ここは、都心からそこそこ離れた、住宅街と田んぼの他にとりたてて何もない土地だ。

 小規模の店屋がまばらに散らばる表通りを外れて、入り組んだ狭い道を辿っていくと、山のほぼ麓に市立学校やテニスコートが構えてある。その道のりの中程、家並みから石の階段を下っていったところに、広々した公園がある。
 公園は、通称「鳥かご公園」と呼ばれていた。その名の通り、鳥かごを聯想する形のアスレチックが備えてある。夕方は学童らを始め近隣住民達が集って、なかなか人気のスポットだ。

 十二月に入って第一週目の日曜日、城戸さまき(きどさまき)は、この「鳥かご公園」にいた。
 さまきは、ここで定期的に催されているというフリーマーケットに出ていた。本来なら今日この販売ブースに座っていたはずの友人が、急に来られなくなった所以、その代理だ。

 小さなフリーマーケットだと聞いていたのに、園内は、なかなか賑わっていた。

 「お嬢さんが、あいらさんの代理ですか?」

 さまきが声のした右隣を振り向くと、ともすれば童話にまみえるような愛想良い笑みを浮かべた老婦人が、こちらを見ていた。婦人の前方のテーブルには、手製と思しき和雑貨が並んでいた。

 「はい。笠山あいら(かさやまあいら)の代わりに」

 「あいらさんには、私、日頃とても良くしてもらっているんです。今日はお隣だと聞いていて、楽しみにしていたのに、急にお仕事で来られなくなって……。師も走るほど忙しい十二月。本当にそうなのねぇ」

 「ああ、本当ですね」

 「何でも、あいらさんは家庭教師をなさっている生徒さんに、期末テストが近いから時間を増やして欲しいとお願いされたのだとか。それで、同じ職場の人に代理をお願いしたのだと聞いたわ。貴女の教え子さんは行ってあげなくて構わないの?」

 「私の方は、エスカレーター式の中学に通っている子ばかりです。親も平均点さえとらせてくれれば良いって、気楽らしくて」

 「まぁ、そう。……あら、この看板は?」

 さまきのブースの通路側を、老婦人が覗き込んだ。

 そこには、さまきが今朝、吊るしておいたプレートがあった。

 さまきがあいらに預かったのは、彼女の手製の服飾雑貨だ。三日月の形をしたマカロンカラーのキャノティエや、絶妙にカラートーンの異なるピンク色の巻き薔薇が散りばめてある花園の如くヘッドドレス、大振りの樹脂のチャームがつやつや煌めくキャンディカラーのネックレスや、軽装でも手軽に留められるくるみピンなど、どれも可憐で華やかだ。

 あいらは甘ロリィタで、自身も、とっておきにめかし込んだ砂糖菓子を彷彿とするものを作り出すことを生き甲斐にしている女性だ。
 否、それは些か語弊があるか。
 さまきはあいらに、想い描いたものを集めるだけなら、贔屓にしているメゾンの店で十分間に合うと聞いたことがある。しかしながら、それではあまりに受け身なもので、あいらの性分に合わないという。世の中は、十人いれば、洋服の愛で方一つにしても十通りある。あいらの場合は、自身も甘ロリィタの姿をしながら、限りなく近いものを持つ乙女達に向けて、魂の自由性を訴える術の一つに、やはり甘ったるい服飾雑貨を提供してゆくタイプらしい。自由性を重んじているにしては、その作風の癖は強いが、そこを一度突っ込んでみたところ、難しい理屈が寄越されてきた。なかなか奥深いものがあるようだった。

 一方さまきは、甘ロリィタどころか、青文字系ファッションにも精通していない。裁縫は学生をやめて以来、まるきり縁がなくなって、今日も何の変哲もないグレーのフリルワンピースに白いファーボレロをとり合わせて、緩いウェーブを描いた黒いロングへアも、ベルベットのリボンを結んだパールのカチュームを飾っているだけだ。

