幽寂の森に聳えるその塔が、最後に誰かを住まわせていたのは、いつのことか?

 そこは人知れず存在している森だ。現世(うつしよ)の中にありながら、高楼諸共、いつかの時代に置き去りにされていったのだ。

 塔は、人の世から隔絶されているのも同然だった。
 そのくせ燦々たる真夏の日差しを受けながら、この世の全てを覆い尽くす青白い空の光を浴びている。気ままに色をまとった花々や、新緑を繁らせた豊かな木々に匿われて、鳥や虫のさえずりが微かに聞こえるしんかんとした情景の中に、とけ込んでいた。

 古びた石造りの塔の内部は、エントランスから天井に向かって、螺旋階段が高く高く続いている。
 そこを上っていった最上階で、祭壇が一つ、小窓の淡い光の中に浮かび上がっていた。

 静止した時の中にあるような、セピアの部屋に、生の薔薇(しょうび)の花びらが、いやに映える。

 赤い赤い花びらは、祭壇に、盛るようにまき散らしてあった。

 一人の女が、この薔薇のアンテペンディウムに、ドレスの裾をふわりと落とした。

 女は、見事な白亜の肌をしていた。そして、全身を白と生成のドレスで固めていた。

 粉雪の化身の如く女は、ただ、緩い波を描いた髪だけが黒檀の如く黒い。

 女が、すらりとした顎を上げた。

 形の良い目許に縁取られた眼差しの先に、もう一人、女がいた。
 もっとも、こちらの女は、ぱっと見では女と判断出来なかろう。あえかな顔立ちとは余所に、その出で立ちが、異国の貴公子を聯想させられるようなものだからだ。
 女の温もりのある白磁で出来たドールを彷彿とする白色(はくしょく)の肌に、黒瑪瑙の双眸がよく映える。肩にかかるかかからないかほどのブロンドの髪が、その首筋に、やんわり影を落としていた。

 『ここは暗くて淋しいわ。ルーアは、いつからここにいたの?』

 『うさぎはいつから?』

 『分からない』

 うさぎと呼ばれた白いドレスをまとった女が、ルーアという名らしい貴公子さながらの女に、腕を伸ばす。

 二人の腕がもつれ合ったかと思うが早いか、うさぎの背が、赤い薔薇の中に埋(うず)もれた。

 ルーアが祭壇の平面上に膝をつく。
 無造作に寝かせられた妖精の抜け殻の如く女を組み敷いて、小さな耳朶をくすぐるように囁きかける。

 『淋しいならいてあげる。うさぎを怖がらせるもの全てから、私が、守ってあげる』

 『ずっと……?』

 うさぎの上気した頬を引き締める、硬い光を湛えた双眸が、妖しく濡れる。

 『この塔には誰もいない。人間も、植物も、生命を持つものなら、本来入り込めないはずの場所……出入り口が、あってないようなものだから。この祭壇が何のためにあるのかも、どうして生花があるのかも、分からない』

 『うさぎと私がここにいるのだって、同じような理じゃない?』

 『気が付いた時、私はもうここにいた。この薔薇達も、ずっと前から、まるで枯れずにここにある。私達も、変わらずに、いつまでもここにいるのかしら』

 『私は、うさぎと一緒にいるためにここにいる。うさぎは私に愛されるために……ここに。薔薇達も、私達がここにいるから、甘い匂いを分けてくれているんだよ』

 ルーアがうさぎのまとう白いドレスの襟刳りを、指の腹でなぞり出す。いくつものシフォンのリボンが無造作に縫いつけてある、しどけないほど開いたそこから覗いている白い鎖骨に、キスを降らせる。

 そうして、うさぎの胸の膨らみを、手のひらに包み込む。

 二つとない弾力を持ち合わせた柔らかさを、緩やかに、じっくり、揉みしだく。

 『はぁっあっ、ルーアぁ……ふんっんぅ……』

 『うさぎ』

 うさぎがルーアの首筋に、腕を絡める。

 『見せて、もっと。君は美しい。美しくて、世界で一番、魅力的だ。うさぎ……』

 うさぎの肢体をくるんだドレスは、背中にシャーリングが施してあるだけだ。肩からするりとずらしていくと、すぐに細い肩が現れた。
 ルーアは、しっとりしたきめ細やかな甘い匂いにいざなわれながら、脇に、胸の付け根にキスをしながら、引き締まった腹をまさぐる。

