淡い涼風のたなびく初秋の夜半だ。

 花桐真颯(はなぎりまそら)は高層階建のホテルの窓から、きらびやかな玩具箱をひっくり返したみたいな光を放つ街を見下ろしていた。

 後方に、荷物が二人分、置いてある。それからコンビニエンスストアで調達してきた夕飯が、小洒落た猫脚テーブルに並べてあった。

 同じ会社の同じ部署で世話になっている上司、月ヶ崎杏佳(つきがさききょうか)が、使い捨てのプラスチックのカップに、ぬるくなりかけた紅茶を注いでくれていた。

 「お待たせ、真颯。食べよ」

 真颯は、やにわに顔を上げてきた杏佳と目が合った。

 一重の目許に通った鼻梁、杏佳の眼差しは見つめられると思わず胸が高鳴るものだと、社内でも定評がある。アッシュゴールドのメッシュの入ったショートヘアに、ゴシックアンドロリィタの金字塔メゾン『Fillete*rose』のダークカラーの皇子服、その声はいとも神さびたメゾで、何度でも名前を呼んで欲しくなる。

 真颯は、窓に背を向けてから、暫しぽうっとなっていた。

 「どうしたの?出荷の追い込み、今日は疲れた?」

 杏佳が歩み寄ってきた。

 真颯は、杏佳のまとう甘くて官能的な風に絡め捕られたかと思うが早いか、片手をすっととられていった。

 「いいえ。それに、私が疲れたなんて言えた立場じゃありません。明日から『バニージュエル』の慰安旅行。杏佳さんは、私の家が遠いのを気遣って下さって、こうしてわざわざお泊まりに付き合って下さってるんです。杏佳さんこそ、お疲れなのに……」

 「ううん」

 二人の距離がひとしお縮まる。

 真颯の宙を握っていた方の手が、手首ごと窓ガラスに押しつけられた。

 杏佳の眼差しが、吐息が、熱い。

 「真颯は、朝弱いから」

 「ぁっ……」

 「集合時間まで、ちょっとでもゆっくり出来た方が良い。ここなら駅に近い。私んとこに泊まらせても良かったけど、二人とも、荷物があるし」

 「はぅ……杏佳、さん……」

 真颯のツーサイドアップに結ったシャギーの茶髪が、肩の後ろに払われていった。
 贔屓のメゾン『Fairieta*Milk』で見立てたネイビーのジャンパースカートのウエストリボンがほどかれていって、肩にも背中にもシャーリングの施されているそれが、みるみる衣類の役目をなくしていく。

 真颯は下着とドロワーズだけの姿になって、杏佳のキスに酔いしれる。疼いた身体を押しつけて、吐息に、声に、しどけない甘みを含んで乞う。

 「眠れなく、なっちゃいます……」

 「じゃ、やめよっか」

 真颯は唇の端を濡らしたまま、首を横にふるふると振る。

 「……触れて、下さい……」

 「それだけ?」

 真颯は杏佳の片手をとって、その指先を自分の鎖骨に導いた。

 杏佳のぬくもりは、すぐ手のひらから抜け出ていった。

 下着をまくり上げられて、ブラジャーのホックを外される。
 真颯は杏佳になされるがまま、上体に着けていたもの全てを投げ出す。窓ガラスを背凭れにして、優しい愛撫を受け入れる。

