無機的な講義室の空気に、少女の歌声がとけ込んでいく。
 柔らかで芯のある、少女の歌うソプラノは、高くもなく低くもない。
 甘く清らかな旋律が、防音装置の備わっていない講義室に、ひときわ響き渡っていた。

 『♪アーヴェーマリーアー グラーティーアプレーナー ドォーオーミーヌステーェーラクーム──』

 古(いにしえ)の聖女を讃える少女の小さな唇は、瑞々しい赤をしていた。甘酸っぱい、果実の蜜でも啜ったようだ。
 濡れた瞳は、窓に映る闇夜の空より澄んだ、漆黒だ。
 ミルクに薔薇の花びらをとかしたような頬は、丹精込めてつくられたドールよりあどけない、淡い血色をかもしていた。
 腰に届く長い巻き毛は、錦糸を組んだつくり物の金髪を彷彿とする、見事な月の光を浮かべていた。
 細い首筋に、華奢な腰は、ともすれば手折れてしまいそうだ。

 年端のほどは十九の、この小さな少女のどこから、これだけの声が出るのだろう。

 音のないオルガンに合わせるように、少女は聖女(マリア)を恋い慕う。

 『♪ベーエーネェディクタトュ ベーネーディクタ……あ、あれっ?』

 聖なる音色がつと止んだ。

 音色を詰まらせた当本人、鳳めいむ(おおとりめいむ)は、荷物を預けていた机に駆け寄って、急いで譜面を確かめる。

 「べ、べ……ベネディクタ、イン、ム、むり?」

 馴染みのないラテン語が、頭の中で片仮名に変換されない。めいむは言葉を悩ませる。
 歌い慣れない楽曲は、挑戦しても、調子が出てきたところで歌詞が分からなくなる非常事態が起きるのだ。

 息をつく。モチベーションがすっかり失せた。

 めいむは、長机の端に寄りかかる。

 カーテンの隙間から、しんとした夜空が覗いていた。

 大学の敷地内にいると、やたらと点灯した灯火が邪魔をして、星が見えない。
 遠い宇宙にたった一つ、ぽっかり浮かんだ白い月だけが、氷の如く冷たい夜空に、あたたかな波紋を広げているようだ。

 聖母マリアの心が偲ばれ、胸がときめく。

 パニエで膨らませたスカートに、きらきら、ゴールドのペガサスが駆け回っているようなワンピースに身を包んで冬の夜空を眺めていると、めいむは、自分の背にまで翼が生え出す心地がする。

 めいむは、大学に入った昨年の春から、聖歌サークルに所属している。
 冬になると放課後一人、空いた講義室を見つけては、課題曲を自主練習していた。

 この時間が好きだ。

 冬の学校は、どうしてか空気が違う。
 別世界にいるような、魂(こころ)が澄み渡ってゆくような、不思議なものがそこはかとなく漂う放課後を、めいむは気に入っていた。

 『♪いーつくしみ深ーきーとーもなるイエスは 罪とが憂いーをーとーりさりたもうー 我らが嘆きーをー』

 仄かな幻影に守られた、得も言われぬ気流に誘われて、慣れた歌詞を口ずさむ。
 日本語訳された聖歌は、さっき練習していた『アヴェ・マリア』より入りやすい。

 長机から離れて、窓辺に寄り添う。
 目を凝らすと、蛍光灯に邪魔されながらも、いじらしく仄かに瞬く銀色の夜空の星屑たちが見える。それらを仰ぎ見ながら、今度は聖母マリアではなく、古(いにしえ)の救世主に思いを馳せる。

 『♪いーつくしみ深ーきーとーもなるイエスは 我らの弱きーをー……』

 二番の歌詞に差しかかった時、つと、人の気配がした。

 めいむは後方に振り返る。

 エアコンが温風を送る音と、素っ気ないシンプルな壁時計が秒針をきざむ音だけが、微かに耳に響いてくる。それ以外に音はないのに、めいむは確かに、人の気配を感じていた。

 どきどき、胸が轟く。
 幾重にもフリルを重ねたブラウスの上に、厚地のジャガードのワンピースをまとった素肌が、得も言われぬざわつきを覚えいた。

 講義室に二つあるスライド式の扉の一つが、音を立てた。
 がらりと静かな音を伴って、開いたのは、教壇近くにある扉だ。

 「あっ……」

 「──……」

 入ってきたのは、見たところ上級生だ。
 もっとも、どこの学年の学生達がどこの講義室を使っているのか、正確には分かりかねる。それと言うのも、大学の講義には、学年を問わず受けられる科目があるからだ。

