ここは、とある県内にある某私立学校──高等部の図書室だ。

 本棚に隠れたテーブルに向かって、少女が二人、身を寄せ合って腰かけていた。
 卓上に広げた教科書やら参考書やらに、文字がびっしり敷き詰めてある。分厚い辞書は、使い古された感じがなく、まるで新品だ。試験前だけ、出番をもらうのだろう。

 勉強熱心な、否、期末試験を間近に控えた少女達は、黒にも見える紺色の制服に身を包んでいた。ブレザーにチェックのプリーツスカートという、よくあるデザインの制服だ。
 長い黒髪を黒いリボンで一つにまとめ、涼しげな目鼻立ちをした色白の少女は、襟元に緑色のタイを結んでいた。
 一方、僅かに栗色を帯びたミディアムの髪を二つに結った、あどけない顔立ちの少女のタイは、白色だ。学年に応じて、タイの色が異なるらしい。

 緑色のタイを結んだ少女、真祈あかり(まきあかり)は、苦悶していた。
 自分自身の試験勉強に行き詰まっているのではない。隣に並んだ可愛い妹、琴平さら(ことだいらさら)の試験勉強の捗り具合が、思わしくないからだ。

 "あ。また間違えてる。基本問題、覚えれば簡単なやつだから、暗記が苦手なさらには厄介なんだなー"

 『高校一年生のための出来る問題集─近代日本史編─』──。

 問題集を解く、さらの手許を眺めながら、あかりは、この後また一から彼女に教え直す覚悟を決めた。

 大事な妹を追試組にさせたくない。
 万が一にもそんなことがあろうものなら、試験休み、あかりがさらと計画しているデートが延期になる。
 それに、一年生から落第点を採っていては、ゆくゆく進学にも影響が及ぶ。
 あかりには、何としてでも、さらに苦手な暗記教科を克服させる義務があった。

 まだずっと先の話だが、大学も、あるいは専門学校や就職の道に進むとしても、あかりはさらと一緒にいたい。
 そのためにも、試験前だけは、可愛い妹を甘やかす訳にはいかないのである。

 疑似姉妹の誓いを交わしたあかりとさらの関係を、世間は受容してくれないだろう。
 親友同士でもなく、恋人同士でもない。エスという言葉も化石となった平成の世で、自分達は、軽視される間柄だ。

 しかしながら、愛する少女との姉妹の結びつきは、特別だ。

 あかりは、わざわざ誰かに理解させようとは思わなかった。

 さらと、一生を一緒に過ごせれば、文句はない。

 「時にお姉様」

 さらが、大きな目をきらきらさせて、問題集から顔を上げた。

 「ん?」

 「私、この裁判所の問題を解いていて、妙な噂を思い出しましたの」

 「あのさ、さら。一応ここ図書室だから、雑談なら後に──」

 咎めかけて、やめた。

 つぶらな瞳で自分を見つめてくるさらを、あかりにあしらえるはずがない。
 言い訳すれば、あかりがスパルタ教師になったところで、必ずしもさらの成績が上がる保証はどこにもない。

 「どうぞ、さらお嬢様」

 さらが、ふわりと口許を弛めた。

 「持つべきものは、図書委員のお姉様ですわね。では、お言葉に甘えて」

 ペンを置いて、さらが静かに口を開く。

 チェリーミルクの色をした、柔らかな彼女の唇が、甘い声を発する度に──辺りの空気が洗われてゆく。

 さらの可憐なソプラノの声は、少女らしいだけではない。
 内に秘めた情熱と言うべきか、底知れない知性と言うべきか。
 見えない力をちらつかせるさらの声には、ずっと耳を傾けていたい何かがあった。

 学校の勉強はさておき、雑学の知識に長けたさらの話に、あかりが退屈したことはない。
 愛らしい妹の瞳に何が映り、清らかな妹の心に何が棲まうているのか、単純に覗きたいだけかも知れない。が、好奇心旺盛なさらの胸を満たす、あらゆる世界の謎や真実は、あかりにとっても価値のあるもののように思えていたのだ。

