長らく離れていた土地は、あちらこちらかたちを変えて、道行く人々の顔触れも然りながら、やはりどこで見るそれらともまるで変わりのない春の色で染め上げられていた。こまやかなフリルをつけた薄紅の花が、天上を覆い尽くしている淡い青をした空に色を挿して、麗らかな日なたは、されど僅かな冷気の名残を引きずっていた。
相江まひる(あいえまひる)は、およそ六年振りに、この、都会でもなく田舎でもない故郷の土を踏んだ。
新しい風を感じたかった。
まひるは、かつてこの近くの専門学校で絵画を学んで、卒業後、およそ二年、母校で美術の教師をした後、六年前、遥々遠い地方に移って、以来、知人の店を手伝っていた。
田舎暮らしは悪くなかったが、あまりに穏やかな時の流れは、忘れるべきことまで忘れられなくなってしまうほど、無駄な余裕がありすぎた。絵のない毎日も、どこか物足りない、自分が自分でなくなってゆく空虚感が膨らんでゆく要素となった。
それでまひるは、卯月という、何となく世間が新しい生活に切り換えるような時期を計って、この地に帰ってきたのだ。
「お荷物、以上でお間違いございませんか?」
「有り難うございます。とっても丁寧で、助かりました」
「恐れ入ります。何かありましたら、事務局までお申し付け下さい」
まひるは、ここ、新居に選んだマンションの一室に、荷物を運び入れてくれていた引っ越し業者の従業員らの一人から、名刺を受け取る。
「お支払いは後日、用紙をお送りします。私共はこれで失礼いたします」
「分かりました。そうだ、これ……良かったら飲んで下さい」
「有り難うございます」
「お気を付けて」
まひるが従業員らにお茶の入ったペットボトルを礼に渡すと、全員、ぞろぞろと帰路に向かった。
賑やかだった玄関が、急に静寂に包まれていった。
時刻は午後三時を回ったところだ。
生活感のない部屋は、空っぽの家具が並んだ側に、段ボール箱が積み上げられているだけで、極めて殺風景だ。これから掃除と、そして荷物の整理という大仕事が待っている。
「──……」
まひるは卓袱台の側にくずおれるように腰を下ろした。
塗装したばかりのセメントを聯想する匂いに混じって、懐かしいような風が鼻を掠めた。
ベランダに続いているガラス戸に目を遣ると、満開の桜並木が頭を覗かせているのが見えた。
* * * * * * *
苫居千理子(とまいちりこ)が住み慣れたマンションの部屋の扉を開けると、同居人の蓮浦碧葉(はすうらあおば)が先に帰り着いていた。
碧葉は千理子と同じ会社の上司で、六年前、入社してすぐ親しくなった、四歳年上の美女だ。きめこまやかな素肌にもっちりとしていながら締まった体躯、あえかな目許は悩ましげな眼差しを振り撒いて、腰にまで届くウェーブの黒髪は、傷み一つない。おまけにその身のこなしときたら、ことごとく婀娜っぽいものだから、日常会話をしているだけで、誘惑されているような錯覚に駆られることもなきにしもあらずだ。
千理子は碧葉と、節約のためにルームシェアを始めたものの、あまりに意気が合うために、屡々、同棲だろうと冷やかされていた。
「お帰り。残業が長引くなんて、千理子も偉くなったわね」
「ノルマをこなすのが不器用なだけ。先輩はきびきびしていて、お見逸れするわ」
「私は、要領が良いだけよ。狡賢いの」
千理子がトレンチコートを壁際に吊して振り向くと、妖艶な美女が食卓の準備を進めていた。卓袱台に味噌汁やら煮物やらを盛った食器を並べていくその様は、やはり今し方彼女が口にした謙遜が、本心とはとり難い。
千理子と碧葉の勤め先は、洋服やインテリアの通信販売の事業をしている商事会社だ。二人は販売促進部にいて、主にオペレーターに携わっているのだが、碧葉の電話営業は神業だ。
「お待たせ。お茶温める?冷えたまま?」
「温かいのが良いな」
「了解」
千理子は定位置に座って、碧葉が回してくれた電子レンジが止まるのを待つ。
こういう光景が、ルームシェアをしている人間同士のそれらしくないのかも知れない。
