そこは郊外にひっそりとある、ある大学の講義室の一室だ。
白熱灯が弱いのか、広々としていながらやや小暗いそこは、侘びしいほどしんとしていて、長机とテーブルが規則正しく並べてあった。未だ校内に残っている学生達のざわめきが、どこからか微かに響いてきていた。
その、いかにも放課後のムードのたなびく講義室の隅っこで、二人の少女達が語らっていた。
一方は下級生、もう一方は上級生と見える少女らは、別段砕けた仲ではない風だ。ただ互いに顔だけは知っていて、言葉を交わしたのはこれが初めてのようだ。
下級生の少女の方は、チェリーピンクの巻き毛を腰まで伸ばして、頭の天辺からつま先まで、華やかなフリルやレース、リボンで飾りたてていた。少女のくっきりした目許、そして柔らかな曲線を湛えた頬には薄紅色のシャドー、チークが刷いてあり、さして背丈もない成熟した女性のそれとは無縁な肢体は、ピンク色のロリィタ服をまとっている所以、いっそう線を失くしていた。
一方、上級生の少女の方は、栗色の髪を後頭部でラフなシニヨンに結い上げて、耳にはスワロフスキーのシンプルなピアス、柔らかな素材の淡い碧のチュニックに花柄の入った白いレギンスを合わせるという、いかにも今風の風貌をしていた。きちんと化粧した面差しは、ことに派手というわけではなく、一重の目許に小さな鼻、薄い唇が、清楚で端整とれた顔立ちにすっと馴染んでいた。
『ほんと、よく会うね。辻生さんとあたし。前期なんて三つも被ってなかった?』
『そ、です……ね。うちの学校は学年ごちゃ混ぜの講義がたくさんありますから、他でも被っていたかも知れません』
『ね、昨年、国際交流学とってた?うちの学科と英語科対象だったやつ』
『とってました!寝坊しまくっちゃって、単位落としました』
『それでかぁ。ピンクの妖精さんいた気はしてたんだけど、その割には自信なかったし。あんまり出てなかったんだね』
パステルミントの少女の一重の目許が、納得、と言わんばかりに笑った。
その、稀に見るような美少女を映した薄紅に映えるもう一方の少女の黒目は、心なしか濡れた煌めきを帯びていた。生来どこもかしこも苺やさくらんぼの蜜を滴らせたような柔肌が、いっそう羞じらいの色に染まる。
恋など知らない無邪気な少女の喉元は、全身を締めつけてくる原因不明の力によって、今に限界に達しようとしていた。まだまだ春は遠いのに、ブラウスがしっとりするほど汗ばんでいた。
目前にいる上級生を、それまでにも何度か見かけていたし、彼女の容姿が人並み外れてはっとするほどのものとも認識していた。しかし今日、こうして話しかけられて、いざその双眸に見つめられて、言葉をとり交わしている内に、いよいよ彼女がただの美人ではなくなったのだ。
一目惚れだ。
ピンク色をまとった少女は、目前の上級生の表情に、声に、言葉に、仕草に、まるで何かの暗示にかかったようにどきどきしていた。
『まじで可愛い。ごめんね?いきなり話しかけちゃって』
『いえっ……こちらこそ……』
少女の、濃淡の小花を寄せたブーケを模したキャノティエを被せた頭が、しずしず俯く。
『先輩みたいな綺麗な人に、お声をかけていただくなんて……』
甘酸っぱい果実に触れて、涙を落としそうな双眸が、しなやかな左手を盗み見る。
上級生の薬指に、リングはない。それだけで恋人の有無を断定出来るはずないないのに、ほんの少し安堵する。
ファーストネームを知りたい。勉学とは関係ない、共通の話題を探したい。あわよくばアドレスを交換したい。今日、この後一緒に帰りたい。
欲求だけは頭の中をぐるぐる回る。
だのに、唇が、思い通りに動いてくれない。
少女は、結局、物足りない感じを残しながら、いっぱいになった胸を庇って、上級生を見送った。
「…──っ!!」
心地好いような揺れがいきなり止まって目が覚めた。
辻生さきら(つじおさきら)は、ともすれば心臓がひっくり返りかねない焦りにせき立てられて、辺りを見回す。
土曜日の朝の電車は、心なしか陽気な空気が立ちこめている。さきらのように通勤中と思しき男女がちらほら見える車内は、これからどこかへ出かけるのだろう家族連れや、早くも二人きりの世界に浸りきっているカップルと見える二人連れ、開放感溢れる学生グループが、ことに目立つ。