 「日本にいくつかある裁判所。中でも、大審院や最高裁判所、もしくは高等裁判所には、戦後、コンクリート詰めにして取り壊された地下牢があるのですって」

 「地下牢……コンクリート詰め?」

 「ええ。コンクリート詰め。何でも、夜な夜な女の人のすすり泣く声が聞こえてきたり、何度拭き取っても、血痕がこびりついていたり。裁判所の地下牢を残しておくと、決まって、気味の悪いことが起きたらしいんですの。ある限られた地域ではなく、日本のあちこち、首都圏は特に。はっきりした原因は不明ですから、関係者の皆さんにしてみれば、気持ちの良いものではないでしょう?ですから、取り壊しに。それにしても、地下牢があったことが事実なら、何故、日本史の教科書に載せられていないのでしょうね」

 どうやら、都市伝説愛好家達が集う、ウェブサイトから拾った情報らしい。

 あかりは、さらがアングラな情報の飛び交うモバイルサイトに通い詰めていることを、知っていた。
 近年、若者達を騒がせている都市伝説が、そこでは多く取り上げられている。
 真偽のほどは怪しいが、全てが出鱈目ばかりではない。中には本当のことが含まれている。だから、そうした不可思議な世界は、さらのようないたいけない少女達の心を鷲掴みにするのだろう。

 口裂け女やミミズバーガーの噂ならともかく、地下牢の話は初耳だ。

 「お姉様は、ご存じですか?」

 「何が?」

 「明治から大正にかけて、フェミニズム運動が盛んになりました。1919年には新婦人協会が設立され、母性保護論争では、党派が二つに分かれましたね。ちなみに、私は与謝×さん達の味方です。某雑誌の刊行も、「新しい女」──日本ではモガ、と呼ぶのでしょうか。私好みの現代的な格好良い女性達が、いかに男性や古い考え方を改革しようとなさっていたか、その象徴と見受けられます」

 「ああ、あれね。知ってる」

 「では、後に派生したセパレーティスト・シスターズや、リーンカーネーション・ニンフ協会は?」

 「リ……リンカーション……」

 知らない。

 そんな舌を噛むような単語を、あかりは初めて耳にした。
  
 さらは暗記が苦手だが、そのくせ、関心のあることはすぐに覚えてしまうのだ。
 どれだけ難しい名称でも、彼女は容易く身に付ける。

 あかりがお手上げの名称が出てくる話題を、さらはまだまだ続けるらしい。

 彼女が、ふっと、真剣に顔を引き締めた。

 「セパレーティスト・シスターズやリーンカーネーション・ニンフ協会は、中世欧米で言うところの「魔女狩り」を、日本に、全く新しい形で再来させる引き金となりました」

 詩でも唱えるような調子で、さらが話す。

 「家父長制に対する疑問や女性の参政権獲得を目指した新婦人協会とは違って、後に派生した女性解放運動団体には、一種のカルトめいた要素があったそうなのですわ。とりわけ、リーンカーネーション・ニンフ協会は、私の行きつけのオカルトサイトで人気があります」

 「さら……君さ、まさかとは思うけど、試験前に携帯いじってばかりいないだろうな」

 「ご想像にお任せします」

 にこりと笑ったさらの顔に、危機感というものがまるでない。いっそ尊敬の念を抱く。

 「リーンカーネーション・ニンフ協会は、男性を敵にしない。そんな理念がある女性解放運動家による、団体でした。それというのも、彼女自身は殿方を敬遠していたようですが、一方で、もしいつか遠い未来で自分が男に生まれ変わったら……と、考えていたようなのです。輪廻転生、因果応報を怖れていたのでしょう。男性の目線でも、物事を考える女性だったそうです。女が女であることに罪がないように、男も、男であることに罪はない。存外に共感し、彼女を支持した女性達は後を絶えなかったとか」

 「つまり、男は男に生まれたくて、男に生まれた訳ではないと?だったら、フェミニストじゃないんじゃん」

 「いいえ。彼女は、当時の全ての乙女達の騎士(ナイト)でした。しかし、彼女の思想こそ、異端と見なされました。神道が国教であった当時、輪廻転生論や神秘思想を唱えた彼女は、アンシーリーコートと契約を結んだ者として──妖精裁判にかけられたのですわ」