 「はぁっ、はぁっ……」

 「真颯」

 「…──っ、ん……」

 ドロワーズが絨毯に落ちていった。

 真颯の太ももを、杏佳の指先が往来する。

 「ああっ……」

 湿ったパンティの上から陰部に触れられた瞬間、喉からいともエロティックな悲鳴が飛び出た。

 「こんなに濡れてちゃ、慣らし甲斐ないじゃん」

 「ごめん、なさい……あぅっ」

 真颯は身体を半回転させられて、窓ガラスに押しつけられる。ウエストから臀部を撫で回されながら、耳朶が、熱い舌先にくすぐられる。

 「だっ、誰かに見られます!いくら二十五階でもっ」

 「ふぅん。興奮するんだ?」

 「違ぁっ、あっ、ああっ、杏佳さん、ベッドへ……」

 「真颯は私のお姫様。淫乱なお姫様へのご奉仕は、ベッドなんかじゃ出来ないよ。……いつから想像していたの?」

 「ゆ、夕方、頃……ひぁっ」

 パンティの中に、杏佳の指先が入ってきた。

 すっと下半身が風を受けて、湿った布が離れていった感じがした。

 「集荷の頃ね。待たせてごめん。お詫びに真颯の想像通りのことをしよう。どんな風にされるとこ、想像してこんなになったの?」

 「……きょ、杏佳さんのして下さることなら、何でも、嬉し……ああっ」

 真颯の身体が不自然な光に照らされた。杏佳がミニライトを付けたのだ。

 淡い光のぼやけた闇夜、二人のじゃれ合う窓辺だけが、ありあり引き立つ。

 「ここは確かに二十五階。けど、今夜は星が綺麗だ。天体観測にはもってこいの夜だね、真颯」

 「…──っ。……。この前のこと、思い出してました……」

 「真颯を家に泊めた日の?」

 真颯はあの夜、ボディバンテージで腕も脚も動けなくさせられて、不自然に強調された乳房にかき氷を盛りつけられた。ガーゼが間に敷かれてあって、劇的に皮膚が冷えることはなかったが、性感が顫えた。杏佳がかき氷を唇だけで味わって、真颯は彼女の口移しだけでそれを食べた。
 シロップの味のキスを楽しんでいる内に、空気に曝されっぱなしだった蜜壺は泉になっていた。杏佳のしゃぶり回されて、その指を根本まで飲み込んだ。真颯が二度のエクスタシーにいざなわれた後、続いて玩具、それからラブドラッグを塗りたくったペニスバンドで突かれながら、カーテンから差し込んできた朝陽を浴びた。

 これだけ強く求めている。これだけ激しく求めてくれる。

 二人、それでも、恋人と呼び合う関係ではない。

 杏佳には他にたくさんの女性がいて、真颯はその内の一人に過ぎない。そして、真颯にとっても、杏佳はひとときの虚しさを慰めてくれる人でしかない。

 「真颯」

 「んっ、杏佳さん……あっ、あ、あっあっ……」

 「明日さ、広報部の企画した胆試し。お化け役にエントリーしておいたから。私と一緒に」

 「ぅっ……はぁっ、それが……何か?ああっ!」

 真颯は杏佳にしがみついて、突然始まった話に集中しようと試みる。だが、思考も身体付いてこない。

 「ほら、今回の慰安旅行。『ウサギのしっぽ』も招待された面子だけ来るじゃん?社長と彼女、私、もうちょっと距離縮めてやりたいんだ」

 「相瀬社長と、音生さん、ですか……?」

 真颯は白い閃光がいくつも飛び交う視界の向こうで、杏佳が頷くのを確かめた。

 有限会社『バニージュエル』は、今年で創業十一年目の、アクセサリー輸入販売商社だ。その品揃えは海外から仕入れてきた量産品が多くを占める中、本社に工房が構えてあって、パーツを使った自社製もある。

 長月一週目の金曜日の朝、『バニージュエル』の本社からほど近い駅前に、ざっと四十人近い従業員らが集まった。
 今日から二泊三日の慰安旅行だ。
 但し、直営店のスタッフだけは、一部、店番のために欠席している。代わりに『バニージュエル』と懇意の間柄にある駅前パフォーマンスサークル『ウサギのしっぽ』の団員達が、数人、招かれていた。

 高速バスに揺られて二時間、一同、早めのランチをとって、美術館を見学した。それから更にバスに揺られた。

 目的の町に到着したのは昼頃だ。

 『バニージュエル』の代表取締役、相瀬志咲(あいぜしざき)を始め一行は、四季折々の花やハーブが生い茂る、英国風の庭園を訪ねていった。

 真颯は、部署で最も気心知れた同僚、宮都陽芽(みやとひめ)と、園内を散策していた。

 陽芽は、真颯と同じ『Fairieta*Milk』を贔屓にしているロリィタだ。年のほどは二十六歳、真颯より一つ年下だ。

 「真颯さん、バスで熟睡だったねぇ。あの間、大変だったんだよ。陽芽の焼いてきたクッキー、ちょっと主任に分けてあげただけで、月ヶ崎さんが怒っちゃって。月ヶ崎さん、主任にいつも厳しいー」

 「それは、陽芽さんほど可愛い人が、構ってあげてるから」

 「そんなことないよぉ。陽芽なんて、月ヶ崎さんみたくモテる人に相手にされるわけないものぉ」

 「一番仲良いじゃない」

 「きっと陽芽が頼りないから、気にかけて下さってるだけ。モテると言えば」

 「ん?」

 「二号車はすごかったんだって。音生さんとみづさ様の後ろの席を取り合って、トランプ大会が始まったんだってー。営業部の先輩に聞いちゃった」

 「何で、隣じゃなくて後ろの席?」

 「隣は却って座りづらいみたいだよ。何と言っても、世来みづさ(せらみづさ)様は『ウサギのしっぽ』の人気キャスト。更に真城音生(ましろねお)さんと言えば、今や幻のシンガーユニット『妖精のハネ』の片割れだもん。あんな人達と仲良しなんて、社長も月ヶ崎さんも、やっぱり別世界の人だぁ」

