どこからか鳥のさえずる声が聞こえる。
 仄かに甘い土の匂いが、しっとりした水無月の風に運ばれてきて、感覚にまとわりついてくる。
 頭上の遙か彼方に広がるパステルブルーを覆った新緑の傘から、初夏の木洩れ日が降ってくる。

 自然界の優しさに、ほっとする。

 穂垣なしろ(ほがきなしろ)は、淡い白昼夢の中にいた。

 石膏を固めたような雪の色をした寝台が、石だけに、少し冷たい。
 ふっくらしたハートを四つ、向かい合わせに組み合わせて出来たそれは、上から覗くと白詰草の形に見える。
 いざ寝ころんでみると、ひんやりした感覚さえ気にしなければ、悪くなかった。

 くるぶしまであるワンピースの裾が芝生にすれても、構わない。
 トーションレースのあしらってある姫袖が、肘からふんわり流れ落ちて、手の半分くらいまで覆ってくれている。花壇に咲いたハルジオンの花を彷彿とする、白い小さな造花を集めたコサージュを留めた長い巻き毛を頬に被せていれば、木洩れ日で日に焼ける心配もない。

 なしろは、ちょっとした森林浴を楽しんでいた。

 自然特有の青臭い芳香が、とっておきのオードトワレより馨しい。

 もっとも、ここは市営の植物園の一角だ。白詰草の寝台も、花壇も、彫像の鳩が羽ばたいている噴水も、人工だ。

 知名度はある植物園でも、この一角だけ、滅多に人が入ってこない。
 この大きな緑の箱庭が、背の高い木々の天幕に覆われていて、更に四方を植え込みの壁で囲われているからか。
 それとも、出入り口は小さなものがたった一つあるだけで、ぱっと見、外からは行き止まりに見えるからか。
 或いは、じめじめした獣道を歩いてきたところにあるから、皆、辿り着くまでに引き返してゆくのか。

 なしろはかれこれ三ヶ月くらい、毎日ここに通い詰めている。
 時間は大抵昼下がり、それから日が沈むまで、時のない時間を過ごしている。
 その間、昨日までで出会(でくわ)した人間は、たった二人だ。

 つと、葉と葉のこすれ合う音がした。

 「なしろ様」

 落ち着いた女性の声がした。

 「いらっしたんですね……良かった……」

 なしろは植え込みにある出入り口の方向に、顔を向ける。

 見知った女性が、オオバコやわけの分からない筑紫の化け物みたいな草木が生える花壇の間に、立っていた。

 女性は、新婚ほやほやの家事専門家だ。滅多に人目につかないここを見付けた、希少な人間の一人である。
 一重の目許に小さな鼻、薄い唇が、清楚な顔立ちを実現している。肩にかかるほどの栗色の髪が、耳許で、シュシュに束ねられていた。
 七分袖のグレーのタートルネックのカットソー、それに飾り気のないハーフパンツをとりあわせたスタイルが、何とも素っ気ない。

 「あの、ごめんなさいまし……また、こんな適当な恰好で」

 「本当ね。美しいから見ていられるようなものだけれど、貴女じゃなくちゃ許せなかったわ」

 「なしろ様……っ」

 「やめて頂戴、繪野咲優(えのさゆう)さん。あたし、一回りも年上の女性に、様呼ばわりされる趣味はないの」

 なしろがすげなくあしらうと、この清楚な年上の女性、咲優が、白詰草の石の台に仄かな足音を連れて歩いてきた。

 「また……今朝、良人(おっと)に手を握られました」

 咲優が、上体だけ起こしたなしろの足許に跪く。

 「子供の数は……二人が良いねと、言われました」

 咲優の白い顔が、この世の終わりに怯えてでもいるのか、蒼白なそれに変わっていく。
 酸いも甘いも噛み分けた、大人の女の双眸は、それでいて雨に打たれた仔ウサギの赤い瞳に似ている。