たった今まで浅い眠りの中で見ていた夢の余韻が薄れるより先に、出入り口の扉の上部に備えつけてあるデジタル画面を確かめると、見慣れた駅名が出ていた。シートの揺れが止んだのは、電車が信号に引っかかっただけで、寝過ごしたのではなかったようだ。
さきらは、ほっと胸を撫で下ろす。
とても懐かしい夢を見た。
あれはもう四年も前のことだ。
さきらが大学生だった頃、今よりもう少し寒かった時期、二月に入ってすぐではなかったか。
よく同じ講義で顔を合わせていた上級生がいて、ある時、彼女が声をかけてきてくれたのだ。さきらは、それまで件の上級生を、ありふれた美人としか認識していなかったのに、あの放課後の一件以来、彼女を近くに感じるだけで、とてつもなく胸が忙しなくなるようになったものだ。
思えばあれが初恋だった。
もっとも、あれから彼女が卒業していくまでの一年間、とうとう顔を合わせても挨拶する程度の仲を超えられなかったという、何とも虚しい初恋だった。
さきらは、あの頃から変わらず長く伸ばしているチェリーピンクの巻き毛を、軽く手櫛で整えた。丸みのあるリボンがふんだんにあしらってある、ラメワッフル素材で出来たコートの下も、やはりあの頃から変わらない、大好きなメゾンのロリィタ服でまとめていた。
卒業と同時に、かねてから贔屓にしていたメゾンに入社して、直営店で現場スタッフとして働いて二年が経つ。それでサービス業のつきものと言うべきか、この通り土日祝日はほぼ出勤させられていたのだ。
程なくして、今度こそ電車が降りるべき駅に停まった。
さきらがホームに降り立って、階段のある方角に足を向けたまさにその時、後ろから、誰かが思いきりぶつかってきた。
「ひゃぅっ」
不可抗力に絡め捕られて、その場に転びそうになる。
「ごめんなさいっ」
ソプラノともメゾともつかない優しい声が耳に触れてきて、左肩と右腕が、誰かにぐいと引き寄せられた。
さきらは、顔も知らない声の主と思しき誰かの胸に収まって、コートの袖があっても分かる、細い腕に抱き締められていた。
「あ、あの……」
「ごめんなさい、ぼぅっとしていて……大丈夫でしたか?」
また、さっきの優しい声だ。女性の色香と少女の無邪気さが絶妙に調和しているこの声は、どこかで聞いたことがある。
腕がすっとほどけていった。
さきらはおずおず振り返る。
とうとう相手と目が合って、心臓がどきんと跳ねた。
「…──!!」
胸が隠れるくらいの栗色の髪に清楚な面差し、きちんと化粧したその顔立ちは、とりわけぱっとしている風でもないのに、一度見れば忘れない。一重の目許に小さな鼻に、薄い唇、そして緻密な計算によって生まれたドールのそれを彷彿とする輪郭が、妙なるバランスをとっていて、青いシャツの襟がちらと覗く白いコートによく映る。
夢でまみえた上級生だ。
「辻生、さん……?」
覚えてもらっていた。
さきらは胸が踊り出すのを堪えて、努めて落ち着く。
「辻生さきらです。先輩の一年下で、よく講義が被ってて……えと……」
「茉子」
「え?」
「丘咲茉子(おかざきまつこ)。名前教えてなかったでしょ」
夢の続きでまみえた少女が、否、茉子と名乗る現実の女性が、あの頃と変わらない笑みをこぼした。
丘咲茉子。
そんな名前だったのか。
さきらは、茉子と今の今まで互いに苗字しか知らなかったという状況に、若干へんてこな感じがしながら、その世界一美しいような名前を胸にそっと刻み込む。
さきらと、おそらく茉子も乗っていたのだろう電車は、とっくに次の駅に向かっていた。他の乗客も既にホームを出ていった後のようで、辺りはまばらに人が見えるだけだ。
「お出かけ?相変わらず可愛ーい」
「仕事です。……私、ここに入ったんです。卒業後」
さきらはふわふわのウサギ型ショルダーバッグに隠れたブランドタグをつまんで、茉子に見える角度に持っていく。
「あは、似合ってる。辻生さんらしい。んー、でも、今からお仕事なら声かけたのまずかったかな」
「いいえっ!十一時に店を開ければちょうどですし、ここから店まで十分です」
「そんなに?!やっぱり、お茶くらい出来たらなぁって思ったのに、甘かったか」
「お、おっ、お……?!!」
お茶?!
