季節は秋に差しかかっていた。

 波野理嶺(はのまさね)は、ある土曜日の昼下がり、市内の某所のありふれた感じのカフェにいた。大学時代、同じサークルにいた女性らが三人、同席していた。

 理嶺は、気心知れた顔触れと日常的な世間話をしながら、ほぼ満席の店内から、窓の向こうを眺めていた。

 街は賑やかだ。学生グループを始め、カップル、家族連れの歩行者が、絶え間なく行き交っている。あちこちで、従業員らが書き入れ時の店先に出て、大声を張り上げている姿もあった。

 「毎週毎週、よくもこんなに浮かれていられるなと思う」

 理嶺が、むくれたトーンのソプラノのした方に目を遣ると、姫系の小柄な女性が仏頂面を露にして、ソーダフロートのアイスクリームを掬っていた。

 女性は、大きなカールを描いた黒髪をアップに結ったところにパステルピンクのプレート型バレッタを留めていて、きりりとした大きな目許に薔薇色の頬、フリルやレースが盛りだくさんのミニ丈のワンピースがしっくり馴染んだ華奢な肢体をしていて、とびきり華やかな佇まいだ。年は二十九歳、理嶺より一つ年下だ。

 名前を松下さゆ(まつしたさゆ)という。

 「あんたは休日集まると、最近ご機嫌斜めばかりじゃない?」

 理嶺の斜め前方から、落ち着いた感じの美人が身を乗り出してきた。里桐鈴子(さとぎりすずこ)だ。

 鈴子はこのメンバーでは最年長で、四人のいたボールペンイラストサークルで、副部長を務めていた人物だ。肩より少し長いくらいのシャギーの茶髪に一重の目許、ブラウンが基調の化粧は極めて清楚な仕上がりだ。その装いは、今日は、さらっとしたカジュアルなシャツにハーフパンツというものだ。

 ちなみに鈴子の隣でさっきからスマートフォンを操作しているのが、八木みなほ(やぎみなほ)、理嶺の同級生だった友人だ。
 みなほはブロンドのベリーショートの髪に涼しげな顔立ちをしていて、背丈は高く、当時から、見目だけなら体育会系にいそうな感じの人物だった。今日午前中は職場の高等学校に顔を出していたようで、ユニセックスのスーツ姿だ。

 みなほがスマートフォンを置いて、その妖艶な眼差しを鈴子に向けた。

 「仕方ないです、先輩。まっつは、間違って結婚しちゃったばかりなんです」

 「ええ、そう。間違えて。……ったく、日本も世界の笑い者だわ。いきなりあんな法例が出るんだもの。あれじゃあ、医療に携わるか管理職にでも就くかしてない女は、ほとんど結婚しなくちゃならならないわ」

 「どうせ鈴子先輩に、あたしの気持ちは分からないでしょ。鈴子先輩は時期社長で、資産家のお婆様の後継者候補でもあるお嬢様。それでなくても、竜童路良隆(りゅうどうじよしたか)っていう議員の恋人がいらっしゃいます。あたしみたいに、しがない平社員ではなくて、ましてや男嫌いでもないんですもの」

 「相談もしないで、さっさと結婚した後に、ぐだぐだそんなことを言われても、私はあんたを同情出来ない。もし相談してくれていたら、良隆の籍、あんたに貸すことだって出来たのに」

 「それって、あたしが先輩の恋人と偽装結婚するってことですか?鈴子先輩、そんなの平気なんですか?」

 「私は良隆を信用している。そしてまっつは可愛い後輩。あの条例に違反すれば、財産、収入、色々没収されるんでしょう?あんたがそういうことになるくらいなら、私はあの人の籍くらい、余裕で諦めることは出来た」

 「──……。そんなの、やっぱり、……」

 悪いです、と、さゆのおずおずした声が続いた。

 理嶺とさゆ、鈴子、みなほが集まると、最近、話題はもっぱらこれだ。

 生涯保証監督法。

 最近、そんな法例が制定された。

 生涯保証監督法とは、将来生活難になる可能性のある国民を救済するための政策だ。
 まず国が国民を対象に一定の水準を定めて、特にそれに満ちない女性を、相談窓口に呼びつける。審査されるのは、収入、納税額、その他家族構成や、推定出来る老後の生活能力の有無だ。女性は、それらが不十分だと判断されると、転職か、男性の許に籍を入れて保護を受けるかを、提案される。
 この条例は、表向き貧困対策、景気回復が目的だとされている。だが、その実態は、近年低下していた結婚率を上げるところにある。しかるに国は、なるべく多くの国民を、結婚させるよう仕向けているきらいかある。女性は一度審査に引っかかったが最後、年間収入額を上げられないで、破格の税金を納められないで、配偶者を求める意思も見られないと判断されると、財産を差し押さえられて、今後の所得権を全て放棄させられる。