 なしろは、咲優を見下ろす。

 「結婚してから男嫌いを自覚した、咲優の愚痴は聞き飽きたわ。貴女が間抜けすぎたんじゃないの?」

 「お見合いで……あの人と、その時はお話ししただけでしたので……。その、手を握った感じとかより、お話が楽しかった方が印象的でしたので」

 「お話が楽しかったから、結婚したの?」

 なしろが問うと、咲優が神妙に頷いた。

 ああ、コントでもこんな間の抜けた話はあるまい。

 「呆れるわ」

 「──……」

 「あたしに慰めて欲しいの?」

 「いつものように……」

 なしろのワンピースの裾が、咲優の手にかき分けられる。

 アシンメトリーの綿レースを、控えめにまくり上げられる。

 ピンク色のパニエがこぼれて、オーガンジーのクルー丈ソックスを履いた足がむき出しになった。

 「愚かな私を叱って下さい」

 白いストラップシューズの留め具が外れた。

 なしろの足の指先が、ソックスの上から、咲優の舌に愛撫される。

 「気持ちの悪い記憶がこびりついて離れません……ですから、私の身体を、なしろ様のお好きなように……良人の感触を拭って下さい」

 丹念に、あえかに動く咲優の舌が、なしろの意識を朧にさせる。

 「良人に抱かれる時は、いつも、なしろ様の指を思い出します……なしろ様の下で喘ぎたくてたまらなくなる……ふしだらな私を叱って……」

 なしろが立ち上がると、綿レースのスカートの裾が、咲優の頬をさらりと撫でた。

* * * * * * *

 早辺真宵(はやべまよい)は、黄昏時の植物園を散歩していた。

 真宵は大学の講義を終えるとほぼ毎日、こうして植物園を訪れていた。

 両親と顔を合わせる時間を、なるべく減らしたいからかも知れない。
 真宵は人間らしい人間が苦手だ。
 母、父は、共に自営で生計を立てている。だから、尚更、常に誰かいる家に帰るのが億劫になるのだ。

 ベビードール風のワンピースの裾が、風を受けてふわふわたゆたう。
 青からピンク、ピンクから青へと変化してゆくグラデーションの羽根を広げた蝶が舞う、花の形をしたジェリービーンズがスワロフスキーの鎖に編み込まれたプリントが、淡いピンク色のシフォンの中で揺れる。

 真宵は、黒いパラソルの柄をもてあそびながら、中央広場の歩道を外れて小道に曲がった。
  
 森林を両脇にして、舗装された歩道を歩く。

 見上げると、木々の枝を彩る深い緑が、まばらながら天幕を張ったように、頭上の空を覆っていた。

 奥へ、奥へと進んでいく。

 やがて人の姿を見かけなくなった。
 虫や鳥の鳴き声や、草木の葉のすれる音、風の淡い音色くらいしか聞こえない。しんかんとした道が続く。

 途中、セメントで固めた道が途切れた。湿気た砂利道に切り替わったのだ。

 しとしと、さくさく、歩いていく。

 足許が、更に変わった。
 乾いた土や、腐ったヘドロの如く植物が、凸凹の獣道に散乱していた。

 真宵は、少し先に、不自然な植え込みの壁を見付けた。
 緑の壁は、いっそう密集した木々に囲われて、分厚く草で出来ていた。覗き込んでも、きっと向こうに何があるのか分からない。

 何かの引力に絡め捕られるようにして、壁に駆け寄る。

 一ヶ所だけ、野良猫の通れるくらいの隙間があった。

 真宵は、パラソルを閉じて足許に置いた。
 パニエで膨らんだワンピースの裾を抑えて、しゃがみ込む。

 葉と葉の隙間に頭を突っ込む。

 押し殺したような、泣き叫ぶようでもある女性の声が、頭の上から降ってきた。

 真宵は、はっと顔を上げる。

 「…──!!」

 この世のものならざる光景が、植え込みの向こうに広がっていた。

 女性が、噴水の側に佇んでいた。
 彼女は、甘く淡い色をしたワンピースに身を固めていた。
 腰まで伸びた栗色の巻き毛が、ふんわり風に靡いている。

 妖精だ。

 真宵は思った。
 女性の姿から聯想出来るものが、それより他になかった。

 垂れ目がちな目許にどきりとする。
 きめ細やかな白い素肌の感触を、思わず味わってみたくなる。

 真宵から見て、女性を形作る要素のどれもが、とても人間らしさに欠けていた。

 妖精の柔らかな瞳の捉えるものを、目で追う。

 すると、一人の女性の形をした人間が、一糸まとわぬ姿になって、噴水の鳩に跪いていた。







 作り物の茨の鞭を、振り上げる。
 柔らかな素肌を打つ度に、悩ましげな身体が震えて、悶えて、押し殺したような悲鳴が空気を揺らす。
 血の色をした拷問具で、赤い花びらの影を散りばめていくように、生身の身体を痛苦で責める。