 さらが、悲しげに目を伏せた。

 「歴史から消えた地下牢は、拷問部屋だったと噂されています」

 「──……」

 「リーンカーネーション・ニンフ協会の考え方は、全国の女性達の支持を得ました。同じくして、創始者である女性が妖精裁判の最初の犠牲者となった後、妖精狩りも、全国に波及していきました」

* * * * * * *

 ただ、彼女と一緒になりたかった。

 特別な名誉も地位もいらない。
 色とりどりの花畑に咲く、一輪の可憐な花の如く平凡な、愛おしい、かの少女との未来が許されるなら、何も欲していなかった。

 何を手に入れようとしたのだろう。

 何を守りたかったのだろう。

 力ないこの腕で、自分は、何を掴み取ったのだ。

 真祈灯(まきあかり)は夢の中にいた。

 女学校で知り合った、一人の少女が、夢の中で笑いかけてくれていた。彼女は、出逢った頃から変わらない。
 無邪気であどけない一つ下の下級生、琴平咲良(ことだいらさら)と過ごした毎日が、まるで昨日のことのようだ。

 幸せだった。

 いつか終わりが来るかも知れない、灯と咲良を結んでくれていた絆は、少女だけに許された恋(エス)だった。
 さりとて大人達のしている恋よりずっと真剣な愛慾を以て、灯は咲良を愛していた。

 少女と少女の尊い絆を一過性のものだというなら、大多数の大人達の認める恋愛は、何なのだ。世の多くを占めるヘテロ愛者の洗脳による、哀れな産物ではないか。

 男は女に恋をして、女は男に恋をする。

 経済的な安定が欲しいのか、子孫を繁栄させたいのか。

 どちらにせよ、彼らの信じている愛を、灯は批判したりしない。ただ、少し不自然に感じているだけだ。
 咲良との恋(エス)を否定せずにいてくれさえしていれば、灯は、彼らに何も求めなかった。

 男が男に生まれたくて、男に生まれた訳ではない。

 女も然りだ。

 それと同様、咲良も、資産家の令嬢として生まれたくて、高貴な身分に置かれたのではないはずだ。
 彼女に、女学校の卒業と同時に、伯爵夫人という称号を与えられる義務も理由も、どこにもないはずなのだ──。







 「起きろ」

 痛いような寒いような、言いようのない不快感が、身体中を駆け巡る。突然のショックで灯は叩き起こされた。

 胸が圧迫されている。
 いかにしても息苦しいのは、後ろ手に縛られた手首が頭より高い位置にある所為だ。

 たった今、自分を夢から引きずり出したものは、水だ。
 目前の役人達の一人が抱えた器が、空になっている。灯の、あちこちの皮膚が裂かれた身体を隠している単衣が、水浸しになっていた。
 稚拙な嫌がらせか、生きた灯が着せられた真っ白だった死に装束は、今やほとんど赤黒い。

 止血のためにすり付けられた砂や砂利が、真冬の冷水と溶け合って、傷口の中に入ってくる──。

 視界が、赤くもあって灰色でもある。
 血の色か、急所を外して頭を何度も殴られた所為で、色彩を正常に判断出来なくなったのか。分からない。

 朦朧とした思考をどれだけ働かせてみても、灯は、地上の空の色をもう思い出せなくなっていた。

 ここは、地方にある裁判所の階下にある、地下牢だ。

 数日前、灯は突然、ここに連行されて閉じ込められた。
 暗いこの地下牢は、政治犯に自供させるために作られた拷問部屋だという。が、灯は政治犯ではない。アンシーリーコートと善からぬ契約を交わしたという、根も葉もない疑いをかけられて、逮捕状を出されただけだ。
 ここから出るには、多分、灯は目前の男達の欲する言葉を口にしなければならない。
 しかしながら、灯は、しがない社会運動家だ。リーンカーネーション・ニンフ協会という、男女平等の社会を──特に、良妻賢母の考え方に異論を唱える、女性解放運動団体をまとめていただけだ。