一人暮らしの女性や学生が多くを占めるマンションだけに、完全に自分だけの空間を確保することは難しい部屋だし、やむを得ないところはある。されど千理子は、碧葉と四六時中一緒にいて居心地好いし、窮屈な思いをしたことはない。
「もうすぐ六年かぁ……。お姉様と一緒に暮らして」
「うふふ。記念日、何かやっちゃう?」
「恋人じゃないんだよー」
千理子は、何となくくすぐったくなったのを振り払うようにして、わざとらしく頬を膨らませる。
碧葉とは恋人と呼び合う関係ではない。エスでもない。
千理子が碧葉を「お姉様」と呼んでいるのは、遠すぎず近すぎない距離を保つのに、最もしっくりきたからだ。
「今日、お隣に新入りさんが引っ越してきたらしいわよ」
千理子は熱々のお茶を受け取って、碧葉が向かい側に落ち着くと、料理に向かって手を合わせる。
「新入りさん?」
「右隣、暫く空き家だったじゃない。夕方、明かりがついていたし、引っ越し業者が来た形跡あった」
「ふぅん」
別段、驚く話ではない。
千理子は温かい味噌汁に舌鼓を打って、大好きな大根を箸で摘む。
ただ、ふと、ある一人の女性の面影(かげ)が脳裏を過ぎった。
千理子の生涯から永遠に離れなかろう、かの女性との思い出に、ようやっと胸を抉られなくなったのは、多分、碧葉のお陰だ。碧葉が、一緒にいて、屈託のない態度で接してくれるから、ひとりぼっちにならずに済んだ。後悔も、自責も、せめて神様は許してくれる気になれた。
「女の人?」
「さぁ」
碧葉が優雅な動作で、白米に箸の先を沈めた。
「千理子好みの、格好良い美人なら良いわね」
お姉様も、十分、格好良い美人だ。
千理子は喉元まで出かけた本音を、すんでに堪えた。
* * * * * * *
六年前と変わらない、否、あの頃よりほんの少し侘びしくなったような空気を、それでも懐かしんでいると、ふっと、今日まで幾度となく押し寄せてきた感覚が、いっそう現実味を帯びて、神経にまとわりついてきた。
まひるはこの町を離れる以前、一人の少女と交際していた。
永遠に記憶を離れまいその少女とは、生まれ育ってきた環境も、見据えていたものもまるで違っていた。共通点を挙げるなら、歳が同じという点だけだったのに、出逢った瞬間、不可抗力に絡め捕られるようにして、のめり込んでいったのだ。
少女は大きな目に薄化粧した白い面差し、栗色のミディアムの髪をいつも編み込みにしていて、装いは、今で言うゆるふわスタイルというものだった。まひるは当時から黒や白のゴシックパンクスタイルを好んでいたし、長く伸ばしていた黒髪は、毛先だけ赤く染めていたという風貌だった。
そんな風に、見目からしてまるで違っていたものだから、何らかのミラクルの力でも働かなければ、永遠に出逢えさえしなかっただろう二人だった。
それでもまひるが、件の少女と顔を合わせるきっかけになったのは、偶然知った、カルチャースクールの体験レッスンだった。慣れない刺繍を習っていると、隣の席にいた彼女も悪戦苦闘していて、最終的に、二人して講師に手を焼かせたのを、今でも鮮やかに思い出せる。
何故、あんなにも彼女を愛していたのか。
理由はなかった。
まひるは、ただただそこに内在していた引力に、抗えなくなっていたのだ。そして、その恋に終止符が落ちてきた時も、そうならざるを得ない力になされるがままになっていたのだ。
「──……」
今日運び入れてもらった荷物は、半日かかって、三分の一ほど片づいた。少しは快適になった部屋を見渡せば、夕方、駅前で選んできた菓子折りの入った紙袋が目についた。
窓の外は真っ暗だ。挨拶に訪ねていくには、ちょうど良い頃合いかも知れない。
まひるは紙袋を持ち上げて、部屋の鍵を握った。
右隣の部屋から出てきた少女は、気さくな大学生だった。友人とパジャマパーティーをしていた最中だったようで、若干、互いに気まずかったが、まひるは無事、隣人の一方と挨拶を終えた。
そうして今度は左隣の部屋を訪ねていって、今、チャイムを鳴らしたところだ。
「はいはーい。どちら様?」
インターホンから返ってきた声は、不意打ちだった。
まひるは妖艶極まりない声に、穏やかならざる何かを感じた。