 なしろは、咲優の肉づきの良い尻の膨らみをなぶり倒していた。

 咲優の細い両の手首は、赤いロープで一つに結んである。
 麻縄の端を近くの排水溝の蓋にくくりつけて、彼女をうつ伏せの恰好にさせて、その場に繋いでいたのだ。

 触れられない花びらが、締まった臀部の割れ目に添って、ブーケを描いていた。

 「ぅぅっ……ふっ、ん、あっはっあぁぁ、あん、あぁぁっ……!」

 「ふふ。咲優ってばカワイ。下のお口から、涎がだらしなくこぼれているわよ。……痛くて泣いちゃってるんじゃないでしょうね?」

 「あっ……あん、なしろ様っ……」

 「なぁに?味見して涙だったら、やめてあげようとしてるんだけど……」

 なしろは、指にすくい取った甘いものを口に含む。
 わざとらしく音を立てながら、後方から咲優の耳許で指を啄む。

 「な……しろ……様……」

 咲優の左胸をぐいと掴む。
 その先端を、ぐりぐり、指先でつねって揉みしだく。

 「乳首、硬いわよ。こっちは?」

 「あっ……はぁっあっ、あぁっ……」

 「いやらしい声。全裸で尻突き出して、胸揉まれて悦ぶなんて……家畜でももっとプライドがあるんじゃない?」

 「私は……なしろ様の、はしためですから……」

 「ふぅん?じゃあ、咲優のここ、どれくらいあたしを受け入れるか確かめましょうか」

 咲優の滑りやすくなった蜜壷を、指でつつく。

 物欲しげな粘膜が、すんなりなしろを受け入れた。

 「一本……二本。三本……手首まで突っ込んで犯してあげるわ。どっか裂けちゃっても、拒否権はないわよ。ぐちゃぐちゃになるまで喘がせてあげる」

 なしろが咲優の膣内をこすり出した、その時だ。

 「…──っ」

 視線を感じて振り向く。

 見慣れない少女が、植え込みの手前に立ち尽くしていた。

* * * * * * *

 真宵がまみえた妖精は、名前を、穂垣なしろといった。

 なしろは、真宵にこの、森の中の隠れ家の話を聞かせてくれた。

 聞けば、市営の植物園にあるここは、本来見付けられるはずのない場所らしい。
 人間界には、屡々、妖精界の出入り口となる異次元が生じる。それらの多くは、本来、人に手を加えられていない大自然のいずこかで生まれる。しかし、どういうわけか、人工のここがそれになっていたという。

 人間界と妖精界の境目に踏み入ることの出来る人間は、限られている。
 妖精は、人間界では暮らせない。空気や自然が汚染されて、精神界も、色んな歪みをきたしているからだ。
 人間界にも、稀に敏感な人間がいる。そういった体質の人間は、純粋故に、娑婆では息苦しい毎日を余儀なくされる。
 真宵はその、敏感な類の人間らしい。本質の半分が妖精のそれだったから、なしろ達の隠れ家を見付けられたということだ。

 ここには、なしろと咲優、それから、結多かのり(ゆいたかのり)という少女がいた。

 かのりは、プレッピースタイルの似合う瑞々しい雰囲気の少女だ。真宵より二つ年下で、あどけなさを残した顔つきに、胸にかかるほどの黒髪がよく馴染んでいた。

 なしろは咲優を愛していた。
 そして彼女は、眷属を迎え入れるようにして、真宵のことも愛してくれた。

 かのりも例外ではない。なしろに愛されていた。

 真宵がここに通うようになって、五日が過ぎた。

 今日は、咲優がいない。
 かのりが来ていた。

 真宵は、噴水の枠に腰を下ろしていた。
 なしろが淹れてくれたラベンダーの茶を飲みながら、彼女とかのりを眺めていた。

 妖精と、人間の少女が、さながら儀式の快楽劇を繰り広げていた。
 白詰草のテーブルが、さしずめ祭壇といったところか。
  
 なしろの唇がかのりの陰裂をしゃぶって、とろけるような舌先が、彼女の敏感な部分を転がす。

 かのりの乳房の先端にあるピアスホールは、なしろが空けたものだという。二つの淡い色をした乳頭で、銀色のストーンがきらきら光る。
 しどけないような装身具と、かのりの視覚を奪っている目隠しと同じ白いレザーのチョーカーが、鎖で繋がれていた。