 にも関わらず、あいらに提案された。

 店番を頼むだけでは申し訳がない。貴女も何か置けば良い。

 さまきは、それで閃いて、急遽このプレートを準備したのだ。

 「『ご自宅、○○円でお掃除します。』……私ならこれかな、と思いつきました。今のお仕事は大学出た後からですし、五年目。人様のお宅は慣れています」

 「きっと喜ばれるわ。私も来ていただきたいくらい」

 「本当ですか?朝から今まで、百発百中素通りですけど」

 「帰る頃に殺到するわよ、きっと。今ご予約が入っても、貴女、お掃除のために店番を中断出来ないでしょう」

 「まぁ……はい」

 老婦人のブースの前に、母娘連れが足を止めた。

 さまきは、そこで老婦人に会釈をして、自分もパステルカラーで彩ってあるブースに向き直る。

 さまきは、老婦人との会話を打ち切ってから、三組ほどの客を相手にした。そうこうしている内に日も傾いて、閉場まで残すところ三十分弱になった。

 掃除屋を気取ったプレートに、反響はない。あいらの好意に応えたし、そろそろ外してしまおうか。

 さまきはブースに身を乗り出して、プレートを吊るしていた金具をつまんだ。

 その時だ。

 「お掃除、お願い出来ますか?」

 空耳かと聞き違えるようなメゾの声が、すぐ頭の上に降ってきた。

 さまきは、あたふた椅子に座り直す。

 あいらの手製の服飾雑貨の並んだテーブルの向こう、さまきの正面の通路側に、少女が一人、立っていた。

 どこからか突然現れた、少女は、はっとするような風采だ。凛とした目許に小さな鼻先、きめこまやかな頬と締まった唇のバランスは、奇跡みたいに妙なるもので、ミディアムより少し短いくらいの金髪は、毛先だけアッシュブラウンの色をしている。装いは、黒いリボンタイの結んであるサックスのシャツにグレーのパーカー、赤いフリルの巻きスカート付きハーフパンツに黒いブーツという、いわゆるロックスタイルだ。年のほどは、二十代前半といったところか。その双眸は、思わずどきりとするほど柔らかいものを帯びていた。

 「えっ、あの?」

 「お掃除。プレートに書いてあるやつお願いします」

 「──……」

 さまきは、どうせ片付けるなら、閉場三十分前ではなく、一時間前にすべきだったと、内心悔いた。







 さまきに掃除を依頼してくれた少女は、名前を折原なつ(おりはらなつ)といった。

 なつは「鳥かご公園」から住宅街に続く階段を上ってすぐのところのマンションに居を構えていて、今は大学三年生、実家は隣町にあるという。

 その部屋は、ごくごく普通の1LDKだ。とても整頓されていた。

 さまきは窓ガラスを拭いて、モップをはたいて、ガムテープでごく僅かな埃を取った。ゴミは、パンダのゴミ箱の中の他に、ほとんど見付からない。写真が一枚、キャビネットの上に不自然に置いてあるのは気になるところだが、その所為で部屋が雑多に見えるわけではない。放っておくことにした。

 「お疲れ様、城戸さん。お茶とクッキーいかがですか?」

 さまきが振り向くと、なつが、卓袱台にティーセットや菓子を準備し出していた。

 「有り難う。……なつさん、お部屋あんまり掃除出来ていなくって、というか、やれるところがなくて、大したこと出来ていないけれど」

 「構いません。城戸さんとお話がしたかっただけですから」

 「えっ?!!」

 さまきは、今度こそ空耳かと疑った。今までの努力は何だったのだ。
 もっとも、さまきが掃除用具を持って、部屋をうろうろしていたのなんて、ものの三十分程度だ。

 さまきはガムテープをまるめて捨てると、卓袱台の側、なつの九十度隣に腰を下ろした。

 「城戸さんは笠山さんのお友達ですか?」

 「職場が同じで、うん」

 さまきはティーカップを持ち上げる。ラベンダーとベルガモットの香りが立ち上ってきて、疲れた心身が癒される。

 「城戸さんは、ロリィタさんじゃないんですか?」

 「うん」

 「そうですか。でも、城戸さんから何かお買い物しておけば良かったかな。私、一度ロリィタになってみたいんです。笠山さんのお店はちょくちょく覗いていますし、普段も仲良くしてもらっていますけど、城戸さん、とっても私好みの売り子さんだったので」