女性の声というものに、特別なこだわりがあるわけではないものの、今し方耳にしたメゾは、ひとたび聞けば胸に残る。そんな響きを孕んでいたのだ。
「今日引っ越してきました、相江と申します。ご挨拶に参りました」
「まぁ、それはわざわざどうも──」
錠の外れる音がして、開いた扉の向こうから、女性が出てきた。
「…──!!」
「…──っ」
まひるは女性と目が合うと、その瞬間、またもや得も言われぬ感覚が、身体を駆け巡っていく感覚がした。
互いに息を呑んだのは、気の所為ではない。
「あ……」
美人だ。
まひるは目前の女性に、無条件に圧倒されていた。
女性の切れ長の目許は自然な色香を帯びていて、まばゆいその面差しは、透き通るような柔肌に覆われている。小さな鼻筋はすっと通っていて、頬から顎にかけてのラインも絶妙だ、そして極めてシンプルなサーモンピンクのワンピースから覗いた肩は、妙なる線を描いていて、黒く艶やかなウェーブの黒髪が、目の遣り場に困るほど豊かな胸の谷間に、思わせぶりな影を落としている。年のほどは、見た感じ、三十を過ぎて間もないくらいか。
かよわさと包容力、玲瓏と妖美を兼ね備えた美女は、その美しい双眸を、もの言いたげに見開いていた。
「貴女……、名前、は?」
「え……」
「名前、何て、仰るの?」
まひるは得体の知れない胸騒ぎを覚えていた。
悩ましげな美声が、震えている?
「まひるです。……相江、まひる」
「──……」
「あの、良かったら、ご挨拶に持ってきました。お口に合えば──」
まひるは提げてきた紙袋を差し出して、はっとする。
数秒、妙な沈黙が流れていった中で、シャワーが床を打つ音が、はっきり聞こえた。
「不躾なことお伺いしますが、お二人で暮らされてるんですか?」
「ええ。会社の……その、後輩と」
「でしたら、また改めて伺います。お名前訊いてもよろしいですか?」
「蓮浦碧葉。ご丁寧に、……有り難う」
「蓮浦さんですね、よろしくお願いします。もうお一人は……」
「…………」
「ご一緒に暮らされてる方は、何て仰るんですか?」
まひるは紙袋が離れていくと、片手を下ろした。
碧葉と名乗る女性の顔が、みるみる青ざめていく。
気分でも悪いのか?
そこに触れるべきか否かたゆたっていると、ふと、トーションレースのあしらってある春物のショートブーツと、アイボリーのパラソルが、視界の端に触れた。
それらは、見るからに碧葉のものと思い難い。
「変なこと、訊いて良い?」
「はい、どのような?」
碧葉の指が、まひるの髪に触れてきた。
毛先を軽くすかした黒髪は、肩に触れないくらいの長さをキープしている直毛だ。それ故、しとやかなその指先に、さして絡みつくことはない。
「貴女、昔、髪、伸ばしていた?」
「それが……何か?」
もしやどこかで会ったことがあったのか。
まひるは碧葉の、六年前の自分を知っているかも知れない発言に、無言の肯定をした。
髪が、ふっとくすぐったさを失った。
「わざわざ来てくれて有り難う。ご面倒をかけたくないから、私の同居人には私から、貴女が来てくれたことを伝えておくわ」
それじゃ、と、扉が締まった。
まひるは碧葉に、言外にもう来るなと言い渡されたのだと覚った。
* * * * * * *
比較的人気(ひとけ)のまばらな土曜日、まひるは母校の門をくぐった。
久しく訪ねた女子校は、やはりそれだけの年月を実感出来るだけの変化が見られて、生徒や教師らは無論、校庭や校舎内の装いも、かつてと異なるところが多々あった。
まひるがここにいた時分、最も懇ろだった恩師は健在だった。
早いもので、二、三年後に定年を迎えるというこの物理教師は、昔と変わらない人情味溢れる笑顔で、再会を歓んでくれた。
彼女は、名前を菅原志都(すがわらしづ)という。
まひるは志都と談話室に落ち着いて、昔話に花を咲かせていた。
「本当に、懐かしいわぁ。貴女が生徒だった頃も先生になってからも、よく一緒に美術展に出かけていたわね」