 アンシーリーコート、つまり「悪い妖精」との接触は、現実的にありえなかった。
  
 「もう一度問う。お前が通じたアンシーリーコートとは、リーンカーネーション・ニンフ協会とかいう馬鹿げたカルト教団の女共とも契約したのか?」

 男の一人が灯に問うた。

 役人の恰好をした男は、手に竹棒を握っている。
 あの竹棒で、灯は身体の至る所に傷を付けられ、打撲させられた。

 何も答える気になれない。

 「では質問を変える。お前達の教団に、悪しき妖精が関わっていないと主張するなら、何故、神道とは異質なるものを信じようとした?」

 またそれか、とうんざりした。

 「リーンカーネーション──確かに私は、輪廻転生を信じている。それは貴方達男性にとって、悪い理論ではない」

 「何故だ?」

 「私は、良妻賢母の在り方に異議がある。年頃を迎えた女は花嫁修業し、結婚し、良き妻となり夫に従う。夫が亡くなれば息子に従う。皆、それを当然のように受け入れている。しかし、少なくともこの明治から大正にかけて、私には、彼女達が半ば強制的にその運命を強いられているように見える」

 「ふむ……」

 「女学校を出れば夫を得るもの。かくいう風潮故、女性達の将来として、結婚以外の道が狭められてきた。由緒ある家柄の娘は特に、将来を強制される色が強い。稀に、多くの知識を身に付け、手に職を持とうと志す女性達がいる。彼女達への風当たりは穏やかではない。しとやかに振る舞えだの、縫い物や生け花を嗜めだの、男は女に夢を求める始末だ」

 「夢ではない、現実の正しい在り方だ」

 「そういう男尊女卑が、不自然だと考えているのだ。しかし、私は男を敵にしない。生まれ変わって私が男になったらさ、女の敵になりたくないじゃん。私達が好きで女に生まれたんじゃないように、貴方達もそうだろうから。だから、リーンカーネーション・ニンフ協会の皆に、常々言って聞かせている。私達が戦う相手は、決して社会や男性ではない。己の弱さと戦え、とな。ニンフのような、つまり美しい妖精のように、何にも染まらないありのままの心で私達は世界を見てきた。憎しみに囚われたり、欲望に惑わされたりしない」

 もっとも、良妻賢母こそ女性の正しい在り方だと唱い出したのは、他でもない社会だ。

 だから灯は、リーンカーネーション・ニンフ協会を立ち上げた。
 女性解放運動が著しい明治後半から昭和初期、かような団体の創始者となったのは、何も灯だけではない。

 やれる、と信じて疑わなかった。

 男に頼らず生きられる道は無限にある。

 そう、女性達に訴えた。

 但し、元を辿れば、琴平咲良を政略結婚という名の檻から救い出したかっただけだ。

 良家に生まれ育った彼女は来春、女学校卒業を控えている。
 咲良に、不本意の結婚をさせたくなかったのである。

 彼女の生涯のつがいとなるのは、灯だ。

 灯には、他の女性解放運動家達のような、大きな志はさしてない。
 存外に多くの支持を得てしまったが、灯が立ち上がった根本は、咲良の見合い話を取り消すためだ。

 "咲良……君と私のために始めたこと。後悔、出来ない"

 ふん、と、役人が鼻を鳴らした。

 「やはりお前は憑かれている。女に生まれながら、命である黒髪を断ち──」

 男の一人に蹴りつけられた。

 腹に鈍い痛みが走った。

 「奇怪な姿で罪なき婦人達をたぶらかし、洗脳した。西洋の上流階級を気取るだけならまだしも、あれは男の着るものだ。あの洋装は、我が日本で手に入るものではないな?」

 「だったら何だ」

 「悪しき存在がお前に与えた他にあるまい」

 「違う!」

 「お前が男を拒むのは、アンシーリーコートと契った!だからではないのか?!」

 「痛っ」

 何日間も縛られ続けた手首に、何かがかかった。

 一瞬、水かと思った。

 "硫、酸……?"