 見知らぬ少女が、教壇から数えて三列目の席に移った。

 少女が、しとやかに腰を屈めて、長机の荷物置きを覗き込む。
 ほっと小さく息をこぼしたような彼女は、机の下の狭い囲いの中から、スケッチブックを取り出した。

 "忘れ物……だったのかな?"

 スケッチブックの中身を確かめ、少女が、無事手許に戻ってきたそれを愛おしそうに抱き締めた。

 めいむは、名前も知らない上級生に見入る。

 この時間、学内に残る学生は、ごく僅かだ。クラブやサークルの部室ならまだしも、講義室となれば無人だ。
 だのに今、ありえないことが起きている。無人のはずの講義室に、故意にここにいためいむ以外の学生が、いるのだ。

 臈たけた彼女の麗姿も、ありえなかった。

 「鳳さん」

 「ふぇっ?」

 「鳳さんでしょ。聖歌サークルの」

 少女が、物静かな視線を向けてきた。

 めいむは慌てて顔を逸らす。
 が、多分、彼女に見入っていたことは誤魔化せない。

 "綺麗な人……"

 めいむは、少し首を回しただけでは、少女から目を離せなかった。
 とりわけ華やかでもなくて、装いも、少女はめいむに比べてずっと簡素だ。それなのに、軽くマスカラをつけただけのような薄化粧が、却って少女に本来備わった清楚な美を湛えているし、黒いシャツに黒いセーター、紺色のフレアスカートにはアクセサリーなどもちろん合わせていない装いが、彼女のしなやかな身体の線を優美に引き立てていた。
 一重の目許に浮かんだ黒い瞳が湛えた光は、少女の思慮深さを物語っていた。肩より少し上で切り揃えた黒髪に、天使の輪が浮かんでいた。

 もっとも、気を抜かせている場合ではない。

 「あの……その通りです、鳳です。何故、その……」
  
 「聖歌サークルの発表ステージ。新歓も、学祭も、クリスマスのミサも。私、皆勤賞なの」

 少女が、めいむの真ん前まで歩いてきて、立ち止まる。

 シャンプーの匂いか、それとも少女のまとうオーラか、ふわりとした何かがめいむを包む。

 「有り難う、ございます」

 「何故、君を見ていたと思う?」

 少女の手が、その腕の中にめいむを囲うようにして、窓につく。

 めいむは少女と窓ガラスの間に挟まった。

 少女の問いに対する正解を、めいむは知らない。ふるふると首を横に振る。

 「君のお姉さん」

 「えっ……」

 「鳳早幸(おおとりさゆき)」

 少女の小さな人差し指が、めいむの顎をつつと突く。

 「早幸と私、仲、良いんだ。だから君を覚えたの」

 「お姉ちゃんと……ステージ発表、見に来て下さってたんですね」

 「正解」

 少女が、にこりと笑った。

 「絵、描かせてくれない?」

 少女が、めいむに並んで窓にもたれた。

 「絵、ですか?」

 「めいちゃんの絵。私、美術部なの。ロリィタちゃん描いてみたかったんだ。生憎、三年でそういう格好している子は知らなくて」

 「お姉ちゃん、休みの日は、黒のロリィタではありません……か?」

 めいむがはにかむと、少女がおかしそうに笑った。

 「めいちゃん。そこは言わないお約束」

 「え」

 「照れ臭いこと言わせないで」

 「えと、その……」

 「天使みたいなめいちゃんと仲良くなりたいっていう私の口実、分かってくれないかしら」

 清らな容姿に甘い声、そして甘い甘い言葉でめいむをたちまちにしてとろけさせた少女は、名を──常磐かずさ(ときわかずさ)といった。

 めいむの冬の日課は、今日まで、放課後一人きりで講義室に居残ることだった。
 しんとした寂寥に守られて、冬の夜空を夢見ながら、古(いにしえ)の聖人たちと対話しているひとときが、好きだった。