 うさぎの身体は知り尽くしていた。されどどれだけ味わっても味わい足りない。

 ルーアは甘い薔薇の匂いの染み着いたそれを、底なしの欲望の海に沈めてゆく。

 『あうぅ……あっあっ……あん!』

 『ここ、こうされるの好きだよね?柔らかな腕……食べちゃいたいな。腰も、脚も、妖精みたい』

 『妖精、じゃ、ないもん……う、さぎ、だよぉ……ああっ』

 永遠に、誰にも邪魔されずにこうしていたい。

 そんな台詞が、じきに、どちらからともなくこぼれ出る。

 そうしてルーアは、ドレスの役目をなさなくなった白いものだけを邪魔に感じながら、ウサギの色をした女(うさぎ)を抱くのだ。

 互いに互いだけ見ているしかない牢獄の如く世界の中で、二人、愛おしい光にまみえた。

 『やん、そこ……あっ、ひゃぅ、あっはぁっ……』

 ルーアは、奇跡の如く甘い音色を奏でる肢体を、幾日も幾日も愛し続けていた。

 とびきり敏感な乳房を押さえ込むように撫で回しながら、丸みを帯びたその先端を、指と指に挟んで揉む。
 気を失いそうな面差しを歪めるうさぎの腰から下着を剥いで、愛慾の匂いをまとった蜜で滑りやすくなっている、秘めやかな場所の内部を拓く。

 愛してる。愛してる。

 意識が生まれた時には既に覚えていた想いを浴びせながら、うさぎを快楽のはしためにする。

 白い肢体が薔薇の中で甘美に踊る。

 いつから二人がここにいたのか、何故、二人がここにいるのか。

 二人して、それを知らない。

 ただ、ここから抜け出せないことだけ、知っていた。

 だから二人、この閉鎖された塔の中で、永遠に愛し合うさだめを食むのだ。

 『君が愛おしすぎて……心臓ごと犯しちゃいたい……』

 狂おしいようなうさぎの吐息が、ルーアを、本当に彼女を殺してしまいたい欲望に駆り立てていた。
  






 規則正しく並んだ活字の羅列に、そこで最後の終止符が打たれていた。

 白堀汀(しらほりみぎわ)は、十枚ほど束ねてある原稿用紙をテーブルに置いた。

 こぢんまりしたこの密室は、市内の某小路の一角にある、青文字系セレクトショップのスタッフルームだ。
 汀の隣にもう一人、落ち着いた色味のスーツをまとった女性が腰かけていた。

 汀がこの「うさぎ」と「ルーア」のローマンスに出逢ったのは、先月だ。

 今し方目を通したのは第二回目の箇所だったのだが、第一回目の端書きから、まるで方向性の読めない物語だった。

 うさぎとルーアの物語は、『フルール』という月刊誌に連載が決まったものだ。
 幅広い読者層を抱えたファッション誌に、かように官能的な要素が色濃いものが相応しいのか疑わしいが、汀の懸念するところではない。

 汀は隣に落ち着いている女性をちらと見る。

 どこまでも清楚なこの女性、日隠真鈴(ひがくれますず)は、汀の担当編集者だ。そして、小野寺花雁(おのでらかがり)の担当でもある。
 汀はイラストレーターとして、花雁はライターとして、『フルール』に携わっている。花雁の手がけた小説は、汀が挿し絵を付けて初めて、世に送り出される。
 そういう事情から、二人に同じ編集者が付いていたのだ。

 軽快なテクノポップが鳴り響く、ここのショップは、汀の実妹、白堀りか(しらほりりか)が営んでいる。
 汀は屡々、このスタッフルームを、編集者との打ち合わせの場に借りていた。