 「少なくとも、杏佳さんは思いっきり同じ世界の人だと思う」

 「真颯さんは『ウサギのしっぽ』の団員だから、有り難みがないだけだよ」

 「私は、裏方やるのにいっぱいいっぱいだから」

 真颯が『ウサギのしっぽ』に入ったきっかけは、些細なものだった。

 「レインボーフォレスト」という名の地下街に、『バニージュエル』の直営店がある。
 数ヵ月前、真颯は商品管理部の仕事の都合で、そこに荷物を届けに行った。そして偶然、『ウサギのしっぽ』が催し広場でパフォーマンスを披露していたのを見かけた。ちょうど音生とみづさがデュエットしている最中で、客席の盛り上がりようが甚だしかった。少し耳を傾けている内に、胸にじんと熱いものを感じた。それから数日後、舞台美術や衣装を担当するスタッフが公募されているという情報を聞きつけて、趣味で作り溜めてきたハンドメイドの品々をサンプルに提出したところ、ダメ元が功をなしたのだ。

 真颯は陽芽と、また、光差す緑豊かな園内を歩き進んでいく。

 まもなく華奢な木々がたくさん聳える芝生に出ると、足許に色とりどりの小花が散らばっていた。

 「可愛ーい!あっ」

 真颯が陽芽の視線を追うと、やや離れた先に、見知った人影が二つ見えた。

 木々の隙間の向こうに見える二人の内、一人は、森園あずほ(もりぞのあずほ)だ。

 くっきりした目鼻立ちに、凛とした佇まい、あずほの腰までの長さのあるラズベリーピンクのストレートヘアは辺りをたなびく甘やかな風をまとって、ゴシックパンク系メゾン『Innocent*garden』のクラシカルカラーの洋服が、そのたおやかな雰囲気に、ほど良いスパイスを添えていた。

 そしてもう一人は、あずほと同じ工房にいる一越仁矢(いちこしじんや)だ。
 仁矢は二十八歳の青年にしては童顔で、快活な雰囲気を備えている。その気質は明るくて、入社後二年で部長にまで昇格した、敏腕な人物だ。

 「森園さんって、こうして改めてみると……キレーイ……社内だけじゃなくて、契約先の人達までデートに誘いたがるの分かるぅ」

 「う……ん……」

 「それにしてもただならぬ雰囲気。まさかこれから愛の告白?あっ」

 仁矢の切なく熱い眼差しが、あずほを真摯に捕らえていた。
 その両腕がくすんだサックスをまとった妖精に伸びていった。だが、すぐに引っ込んだ。

 仁矢の薄い唇から、憂いを含んだ吐息がこぼれた。

 「すっ、すすすすスキヤキから焼きを抜いて下さい!!」

 「…──っ!!」

 「好きだ。ずっと、ずっと、俺は貴女が──」

 「ごめんなさい」

 儚げで官能的なソプラノが、仁矢の声を遮った。

 真颯は自分の口許を覆った両手が震えているのを自覚していた。

 ほっとしていた。それと同時に、あずほを見ているだけで、かなしくなる。寂しくなる。

 仁矢が、振られたばかりの青年が、哀れなのに羨ましくなる。

 「何でだ。森園さん、貴女は」

 「何故、あたしが誰のものにもならないかって?」

 「──……」

 「忘れられない人がいるから」

 「…──っ、……」

 「その人に会えるか、万が一会えたとして、この気持ちを伝えられるか。きっと無理です。でも、あたしが彼女に嘘をつき通してきた過去は変わりません。友達の振りをしてきた。変わらない距離が、言葉が、欲しかったから。結局なくした。逃げてたこと後悔してます。こんなあたしに、他人の愛に向き合う資格はありません」