 しかし、うつつに聖なる人が現れた。

 めいむは、生身の少女の身体を持った聖なる人に、夢中になった。

* * * * * * *

 とうに西日も沈んだ夕方、めいむは、例の如く人気(ひとけ)のない講義室にいた。
 昨日出逢ったかずさがスケッチの準備を進める側で、めいむは譜面と睨み合っていた。『アヴェ・マリア』のラテン語歌詞に、片仮名読みを書き込む作業に打ち込んでいたのだ。

 「古典古代のギリシャやローマの芸術は、真面目腐ってる。その点、ルネサンス期に残された絵は、割と人間味が浮き出て見えるわ。ぬるいけど。第一、キリストの受難やマリアを絵に描いたって、所詮、他人が手がけた聖書を模写しているだけじゃない」

 「うーん……そう言えばそんな気も……。あ!ロココは自由な時期じゃありません?花や鳥をモチーフにしたロカイユ装飾は写真で見ても可愛いですし、優しい色使いと言うのでしょうか、堅苦しくないです」

 「ふふ、めいちゃんらしい。ちなみに、今日の水色の姫袖ジャンパースカートは、マリー・アントワネット風?彼女は残念だったわね。ロココ様式が好きなのに、伴侶はバロック心酔者だったっていうし」

 「常磐先輩は、いつ頃の絵がお好きなんですか?」

 「バロック」

 「なるほど!」

 「歪(いびつ)な真珠。歪んだ美。まるで人間の心そのもの」

 確かに、と、めいむは思った。

 「さ。始めよっか」

 かずさが、教壇からめいむに手招きした。

 教卓の上で、いつだったか絵本で見かけたようなアンティーク風のランプが、朱色の光を灯していた。

 めいむが教壇に行くと、講義室の明かりが消えた。かずさが蛍光灯を消したのだ。

 無限のような暗闇の中、明々としたランプの朱色の灯りだけが、おぼろに視界を補ってくれる。

 「めいちゃん」

 少し低めの、甘い声だ。

 かずさが、めいむの真ん前に、足を止めた。

 めいむはかずさと見つめ合う。

 言葉はない。

 ランプの明かりに照らされた、ホワイトボードにくっついたマグネットも、長机に置いためいむの譜面も、まるで意識に入ってこない。

 めいむは、かずさだけを見つめていた。

 かずさの細い指先が、二つに結っていためいむの長い金髪に触れた。
 するする、と、耳の近くで音がする。
 首筋に、ほどけた髪がはらりとかかった。

 「座って」

 めいむは、かずさに手伝われながら教卓に這い上がる。

 硬い板材に腰かける。

 さっきまでめいむの髪を束ねていた二本のリボンがかかった、かずさの細い手首が、めいむのうなじに近付いてきた。

 背中にくすぐったい感じを得ると、ファスナーの下りる音がした。

 この期待は何なのだ。

 めいむはかずさの絵のモチーフになるだけなのに、この、先が読めない状況に、胸がざわつく。

 「あの、常磐先輩……」

 「かずさ」

 「え……」

 「よそよそしい呼び方、好きじゃないわ」

 かずさ先輩、と言い改める。

 めいむの肩を押さえていたかずさの片手が、鎖骨を彷徨って、更に思いがけない場所に移る。

 「っ……」

 ファスナーの開いた背中を支えられながら、胸の膨らみを確かめたようなかずさの手が、めいむの着ているブラウスのボタンを外していった。

* * * * * * *

 『絵のタイトルは、(いびつな天使)にしたいの』

 『いびつな天使……私にはもったいない素敵な名前!』

 絵のモデルを引き受けた翌日、めいむは放課後、何が何だか分からないまま、しどけない姿にさせられた。

 初々しい恋人達の、甘美なひとときのためではない。

 めいむはかずさの絵のモチーフだから、理想的な人形になるべく、それらしく着ていたものを乱されたのだ。

 めいむがかずさと講義室で落ち合うようになって、今日で三日が経つ。

 めいむは、例の如く人目に晒せない格好で、教卓にちょこんと乗っていた。
 かずさの視線と、ここが講義室であることを忘れるような真っ暗闇が、めいむを落ち着かなくさせる。
  