 かのりが身体を仰け反らせる度に、乳首がついと引っ張られる。
 彼女のM字型に開脚した足首に、その手首が結びつけてあった。

 「あっ……あんっあっはぁっ、なしろ様そこ、ダメですっ……かのりそこ弱い、あん、あっあっ、ぁあああっ」

 「そう……ダメなの」

 「…──っ!!はっあぁっ……」

 「うふふ。べとべとの豆粒をつまんだだけで、いやらしいお口がひくひく悦んじゃってるわ。淫乱な仔ウサギちゃん……かのりは誰のものかしら?」

 「あっあぁぁ……なしろ様の、ものですぅ……んっぅ……」

 「だから?」

 なしろが、かのりの下腹を舐め回しながら、鎖骨で揺れる鎖を引っ張る。

 「っ……!!」

 しとやかな指先が白い柔肌を引っかくと、みるみる淡い血色を帯びた線が浮かび上がる。

 「あっあぁっああっ!気持ちぃ、気持ち良ぃですなしろ様……はぁっ……かのりは、んっ、なしろ様のものなので……」

 なしろの柔らかな栗色の巻き毛が、気まぐれな風で揺れる。

 「もっと、もっとかのりをいじって下さいっ……あぁはぁっ恥ずかしいとこが、うずうず、して……っ、なしろ様の、指、かのりのいやらしいお口にくわえさせて下さ……ああぁっっ」

 かのりの喉が、この世のものならざる悲鳴を上げる。

 「──……」

 「真宵」

 しとやかなソプラノの声の主と、目が合った。

 「お茶請けよ。四つん這いでここまで来たら、ご褒美をあげる」

 なしろの、愛液にまみれた左手に、淡いピンク色のマカロンが乗っていた。

 真宵は地面に跪く。

 マカロンが、途端にくしゃりと潰れた。

 甘い甘い誘惑をまとった指にしゃぶりつく、数秒後の未来を想うと、言い知れぬ快楽の波が押し寄せてきた。

* * * * * * *

 「妖精は、とても気まぐれ。森に棲む小動物達と同じ……純粋で、本能に従順な生き物なんだわ」

 なしろは、真宵の熱い舌を指先に感じていた。

 そうしながら理想郷を思い描く。

 今日は、咲優もかのりもいない。
 彼女らは真宵と違って、毎日来るわけではなかった。

 真宵は相も変わらず可憐だ。

 彼女が、なしろの味つけした指を無我夢中で貪る様は、何とも艶めかしくいじらしい。

 「あたし達は妖精。妖精になり損ねた妖精……。自由に生きることが許されるのは、この場所だけなの。この場所では、あたし達は気持ち良いことだけしていて良いの。人間界の、下らない価値観や馬鹿げたシステムは忘れて良い。綺麗なものだけを見て、甘いお菓子やお茶を楽しむの」