 「あっ、真颯さん!」

 真颯は陽芽の声を振りきって、小花の芝生の広がる一角から駆け出した。

 あずほの、あんなに寂しそうな、あんなに愛おしそうな顔を見たのは初めてだ。

 真颯はあずほを知っていた。『バニージュエル』で見かけるよりずっと前から知っていた。

 あずほは、やはり昔から誰からも愛される少女だつた。そして友人がたくさんいた。あずほをとり囲んでいた彼女らの中に、あの優しい人の想いを切なくさせる一人がいたのだ。

 胸が痛い。何も知らなかった。心身を支えていた芯が、空洞になって崩れてゆく。

 真颯は追いかけてきた陽芽に、花粉が鼻に障ったと言って誤魔化した。

*************

 観光、体験、盛りだくさんの一日目のツアーの後、民宿にチェックインして夕食をとると、時刻は九時を回っていた。

 真颯は陽芽と連れたって、宿の裏手の山の麓を訪ねていった。肝試しの会場だ。

 そして真颯は、仕掛け役の従業員らの打合せしている一角で、杏佳と落ち合った。

 「杏佳さんと真颯ちゃんは、二人一組のペアが見えたら、この蒟蒻を投げてね。地図に印を付けている、E地点で待機して。フェルト製だから、ターゲットが去っていったら拾いに行って、また使い回してね」

 「はい。五つ全部投げるんですか?」

 「相瀬社長と真城さんがいらっしゃったら、一気に投げて。恐怖五倍。他のペアは一つずつ、そんなサービスしなくて良いわ」

 「はぁ……」

 「綱渡り作戦。あれって効くらしいよね。怖くてどきどきするのと、ペアの人にどきどきしてるの、混合しちゃって恋愛成就率がアップするんでしょ。社長はあの通り奥手だし、真城さんは鈍感そうだし、私達で頑張りましょう!」

 どうやら杏佳の作戦は、営業部の社員達も乗り気のようだ。

 「上手く出来た蒟蒻ね。こんなの売ってるの?」

 真颯の斜め後方から、黒い姫袖から覗いた白い手が伸びてきた。

 「あ、みづさ様。こんばんは」

 真颯がちらと隣を見ると、思った通り、日頃世話になっている『ウサギのしっぽ』のマドンナが、そこいた。
 みづさはしっかり化粧してあるかんばせに、腰まで伸びた黒い髪が特徴的な女性だ。その装いは、杏佳と同じ『Fillete*rose』の洋服でコーディネートしてあっても、貴婦人めいたゴシックというだけで、全然違う。

 「こんばんは。私もお化け役に立候補したの。こんな芸を磨ける機会は滅多にないもの」

 「相変わらずの向上心、さすがです」

 「みづさ様。こちらの蒟蒻、工房の方々にお願いして作ってもらったんです。お気に召されたのでしたら、どうぞ後でお持ち帰り下さい」

 さっきから説明を担当してくれている、営業部の女性がにっこり笑った。

 「工房……」

 真城は籠に入ったフェイクフードの蒟蒻を、まじまじ眺める。

 「真颯?」

 「──……」

 「真颯?」

 「…──、……。はい、杏佳さん何ですかっ?」

 真颯は裏返りそうになった声を鎮めて顔を上げた。

 「元気ないみたいな顔してる。具合、良くない?」

 「まさか。至って健康です」

 「じゃ、悩み?私には言えない?」

 「そんな、もの、ありません……」

 杏佳に優しくされると辛い。せめて寝床にいる時みたいに、意思を持たないドールよろしく扱ってくれたなら、こんな自責も少しは薄れるかも知れないのに、顔色なんて見ないで欲しい。

 真颯は、昼下がりに見かけたあずほの言葉に、じわじわ胸を抉られていた。







 真颯は肝試し大会が始まると、杏佳と一緒に、指定された地点に移った。

 裏山に入ってすぐのここは、雑木林だ。営業部の設置したコーンがあるから迷子になる恐れはないが、さっきから、パニエで膨らませたスカートの裾を飾ったレースが、土を這って伸び放題の枝葉や小石に引っかかりそうになっていた。