「そうでしたね。三次元の専門家みたいな物理の先生が、二次元の広がりを愛でられてるなんて、初めはちょっと意外でしたが。けど、先生は絵に関する歴史的な知識も豊富で、色々勉強になりました」
「技術に関しては、今も貴女に敵わないわ」
「私、自己流の塊です」
「それで良いのよ。相江さんは美術部時代からコンクールを総嘗めしていて、専門学校在籍中も、あちこちのギャラリーや美術商から声がかかっていた。私は正直、貴女がどの企業も断って、教師の免許を取ったのには吃驚したわ」
「絵、そのものを生業にしたくなかったんです」
「今も、変わらず?」
「絵を売る人間になれば、なるべく多くのお客さんに求められるものを、描かなければいけなくなります。私は私の心をありのまま、キャンバスにしたためています。ですからもし、不特定多数の他人の想いを汲み取って、計算から編み出した世界を描き出すなら、私は自分自身を見失います」
真実を偽装してまで名声を得るなら、小さな世界に閉じこもっていた方が良い。同じものに興味を惹かれる生徒(なかま)達と馴れ合っている方が、ずっと生きた心地を得られる。
まひるはそれで教師になった。そして六年前、それとは全く別の問題に追い立てられて、この地を去った。
「相江さん」
少し冷めてきた番茶を啜っていると、嗄れていながら穏やかな声が耳に触れてきた。
「貴女がこの学校を離職したのは、地方にいる友人のお店を手伝うためだと言っていたわね?」
「そうですよ」
「苫野さんは、どうなさっているのかしら?」
「…──っ」
志都が、上品に膝に両手を重ねて、人好きのある目許の皺を深めていた。
苫野さん。苫野千理子。
かの名前の少女こそ、まひるの、きっと最初で最後だった恋人だ。
まひるは志都に、千理子のことを話していた。しかしながら、破局を打ち明けられるほど、当時は冷静でいてられなかった。
「千理子の、ことは、その……」
志都がやにわに首を横に振った。
無言の制止だ。
多分、顔に出たからだ。
まひるは昔と変わらず他人の気持ちに敏感なこの優しい恩師に、改めて安らぎを見出すのだった。
* * * * * * *
千理子は昼休みになると、勤務先の屋上に昇った。
気にかかるのは自分をここに呼び出してきた相手、碧葉のことだ。
千理子は、碧葉の様子が昨夜からおかしい気がしていた。その違和感は、千理子が風呂を上がった頃から目立ち出していたものだ。特にそれが色濃かったのは、千理子が昨夜、隣に越してきた住人が持ってきてくれたという菓子折りを見て、礼のために部屋を訪ねようとした時のことだ。碧葉に断固として猛反対されたのだ。
つと、後方から、柔らかな腕が絡みついてきた。
「千理子」
「はひぅっ、……お姉様!!」
千理子が小さく悲鳴を上げると、悪戯な腕がほどけていった。
大好きな声に振り向く。
千理子と同じ制服姿の碧葉がそこにいた。
「お待たせ。ごめんね、折角の昼休みに呼び出したりして」
「他の部署の子と約束もなかったし、お姉様が声かけてくれて嬉しかった。お昼、一人で過ごすつもりだったもん」
千理子は碧葉と肩を並べて歩き出す。
二人、適当な日陰を見付けて腰を下ろした。
「はい」
「有り難う」
手渡されたコンビニの袋を覗くと、飲み物とパンが入っていた。どちらも千理子の好みのもので、よくこれだけ理解してもらっているものだと感心する。
「話って?」
「話?」
「ほら、さっき……」
千理子は碧葉と、さっき、部署の部長に隠れてメールしていた。その時の内容をほのめかす。
すると碧葉が、どこか逡巡した素振りを見せて、手許のコンビニ袋から、缶コーヒーを取り出した。
「──……」
千理子も紅茶の入ったペットボトルの蓋を開ける。
普段はストレート派なのに、昼休みに飲む甘口のロイヤルミルクティは、格別だ。
「千理子」
やはり、いつもと様子が違う。
千理子は碧葉の、自分に呼びかけてきた美声を耳にして、いかにしてもそこに違和感を覚えずにはいられない。
「…………」
「あの、ね」
「──……。うん……」
「…………」
「相江まひるを、今でも忘れられない?」
それは唐突な問いかけだった。
千理子がはっと振り向くと、碧葉の切実な面差しに、どきりとした。