 「そんなこと言ってくれたの、なつさんだけだよ」

 「だったら嬉しい」

 「──……」

 「綺麗なものは独り占めしたい。城戸さんはものじゃないけど、それでも、私にとって、今日あの公園で見付けた一番のきらきらしたものです」

 なつが屈託ない調子で目を細めた。

 その声音はさっきよりひとしお柔らかで、まるで恋人と話している気分にいざなわれる。

 「なつさん……って、リップサービス上手い?」

 「全然」

 「でも」

 「城戸さんはご近所さんじゃないので。今日を逃したら、もう一生ご縁がなくなるかも知れません」

 だから、と、なつが優雅に頬杖をついた。

 「あの時ああしていれば良かったって悔やむより、試して玉砕しちゃっても、その方が良い。……城戸さん。城戸さんはロリィタさんじゃないから、回りくどくお洋服のお話で引き留めたって、きっと効かない。なら私の本音を聞いて欲しいんです」

 「あ……、…──っ」

 さまきは、さしてたくさんのクッキーを食べたわけではない。それなのに、胸が苦しいほど詰まってゆく感じがしていた。

* * * * * * *

 週明けの夜、さまきはあいらと夕餉に出掛けた。

 二人が選んだのは、駅前の大通りにある、行きつけの居酒屋だ。ほの暗い店内はテーブル席と個室が選べるシステムになっていて、BGMは流行りの歌謡曲、料理は和洋折衷というここは、なかなか落ち着く。

 さまきは個室の席に落ち着くと、あいらに預かっていたものの一式を返した。

 メニューが運ばれてくると、二人、まず乾杯して、他愛のない話を始めた。

 さまきがあいらに聞きたがられるのは、無論、昨日のフリーマーケットのあれこれだ。 

 「午前中は大学生くらいの女の子の二人連れ。フェアリーリボンシュシュを買ってくれたよ。それからピアノのレッスン帰りのお子さんと、お母さんかな、六人くらいのグループの方が、くるみピンとかネックレス……あ、あのフェイククッキーのついたやつ。それから二時間くらいは飲食の屋台の方に人が集まっていて、お隣のあいらと仲良くしているっていう年配の女の人とお話ししていて……」

 「あの、和雑貨の?」

 「うん、で、昼過ぎに今度は中学生の女の子が一人と、五十代くらいのご婦人方が見ていってくれて、あとは家族連れがちらほら。あ、あいらの新作、クマさんがキスしているくるみピンもなくなった。黒ね。三十代くらいのセレブっぽいお姉さんが、その場で着けて帰って下さって。でも、やっぱりお子さんが多いかなぁ」

 「だよねー。ああいう地域系だと……」

 あいらがグラスを傾けて、あの砂糖菓子みたいな服飾雑貨の入った紙袋をつついた。

 あいらは、今日も完璧な甘ロリィタの姿をしていた。二つに揺った黒髪は、崩れもしないで見事な縦ロールに巻いてあって、大きなピンク色のリボンコームが差してある。ハートの透かし編みボレロにパステルピンクの姫袖ブラウス、白地に裾だけ青いレース模様のラウンドプリントが施してあって、色とりどりのパステルカラーの金平糖が散りばめてあるスカートをとり合わせていた。

 「女の子は、ゆりかごから墓場まで、みーんな乙女。だからお子さんが気に入ってくれるのは嬉しいけれど、私が作っているのは乙女のためのアクセサリーだから、ロリィタと子供向けをいっしょくたに考えるような親御さんに認められたくないんだよね」

 「複雑なとこだね」

 「無知を非難してはいけないけれど……、そもそも、私の作ったものに何か感じてくれるから、使いたいって思ってくれるわけじゃない?ロリィタとか、そういうカテゴライズなしで、びびっと感じてくれる気持ちに期待しちゃうのもまた然り。矛盾してるよねー」

 「まぁ、好きなものを好きだと言えるフリーダム精神?を、あいらは美しく思えるわけかな」

 「さまき、最近私の理解者だ!」

 あいらが両手をぴしゃりと叩いた。

 それから、ふっと、あいらのぱっちりした双眸が、何か思い出したみたいな色を帯びる。

 「あ。ねぇ」

 「ん?」

 「昨日なっちゃん来たんだよね。今朝ちらっと聞いた話、私あれ気になる」

 「ああ、お掃除が終わった後お茶をして、結局、くるみピンとブローチを買ってくれた話?」

 「その後の話。さまき今度は掃除じゃなくて、お料理に来てくれって頼まれたんでしょ?あの子、意外と肉食だわー」

 「そう、かな」

 「さまきを気に入ったのね」

 「まさか」

 初対面でそれはなかろう、と、さまきは思う。
 それに、あの時、部屋で見付けた伏せられた写真は、いやに意味ありげなものだった。なつと一緒に、彼女と同じ大学生くらいの、綺麗な少女が幸せそうに微笑んでいた。