 さゆは、それで渋々、血の繋がらない従兄弟を婿にとったのだ。

 「まっつ、でもね、やっぱり屋根の下で眠れる保証があるって良いと思うの」

 「修二(しゅうじ)君だっけ?どうせ従兄弟だし、友達みたいにやってるんだろ?」

 かくいう理嶺も、生涯保証監督法に基づいて、市の主催する婚活パーティーに参加させられた経験を持つ。
 そして、そこで役員らに暴言を大サービスした結果、噂の財産没収の被害に遭って、今、根なし草の身の上だ。

 「あたしも、理嶺先輩みたいにネット喫茶の住人になれば良かったです。会社もやめて、戸籍もポイして、公園で絵を売るの。どうですか?露店って、大変ですか?」

 「……微妙」

 理嶺はさゆのきらきらした目に、曖昧な笑いを返す。

 「みなに迷惑かけちゃってるのが、正直、一番の悩みどころ。お客さんのなかった日はシャワーも寝るお部屋も借りてるし、クローゼットも、私のロリィタ服、全部みなの家だもん」

 「そっか。でもみな先輩のおうちって、良介(りょうすけ)さん、滅多に帰って来ないんでしょ?恋人の家から。実質、理嶺先輩と暮らしてるってことで良いんじゃないですか?」

 「あいつ、まじでいつか訴える」

 「みな先輩も大変ですよね。あのろくでなし男が先輩のプロポーズを受けたの、偽装結婚のためだって、彼がゲイの時点で気付きましょうよ」

 「それでも俺、そこらの男より余裕で綺麗じゃねぇ?」

 「あっ、はい。もちろんです。でも、その、やっぱり身体の関係が……多分、あたしがどれだけ化粧して可愛い女装の男の人でも、骨格が目につくと萎えるのと同じかと」

 「まっつ、あんた自分が不幸だからって、みなまで引きずり込もうとするんじゃないわよ」

 「あっ、あたしのさくらんぼ!」

 「修二君と別れたら、お祝い兼ねたご褒美に、さくらんぼくらいパックで贈ってあげる」

 「──……」

 離縁を祝福しようだなんて、全く不謹慎な先輩だ。

 理嶺は、されど鈴子の突っ込みどころ満載な叱咤が、さゆにとっては笑い飛ばせない激励だと分かっていてこそ、やはり自分がここにいる誰より幸せなのではないかと自覚していた。

*************

 隔週恒例のボールペンイラストサークルのプチ同窓会から、まる一日が経った。

 日曜日の昼下がり、理嶺は通い慣れた公園で、水彩画の露店を出していた。

 淡いピンク色の地にマルチカラーのドット柄がプリントしてあるレジャーシートに、折り畳み式テーブル、描き溜めきた作品、画材があれば、商いの準備は万端だ。

 身なりも、完璧だ。

 理嶺の腰まで伸ばした栗色の髪はところどころにアッシュピンクのエクステが入っていて、ホイップクリームを盛ったロールケーキよろしく豪奢なヘッドドレスが乗っかっている。化粧は毎日変わらない。とりわけあどけない顔は、淡いピンク色の陰影をつけて、ぱっちりした二重の目許をいっそう大きく見せている。
 洋服は、今日も、全身を贔屓にしているロリィタ恵メゾンのものでコーディネイトしていた。ピンク色をメインに置いて、ブラウスにボレロ、それからフリルスカートという、動きやすいものを選んだ。

