなかった。
 あさはその小屋によく似たものを、欧州の風景が集められた写真集で見たことがある。積み木を組み合わせたような三角屋根の建物は、欧米の、一般的な人家らしい。本場のそれらも、やはりこの国では滅多に見られない、モダンな外観をしているのだ。

 杏子が目を留めたのは、おそらくその、少女の異国情緒が全面に押し出された小屋に貼ってある、壁紙だ。
 そして、あさも気になっていた、無造作にまき散らしてある色鉛筆や画用紙だ。

 画用紙で出来た壁紙には、数多の絵が描かれていた。花やら野菜やらが目立つ中、デフォルメされた女性や少女もちらほら見える。
 鉛筆の色が織りなすあらゆる世界が、大小様々な画用紙の枠に収まっていた。

 "似顔絵承ります"

 散乱した画材の側に立てかけてある看板に、そう、掲示してあった。

 少女が、目を伏せた。

 「絵描きなんて、まだ……そのように偉い肩書きを名乗ることは、私に許されておりません。志だけは一人前の、うだつが上がらない身でございます」

 随分、引っ込み思案な娘だ。

 あさは思った。

 壁紙に描かれた絵からして、少女の腕は、申し分ないと見える。かように公(おおやけ)の場で似顔絵を商いにしているだけあって、少女の言葉が、ある種の謙遜に受け取れたのだ。
 出で立ちを見ると、少女が女学校に通えないような境遇で生まれ育ったとは考え難い。彼女は、きっと並外れた才能を活かしながら生きることを選んだのだ。

 あさは、少女に興味を惹かれていた。

 「あたしは、小野内あさと申しますの。貴女、お名前は?」

 「私は……蕗本小鞠(ふきもとこまり)と申します」

 「そう。小鞠さん、と仰るの……」

 あさは、少女の、小鞠という名の彼女の右手に視線を移す。

 あの淡い紅の手袋をしたか弱い手が、いかように動いて、踊って、小屋の壁紙を彩るような美しい絵を表すのだ?

 絹の手袋にくるまれた、きっとそれよりしとやな手が見たい。

 あさは、少女の前にしゃがみ込む。

 袴の裾を押さえながら、黒曜石の色をした双眸を、覗き込む。

 「小鞠さん」

 「はっ……はい」

 「おいくらかしら?」

 「え……」

 「あたしを描いて下さる?小鞠さん。良いでしょう?杏子様」

 「構わなくてよ。小鞠さんのお描きになるあささんが、どんなに可愛らしくなるか、わたくしお目にかかりたいわ」

 杏子が、慈愛に溢れた微笑みをくれた。

 あさは小鞠に向き直る。

 小鞠の頬に浮かんだ淡い花びらの色が、心なしか、ほんのり深くなっていた。

* * * * * * *

 あさが小鞠という少女に出逢って、二日が過ぎた。

 今日、あさは一人で自然公園を訪ねていた。
 杏子は教員の手伝いがあって、どうしても寄宿舎を出られなかったのだ。

 週末に杏子と歩いた小路に入って、脇目も振らずに広場に向かう。
 相変わらず空に憧れているのだろう向日葵や、色とりどりの花々が、緑の空間に鮮やかな色を添えていた。

 歩く度にレースの覗く裾を抱えて、植え込みの向こうに駆け込んだ。

 小鞠が、土曜の朝と同じ薄紅色のワンピースを身につけて、壁紙尽くしの小屋の側に落ち着いていた。

 二日前、あさは小鞠が自分をデッサンしてくれるのを眺めながら、彼女と色んな話をした。
 そこで、小鞠がやはりやんごとなき家の生まれであることを知った。
 小鞠は華族の出身を母に持ち、官僚職にある父を持つ、由緒正しい令嬢だ。女も男も汗水たらして働くか、商売道具さながらに婚姻関係を結ばされるかのこの時代、彼女の両親は、活動写真の物語の如く恋愛結婚が認められた。
 そして彼女もさような両親を持つ娘らしく、良家の育ちでありながら、女学校を断念した。生涯を芸術に捧げることを許された、ある種のロマンの中で生きる少女なのだった。