 もっとも真颯と杏佳の役目は、ラジカセからBGMを流しながら、蒟蒻を投げるだけだ。

 真颯は、却って怖くなくなるのではないかという突っ込みどころは隅に置いて、ともかく役目に専念していた。

 突然、後方から、ざざっと気味の悪い気配が迫ってきた。

 「ひっ」

 真颯は蒟蒻を握った手に力を込めて、杏佳に抱きつく。

 優しくて冷たくて、柔らかで頼もしい、そんな体温に、匂いに、官能が一気に包み込まれる。

 「あっ……」

 真颯は、遅ればせながらはっとして、頬が熱くなるのを自覚した。

 「怖いの?」

 「今、何か、聞こえませんでしたか?」

 真颯は杏佳の顔が見えるくらいに身体を離す。そして、杏佳のフリルレースのシャボの影差す胸元を掴んだまま、辺りを見回す。

 恐怖はとっくに消えていた。杏佳の美しさにやられたのか、それとも、単に人肌に触れて安心したのか。

 「綱渡り作戦。効果はあるみたいだな。真颯から抱きついてきた」

 「あっ、その、私ったら……」

 「お邪魔してごめんなさいね」

 突然、聞き親しんだソプラノが、意識に割り込んできた。

 「ぎゃやあああああああっ!!」

 真颯が失神しかけたのも無理はない。

 後方から、長い縮れ毛の死装束の女性が現れたのだ。

 赤い唇からはみ出た赤は、血だ。正確には血糊である。

 「はぁっ、……はぁ。……みづさ様?」

 「ふふっ、変装は完璧なのねぇ。衣装、借りちゃった。この格好で這っていくと、ほとんどのペアが真颯さんみたいな反応をしてくれたわ」

 「地面を這ってたんですか?!」

 「それから営業部にお願いされたの。暫くここを手伝って欲しいんですって。折角だから、蒟蒻を握って這っていこうかしら」

 「いえ、それは、却って面白くなると思います……」

 「真颯」

 杏佳の声音が緊張したトーンを帯びた。

 真颯が木々の向こうを覗くと、二人連れのペアが一組、新たに歩いてくるのが見えた。

 二人の内一人は、遠目でもはっとするほど華やかな佇まいをしていた。ライトベージュのシャギーの髪はエアリー感あるカールを描いていて、華奢な曲線の体つき、掴みどころのない雰囲気に、姫系メゾン『STAR*LOST*ARTICLE』のピンク色のワンピースがしっくりしている。

 そしてもう一人はどきりとするほどの色香を醸した美女だ。胸にかかる長さのミルクティベージュの緩い巻き毛、グラマラスな長身は、白いシャツとサックスの七分丈パンツという、極めて飾り気ない洋服で装ってある。ただ闇夜を歩いているだけだというのに、得も言われぬ存在感だ。

 この二人こそ、真颯達が今夜最も気合いを入れて脅かそうとしているペアだ。

 「社長と音生さんです!」

 「さ、真颯、蒟蒻持って。みづさ様は四つん這いお願いします」

 「うふふっ、音生の怖がるところを見られるなんて、なんてレア。元追っかけ冥利に尽きるわ。じゃ、健闘を祈るわね」

*************

 志咲は音生と、毎年恒例の肝試し大会を満喫していた。

 営業部を中心に、有志の従業員らが趣向を凝らして準備してくれるこのイベントは、ある意味サプライズパーティーに招待された気分になる。

 但し今年は、ペアを決めるくじ引きまで、営業部だけで引かれた。

 いきなり提案されたルール変更は、結局、理由がよく分からなかった。

 志咲は、されどこういうのも悪くはないと、今なら営業部の面々に感謝したい。自分でくじを引いていたなら、きっとこうして音生とペアになれなかったからだ。

 「志咲さんって、驚いたりしないんだ」

 「そうですか?」

 「怖い怖いって言ってる割りに、楽しそう」

 音生の妖艶な一重の目許が優しい弧を描いた。

 指摘の通りだ。志咲は幽霊だの妖怪だのは怖くない。
 こういう場で、怖い怖いと言ってはしゃぐのは、恐怖心を煽るように仕掛けられた、ホラーグッズや演出の出来に感心しているからに過ぎない。

 「神様って、私達には無干渉だと思うんです。だから幽霊や妖怪も、きっと本物は近寄ってきません」

 「志咲さんみたいなお嬢様でも、神様を感じたことはないんだ」

 「お守りはあります」

 志咲はショルダーバッグのポケットを、そっと撫でる。

 「私、お守りは、神様より信頼しています。もし、こういうイベントをして祟りに遭っても、きっと皆を守ってくれます」

 手のひらが、ウォークマンの膨らみを包み込んでいた。

 志咲がいつも持ち歩いているウォークマンは、『バニージュエル』のオリジナル製品、ラビットジェイドの天然石で出来たストラップが結んである。杏佳と揃いで使っているもので、志咲のは蠍座のゴールドチャームが、杏佳のは山羊座のゴールドチャームが、それぞれとり合わせてあった。