声が上手く言葉にならない。
さきらは茉子がおもむろに眉を下げているのを前にして、思いがけないサプライズに打ち顫えていた。
あの思い出の上級生と、二度と会えないと諦めていた。
それなのに、さきらは今、さっき久しく見た昔の夢が神様のくれた暗示だったのではないかと考えずにはいられないような状況にいる。彼女、茉子と再会したばかりか、彼女にお茶に誘ってもらえるチャンスが目前に転がっているのだ。
「大丈夫です!」
さきらは半ば無意識に、両手を胸の前で組んでいた。
「先輩とお話ししたいです。なので、改札出たら、今日お休みすることを店に連絡しますから、少しお時間いただけませんか?」
「まじ?!良いの?」
「うちスタッフは多いので、特に店長はこの近くに住んでいますから、誰かが代わりに出勤してくれると思います」
もっとも、開店時間までおよそ三十分ほどしかない。遠方に住んでいる同期や後輩より、店舗責任者の東倉榛乃(とうくらはるの)に当たるのが得策だろう。
茉子がくすりと相好を崩した。
「辻生さん、それなら今日は一日空くんだ?」
「仮病……使いますので、休むしか……」
「やった!」
さきらはきょとんと首を傾げる。
ただお茶をするだけなのに、さきらの予定が一日空いて、茉子のどんな得になる?
「あのさ、辻生さん」
「はい」
「再会していきなりこんな不躾なお願いして悪いんだけど、気を悪くしないで聞いてくれない?」
「お願いですか?」
さきらは茉子と肩を並べて、とにもかくにも歩き出す。
改札口は階段を上がってすぐのところにある。いつもなら億劫な階段も、今日は愉快だ。
茉子の甘い吐息をまとった唇が、再三、動き出す。
「実はあたし、今日、友達と女の子ナンパしようって約束してたの」
「な、な、な……!!」
「あっ、別に、しつこい迷惑行為しようってわけじゃなくてね、他人様に迷惑はかけないし、敬語はちゃんと使って話すし、そんなチャラく……、チャラいか。とにかくナンパしようって約束してたの」
「──……」
意外だ。
さきらの中で、この初恋の上級生のイメージに、いかにしてもナンパという愛の押し売り行為が結びつかない。一方で、茉子の目に留まる少女がどんな人なのかと思うと、羨ましくて妬ましくて、いっそさきらが彼女の標的になりたくなる。
「あの、ナンパ……頑張って下さい……」
ふと、心なしか、茉子をとり巻く空気が変わった。
「いや、それ、やめることにした」
「え……?」
「辻生さん連れて行きたい。で、あたしは友達がナンパするのを手伝うだけ」
「──……」
「ダメ?恋人、怒る?あたしと合コンみたいなことするのいや?」
茉子が憂いを湛えた双眸を向けてきた。
何だ?この棚からぼた餅は。
さきらは激しく首を横に振る。
「私、今フリーです!行きたいです!先輩と、お友達さんと、お友達さんの彼女候補さんと、一緒に遊びに行きたいです!」
二つ返事で拳を握ると、改札口が見えてきた。
* * * * * *
さきらは無事、榛乃に連絡をつけた。
日頃から面倒見の良い店舗責任者は、案の定、さきらがまるで重病にでもかかったように心配してくれた。温かくして寝ろだの、食欲がなくても水分だけはしっかり摂れだの、榛乃のまごころ溢れる言葉を耳にしていると、さすがに胸が痛んだものだが、とにもかくにも仮病は成功、晴れて茉子とのデートが始まった。
茉子は、あの駅でさきらに出会えて良かったと言って、喜色を見せてくれた。それというのも、さきらが榛乃に電話した後、茉子の携帯電話に今日彼女とナンパ行為を計画していた友人からメールが入っていたらしく、急な仕事で抜けられなくなったというのだ。