 「なかなか面白そうな話でしょう」

 「て言うか、どきどき?」

 汀は正直な感想を、真鈴に述べる。

 「小野寺さんって、ちょっと前にあったライター募集に応募して、採用された若手さんだよね?デビュー作からこんなエッチなもの書くなんて、どんな人なのー」

 「汀ちゃんも若いけどね。気になる?」

 「同じ雑誌で仕事している、仲間として」

 「それだけ?」

 真鈴が意味深な目を向けてきた。

 汀は思わず顔を逸らす。

 ぎゅっとワンピースの裾を握った。

 今日選んだこのワンピースは、初夏の頃、りかの店で見立てたものだ。
 淡い青がむら染めしてある軽いガーゼで仕立ててあるこのワンピースは、わざとヴィンテージに見せかけた小鳥のプリントが、風を受けるとひらひらたゆたう裾に舞っている。ハイウエストに青いリボンが結んであって、首許は極めてシンプルなレースが一重あしらってあるだけだから、銀古美やビーズのネックレスが合わせやすい。
 汀の肩にかかるかかからないかほどのブロンドの髪を下ろしたこめかみに、ふんわり咲かせた白いブーケも、ここ、りかの店で一目惚れしたものだ。

 「汀ちゃんってさー」

 真鈴がすっかり砕けた口調で口を開いたその時だ。

 スタッフルームの扉が開いた。

 「お姉様っっ」

 りかが飛び込んできた。

 淡いピンク色の髪を二つに結って、プリントTシャツにレインボーカラーのチュチュ、タトゥー風タイツというとり合わせで身を固めたりかは、いかにも今時の原宿ガールだ。

 汀はりかの肩越しに、扉の向こうの店内を覗く。

 見知った少女が一人、ワンピースの並んだラックのすぐ近くに見えた。

* * * * * * *

 汀が売場に出て行くと、件の少女が踵を返した。

 その黒い長い巻き毛を下ろした姿から、どことなく、かの物語のヒロインを聯想する。
 少女は、とても炎天下を歩いてきたとは信じ難い、透き通るような肌をしていた。
 サーモンピンクの水玉模様を散りばめた、白いワンピースの裾に、苺を乗せたシャーベットがプリントしてある。ふんわり広がるXラインの洋服が、小柄な体躯を引き立てていた。

 「汀様!」

 「いらっしゃいませ。えっと……すみれちゃん?」

 「わぁっ。覚えてて下さったんですかー」

 くっきりした目許を彩る大きな瞳が、ぱっと輝く。

 少女、桃兎すみれ(ももとすみれ)という名のここの常連客が、些かたいそうに両手を合わせた。

 「すみれちゃんは可愛いから覚えやすいの。今日はお買い物?」

 「いえ!汀様に会いに来ましたぁ」

 「えっ……私?」

 「りかさんに訊いたらお仕事中だって。今日はもう会えないんじゃないかって、危うく泣いちゃうとこでしたー。会えて良かったです」

 すみれが屈託のない笑顔を浮かべた。

 そういうことか。

 汀は、さっきりかが異様に慌てて駆け込んできた経緯に納得した。







 「汀様って、恋人いらっしゃるんですかぁ?」

 すみれがアウターを吟味している傍らで、適当に相手をしていると、彼女が振り向いてきた。

 「恋人?」

 「どんな人がタイプなのかなぁって」

 「恋人、ねー……」

 「シークレットですか?」

 すみれが可愛らしく首を傾げた。

 何も知らない無垢な瞳は、何故、こんなに怖いものなのか?

 汀はすみれの手首をとって、無防備な身体を引き寄せる。

 「あぅ?!み、汀様?!」

 「んっとね」

 見かけより、胸がある。

 正面からすみれを抱き締めると、胸に柔らかな弾力が押しつけられた。

 汀はすみれの耳にかかったウェーブヘアを、さらりとよける。

 「今は、仔兎ちゃんが欲しいかも」

 「何ですかー。それー」

 「恋人より、ウサギちゃんに興味があるの」

 「あはは。汀様ってばそれだから……」

 すみれがくすぐったそうに笑う。

 鈴を転がすようなソプラノの声は、まるで天使の歌声だ。

 「すみれは汀様のギャップにめろめろです」

 「えー。何のこと?」

 「あ、こっちはシークレットでした?」

 すみれが汀を見上げてきた。

 蜜柑一つ分ほどの隙間を挟んで、二人、言葉もなく見つめ合う。

 視界の端にピンク色の影が触れたのは、その時だ。

 「あわわっ」

 すみれが汀から離れていった。

 汀はスタッフルームから戻ってきたりかの姿を認めるなり、忙しない鼓動を自覚した。
  
* * * * * * *

 とことんこだわって創った店で、あれこれ業務をこなしていると、あっと言う間に一日が過ぎてゆく。
 今日もまた、とりわけ変わったこともなく、営業時間が終わっていった。