 もっとも、さまきがなつと、二度目の約束を交わしたのは本当だ。

 「どうしよ……料理なんて私、卵焼きしか作れない」

 「カット野菜をサラダにしちゃえば良いじゃない」

* * * * * * *

 あくる日の夜、さまきは二日振りの町を訪ねた。なつとの二度目の約束が、今晩だからだ。

 さまきがなつの起臥しているマンションの部屋のチャイムを押すと、その扉はすぐに開いた。

 「お仕事でお疲れのところ、来てくれて有り難うございます、城戸さん。上がって下さい」

 「有り難う。えっと、夕飯、本当に私が作るの?」

 「お疲れでしたら、私が作りますから座っていて下さい」

 「えぇっ?!」

 さまきがブーツの紐をといて顔を上げると、なつがあっけらかんとした顔をして、壁に背を預けていた。

 凛とした目許に小さな鼻先、きめこまやかな頬と締まった唇の妙なるバランスも、ミディアムより少し短い、毛先だけアッシュブラウンの色をしている金髪も、一昨日と全く同じだ。なつは、そして今夜は、グレーの薔薇のラインステッチが全体に蔓延らせてある白いブラウスに、身頃にトリプルリボンがあしらってある、襟と袖にスタッズが煌めくジャケット、タータンチェックのターコイズブルーのロングパンツを合わせていた。

 「私、来た意味ないのでは?」

 さまきは腰を上げる。合皮のショートコートから覗いたワインレッドの綿混ラッセルレースのスカートの裾が、ひらりと揺れた。

 ボストンバッグと、食材の入った買い物袋を持ち上げて、なつの部屋の奥に向かっていった後を追う。

 「意味なら十分、あります」

 「また、話す口実だったなんて言ってくれるの?」

 「はい。私、どんな口実をこじつけてでも、城戸さんにいて欲しいです」

 「……そんなにストレートに望んでもらえるなんて、光栄だわ」

 「光栄、じゃなくて、嬉しいって言ってもらえるようになれるよう努力します」

 やにわに、さまきの肩が軽くなった。居間のカーペットに踏み入ったのとほぼ同時、なつが荷物を引き受けてくれたのだ。







 さまきは、自分で驚くほどの夕餉をこしらえた。昨夜、帰宅後、料理サイトでレシピを仕入れてきた成果だ。

 二日前はなつの準備してくれたティーセットが並んでいた卓袱台に、さまきの作った惣菜やらメインディッシュやらが並んでいる。ご飯だけはなつが炊いてくれたものだ。

 二人、一昨日と同じ風に九十度隣の位置に並んで、両手を合わせた。

 「いただきます。……美味しい!城戸さん料理上手いですー」

 「本当?」

 「はい、このサラダのオリーブと塩で味付けてあるの、野菜の新鮮さが活きていて、ドレッシングより好きになりました。チキンの照り焼きなんて、わざわざ茹でたニンジンのソテーと一緒に盛りつけてあって、見かけまで可愛いです」

 「良かった。それはまるくてころころした感じを意識したんだ。これでも料理の内に入るのかな。火を通してあるだけよ」

 「そんなに謙遜しなくても」

 「なっちゃんこそ、そんなによいしょしてくれなくても」

 二人、食事の手を進めていく。

 格別なのは、なつの炊いてくれたご飯だ。柔らかすぎず、硬すぎない。ほんのり甘くてとても優しい味がする。

 「こういうの、憧れていました。たまにドラマ観てたりすると」

 「こういうの?」

 「刑事モノとかのドラマでよくありません?刑事が家に帰っていくと、パートナーがエプロン姿でお帰りなさいって出迎えてくれるの。こうしてご飯を作ってくれたり、お掃除してくれていたり。ああいうの羨ましい。現実に一緒に暮らすとなると、それは、家のこと任せきりなんてダメですけど」

 「ドラマはリアルを極める必要ないからね」

 「だからこそ、今日は城戸さんがお疲れなら私がお料理するつもりでした。血は繋がっていない、特別な人が、自分のために世話を焼いてくれるって……、体験してみて幸せだって、確信が持てました」