かくて今、さきらは茉子と、あの駅から徒歩五分ほど先にあるカフェに落ち着いていた。
さきらはココアを、茉子はロイヤルミルクティーを味わいながら、互いに遅ればせながらの自己紹介をしていた。
「ふぅん、茉子先輩はご卒業されてから、塾の事務員をされてるんですねぇ」
「事務って言っても、もう接客。受験生の親が殴り込みとかに来るんだけどね、あたし達に言わないで講師に文句つけろっての」
「分かります!私も可愛いお洋服着て可愛らしいものに囲まれて……って、入社前は夢いっぱいだったのに、いざ入ったらお洋服のプリントの色味に対するクレームまで、こっちに来たりするんですぅ」
「聞いたことある」
「えっ?」
「今朝話していた友達ね、確か辻生さんみたいな系統のお店に務めていて、彼女も仕様のクレームは困るとか愚痴ってたなぁって」
「あわわわ、茉子先輩のお友達さんって、私顔見知りかも知れないってことですか?!」
「社名は忘れちゃったから、断言出来ないけど。あるオフ会で知り合ったばかりの子で、彼女のことまだあんまり知らないし、辻生さんみたく可愛いロリィタちゃんじゃなくって、ダークなゴシック皇子だし」
「うーん……うち、ゴシックや皇子もあるんですよねぇ……でも、そんな偶然ありませんね!こういうメゾンなんて、星の数ほどありますし」
さきらは笑って、冷めたココアを喉に流し込む。
軽らかな甘みのあるカカオの味は、美味しいのかただ甘いだけなのか、判らない。
さきらは、夢にも思わなかったひとときが幸せすぎて、それとは裏腹、いかにしても緊張していた。今に頭の中が真っ白になりかねない。ともすれば五感が鈍らされていく感覚があった。
ありふれたチェーン店のココアの味は、特別な風味が胸に残った。
さきらは茉子とカフェでたっぷり会話を楽しんだ後、ショッピングモールを廻って雑貨を見たり、滅多にしないUFOキャッチャーで色違いのぬいぐるみを獲った。
さきらも茉子も好きな色はもちろん違うし、興味を惹かれるものも違う。されどさきらは茉子の見るもの話すものが、それまで縁のなかったものでもとても美しく思えて、彼女の眼差し、声、空気を感じながら歩く街は、知り尽くしているはずの場所でありながら、まるで違った楽園のような光があった。
昼下がりにケーキを食べて、その後に立ち寄ったウサギカフェがあまりに人でごった返していたものだから、愛くるしい小動物と満足に戯れる前に人間に酔った。そうして陽も傾きつつある頃、何となく音楽の話題で盛り上がった勢いで、二人、カラオケに移動した。
さきらは茉子と、薄暗い密室のソファに落ち着いていた。
何の変哲もないカラオケルームは、それまでにも何度か訪ねた場所なのに、今日は、やたらとふしだらな空想にいざなわれる。
茉子が先頭で歌ってさきらが歌った。それから茉子にマイクを回して、また、さきらが歌うという順番で、今、茉子が三曲目を歌っている。
いつまでも聞いていたくなる声だ。
茉子のとりわけ澄んではいないソプラノは、だからこそ高いトーンがどこまでも出るわけではなく音によっては少し掠れるところがあって、そこに得も言われぬ色気があって、低い旋律は優しい温かみが籠もる。音程は完璧だ。
茉子の歌は、テレビや街で屡々耳にするものばかりなのに、贔屓目か、歌手本人が歌っているよりうっとりする。
ありきたりな恋の歌は、しかしこんなに胸を打たれるものだったろうか?