 りかは看板を仕舞って店を片付けると、帰路の途中にあるバーに立ち寄った。

 段差を跨いで、店の中に入っていく。

 薄暗い照明の光の中に浮かび上がる、隅っこの、水槽があるすぐ側の席に、一見するだけなら青年にも見まがうような女性が一人、落ち着いていた。

 女性のさらさらの短いブロンドの髪が、その匂やかな首筋を、よりあえかに引き立てている。シフォンのブラウスを固めたチャコールグレーの燕尾のベストと、同系色のハーフパンツが、妙なるバランスを実現していた。
 貴公子の如く出で立ちが、凛とした、それでいて甘ったるいオーラをまとった女性に、鳥肌が立つほどしっくりしていた。

 りかは、女性の隣に腰を下ろす。

 「お疲れ様。来てくれたんだ」

 「貴女がメールくれたから。……シカトした方が良かった?」

 「まさか」

 「これでも気にしてるんだからね」

 りかは、わざとらしく頬を膨らませてみせる。

 この美女が、誰より自分を想ってくれていることくらい、知っている。
 りかには、二人がどれだけ同じ時を一緒に過ごしてきたか、他人に入り込める隙がないか、自信があった。

 だからこそ、試したくなるのだ。

 彼女がりかのわがままをどこまで許してくれるものか、りかが機嫌を斜めにすれば、ちゃんと慌ててくれるものか、その愛情を、計りたくなる。

 「りぃ」

 りかの耳に、メゾの声がしとやかに触れた。

 「昼のは、誤解」

 テーブルに置いた左手に、優しい右手が重なってきた。

 「ごめんね。りぃを心配させちゃったなら、ごめん」

 「すぐ……そうやって素直に……」

 「だって」

 りかの視界が塞がった。

 否、視界いっぱいに、妖美な顔が広がったのだ。

 優しい光を湛えた黒瑪瑙の瞳を囲う、垂れ目がちな双眸に、胸が落ち着かなくなる。

 「りぃが、好きだし」

 「…──っ」

 「可愛い子は、可愛いよ。触りたくなるし、ぎゅってしてみたくなる。特に年下の健気な子はね、なんかもう、いてるだけで誘惑。どうして良いか分かんなくなって、放っておけなくなるな……けど」

 りかの、華やかにデコレーションした付け爪で飾った指と指の隙間に、彼女のそれが割り込んできた。

 「いつも、言ってるじゃない」

 「あ……あんなの、本気にする奴がどこに!」

 「してよ」

 「──……」

 「りぃが淋しくなるなら、私の所為。貴女のために私はいるんだよ。貴女のための私じゃなくなったら、いる理由、ないし」

 すっかりペースを狂わされた。

 りかが、ただただ切ないような苦しみに胸が苦しめられる気がしていると、首筋にそっとキスが触れてきた。

 「ほんとに許せないなら、私のこと、りぃの好きにして」

 いっそ殺して。

 それは、りかが傷付くことを何より怖れる彼女自身、言葉に出来ない言の葉だ。

 それでも、りかに聞こえた。

 ああ、こんなにも、強烈な愛で生涯を委ねてくれている。
 そしてりかも、同じ深さで彼女を愛し、永遠のつがいであろうと願っているのだ。

 りかは憎まれ口を叩くはずだった唇を、恋人の指先に近付けた。

* * * * * * *

 花雁の手がけた最新の頁に目を通して、三日が過ぎた。

 汀は、塔の中で傷を舐め合うように愛し合う、謎めいた二人の女達の挿し絵を完成させた。
 そうして、それを真鈴に手渡すために、彼女に約束を取りつけた。

 その夕刻、思いがけない話が上がった。

 『小野寺花雁に会ってみない?』

 汀は半ば不可抗力になすがままにされるようにして、頷いていた。断る理由もなかったからだ。

 そうと決まれば話は早い。

 汀は真鈴に原稿を手渡したその足で、花雁が一人暮らししているというマンションの個室を訊ねることとなっていた。

 かくて今、汀は、真鈴に手渡された地図を片手に、その扉の前に立っていた。

 真鈴が、予め花雁に連絡を入れてくれたらしい。だから汀がチャイムを押すのに、別段、肩に力を入れねばならないこともない。
 それでも、一呼吸、二呼吸置いて、改めて、背筋を伸ばす。