 「ラビットジェイド?」

 「杏佳にお聞きになってましたか?」

 「ううん、何となく。志咲さん、ラビットジェイド好きだって言ってたから」

 「……似合わない、ですよね」

 志咲はショルダーバッグから離した片手を、今しがた頷きかけた自分の顎に添えた。

 「志咲さんなら、ローズクォーツやピンクトルマリンのイメージかな。けど、そんなことない。ラビットジェイドって、見返りなく他人を想えるような持ち主にしか、味方しない石なんでしょ。志咲さんみたいな人が持たなくちゃ、石が力を発揮出来ない」

 「私なんて……」

 だからこそ、似合わないと思っているのに。

 志咲が喉元にまで込み上げてきた本心を、ぐっと抑えたその時だ。

 「…──っ!!」

 あまりに気味の悪い音声が、耳をくすぐってきた。

 そよ風の吹く音にも聞こえる、人間の啜り泣くような声だ。

 否、違う。気流が、何らかの条件から、化学反応を起こした音か?

 時たま流されていたラジカセではない。

 「ひぁっ」

 ずるずるずる、と、女が地を這ってきた。

 志咲は、氷水で冷やした針の雨に打たれる恐怖に襲われる。

 幽霊ではない。妖怪でもない。

 だが、女は、この世のものならざる恐ろしいものだ。

 「いや……いやっ、やぁあぁあああ……!!」

 志咲は、頭の中が真っ暗になる。

 身体が震えて、そのくせ全身を鎖で雁字絡めにされた如くに動けなくなる。

 「あ……あああ……やっ、ぃやぁああああああっ……」

 「志咲さんっ」

 音生の声が聞こえた気がした。

 いつまでも耳を傾けていたい、音生の声に正気を繋ぎ止められることもなく、意識が勝手に遠退いていった。







 音生が近場の従業員を呼びつけた。そうして彼女らの助けを借りて、志咲を宿に連れ帰っていった。

 真颯は杏佳と、音生達一同を追いかけた。

 志咲が宿をとっているのは、二人部屋だ。同室は杏佳だから、鍵はいつでも開けられる。

 二人、されど部屋には入らなかった。閉ざされた扉の外で、中の様子を窺っていた。

 「みづさ様……肉声上手すぎ……芝居上手すぎ……」

 真颯はみづさの完璧な仕事ぶりを思い起こして、いっそ呆れ返っていた。

 「折角、杏佳さんが計画されたどきどき作戦、みづさ様がやりすぎた所為で台なしです」

 「まさか志咲があんなに取り乱すなんて。毎年、ここまで本格的なのはなかったからなぁ」

 「はぁ……」

 「真颯」

 ふっと、真颯の胸がきゅんとした。

 杏佳の甘やかな声に呼ばれたのはたった数十分振りなのに、不意打ちすぎた。

 「神様や幽霊って、国や時代が違うだけで、その姿は全然別物なんだって。けど、あの世は一つしかない」

 「──……」

 「どれも幻だから。切実な願いが神にまみえて、根深い恐怖が化け物を見る。ほんとはあの世はたくさんある……一人に一つ。神様や幽霊の正体は、人間の魂なんだから」

 「そうなんですか?」

 「というのは志咲の受け売り」

 「社長の……」

 真颯は静まり返った廊下の隅で、やはり静かな扉を見つめる。

 「志咲は、何を隠してるんだろう」

 「…………」

 杏佳にも分からないことを、真颯が知っているはずない。

 真颯は杏佳の読めない表情(かお)に目を戻す。

 綺麗で冷たい。優しくて、寂しげだ。

 「真颯」

 片腕に、杏佳の片手が伸びてきた。

 「ん……」

 ウエストをすっと引き寄せられて、小鳥が啄み合うような、キスを交わす。*

 「部屋、行って良い?」

 「陽芽さんが、戻ってくるかも知れません」

 「じゃ、音生の部屋。折を見て、後で鍵、借りてくる」

 「──……」

 ああ、真実なんて、永遠なんて、そんな曖昧なものはいらない。

 真颯は、あの天使のような女性のように清廉ではない。まっすぐでもない。こんな風にしか生きられない。

 こんな真颯を受け入れて、寄り添ってくれるこの人が、愛おしい。

 杏佳のくれる現実だけで十分だ。真颯にとっての楽園は、ここにある。

 悲しみも感じられなくなるほど、強く、強く、傷つけられたい。今夜の夢を想っただけで、しどけないところが疼き出す。

 真颯は杏佳にすり寄って、物欲しげな仔猫みたいに、その胸元をぎゅっと握った。







──fin.
妖精カテドラル