 露店では、中高生くらいと見られる少女ら二人が、レジャーシートに並んだポストカードサイズの水彩画を吟味してくれていた。

 「悩むぅ……こっちのウサギさんの帽子を被った女の子の絵も可愛いけど、色が、この雪景色の方が好き。ピンクの雪って珍しくない?」

 「可愛いよね!私もコットンキャンディ抱えてる子か、コスメ柄のお洋服の女の子かで迷ってる。あ、オーダーあるんだ。あの、すみません」

 「はい、何ですか?」

 理嶺はパレットを隅に置いて、少女ら二人に向き直る。

 「この看板に書かれてる絵のオーダーって、何でもオーケーなんですか?」

 「はい。女の子と風景のみになりますが、何でもお受け出来ます」

 「じゃあ、雪景色の中に、この女の子入れていただけますか?」

 「私もそうしよっかな。こっちの女の子がコットンキャンディの瓶を持ってる感じの絵、お願いしたいです」

 「かしこまりました。お二人で二時間少しかかります。大丈夫ですか?」

 「お昼ご飯食べて来るので、それくらいの時間にまた来ます」

 理嶺は、少女達が去っていくのを見送った。そうしてまた別の客の相手をしながら、オーダーを受けたばかりの絵にとりかかった。







 架空の世界を平面の中にしたためる時、得もいわれぬエクスタシーにいざなわれる。

 理嶺の手がける偶像は、あらゆる真実が詰まっている。
 現実世界は捏造ばかりだ。かように触れられない世界にこそ、本当に守るべき本物がある。

 雪景色の中に佇む少女と、パステルカラーの色とりどりのコットンキャンディの詰まった瓶を抱えた少女の絵が隣同士に並んだ頃、再び、昼過ぎの女子学生達が訪ねてきた。

 「お待たせしました」

 「きゃーっ、可愛い!こんなに?!一時間でこんなの描けちゃうなんて、クオリティすごいです!」

 「お姉さん個展とかされてるんですか?」

 「有り難うございます。独学のアマチュアです」

 「もっと評価されるべきですっ」

 「あ、そうだ」

 理嶺はそれぞれの水彩画を入れるための平袋を準備しながら、毎度確認していることを、少女らに確認しそびれていたことを思い出す。

 「こちらの絵、濡らしますか?水を吹きかけるとちょっとぼやけて、細かいところが見えづらくなるんです」

 「それってもったいないような」

 「いいえ。雨の日は、勝手にぼけてくれることもあって、私はその方が好きなんです。今日は、生憎の残念な天気で……」

 理嶺はちらと秋晴れの空を見上げて、少女達に目を戻す。

 自分の描いた本心さえ、紛いものではないかと疑ることがある。

 世界も、自分自身の存在も、何もかも滲んでしまえば良い。

 生まれたての絵は穢れを知らない。あどけない、少女の魂に似通ったところがあるのではないか。自ら霞んでゆく前に、輪郭をなくさせた方が、絵も幸せではないか。

 少女らの内、向かって右側にいた一人がにっこり笑った。

 「私は、やっぱりこのままいただきたいです。お姉さんの絵、じっと眺めていたいから」

 結局、絵は、どちらもそのまま提供することに決まった。

 「お疲れ」

 「あっ、みな」

 理嶺が、やにわに聞こえた声に顔を上げると、そこに、今朝別れてきたばかりの友人がいた。

 みなほは、完全に休日スタイルだ。清楚ながら凛とした顔はノーメイク、その桜色の唇は、薬用リップクリームの艶をまとっているだけだ。迷彩のジャケットに開襟シャツ、それからデニムのハーフパンツという、活動的な格好だ。

 「通りかかったから寄ってみたんだ。休憩まだ?はい、差し入れ」

 「えっ、ありがと」

 理嶺は目の前に出てきたコンビニエンスストアのレジ袋に驚きながら、それを受け取る。

 中身を覗くと、お茶やおにぎり、チョコレートが入っていた。







 理嶺は、みなほと一緒に砂場近くのブランコに移った。

 ここならゆっくり休んでいても、露店は見える。いちいち荷物を片付ける必要はなかった。

 「どう思う?」

 「どうって?」

 「まっつのこと。……ここだけの話、あいつ、鈴子先輩が好きみたいだけど」

 「うん、それは、まぁ」

 理嶺は、自分の手許を見下ろす。

 かじりかけのおにぎりから、梅がちらりと覗いていた。
 こんなものをいくら凝視したところで、何の答えも得られないのに、他に目を遣るべきところもない。

 さゆが鈴子に特別な想いを隠しているのは、瞭然だ。さゆがあれだけ泣きそうな顔をしたり、恥ずかしげに頬を顫わせている傍らで、その本心に気付いていないのは、鈴子本人くらいである。