 それからやはり思い直す。

 たかがチャイム、されどチャイムだ。ただ押せば良いだけのものだ。

 汀は努めて冷静に、仕事の仲間のライターを呼んだ。







 小野寺花雁は、あの、ファッション誌には些か不似合いなロマンスのヒロインに、そっくりだった。

 謎の美女、うさぎだ。

 汀は花雁が出てきた途端、うっかり現実と架空の狭間に迷い込んだかと錯覚した。

 もっとも、うさぎの挿し絵は、汀の想像で補っているところもある。花雁が、本当にうさぎを自身に重ねているかどうかは判りかねる。
 が、少なくとも、花雁の黒い巻き毛に華やかな白装束をしているという特徴は、そっくりそのまま共通していた。ついでに彼女は、形の良い目許に意思の強そうな黒い眼(まなこ)の持ち主でもあった。

 汀は、マンションの個室にしては重厚な装飾がなされた花雁の部屋にいた。
 花雁の淹れてくれたフレバードティーを味わいながら、自己紹介から始まって、彼女ととりとめない情報を交わしていた。

 「ふぅん。偶然!高校が同じだったんですね。汀さんは二学年上だったから……はぅ……共通点なかったんだぁ……」

 「部活していたから、一年の子とも関わり合ったけどね。花雁ちゃんは、なんかやってた?」

 「うーん……えっとぉ……」

 「さてはそんなに昔のことじゃないのに、もう曖昧?」

 「えへへ。あ!汀さんみたいに綺麗な先輩がいらっしゃったのは、覚えています。そういうゆるふわな人じゃなかったんですけど、美人で格好良くて……」

 「好きだったんだ?」

 花雁が豪奢に広がった姫袖で、頬を隠した。
  
 「私は……別に……」

 いつまでも耳の奥に残しておきたい、可憐なソプラノの声だ。
 汀は、花雁のこの声を、昔どこかで聞いていた。
 もっともその記憶は朧気だ。現実でのことかも、架空の中でのことなのかも、思い出せない。

 「うさぎとルーア」

 「え……」

 「あの話、意味分かんないですよね」

 「あ、まぁ。それはまだ……」

 扇状に広がった白い姫袖が、ふわりと落ちた。

 花雁の白い指先が、湯気をなくしたカップをもてあそぶ。

 彼女は、何を話し出そうとしているのだ?

 花雁が、力ないような笑みをこぼした。

* * * * * * *

 花雁が手がけている小説は、彼女の他に、誰もまだその結末を知らない。結末は疎か登場人物らが何者かすら、知られていない。

 あれは、謎に包まれたロマンスだ。

 それなのに、汀は未知のそれに耳を傾けていた。

 花雁の話して聞かせてくれる彼女の世界を、聞いていた。

 「うさぎとルーアは、罪を犯したんです。塔のある森に入ったより前、二人がまだ、人の世界にいた頃……罪悪感と名の付く罪を、犯しました」

 「それが、二人のなくした本当の記憶?」

 花雁が頷く。

 「うさぎはルーアが好きでした。愛してました。完全に片想いでしたけど」

 「外にいた時から、顔、知り合ってたの?」

 「分かりません」

 「──……」

 「報われない恋だと分かっていたから、うさぎは、ルーアに声をかけたりしませんでした。だから、外で二人が接触していたかどうかは、読者さん達に、最後までご想像願いたいんです。ただ、うさぎは、ルーアと夢の中だけでも愛し合いたくて……白昼夢を啄むみたいに、彼女を想って、自分で自分を抱いていました。真昼の森で、彼女の姿を、声を、指先を想って……。愛する女性を、自慰のおかずにしていました」