また、一曲、バラードが終わった。
「どうぞ、辻生さん」
さきらの前にマイクが置かれて、茉子が隣に腰を下ろした。
次の曲は決めていない。
茉子の声に夢中になっていたからでもあるし、考え事をしていたからでもある。
これはデートだ。今朝の茉子の話が本当なら、さきらは彼女の恋人候補としてここにいる。
さきらは、まだ、この初恋の女性の恋人候補でいられているのか?
「茉子先輩の声が……好きで、ぼんやりしちゃってました……」
さきらが茉子をちらと見ると、優しい双眸と目が合った。
「茉子先輩は、女の子をナンパとか、よくされるんですか?」
知りたいようで知りたくない。
されど探らずにはいられない真実(こたえ)を求めて、さきらは茉子をじっと見る。
さきらは、茉子の初めてのデートの相手ではないだろう。茉子が恋人と呼んだ少女は、過去に何人いたかも分からない。
それでも知りたい。茉子を識って、彼女の人生の一部になりたい。
「辻生さん、その話だけどさ」
綺麗な面差しがほんの少し迫ってきて、さきらの腕に、茉子の手が重なってくる。
「ナンパは、あたし、これが──」
その時、もとより静かではなかった密室に、いきなり調子の外れた機械音が鳴り出した。
さきらはテーブルに置いた携帯電話をちらと見る。
軽快なメロディを奏でながら、ピンク色の機体の着信ランプが点滅していた。
「…………」
「──……」
「着信、じゃない?」
「…………」
茉子が遠慮がちにさきらの携帯電話に目を遣った。
さきらが憂わしい気持ちで携帯電話を耳にあてると、今朝、家で別れた以来の母親の声が聞こえてきた。
* * * * * * *
さきらは母親の用件を耳にするなり、カラオケルームを飛び出した。
話によると、一人の客人がたった今、さきらを訪ねて家に見えたという。誰かと問えば、勤務先のあの店舗責任者、榛乃だという答えが返ってきたのだから寝耳に水だ。
榛乃は、病床にいるはずのさきらを心配して、店を他のスタッフらに任せて、見舞いに訪ねてくれたらしいのだ。
さきらは茉子に付き添われて、夜の人混みを縫っていった。
そうして、今朝茉子と再会したあの駅から電車に乗って、通勤路をそっくりそのまま引き返して、家路についた。
すっかり暗くなった夜の道は、ひときわ寒い。
さきらは自宅の最寄り駅から徒歩五分の道のりが、こんなにも足が重くなるものだとは、今日まで思いもしなかった。
さきらは自宅に帰り着くなり、一目散に私室に飛んでいった。
そうして見慣れた扉を開けると、さきらの、いかにも可愛らしいものを愛でる乙女の住まうに相応しいような部屋の中、奢侈な漆黒の皇子服で身を固めた貴公子が一人、寝台に落ち着いていた。
貴公子もとい榛乃の、肩にかかるほどのシャギーの金髪をさらりと下ろした面差しは、ふんわりした印象がありながら、目許や唇はクールな塩梅に締まっていて、どことなく婀娜っぽい。
「あぅ、えと、あの……」
「お帰り、辻生ちゃん」
榛乃がにっこり笑ってくれた。拍子抜けするほどいつもの彼女だ。
さきらは、されど未だ狼の群に放り込まれた小動物にでもなった気持ちで、おずおず部屋に入っていく。コートを吊して、バッグを置いて、茉子の荷物も預かるべく彼女に振り向いた。
「茉子先輩、コートお預かりします」
「そういうことだったんだ」
メゾの声が吐息を連れて、寝台から割り入ってきた。
さきらはやにわに肩が竦んだ。
やはり榛乃に咎められるか。
減給だけならまだ良いが、本社にいる会長や社長の御前にだけは、引きずり出されたくない。欠勤の理由を偽ったのはさきらの意思だし、もう言い訳の余地もないと分かっていながら、いかにしても起死回生の機会を探してしまう。