「ね、どう?」
「どうって……言われても……」
分からない。
千理子は記憶に関する答えを求められているのではない。大学生活最後の秋に知り合って、それから碧葉に出逢って暫く経つまで交際していたかつての恋人を、今も必要としているのかをはっきりさせねばならないのだ。
さればこそ、分からない。
「千理子」
「お、おねっ」
やにわに千理子は、片手を碧葉に捕らわれた。
「お姉様……あの……」
「私じゃ千理子に、貴女にかなしい顔をさせる昔を忘れさせられない?」
「…──!!」
あれから六年、経っている。
千理子は目前の優しい女性(ひと)から、目を逸らせなくなっていた。
* * * * * * *
まひるがこの部屋に入居して、一週間と少しが経った。
苦闘した荷物の整理も落ち着いて、ここ二、三日は、実家を覗いたり友人に連絡をとったりして、あちこち飛び回っていた。
新たな職場は、志都が高校に戻ってくれば良いと言ってくれたが、カルチャースクールの講師の枠を考えている。母校にいれば、きっと千理子が一緒にいた頃の自分を取り戻してしまう。
まひるは遠い春の日、唯一無二の愛おしいものを手放した。それからは、この町をたなびく空気も怖くなって、地方に避難していった。そうして六年が経って、ようやっと帰ってこられたのに、わざわざ虚しくなる努力は避けたい。
ふっと、左隣の住民が、頭を過ぎった。
一週間と少し前、入居の挨拶に訪ねた時、物凄い美人が出てきた。
ここは一人暮らしに向いたマンションなのに、二人の女性が共同生活をしているらしく、出てきた美女から聯想出来ない、愛らしすぎる靴と傘が目についたのも、その時だ。
霞がかった記憶の向こうに潜んでいた何かが、呼応した。
顔も名前も知らない女性の身体を流れていたのだろうシャワーの音を耳にして、説明つかない疚しい気分が押し寄せてきた。
あの美人と暮らしているのは、彼女の恋人か?
どんな女性なのだろう。
まひるは、左隣に暮らしている二人の内一人の女性と、未だ顔を合わせていない。
わけもなく胸が軋んだその瞬間(とき)、壁の向こうから、妙なる音色がこぼれてきた。
「…──……」
歌だ。
透き通るようなソプラノが、巷で流行りのメロディを、実にのびのび歌っている。世辞にも安定しているとは称しがたいし、歌詞も、ところどころ誤魔化してある。
もっとも、歌唱の善し悪しなどどうでも良い。
その歌声は、まるで奇跡の産物だ。
まひるは浴室から聞こえてくるらしいその声を、夢ではない、確かな現実で耳にした覚えがあった。
* * * * * * *
風呂場で熱唱した挙げ句、軽い脱水症状を起こしてのぼせた。
千理子は束の間の眩暈が去ると、碧葉が難色を示すのを押しきって、ベランダに出た。
せめて湯冷めしてはいけないからと、碧葉が羽織らせてくれた冬物のガウンは、この季節には分厚すぎる。
されど今は一人になりたい。
青葉に従うより他になかった。
千理子は、自分がどこまで碧葉に心配をかければ気が済むものか、自責の念に押し潰されそうな一方で、彼女の厚意を持て余していた。
夜の帷(とばり)に目を凝らして、漆黒の空を見上げても、星は見えない。ぼんやり浮かんだ上弦の月は、今夜、雲をうっすらとり巻いていて、それがどこかもの寂しい。
碧葉に気持ちを告げられて、今日で十日が過ぎた。
千理子はあの屋上で、世にも美しい面差しの語った真摯な思いを受けとめた。涙が出るほど嬉しかったし、ようやっと、本当に全てに許されたのだと安堵した。
千理子は碧葉ほど一緒にいて心強い、自分をありのまま愛してくれる人間に、今生もう出逢えなかろう。
それでなくても千理子は碧葉を慕っていた。
六年前、千理子は今の会社に入社して、碧葉と出逢って一ヶ月と少しが過ぎるまでの間こそ、他の女性を愛していた。彼女、まひると別れた原因も、碧葉ではない。
それでも千理子は、どこまでも純粋なかつての恋人の面影を追いかけていた反面、碧葉をただ都合の良い同居人として頼ったことは一度もなかった。彼女でなければいけなかった。
どうすれば良い?