 「ううん、もしかしたら、まっつの片想いじゃないかも知れない。鈴子先輩も」

 「みなも、そう思う?」

 「実際、もし、まっつが理嶺みたいなことしていたら、鈴子先輩はまっつを家に引き取ると思う」

 「──……。……」

 そうだろう、と、理嶺は思う。

 鈴子は、昨日も、さゆに良隆の戸籍上のパートナーという位置を、本気で譲ってやりたがっていたようだった。鈴子が今の恋人を軽んじているわけではない。ただ、それ以上に、きっと鈴子の胸を大きく占めているのが、さゆというだけだ。

 理嶺だけが、結局、たった一人だ。

 誰にも頼りたくない。たった一人で、自分だけの世界を守っていれば満たされていられるはずなのに、こんな時、寂しくなる。
 誰の心の中にも自分はいない、そう思うと、今生きている価値を見失いかける。されどやはり一人でいたい気持ちがいつも胸の奥を巣食っていて、そのくせ、寂しい。
 だから触れられる全てのものから逃げて、また筆を動かして、存在意義を確かめている。

 「私は、みなに迷惑かけてるね。お洋服を預かってもらって、ネット喫茶に泊まれない日は、シャワーやお布団まで借りちゃって」

 「どうせ一人暮らしみたいなものだから、好きなだけ使えって言ってんじゃん」

 「うん、でも、でも……」

 「庶民の生まれで、自分の意見をしっかり持ってるようなやつが、自由を制限されている。地位も人脈もあって、多数派に流されてるようなやつが、ぬくぬく暮らす。精神的に自由に生きられないやつが、自由なやつを、妬んで、力で抑えたがるんだろ。今はこんな世の中だけど、きっといつか見直される」

 「そう、かな?」

 「理嶺は、そうなったら取り返せ。前いた職場に戻って、少なくとも寝る場所の心配いらない生活を。それまで俺に頼れば良い。親に頼れないんだったら、友達頼れ。俺は無期限で、理嶺の洋服預かるつもり」

 「──……」

 ああ、好きだ。理嶺はみなほが大好きだ。

 理嶺にとって、みなほは、自分の何を擲ってでも幸せになって欲しい親友だ。

 だからこそ、やるせない。

 みなほがありのままの心で恋をするのは、いつも男だけを愛する男だ。
 生まれつき女という性別に違和感がある。みなほにとって、さればこそ、ヘテロセクシャルの男では、自分を女として扱ってくる、不快を寄越す生き物だ。そしてしっくりくる感情をくれる男らに、決まって裏切りという仕打ちを受ける。
 みなほがあまりに自由な現状は、この優しい親友自身の愛が、行方を失っていることを意味している。

 それで理嶺は、みなほの厚意も素直に受け取れないところがあった。

 「私は、今の状況、気に入ってるよ」

 「うん、楽しそうだな」

 理嶺は、空になったレジ袋を近くのゴミ箱に投げ捨てた。

 「ねぇ、みな」

 「ん?」

 「……もし、失えるもの失っちゃえば、楽しいよ」

 「──……」

 理嶺は、多分、生まれも育ちも女だ。恋愛も、友情も、同じ女性とこそ最高の関係が築いていける。

 それでも理嶺はみなほと出逢って、仲良くなって、こんなに分かり合える距離にいる。それは性別云々ではなくて、そんな、神の定めたものではない、もっともっと深いところにあるものが、似ているからだ。

 人間というものに違和感がある。

 理嶺は、自分が血肉で出来た、あらゆる感情に翻弄される、時に欲望のはしためにもなり得る人間であることに、言い知れぬ不快を覚えることがあった。

 会社にいた頃は生きていながら眠っていた。自分を人間として扱う人間に、人間の顔をして対応して、また、会社の利益を得るために奔走していた彼女らのペースに合わせていた。
 理嶺は、社会に馴染んでやっている振りをしながら、自分自身がとても汚らわしいものに蝕まれてゆく感覚に、いつも脅かされていた。両親は柔軟性における欠陥がある。理嶺の口にする本心は、昔から、いつでもお伽噺を受け入れるような目でしか、耳を傾けてくれなかったものだ。

 ふざけた法例の被害に遭って、社会から弾き飛ばされて、初めてありのままの自分になれた。

 理嶺は妖精になりたかった。

 妖精は、学術的には醜い姿で描かれることがほとんどだが、その実、あまりに美しい。

 ロリィタ服をまとってこんなことを言っては本末転倒かも知れないが、きらびやかに着飾った人間より、あの醜い生き物達の方が、ずっとずっと崇高だ。嘘という汚れが全くない。理嶺は、今こそ、焦がれて憧れて止まなかった、何にも縛られない彼女らと同じ世界にいる。

 もっと、もっと、色んなものを失えたなら、もっと楽になれるのではなかろうか?