 アイボリーのシャンタン地に、赤い小花柄が散りばめられたワンピースは、とうに衣服としての役割を放棄した。
 一昨日、昨日に続いて、めいむは今日も、レースやフリルがたっぷりあしらわれたブラウスの身頃を開かれて、下着を全て取り除かれた。

 「めいちゃんは、地上の天使。美しいものがひび割れて壊れていくの、私好き」

 両手首が、束ねて後ろ手に固定される。
 優しく、優しく、さりとてほどけば跡が残る具合に、赤いロープが巻きついていく。

 「はぁ……あ、かずさ先輩……見ないで……」

 めいむは、両手の自由を奪われて、むき出しになった生身の身体を自分で隠せなくなった。
 ニーソックスも、ストッキングもはぎ取られた。
 めいむの脚は、今やドロワーズもつけず開かされている。

 「バロック期に、カルバッジオという画家がいるの。彼が確立したテネブリズムは、世界のありのままの姿、特に人間を、キャンバスに生々しく写し取る技法。こんな風に、くっきり明暗をつけて──」

 かずさがランプの位置をずらすと、めいむの恥部に光が当たった。
 パニエを包んだスカートを通り越し、乳房、首筋、肩から頭の天辺まで、朱色の光がめいむをありありと映す。

 「完全な闇の中に浮かび上がった光だけが、存在を許されている。闇は、あってないもの。光が絶対的存在になる」

 「っ……暗いところは、描かないんですか?」

 「ある研究家は、このように解釈しているわ。光は単独の物体。幻じゃない、気体でもない。一方で、暗闇は、絵の中の光を取り巻く非現実的な何かでしかない。闇とは、何も存在しないところ。ものではなく、ただの無で」

 手首を縛っているのと同じ、赤いロープが、ブラウスを半端に羽織っためいむの上体に巻きつけられる。
 二重(ふたえ)になった赤い線の間から、乳房が突き出る。

 かずさが、めいむの硬くなった丸い乳首をつまみ上げる。

 「光は、対象物を照し出す。それはある種の物体で、光を通さず、光に溶けることもない。代わりに、闇が生まれる──と。強烈な明暗こそ、世界を強烈な生々しさで写し出すの」

 「あ……ああっん!ん、んっ」

 「女の子も快楽の虜になると、光を当てればいっそう甘美」

 かずさの声が、めいむの耳許をくすぐった。
 めいむの恥部からとろりとしたものがこぼれ出し、素肌を伝う。

 「良いわ、めいちゃん。淫らな天使……可愛いお口からこんなに汁をこぼして、神様のところへ帰れなくなるわよ」

 「ぁぁあ、はぁぁあ……!ひゃうっ。さ、触っちゃダメですっ……あ、はあ、あん、あっ」

 「……ほら、聞こえる?ここ、音してる。綺麗な糸、引いてるわ。ああ、痛いのが好きだった?」

 「んぅふっ……ああっ!」

 めいむの乳首が、かずさの唇に吸われて、歯を立てられる。

 二つの指先に挟まった陰核を、指の腹で小刻みにつつかれる。

 「ひぁああっ……あぁぁああ!はっ、あん、ああ、はあっ」

 敏感なところをいじられて、円を描くように、愛液が塗りつけられていく。

 秘めやかな蜜を掬ったかずさの指が、めいむの口許に近付いてきた。

 「舐めて」

 「──っ。ん、あっ」

 めいむは、かずさの指に舌を這わせる。
 薬指を、中指を、じっくり丹念に舐め回す。
 胸の膨らみを揉みしだかれて、脇腹の線をなぞられる。みぞおちをじれったく愛撫されながら、めいむの腰が、物欲しそうにびくびく動く。