 「ここは、妖精界……。人間なんかに来ることは出来ないんですね」

 なしろは真宵のさらさらの黒髪に、口づける。

 「あたしは、半分以上、妖精」

 「知っております、なしろ様は美しいから……」

 「真宵とこうして二人でいると、楽しい。咲優とかのりは、大事な姉妹みたいなものだけれど……」

 なしろは真宵の唾液にまみれた片手を引っこめて、彼女の小さな頬を包み込む。

 「こんなにどきどきして……懐かしいような気持ちになるのは、真宵だけだわ。なんて、言ったら困る?」

 「困りません」

 真宵がふるふる首を横に振る。

 「なしろ様を……独占したい。最近、私、そんなわがままばかり考えています。咲優さんもかのりさんも、素敵で優しい方達だけど」

 真宵がうっとり微笑んだ。

 「もっともっと、なしろ様と同じになりたい。私の身体も、魂も、なしろ様でいっぱいにして下さい。この素敵な楽園に、相応しい、もっと妖精らしいものなりたい」

 なしろは、真宵の淡いピンク色のリボンが飾ってあるこめかみに、キスを落とす。

 「真宵」

 「はい……」

 「いつか」

 真宵の目尻に、頬に、唇を移す。

 微かな甘い匂いが鼻を掠める。

 真宵がくすぐったそうに身をよじる。

 なしろは、その度に、いっそう甘美なものに溺れていく。

 「いつか、一緒に帰りましょ?真宵とあたし、二人で」

 伏せた瞳があまりに綺麗で、苦しくもなる。

 なしろは真宵の瞳を覗き込む。
 いつからだろう。その瞳に、花ではない、自分だけを映して欲しいと願っていた。

 「一緒に……あたし達の本当の故郷(フェアリーランド)へ、帰りましょ」

 植え込みの葉と葉がこすれ合う音がしたのは、その時だ。

 あと少しで触れ合っていたろう二人の唇が、離れた。

 「……お前か」

 ここに来られるはずのない、男の形をした人間が立っていた。

 真宵がすっくと立ち上がる。

 なしろは、真宵に庇われるような位置から、見知らぬ男を凝視する。

 男がどこの誰なのか、分からない。

 「妻を……咲優をたぶらかしたのは、お前か……穂垣」

 「…──!!」

 そこではたと気が付いた。
 男の手に、見覚えのある、咲優の青い手帳があったのだ。

 手帳と一緒に、銀色の光がてかっていた。

 なしろは、その光が狂気なしでは握れなかろう凶器のそれと認めた瞬間、真宵を押しのけていた。

 「なしろ様!!」

 嫉妬に狂った人間の目ほど、醜いものはないかも知れない。

 避けなかったのは、鞘を失ったシースナイフが、真宵を脅かしてはいけないからだ。

 なしろが脇腹に非現実的な痛みを覚えた瞬間、男の目に、初めて恐怖の色が宿った。

 「っ……」

 「俺は……俺はやってない……」

 「なしろ様っ!!」

 恐怖で意識が遠のいていく。

 自分を呼んでくれる少女の声が、愛おしい。

 ああ、やはり逃げるべきだった。

 なしろはにわかに後悔した。
  
* * * * * * *

 妖精界を夢見ていた。

 純粋で、ありのままの在り方をしたものだけの集う、無垢な世界に憧れていた。

 長い歴史を重ねながら、娑婆は、あまりに歪められてきた。どこもかしこも見えないものに矯正されて、汚染されている。

 息苦しかった。

 だから、せめて小さな場所で良い。何色にも染まりたがらない眷属達の楽園を、望むようになっていた。

 「咲優があたしを見付けてくれたのは、桜(はな)の咲く季節だったわ。あの人は……この白詰草の寝台で、昼寝していただけのあたしを……妖精だと見まがった」

 なしろは真宵と肩を並べて、蜜色に染まった空を眺めていた。

 「逃げたかったの……下らない世界の見えない場所へ。歩いて、歩いて、緑の匂いに導かれるようにして辿り着いたのが、ここだった。あたし、……格好悪いこと白状しちゃうと、家賃、滞納している」

 腹が、酷く脈打っていた。
 あのいじらしい、純粋なだけが取り柄の女性の伴侶に刺された皮膚をくるんだ白いブラウスが、真っ赤に変わり果てていた。

 「就職して七年。色んなもの抱えて、溜まって、会社に……行くの疲れちゃった。働いていると、いやでも穢いものが見えてしまうわ。そんなつもり全然なくても、実益主義の社会に汚されていく。利益とか、そういうこと考えなくちゃ生きてけないって……分かっても……だから、振りをして、逆に傍目を欺いてみたりもしていた。けど、拒否反応は無視出来ない……馬鹿馬鹿しいもの演じてた、あたし自身に、うんざりしたの」

 耐えかねて、半年前、仕事を辞めた。
 そして、家賃を滞納させる羽目になったのだ。
 なしろがここで昼寝をしていたのは、屋根を失っても眠れるよう、練習してみたかったからかも知れない。