 この感情も、ある日、突然、空気に溶けて消え入ったとする。さすればみなほへの後ろ暗さも、さゆの将来を思いやって感じる痛みも、きっと消える。

*************

 さゆが件の従兄弟もとい配偶者の修二との共同生活を嘆くのは、すっかり日常の一部になっていた。ボールペンイラストサークルのプチ同窓会は、あの後も定期的に開かれて、もとより四人が自主的に集まって、さゆの愚痴と鈴子の叱咤もすっかり恒例化していた。

 理嶺は夜空に星のくっきり浮かんだある夜、いつものようにインターネットカフェの個室でブランケットにくるまっていた。そうして微睡んでいた最中、やにわに聞こえてきたドアを叩く激しい音に、意識を叩き起こされた。

 訪ねてきたのは、鈴子だ。

 一瞬、どこかの死人が化けて出てきたのかと思った。それくらい、鈴子の顔は蒼白で、生気がなかった。

 「鈴子先輩……どうしたんですか?こんな夜中に」

 理嶺は重たい頭を引きずって、鈴子を個室に招き入れた。それから鈴子の彼女らしからぬ顔を、胸騒ぎに迫られながら、見つめていた。

 「すぐ、病院へ来て。ま……まっ……が……」

 「…──っ」

 理嶺の腕が、どすんと強い衝撃に襲われた。くずおれてきた鈴子を間一髪で受けとめたからだ。







 鈴子の話によると、さゆが自殺を図ったという。詳細は、検査結果を聞くまで分からないらしい。

 理嶺は鈴子に、修二が帰宅すると、さゆが風呂場で血まみれになって倒れていたようだというところまでを聞かされた。

 理嶺が鈴子に連れられて、病院を訪ねていくと、見知った老夫婦が駆けつけてきた。大学にいた頃に会って以来の、さゆの両親だ。

 「あんたね?!娘に変なことを吹き込んだのはあんたでしょっ」

 「お母様、落ち着いて下さい」

 理嶺に飛びかかってきた婦人の拳が、横から割りいってきた手に掴まれた。

 反射的につむった目を開けると、婦人の血眼が、みなほを睨んでいた。

 「八木さん。……お久し振りです。娘がこのホームレスに良からぬことを吹き込まれたんです。お話の途中なので、口出しなさらないで」

 「お母様。こんなところで喧嘩なさっている場合じゃありません。さゆさんの容態は?」

 「今、集中治療室にいる」

 鈴子が婦人の肩に手を添えた斜め後方で、紳士が顔をしかめた。

 「うっ……うぅ……何が不満だったの……あんなに幸せに育ててきたのに、あんなに幸せな子だったのに……」

 理嶺は、婦人が両手を自分の顔に覆ってしゃくり上げる様を眺めながら、もはや呆れ返っていた。

 「君」

 理嶺は、今度は紳士に呼ばれて顔を上げた。

 およそ十年振りに顔を合わせた、さゆの父親は、当然ながら少しやつれたようだった。

 「君は、法律に違反して、こんな状態になっているそうだね」

 「はい」

 「この通り、家内が混乱している。大体、何だね、その格好は。ここは病院だ。そんな子供みたいな格好をしている暇があるなら、馬鹿な意地を張るのはやめて、ちゃんと家に戻りなさい」

 「娘さんは、おうちにして、幸せそうではありませんでしたが」

 「やれやれ、出ていってもらえないか。ついでに八木さんも。君は昔から男のコスプレを好んでいるようだが、こんな病院でまで、不謹慎だ。里桐さんは良いところのお嬢さんだからこれからも娘の面倒を見てやってもらいたいところだが、君達は、変わり者によくいる人間の顔をしている」

 「俺はともかく、理嶺は可愛い顔っすよ。そうやって見かけで判断する大人がいるから、俺らの生徒が荒ぶ──」

 「みな」

 鈴子がみなほをたしなめた。泣き腫らした真っ赤な目に、とめどない涙の膜が張っていた。

 「ごめん。やっぱり、帰って。また連絡する」

 「鈴子先輩?」

 「お願い。ごめん」

 「──……」

*************

 理嶺はみなほに手を引かれて病院を出ると、タクシーに乗って帰路についた。

 もちろん、自分の家に戻るのではない。向かった先は、みなほの家だ。

 「みな……」

 理嶺は、慣れ親しんだ玄関で、脱いだばかりのストラップシューズに片足を戻した。

 「私、やっぱり戻る」

 「戻ってどうするの?あの親だぜ」

 「まっつは、このままじゃ壊れる。私は、それは、ホームレスだよ。どうせ偏見の目に晒される、滑降の対象だよ。公園で絵を売っていたって、分かるの。私じゃなくて、私の絵を見てくれて、共感してくれる子達はいても、私は所詮、絵とは違うの。社会の狭い底辺で、好き放題している放蕩者。年配の人達にどんな目で見られてるか、分かってる。でもそれとこれとは話が別」