 「小鞠さん」

 思慮深そうな瞳があさを見上げてきた。

 いっそ本当に吸い込まれてしまいたくなる、小鞠の瞳が、本当に本当に美しい。







 土曜日にデッサンされたあさの絵は、二日かけて仕上がった。

 小鞠が平らな木箱を開くと、あさの目に、藤色と瑠璃紺の矢絣の着物を羽織った少女の絵が飛び込んできた。
 絵の中の少女は髪をお下げに結っていて、襟元から、白いレースが見えている。
 淡い緑を背にした少女は、確かに、二日前のあさだ。

 「お気に召して下さいましたでしょうか?その……、小野内様を描かせていただくと楽しくて、いつもより調子が出たのではないかと、自分で自負しております」

 「とても……とても気に入ったわ……小鞠さん……」

 胸が苦しいほどくすぐったい。
 あさは、恥ずかしいような心地に溺れていた。

 「小野内様」

 慎ましやかな、それでいて凛としたソプラノの声に呼ばれた。

 「この絵はほんのお礼です。小野内様は、私に、絵を描く楽しさを久しく実感させて下さいました。お代はいりません」

 「えっ……」

 「どうか受け取って下さいな」

 小鞠が、完成したばかりの絵を差し出してくれた。

 画用紙の中で微笑む少女には、どこまでも透明で、そのくせいかなる色にも染まらなかろうオーラがあった。

 色鉛筆で、これだけの色を、線を、表せるのか。

 あさは魔法にでもかかった心地で、小鞠から絵を受け取った。
  
* * * * * * *

 その晩、あさは清和の寄宿舎にあるサロンにいた。

 そこには杏子の姿もあった。

 夕餉の後、一端部屋に戻った少女の一人が見えたのは、皆でかるたでもやらないかという話が上がった頃のことだ。
 少女はあさと同じ四年生で、学内でも屈指のインテリジェンスある学生だ。彼女はいつでも物知りな顔をしているものだが、今夜は、ことに得意満面だ。

 また、何か物珍しい情報でも仕入れてきたのか?

 サロンに集った一同が、彼女に、注目する。

 「皆さん、随分とまた、物騒な事件が起きたようですわ。ああ大変、怖ろしいこと」

 あさの知的な同級が、芝居がかったわざとらしい面差しで、話を始めた。







 府内の自然公園に、通り魔が出た。そして、そこに野宿していた幼い少女が襲われた。

 あさ達の学友が、その事件をいち早く聞きつけたのは、偶然通りかかった舎監部屋の扉の向こうから、教員らの話が聞こえてきたからだという。被害に遭った少女の年端がちょうど清和の女学生と近かったために、特別に警戒すべく対策を立てられていたところらしかったのだ。

 少女は、通行人が通報した甲斐あって、怪我で済んだ。搬送された病院で、幸い一命を取り留めて、今は眠っているらしい。

 通り魔は、前科のある物取りだった。

 が、少女の奪われた物はなかった。

 リボンや衣服が破けていたという状況から、それらが少女の身辺にあった唯一の高級品だったのだろうと、容易に推測されたらしい。少女は駆け出しの絵描きを自称していたようだが、その生活ぶりは、物乞いとさして変わらなかったようだ。

 警察の調べによると、少女は、綿糸工場の工員だったということだ。
 少女が尋常小学校を出てすぐに、彼女の両親が工場に給与の前払いをせがんで、実子を寮に預けたらしい。

 少女が、どういう経緯で工場を逃げ出したのか。
 そして裕福ではないはずの彼女が、何故、ちょっとした令嬢でも揃えるのに躊躇するような、豪奢な洋装を身にまとっていたのか。