「榛乃」
茉子が、やけに落ち着いた声音で榛乃を呼んだ。
さきらの勤務先の店舗責任者の名前を呼んだ。
…──呼んだ。
「って、ぇええええ?!!お、お、お知り合いですか?!!」
さきらは物凄いスピードで、茉子と榛乃を交互に見る。
二人共、今のさきらの絶叫に呆気にとられたように瞠目していた。
「友達。今朝あたしが辻生さんに話していた友達、彼女なの。こんな偶然あったんだ、ね」
「ともかく、辻生ちゃんが重病じゃなくて安心したよ。お粥の素は無駄になっちゃったけど」
榛乃がボストンバッグから、お粥の素やら体温計やら、何故か野ウサギの写真集やらを次々引っ張り出していく。ついには白薔薇のブリザードフラワーまで出てきた。
「…………」
「あの、東倉店長。本当にすみませんでした」
さきらは、今更になって榛乃の優しさが身に染みる。
榛乃が見舞いに関係ないような写真集やらぬいぐるみやらをバッグに詰めていたのは、多分、さきらが病床で退屈しているだろうと思い遣ってくれていたからだ。
「もう良いよ」
「──……」
「でも辻生ちゃん。二つだけ、君の悪いところを言っとく」
「……慎んでお聞きします」
「茉子のことは名前で呼んで、何で私とは二年の付き合いなのに、苗字なわけ?」
「…………」
「──……」
「…──はい?!」
「あとこれ大事。私、今日ほんとは茉子と美女でもナンパして、予定では今頃、彼女が出来てたんだ。辻生ちゃんの所為でパー」
「その件につきましては、後日、私が店長の代理でどこか出勤をしま──」
「無駄」
榛乃が寝台の枕元からウサギのぬいぐるみを抱き上げて、まるで恋人を見つめるような眼差しを、ふわふわの彼女に注ぎ込む。それからその、さきらがいつも抱擁や愛撫を施している小さなウサギの口許に、軽くキスをした。
「榛乃!」
茉子が寝台に走り寄って、榛乃からぬいぐるみを取り上げた。
「辻生さんのウサギちゃんにセクハラしないで」
「茉子に指図されたくない。君がナンパしたのが辻生ちゃんだった所為で、私の人生、半分灰色」
「半分だけで良かった」
「もうじき真っ黒。私は彼女を気に入ってる。第一、見返りがなくちゃ、スタッフが熱出したくらいで見舞いに行かない。お粥や写真集も準備しない」
「…………」
「辻生ちゃん」
「はっ、はい!」
さきらはまるで授業中にいきなり当てられた生徒の如く、反射的に背筋を伸ばす。
「辻生ちゃんは、今、この時点で、茉子と付き合ってはいないよね?」
「正式には……まだ……」
「じゃ、明後日は私とデートしよう」
「「はい?!」」
「今日のはどう考えても茉子がフェア。辻生ちゃんが私と明後日デートして、それから二人の内どっちを選ぶか決めるなら、今日のサボリは会長や社長に黙っててあげる」
「榛乃が辻生さんをクビにしても、彼女は私が引き取ります」
「私も辻生ちゃんがクビになっても、彼女を引き取って養う」
「──……」
さきらは、茉子と榛乃の間で飛び散る火花に面食らっていた。
やはり棚からぼた餅か?それともさきらは、二十歳になるまで初恋も知らなかったくせに、人生初のモテ期を迎えたのか?
「分かった、茉子。赤ワインか白ワイン……辻生ちゃんはどっちが好きか、当てた方が勝ち」
「はい?!関係ないし。……白ワイン」
「白ワインは私が賭ける」
「…………」
「…………」
まずい。これではどちらとも交際出来ない。
さきらは筋金入りの下戸だ。
さきらは、榛乃がそれを覚えてくれていなかったというところをいつ突っ込めば良いものか、悩み出していた。
──fin.
妖精カテドラル