 「待てよ、理嶺、被害妄想だ」

 「被害妄想なんかじゃない!」

 理嶺はみなほの手を振り払って、自分で自分の大声に、吃驚した。

 悲しみが、やるせなさが、堰でも切れたみたいに溢れてくる。*

 同じかたち、同じ味、同じ分量の缶詰が仕上がっていく要領で、きっとこの日本(せかい)は生まれた。こんな機械仕掛けの幻の中で、誰かが模範的だと定めた人間の顔をして、誰かがオールマイティだと決めつけた、行動をする。それを皆が普通と名づける。
 他人に倣って生きてこそ偉いように見られる社会は、異常だ。

 「私は、私しか信じられない……」

 「──……」

 「世界の全部が敵に見えるよ。普通って意味、皆、分かってない。普通って、他人の正しさを受け入れて、それを鵜呑みにした自分の正しさを押しつけること?意思を持たないで生きること?私は、でも、こんな風に、周りを見下す自分が憎い。きっと私みたいな思いでいた、もっともっと苦しんでたあの子を、見捨てたくない」

 「理嶺」

 「…………」

 理嶺はみなほにそっと腕を引き寄せられて、座らされる。

 真ん前に、みなほの、他の人間よりずっと素朴な、ずっと綺麗な顔があった。

 「俺が、女だけどゲイだって自覚したのは、物心ついた頃。あいつと結婚したのは、あのふざけた法に引っかかったからじゃない。俺があいつを選んで、あいつも、俺を選んでくれたから。でも、俺は結局、女以外になれない。感じやすい心、柔らかな身体、脆い肉体。理嶺が妖精じゃないのと一緒で、いつも気色悪い思いをしてる。世の中の思い通りにならない、俺は俺だけのものだって分かってても、周りの目に都合の良いように映されて、狂いそうになることもある。放っておいて欲しいだけなのに、世の中は、お節介だ。けど強情に今でも生きてるのは、何かあるって信じてるから。実際、ここに一つ、ある」

 「──……。ここ?」

 理嶺の片手がみなほにやんわり握られていた。

 誰も帰ってこなかろう玄関の扉は、やはり固く閉ざされたままだ。とても静かだ。

 「理嶺、さ、自分のこと、そんな風に言うなよ。……インターネット喫茶住民が悪いみたいなこと、お前らしくねぇよ。理嶺は、帰るとこ、あるんだから」

 「…………」

 「まっつが大事なら、あいつの好きな、鈴子先輩も信じてやろうと思わない?」

 理嶺は二人の手と手の結び目をじっと見つめて、鼻の奥のつんとする感覚を、飲み込んだ。

 この感情は恋ではない。さりとて友情とも違う。家族に似ている。

 家族より、眷族らしい、本物だ。

 二人、同じかなしみを持って生まれた。
 本心も、痛みも、誰かに分からせるものではない。こんな風に、自然と感じ合える人がいる。たった一人、ここにいる。
 理嶺にとって、みなほがクローゼットを貸してくれるのだとか、布団やシャワーを使わせてくれるのだとか、そんなところは問題ではない。みなほの心がここにある。

 この場所こそ、理嶺の、かけがえのない帰る場所だ。

 「もし、鈴子先輩がまっつを助けてくれなかったら、二人で助けに行かない?」

 「まじ?ま、俺はこの家出ても、教師で二人くらい養えるけど」

 「じゃあ私、みなの友達じゃなくなっちゃうかな。家政婦?」

 それとも、と、心の中で続けかけたが、やめた。

 「絵の勉強しろよ。俺はお前のパトロンで良いじゃん。才能の持ち腐れになるぞ」

 「またまたー」

 二人、昔と変わらない笑顔を交わす。

 みなほの携帯電話が鳴って、さゆの意識が戻ったという報告が入ったのは、それからまもなくのことだ。







──fin.
妖精カテドラル