こうして、また、求愛の返事を引き延ばすのか。
「──……」
やにわに人の気配がした。
こんな時間でも、近隣にいる住民が、洗濯物を干しに出ることは珍しくない。ただ物音がしたくらいで、気に留める謂われはない。
しかし、千理子は人影を探す。
何かの引力に従わざるをえなくなったマリオネットの如く、気の所為だったかも知れなかったほど微かな気配の出所を捜し当てるべく、視線を巡らす。
そうして千理子は、雲に覆われた月の光が地上を広がるよりありえない、奇跡に出くわす。
「…──っ」
千理子は、目を開けたまま夢に迷い込んだ錯覚に囚われる。
まひるだ。
過去の幻影ではない。十日前、千理子が浴室にいた間、菓子折りを持って挨拶に訪ねてきてくれたという隣人だ。
あまりに愛しすぎた末、怖くなって、六年前、千理子から別れを切り出した、かつての女性だ。
「ま、まひ……」
まひる。
何度、声にした名前か分からない。
張り裂けんばかりの痛みに喘ぐ胸奥で、何度、泣き叫びたい思いで呼んだ名前か分からない。
千理子は、やはり最愛の女性を呼ぼうとすれど、上手く唇が動かない。
「──……」
まひるのくっきりした目許に薄い唇、何もかも精巧なドールのパーツを絶妙なバランスで組み合わせたその面差しは、昔と同じ、無垢な少女を彷彿とする瑞々しさを湛えていた。甘すぎず凛々しすぎない、背丈は千理子よりほんの少し高いくらいか。髪は、とりたてて短くなったが、黒と白を基調としたゴシックパンクファッションは、健在だ。
「千理子?」
ああ、そんな声で呼ばないで。
千理子は久しく耳にした声に、胸がざわつく。
「千理──」
「千理子!」
「お姉様っ」
後方でガラス戸の開く音がして、否応なしに、後方から伸びてきた腕に捕らわれる。
「…………」
「お、ねえ、さま……」
千理子は碧葉に振り返って、また、まひるに視線を戻す。
「相江さん」
千理子の頭上で、碧葉らしからぬ冷たい声が、挑発的な響きを帯びた。
「貴女が昔、千理子とどういう関係だったろうと私は知らない」
「何の話ですか?」
「貴女を前にして諦められるほど、私は、中途半端な気持ちで千理子を愛しているんじゃないわ」
「──……」
千理子は碧葉の胸の中で、まひるの澄んだ眼差しに、首を絞められる心地がしていた。
まひるは千理子のメールアドレスを久しく開いてメールを送った。
アドレスが変わっていたなら電話をかける、電話番号が変わっていたなら隣室のチャイムを鳴らすつもりでいたが、一縷の希望は功をなして、六年前と同じ千理子のそれから返信が届いた。
千理子と別れたのに理由はなかった。
二人の間に温度差だのすれ違いだのが差し入ってきたのではなく、漠然と、そうしなければならない気がしただけだった。
されど今ならはっきり分かる。
まひるが千理子の別れ話に頷いたのは、まひる自身が彼女を必要としすぎていたのと、彼女の想いが愛おしすぎて、受けとめきれる自信を見失っていたからだった。
まひると千理子が、いかにしてもぎこちないメールを続けていると、草木も眠る深夜になった。
"お姉様寝ちゃった。まひるは明日、朝早い?"
"何にも予定ないよ。千理子は仕事?"
"うん。だけど眠れない"
"羊が一匹、羊が二匹って、数えれば良いみたいだよ"
"まひるが数えて"
"メールで?電話?"
それから千理子からのメールが絶えた。
まひるは受信メールを読み返しながら、妙な脱力感に襲われる。それとは裏腹、千理子の何でもないはずの言葉が、どれも特別なものにとれて、友人同士でもありえないようなぎくしゃくしたやりとりも、甘酸っぱい馴れ初めのように思える。
痛かっただけの思い出を、今は、取り戻すことしか考えられない。
まひるは千理子があれだけの美人に求愛されているのを目の当たりにした。それなのに、ルームシェアの絆だの、上司と後輩の結びつきだのは、この想いの障害にもならないなどと信じきっている自分を自覚していた。
千理子は、寝たか?