 真宵の手を引き寄せて、そっと握る。

 彼女の手は、触れているだけでほっとする。

 「ごめん……真宵。あたしは貴女の……貴女達の理想郷を、あるものと見せかけていただけ。ここは妖精界の出入り口なんかじゃない。ただの……人間界よ。貴女がさっき見たように、ここには人間も来られるの」

 「いいえ……いいえ、なしろ様……」

 「幻に縋っていたわ。真宵や咲優、かのりを……無垢なもので守りたかった。けど、あたしがこんなにちっぽけで……救われない、人間なんだから……妖精じゃ、ないんだから……」

 「──……」

 「後悔、していないわ。出来ない……何も」

 「なしろ様……」

 「あたしには他の生き方なんて無理。それが出来るなら、妖精界を信じたりしなかったもの」

 だから、尚更、真宵らに申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
 なしろには、真宵らに心から謝る資格もないのだ。

 手が、真宵にぎゅっと握られた。

 意識が、だんだん掠れていく。

 ただ、一つ、本当は後悔していることがある。

 この愛おしい時間を自ら断ち切ろうとしていることだ。

 ナイフを抜けば、きっと致死量の血液が流れ出る。それでなくてもいつまで身体が持ちこたえられるか、分からない。

 「お医者さんを呼んできます。近くに公衆電話があります。……絶対、戻ってきますから!」

 「行かないで」

 真宵の手をぎゅっと握る。
 彼女が立ち上がれないほど強く握ると、凛とした目許に囲われた、澄んだ色の黒い瞳が、酷く苦しげにたゆたった。

 「そんな顔、しないで」

 「だって……血、そんなに……」

 「ここに人間を入れたくないの。真宵だけいて欲しい」

 「──……」

 「真宵があたしを、まだ、許して……好きでいてくれているならここにいて」

 真宵が、浮かせた腰を落ち着かせた。

 こんな気持ちは初めてだ。

 なしろは今、人間に、恋をしている。醜いものの塊のはずの人間を、とてもとても美しいと、感じている。

 なしろは人間だった。
 どれだけ綺麗事を並べ立てても、愛慾という、やはりそれらしい欲望に駆り立てられていた。

 目前の少女も同じだ。
 純粋で、綺麗でも、人間だ。

 だのに、愛おしい。

 なしろが真宵を想う気持ちは、きっとありのままの柔らかなものだ。
 現実を忘れられるだけの快楽を求めたり、寂しさを埋められるものを貪りたい衝動ではない。

 大切にしたい。同じ景色を愛でながら、同じ時間を歩いていきたい。

 真宵は、そんな優しい思いをくれる。
 なしろが自分で、自分を許せる愛慾をくれる。

 初めて覚えた感情だ。

 「フェアリーランド……」

 真宵が、つと、呟いた。

 「なしろ様に、お話ししましたよね?私……人間らしい人間が、苦手だって」

 「──……」

 「同年代の友達も、嫌いじゃないけど……怖くて。親も、どこまで私を理解してくれているのか、やっぱり怖い」

 「真宵……」

 「逃げて、逃げて、やっと見付けたのが、なしろ様のいらしたここでした。何を見ても怖かった、私が、初めて心も身体も許せた人が……貴女でした」

 なしろは真宵をちらと見る。

 化粧で垂れ目がちに見える。それでいて凛とした目許の湛える微笑みに、ひとひらの迷いも感じられない。

 頼もしいほど美しい。

 なしろは真宵の面持ちに、どんな緑より本物らしい無垢なものを見る。

 「なしろ様が……フェアリーランドを見せてくれた」

 「真宵……」

 「なしろ様や、皆が、違うって言っても……ここは私の本物です!なしろ様のくれるものは、嘘でも夢でも幻でも──…っ!?」

 真宵がはっと息を止めた。

 なしろは、その唇を塞いでいた。

 二人、永遠のようなキスを交わす。

 一秒でも長く生きていたい。
 このぬくもりを感じていたい。

 なかったはずのフェアリーランドを、今なら感じる。

 真宵が、なしろの妖精だった。

 口づけが、どんな砂糖菓子より柔らかだ。

 世界さえ綺麗に晴れ渡っていく。

 あらゆるものを許せる気がしながら、ゆっくりと、深い意識の底に落ちていった。







──fin.
妖精カテドラル