 花雁が何故、物語を種明かししてくれる気になったのか。

 汀には分からない。

 その挿し絵を手がけているのが汀だからか、それとも別に理由があるのか。

 どちらにせよ、痛い。

 架空のヒロインであるはずのうさぎの想いが、花雁を通じて、汀に流れ込んでくる。

 「うさぎはルーアに、幻の中で抱かれてたんだ」

 花雁がやはり頷いた。

 「そして、ルーアは」

 「──……」

 汀は硬質な光を帯びた瞳に、まっすぐ、捕らえられた。

 心臓が嫌な音を立てていた。

 得も言われぬ胸騒ぎを追い払えない。

 「うさぎの最愛の人は、血の繋がった妹を」

 「…──!!」

 「同じ血肉を分け合った妹を、生涯の伴侶と決めていました」

 霧のかかった意識の中に、刃の如く天使の声が、確かに聞こえた。

 「花雁……」

 貴女は、何者だ?

 口を開きかけて、やめた。

 もつれていた何かがすっとほどけて、はっとしたのだ。

 小野寺花雁。

 汀は彼女を知っていた。

 何故、この名前を、今の今まで忘れていたのか。

 汀は花雁が誰かということより、今度は自分で自分が分からなくなる。

 「白堀さん。……いいえ、白堀先輩」

 花雁の泣きそうな面差しが、笑顔で歪む。

 「私、同じ美術部だったんですよ。あの頃、私、貴女にずっと憧れていました」

 「花雁ちゃん……」

 「私の同級生が……先輩の妹さんが、恋敵だと分かったから……諦めました」

 「──……」

 「代わりに」

 白昼夢を望むようになりました。

 花雁が、ワンピースの裾をぎゅっと握った。

 「卒業して何年か経って、『フルール』で、白堀先輩の絵によく似たイラストを見かけました。名前を見ると、やっぱり同じでしたから。先輩の近くにいきたくて……ライターに応募したんです。先輩に、私の白昼夢を見て欲しい、描いて欲しいって、思ったから」

 「じゃあ」

 「うさぎは、もう一人の私です」

 汀の手に、柔らかなレースのたゆたう提灯袖から伸びた手が、重なってきた。

 「夢の中の先輩は、私を淋しがらせない。私を独占してくれて、あんな風に、優しく抱いてくれるんです。死んじゃうんじゃないかって思うくらい、私を閉じ込めて、離してくれないんです。愛おしくて、優しくて、とっても大事にしてくれる。今は、皇子様みたいなお洋服はお召しにならないんですか?あの頃の先輩は、ルーアみたいな人だったから……書き直さなくちゃ、いけないでしょうか……」

 無茶苦茶だ。否、むしろ花雁の妄想癖に、尊敬の念さえ抱くべきか?

 客観的に聞いていれば呆れるだろうに、切ないような気がしてならない。

 汀には、花雁の手を振り払えない。

 「ううん、花雁ちゃん」

 汀は花雁に膝を寄せる。

 二人の距離が、不可抗力に操られるようにして、少しずつ、縮まってゆく。

 「洋服は、書き直さないで」

 りかと一緒にいる時を除けば、あの洋服は着なかった。

 汀の皇子の出で立ちは、割と街で見かけられがちだが、それでもりかと歩く時しか、あれだけめかし込むことはない。
 多分、皇子は汀の正装だからだ。最愛の女性の前では、誰だって、特別に最高の自分でありたいものだ。

 だのに汀は、今、仔兎の見る白昼夢の中でも、あの姿でいたいと願っている。

 「私はうさぎです」

 「うさぎ……」

 「先輩を笑顔にしてくれる人間は、りかさんだから、私はうさぎでいたいんです。うさぎは、ルーアに……永遠の愛まで欲しいと望まなかったんだと思います」

 彼女が実妹を愛していても、その幸せを、本当に本当に願っていたから。

 花雁がはにかむように微笑んだ。

 ああ、罪より深い罪の味に魅せられる。

 汀は、花雁のやんわり重なっていた片手を引き寄せた。

 「恋人は、りかだけ」

 「知っています」

 「けど、仔兎は……欲しい気がしていたところ」

 「愛玩用でも飼い殺しでも、何にでもなりたいです」

 危険な甘ったるいものを包み隠した、毒花の匂いが鼻を掠めた。







──fin.
妖精カテドラル