 痛みの類が判別出来ない。
 焼けるように熱いような気がしながらも、手首から、感覚という感覚がなくなっていた。

 「私は、彼女達も、妖精など知らない!彼女達は関係ない!だからっ」

 「では、お前は何を信じて奇行に走った?何に従い、何に怯えて黙秘を続ける?」

 「それは……」

 言えない。

 咲良だけは、口にしてはならない名前だ。

 彼女が危険に晒される。

 「奇行に走った覚えはない!貴方達に話すことはないから、あっ、ぐぅっ」

 胸倉に拳が飛んできて、単衣の見頃を開かれた。

 下着の他、何も着けていない灯の身体が、真冬の空気に晒される。

 常の灯なら、役人の一人や二人、蹴飛ばせた。
 が、責め苦で気を失っては無理に起こされ、新たな苦痛を強いられてきた。ここ数日、その繰り返しだ。まともな体力は残っていない。

 詰問していた役人の男が視界に触れた。彼の手が、ランプの油に竹棒を浸す。

 「男でなくて残念だな。だが、アンシーリーコートと契り、我々まで穢れを被る訳にはいかん」

 嫌な予感に血の気が引いた。

 男の一人に下着を矧がれて、灯は初めて泣きたくなった。

 一歩一歩、男が距離を詰めてきた。

 「お前が自供しないのであれば、こいつで確かめるまでだ」

 「ひっ」

 「お前が生娘であれば、アンシーリーコートと親密な契りは交わしていまい。だが、違った場合」

 ──死罪だ。

 そこまで聞こえた。

 しかし、その後、意識が途絶えた。

 下劣な男達に泣き顔を見せるより、気絶してしまった方がマシだった。

 自分自身の深層心理に、灯は救われたのかも知れない。







 「……様」

 懐かしい、可憐な声が、灯に呼びかけていた。

 「……え…様。お……え様……」

 人生で一番きらきらしていた少女の時代、毎日、灯を呼んでくれていた声だ。愛おしい。

 声だけでは足りない。

 顔も見たい。

 触れて、見つめ合って、抱き締めて、キスしたい。

 しかし、ここは真っ暗闇だ。
 目覚めれば、血なまぐさい、冷たい地下牢があるだけだ。

 また夢でも見ているのだろう。
  
 今度こそ覚めない夢の中に来てしまったか。

 それならそれで構わない。
 どのみち灯は、楽園を目指していた吊り橋から、落ちたのだ。這い上がれる望みはない。

 それにしても、夢の中の幻聴は、やけに現実味を帯びていた。

 温もりを孕み、そして美しい。

 まるで咲良が、すぐ近くにいるようだ。

 「……さ、ら……」

 「お姉様!!」

 「咲良?!……っ」

 まさかと思った。

 途端に、灯の意識は、とうとう地下牢に呼び戻された。
 幸か不幸か、まだ現世にいたようだ。

 背筋が凍った。

 あってはならないことが起きたのだ。

 「咲、良……」

 「お姉様!!お待ち下さい、今、刀を」

 咲良の銘仙が汚れていた。
 灯に抱きついたからだろうが、本人に気にしている様子はない。

 咲良が、懐から脇差しを引き抜いた。
 灯の自由を奪っていた縄に、彼女がそろそろと刃を入れる。

 細腕の令嬢の業にも関わらず、存外に、縄は容易く綻んだ。

 灯の手首が解放された。
 咲良に倒れ込むようにして、灯は、たった今まで自分が吊されていた真下に崩れ落ちた。

 白のない神明裁判になぞらえて、男達に辱められたことも、咲良がここにいることも、全てが嘘であって欲しい。

 しかし、咲良はここにいる。

 無茶に引き裂かれたような、下腹部の痛みも確かにあった。

 「咲良、君は──」

 「捕まってはおりません」

 咲良がきっぱり否定した。

 些か安堵した反面、疑問が浮かぶ。

 アンシーリーコートと通じた疑いがかけられていないなら、咲良は何故、ここにいるのだ。

 「お姉様を、お連れしに参りました」

 灯の耳許に、甘い吐息が触れた。

 「え……」

 「遅くなって、申し訳ありません。本当に……申し訳、ありま……」

 「咲良?」

 涙に混じった咲良の声が落ち着くまで、灯は彼女の背中をさする。
 明日の昼まで、誰かがここに来る危険はない。
 灯は晒し刑を言い渡された。黙秘を決めた罪人の独房に、もう誰も何の用もない。咲良が一時間や二時間ここにいても、見つかる危険は極めて薄い。