 「欲しい?」

 「ぁ、欲、しい……あ、んん、あぁぁ……」

 「何が欲しいか、ちゃんと脚を広げて。言葉にするの」

 かずさがめいむの耳朶を舐める。

 「じゅう……あっ……十字架、下さい……」

 開いた脚を、もっと広げる。 めいむは、羞恥に抗えない激情から、逃げられなくなっていた。

 「ふっ、うぅ、あん、め、めいむの恥ずかしいお口で、かずさ先輩の十字架、くわえたい、ですぁ、あ、あぁあっ……」

 めいむの中が、満たされる。
 膣内に入ってきたものに食いつくように、浮かせた腰を貪欲に揺らす。

 角のない十字架は、彫刻を趣味としている、かずさの姉が手がけたものだという。逆さまになった十字架の、短い方に、小ぶりのバイブがくくり付けられていた。
 一昨日も、昨日も、めいむは十字架に犯されながら、かずさに写生されていた。
 快楽に狂う天使を彷彿とするような、生々しいめいむをキャンバスに写し取るプロセスとして、この遊びは不可欠だったのだ。







 かずさの視線を意識するからか。
 きつく胸を締め上げる、赤々としたロープが、めいむの上体に巻きついている所為か。

 めいむは、規則的な振動を繰り返す逆十字に膣内をもてあそばれながら、一時間で六度の絶頂を迎えた。
 まるで媚薬を得たように、身体の隅々までが、性感帯にでもなったようだ。羞恥も理性も失っていた。

 かずさはめいむに、前戯より後のことをしてくれない。めいむはあくまでかずさに画(えが)かれるモチーフで、かずさはめいむの、期限付きの絵師だ。

 愛し合う恋人同士ではない。

 「あっ、あぁっ、あんん、あっ!ぁぁああぁー……!」

 死にそうな声を上げながら、めいむの意識が、乳白色の霧の中にさらわれた。

 七度目だ。

 かずさが、イーゼルに固定したキャンバスから筆を離す。

 甘やかな吐息をこぼした彼女が、めいむの側に近付いてきた。

 「は……ぁぁ……」

 「お疲れ様」

 「かずさ先輩……私……」

 かずさが、快楽の海から十字架を抜く。
 何を思ったのか、彼女はめいむの匂いが染み着いたそれを、舌で味わい出す。
 めいむが、何とも恍惚とするその様を眺めていると、つと、かずさと目が合った。

 「ああ、ごめん。ほどくね」

 妖婉な艶を帯びた十字架が、かずさの黒いジャケットの懐に仕舞われた。

 かずさがロープをほどいてくれると、めいむは久しく自由になった。

 今日のモデルとしての時間が、終わった。
  
 めいむは、かずさに模写されるべく囚われていた幻想から、抜け出せない。
 もどかしく股をすり合わせながら、めいむはいっそ、早く帰路に着きたいと願う。秘めたるはしたない妄想を、かずさに見透かされたくなかった。

 めいむは今夜も、かずさを想って、自分をもてあそぶのだろう。
 かずさが触れてくれない場所を、きっとまた、めいむは自分で慰める。

 かずさの左手薬指に──彼女の好みらしからぬ大振りの逆十字が光って見えたのは、彼女がめいむの洋服を整えてくれていた時のことだ。

 昨日まで、なかった。

 白金(プラチナ)色の十字架は、かずさの心臓に一番近い、薬指の付け根にしっくり馴染んでいた。

* * * * * * *

 かずさは、めいむを天使だと言ってくれる。
 キリシタンでもない、ましてや聖母マリアの如く情慾を知らない少女でもないめいむを、彼女は無垢だと言ってくれる。

 めいむがモデルを引き受けた、『いびつな天使』が完成すれば、かずさが構ってくれる理由はなくなる。放課後、毎日のように誰もいない講義室で、神様にも言えないような遊戯に耽って──かずさが、めいむだけを見つめてくれる時間がなくなる。

 めいむは、かずさの思い描く天使ではない。人の世の愛慾に溺れた、さながらニンフだ。

 冬の夜の講義室に、めいむが一人でいることがなくなって、とうとう一週間が過ぎた。

 かずさと初めてまみえたあの日、苦戦していた『アヴェ・マリア』を、以来ほとんど自主練習していない。

 めいむはモデルに専念していた。

 デッサンという過程を大幅に省き、めいむを見つめながらいきなり描き込みに入ったかずさは、感性所以か集中力に長けるからか、絵を描くのも早かった。
 少女(おとめ)の快楽と天使が壊れていく様を、えげつないリアルを以て体現させるという『いびつな天使』は、今日、完成するらしかった。