あらゆるマイナスの予感は振り払って携帯電話を閉じかけた時、玄関のチャイムが鳴った。
まひるが部屋の扉を開けると、千理子が、さっきと変わらない部屋着姿で立っていた。
千理子の緩いカールのかかった栗色の髪は、軽く柔らかな質感を帯びていて、まひるの思い出の中にいた彼女のそれより少し長い。大きな目はこんな夜中でも少しもしゃんとしていて、きめ細やかな白い肌に小さな肩、まひるより姫林檎一つ分くらい低い背丈は、いつも見つめ合ってるのにちょうど良かった。
まるで夢を見ているようだ。
決して戻らないと諦めていたあの頃が、現在(いま)となってここにある。
まひるは千理子を玄関に上げて、居間に通した。
春とは言え夜は冷える。ガウンは置いてきたらしい、千理子が見るに耐えない薄着だったものだから、エアコンの電源をオンにした。
時が、ゆっくり、回り出していた。
「元気だった?」
「うん。千理子は?」
「元気だったよ」
まひるは、卓袱台を挟んで自分と九十度の位置にいる、千理子の顔をちらと見た。
千理子は自信なさげな声音にそぐう、自信なさげな顔をしていた。
もどかしい。この気まずさがもどかしい。
こんな、目で見ても確かめられるようなことばかりを報告し合いたいのではない。
この六年間どうしていたか、元気だったか、恋はしたのか。
それらはどうでも良いことだ。
知りたいのは、今、この瞬間のことだけだ。
「千理──」
「まひるは」
やにわに強い声音に遮られた。
その声は、千理子の普段のたどたどしいような話し方の似合う可憐なそれと、些か違った。
「まひるは、……好きな、人、今いる?」
「──……」
「付きあってる人、……いる?」
「…………」
まひるは千理子の大きな瞳に捕らわれる。
少女の純粋な煌めきと、女の濡れた情熱が、その奥深くで揺らめいていた。
ああ、この瞳が好きだ。肌が好きだ。
この顔も、声も、魂も、存在も、広い宇宙のどこを探してもまたとない。
二人の手が、どちらともなく距離を失くしてゆく。まひるの人差し指が千理子の中指に触れて、千理子の薬指がまひるの中指に触れる。
「…………」
互いに互いの他に見えなくなるほど近づいて、視界が千理子でいっぱいになる。
この世にたった二人きり、そんな錯覚にいざなわれなくても、仮にここが喧噪とした都会(まち)のど真ん中でも、この愛おしい女性の他に、きっと何にも見えなかったろう。
こんなにも、こんなにも、千理子を側にいさせたかった。
「千理子……」
まひるは愛おしすぎる片手を握って、扇情的すぎる肩を引き寄せた。
「千理子は、お姉様を、好き?」
「うん……好き」
「愛してる?」
「本当のお姉ちゃんみたいに、愛してる」
「──……」
重症だ。憎めない。
まひるは千理子の唇を、キスで塞ぐ。高貴な鈴を転がすようなソプラノが、回りくどいような肯定をしたのは、それがいじらしい否定の意味だと分かったからだ。
欲しいのは姉妹愛ではない。共感でもない。
あの美人は千理子の居場所でしかなくて、帰る場所にはなりえなかった。
まひるがそっとキスを離すと、とろんとした双眸が、瞬きも惜しんだ按配をしていた。
「──……」
「私の好きな人は、千理子だけ」
「…………」
まひるの肩に、千理子の腕が絡みついてくる。たった今、一生分の甘美なものを啄んだ、されどじきにまた求めたくなるのだろう唇に、彼女の答えが寄越される。
六年の空白を埋め合わせるように、この世に生を受けてから、出逢うまでの二十年余をなかったことにするように、永遠に続かんばかりのキスを味わう。
片手同士でじゃれ合って、互いを見つめて、触れられなかった体温を、指先にじっくり染み込ませてゆく。
「まひる……」
「一緒に暮らそ、千理子」
月明かりの影に隠れなくても良いように、貴女を私だけのものに。
まひるが千理子を覗き込むと、ふっと彼女に左手を掬われて、極上に甘い接吻が、薬指の付け根に落ちてきた。
──fin.
妖精カテドラル