 聞けば、咲良は門番の目を欺いて、裏口から侵入してきたらしい。
 現在時刻は、午前四時だ。常からこの時間だけ、見張りも役人も誰も来ない。
 侵入しやすい通路を確保し、灯を連れて逃げられるだけの時間が確実に得られる時間帯を調査したのは、咲良らリーンカーネーション・ニンフ協会のメンバー達だ。中世欧米に流行ったという魔女狩りさながらに灯が捕らえられてから、咲良達は、成功率百パーセントの脱獄を計画してくれていた。そのため、すぐに救出に来られなかったのだと、咲良は説明してくれた。

 「参りましょう、お姉様」

 咲良が手を引いてくれた。

 が、立てない。身体に力が入らなかった。

 「お姉、様……?」

 「有り難う、咲良」

 灯は、咲良に微笑んだ。

 「ごめんね、君を危険な目に遭わせて。皆にも、心配かけてごめんって、伝えてくれる?」

 もっとも、仮に立ち上がれても、灯に逃げるつもりはなかった。

 「嫌です!」

 「咲良……」

 渇いた頬を、また、咲良の涙が濡らし始めた。
 女学校に入って間もなかった子供の頃から、彼女はとても泣き虫だった。今もまるで変わらない。

 灯は咲良の片手を握る。

 しっかりと、最愛の少女の双眸を見つめる。

 「あのさ、咲良。私は君も、皆も大好きなんだ。咲良を、愛してる」

 「だったら……」

 「だから、こんな下らないことは私で最後にしたい。私一人の責任で済むなら、本望だ。皆に迷惑はかけたくない。君は生きて、生きなくちゃ」

 「でも……お姉様は、私の名前をあの方達に仰れば、疑いが晴れます。お姉様は私と姉妹の誓いを交わし、私を愛して下さっています。……よね?」

 灯は頷く。当然だ。

 「まるで西洋の王子様みたいなお姉様にお似合いのお洋服を、私は喜んで仕立てておりました。お姉様だけに着こなせる、美しくて格好良いお洋服……。また、あのお洋服をお召しになった、お姉様を見たいです。お姉様が、その、えっと、初めてを下さったのも……私です」

 「うん。そうだね」

 「お姉様の妖精は、私です!お姉様が裁かれるなら、私が罰を受けま」

 可憐な声を、灯は制した。

 甘い甘いキスを味わう。

 「……ん、はぁ」

 ゆっくりと、灯は咲良から唇を離す。

 触れるだけの優しいキスが、愛おしい。

 「有り難う。咲良」

 「──……」

 「来世で、私また女に生まれる。私がいなくても、きっと、君と一緒に生きられる世界になっているだろうから」

 君を探して、今度こそ、一生愛する。

 灯は心から彼女に誓った。

* * * * * * *

 「お姉様?……あかりお姉様っ?!」

 さらに呼ばれてはっとした。
 長い夢でも見ていたようだ。
 さらのオカルト話が始まって、それからの記憶が曖昧だ。

 鼻の奥がつんとする。

 頬が、濡れている。

 「涙……?」

 さらが、心配そうな目をして、あかりを覗き込んできた。

 何故、こんなに切ないのだ。

 自分で自分が分からない。
 ただ、今たまらなく、あかりはさらが愛おしい。

 「さら」

 あかりはさらを抱き寄せた。

 図書委員が、図書室ではおとなしくしなければならないなんて、誰が決めたのだ。
 今はさらを感じていたい。
 さらがここにいることが、かけがえのない奇跡に思える。
 触れていたいから抱き締めて、何が悪いのだ。

 「お願い」

 あかりは、さらに囁いた。

 「もう少し、このままでいさせて」

 さらが話してくれた妖精狩りの、真偽のほどは不明瞭だ。

 自ら悲劇を断ち切ろうとして、結果的に断ち切れなかった、乙女達の騎士(ナイト)──。

 名前も知らない彼女は、噂話が生んだ、架空の人物ではない。

 何となく、そう思いたかった。







──fin.
妖精カテドラル