 当分、解き明かされそうにない。

 警察は、少女の生活していたボール紙の小さな小屋に立ち入った。
 だが、彼女を理解出来よう手がかりは、一切なかった。

 数枚の美しい絵と、丁寧に保管された色とりどりの色鉛筆、半分ほど水の入った水筒が、残っていただけだったのだ。







 部屋に戻って、あさは小鞠にもらった画用紙を、表に向けた。

 デフォルメされたあさの肖像を象る線は、細いところや太いところがあって、それらの若干の違いによって、髪や肌、衣服の質感が伝わってくる。
 そこには、絵を手がけた小鞠自身の、誰にも覗き見ることの出来なかろう内面が、そのまま籠もっているようだ。

 サロンで聞いた通り魔事件の被害者は、果たしてあの蕗本小鞠か?

 違う、と言いきりたいのに、あさは、小鞠が今、どこかの辛気臭い寝台の中で、華奢な肩を震わせている気がしてならない。

 「ショックだった?」

 肩に、優しい腕が絡みついてきた。

 あさは首を横に振る。

 本当は、縦に振りたいところだ。

 しかし、杏子の言うショックとあさの感じているそれは、別物だ。

 「小鞠さんは、なんて……気高い、本物の乙女なのでしょう……」

 小鞠が女工だのルンペンだのでも、あさには、彼女が嘘をついていたとは思えない。

 小鞠は、きっと、人の人生がただ生きるためにあるものと考えられなかったのだ。
 生きるために生きることへの疑問が募って、何のために生きるべきかを苦悩した末、あの生活を良しとした。ありったけの金銭をかき集めて、世にも美しい洋服に替えた。
 そして、社会に媚びて自分を偽る日々に終止符を打って、あの天幕になる可憐な家を作り上げたのだ。

 生きるだけなら、余程の悲境にでも遭わない限り、誰にでも出来る。
 小鞠ほどの容姿なら、この時世だ、女郎になる少女達も少なくない。さすれば生まれが貧しくても、いずれ、もっと美しい洋服を取っ替え引っ替えまとうことも夢ではなかったかも知れない。

 しかし、小鞠はあのボール紙で出来たドールハウスで、色鉛筆を操る日々を選んだ。
 小鞠は、雨の日も、風の日も、彼女が彼女でいられるためのただ一着ある洋服を着て、自ら望んだ世界の中で生きていたのだ。

 あさは恵まれている。

 洋服も、リボンも、暖かな部屋も、望めば何でも手に入る。

 されど、金品で魂(こころ)は買えない。

 小鞠は、物取りに奪われるものも所持していなかった。

 されどあの可憐な少女は、とびきり美しいものを守りながら、生きている。

 「杏子様」

 杏子の腕に、手を添える。

 「私には、杏子様を、お姉様とお呼びすることは……出来ません……」

 昨今、交換日記だの、庇護する者とされる者の縁(えにし)だの、女学生がブルジョワであるが故の文化が隆盛している。

 掘り下げると、それらは少女達が美しい少女小説に誘発されてはまりこんだ、流行だ。

 恋い焦がれ、互いに互いのものになりたい愛慾に、偽りはない。

 されど、あさは、いかにしても「エス」と呼ばれる少女特有の感情が、しっくりこない。
 例えるなら、青いリボンが時めいたとする。さすれば、少女らが皆、頭にそれを乗っけるようになるのと同じくらい、腑に落ちない感じを得るのだ。

 あさは、杏子にそんな感情があった。

 「私は……」

 小鞠には、流行に左右されたような感情がなかった。

 恋だ。流行(エス)ではなかった。

 あさは、真っ白な世界をとびきり美しく染め上げる、小鞠の心に恋をしていた。

 少女も女性(おとな)も一人に一つ、顫える血潮の見出す本能だ。

 あさは小鞠に出逢って初めて感じたこの感情が、愛おしい。

 「明日、小鞠さんがいらっしゃるでしょう病室に……お見舞いに出かけて参ります」

 瞼を閉じると、黒曜石の瞳を持つ西洋人形の無邪気な笑顔が見えた気がした。







──fin.
妖精カテドラル