 『綺麗ですね』

 『え……?』

 『薬指の、逆十字。白金の土台を赤い石が縁取っていて、かずさ先輩の美しい手に……ぴったり』

 二日前、めいむは、それとなくかずさに探りを入れた。

 かずさの左手薬指の十字架を、知り合って間もないめいむが気にするなんて、おかしい。

 分かっていても、気にせずにはいられなかった。

 かなしいかな、めいむが気にしているほど、かずさは深く受け止めてくれなかったようだ。
 彼女はめいむの左手をとって、いつもみたいに優しく笑った。

 『そう言えば、めいちゃん好みね。きっと似合う。見に行ってみて?』

 かずさはめいむに、逆さ十字のリングが置いてあるという店を、すんなり教えてくれた

 "そういう意味じゃ、なかったんだけどなぁ……"

 何故、かずさはめいむを、かようなテーマで、絵にしようと決めてくれたのか。

 一週間前より今の方が、めいむはかずさが理解(わか)らない。

 今日もめいむは、甘く涼しげなかずさの視線に耐えながら、歪んだ天使にとり憑かれていた。
 めいむの身体のあちこちに、低温の赤い蝋が散っていた。手首と足首を赤いロープで固定されて、丸みを帯びた逆十字を沈めた恥部が、かずさの方から丸見えだ。

 朱い光の中で、めいむは気が狂いそうだった。

 「あっ、ぁあ、はぁああっっ。あん、ん、あん、あぁああ!」

 めいむが今日八度目の昇天を味わうと、かずさが、筆を置いた。

 ──完成したわ。

 かずさの声が、めいむの胸に、切ない通り風を呼び寄せた。







 完全な闇の中に浮かび上がる、強烈な光だ。
 目もくらむ明々とした朱色に囚われた天使の吐息が、今にもキャンバスから漏れ出てきそうだ。めいむの生き写しでもある天使は、光と闇とを隔絶した平面体の世界の中で、快楽という刃に翼をもがれて、打ち震えていた。
 主である神の子が磔になった十字架を、自らのエクスタシーの道具にする──天使は、既に天界を超えた世界に魅せられてしまったようだ。優しい楽園を追放されても、彼女には彼女の悦びがある。

 めいむは、『いびつな天使』に見入っていた。

 真っ赤な縄で両手首を縛り上げられた、天使の左手薬指に、かずさと同じ逆十字のリングが光っていた。

 後方から、めいむはかずさに、肩を抱かれる。

 「指輪は、誓いを意味するんだって。特に左手薬指は、生涯を約束するカップルを繋ぐ。なんて信仰、誰でも知っているわよね」

 肩から鎖骨にかけて這う、かずさの左手に光るクロスが、めいむの視界の端に映る。

 白金色を放つ光に、いっそ心臓をえぐり取られてしまいたい。

 めいむには、かずさが何を言わんとしているのか、まるで分からなかった。

 「私の運命の人は……彼女」

 「…………」

 「純粋で、従順な、綺麗な綺麗な彼女が、好き」

 めいむは相槌に困る。

 「彼女」とは、誰を差すのか。

 「私が生涯を約束したい、魂(こころ)も想いももらって欲しいのは、私のために色を変えてくれる真っ白な雪……天使なの」

 かずさの声が、切なげにめいむの耳をくすぐった。

 彼女の左手薬指の逆十字は、本当は、どんな意味を持つのだ。

 めいむの胸が、わけもなく高鳴る。

 高鳴りが、自惚れだけによるのでなければ、かずさはまた、めいむに会ってくれるだろうか。

 キャンバスの、閉ざされた世界の中の話だけでは、納得いかない。
 めいむは、かずさの持つ逆十字の対となるリングが欲しい。この指に、深い紅を湛えた純白の十字架が欲しい。

 「かずさ先輩……」

 めいむは、かずさの腕に、自ら腕を絡みつかせる。

 「逆さまの十字架、欲しいです」

 小さく呟く。

 めいむの左手薬指に、冷たく硬い何かが触れた。

 「めいちゃん」

 「…………」

 「ほんとはもう、私、我慢の限界だった」

 ──君をちょうだい?

 めいむは、薬指に収まったばかりの逆さまの十字架を、じっと見つめる。

 かずさに振り向き、微笑んだ。







──fin.
妖精カテドラル