 「疑似体験のお役に立てた?」

 「城戸さんでは疑似体験になりません。お試しになってはくれないんですか?」

 さまきの肩に、なつが身を寄せてきた。

 「城戸さん」

 「な、何……?」

 「こういうことしては困る人、います?イエスなら言って下さい。ノーなら、あーんてして下さい」

 さまきの口許に、一口サイズの人参のソテーが近付いていた。さまきが躊躇いながらを開けると、なつの握った箸につままれたソテーが、そっと口内に入ってきた。

 柔らかなソテーを租借して、熱い視線を浴びながら、それを飲み込む。

 なつが、くすりと笑った気配がした。箸を置く音がして、間近にあった体温が、離れていった。

 「お代、今日はちゃんとお支払いします」

 「別に良いわ。私もご飯ご馳走になったし」 

 「一昨日も、お掃除、無料でしてくれました」

 「あの後、お茶とお菓子を御馳走になったし」

 「せめて食材、一人分だけでも」

 なつの伏せた瞼を縁どる睫毛が、ほんのりオレンジに色づいた白い頬に影を落とした。とりわけ特徴もないメゾの声は、時折、こうしてとてつもない甘ったるい吐息を含んで、胸をくすぐってくる。

 さまきはグラスに添えた手を、卓袱台から引っ込める。今度は自分が、なつに身を寄せる。

 出逢ったばかりの、顔と名前と身許の他に何も知らない少女にこんな衝動を覚えるなんて、どうかしている。だのに、止められない。今を逃せば、もう二度と、こんなに切なくさせてくれる誰かにまみえられない気がする。

 なつの気持ちが知りたい。さまきが求めるどこまで応えてくれるか、どこまで本気でいてくれたのか、知りたい。

 「お代、そんなに気にしてくれるなら」

 「しろ、と、さん……?」

 さまきはなつの腕に右手を添えて、艶やかな金髪に隠れた耳許に唇を寄せる。

 「身体でお返ししてくれない?」

 「…──!!」

 なつの一点の曇りもない双眸を飾った目が、大きく見開く。

 さまきは、たった今まで恥じらいがちに斜め下を見つめていたようなその目に、今は捕らえられていた。

 「あ……あの……」

 二人の手と手が重なって、さまきの頬を、なつの宙を彷徨っていた方の指先が伝ってゆく。視線と視線が一つにとけ合おうほど交わって、わけもなくじゃれ合う指先に、なつの唇が近づいてきた。

 その時だ。

 ぴんぽーん、と、世にも無遠慮なチャイムの音が、玄関の方から響いてきた。








 突然の訪問者は、一昨日、さまきがなつの部屋を掃除していた時に見かけた写真の中の少女だった。

 少女は、そのまばゆい素肌と真逆の色、深い黒をしたさらさらのロングヘアをふわりと宙に靡かせて、部屋に飛び込んできた。そして、まるで主人に飛びつく仔ウサギ同然の勢いで、なつの胸に縋りついた。

 「会いたかった……会いたかった……なつ、やっぱりあたし、貴女を諦められないよ……」

 「…──っ」

 気付かない振りをしていたかった現実を、突きつけられた。

 さまきは挨拶もそこそこに、いかにしても支離滅裂な理由を付けて、逃げる勢いで部屋を出た。後方からなつの声が追いかけてきた気がしたのは、きっと望んでいたものが空耳になってくれただけだ。さまきはマンションの敷地を飛び出すなり、一目散に、あいらの住む一軒家を目指していった。

 さまきは、かくて今、同僚の、見事にピンクと白でまとめてある部屋にいる。ことの終始をあいらに話して、彼女の振る舞ってくれたカモミールティーを味わっていた。

 「理解出来ない」

 あいらのふっくらした小さな唇から、咎めてこんばかりの声色が寄越されてきた。

 「なっちゃんは恋人いたよ。二ヶ月前に別れてる。さまきが会ったのは、多分、その彼女。良い雰囲気になっていたのに、向こうが勝手に割り込んできたのに、何でさまきが遠慮したの?」

 「……お似合い、だったから?」

 「さまきは、どうせ自分より元カノの方が可愛いとか、なっちゃんとたくさんの時間を過ごしてきたとか、そういう先入観にやられただけでしょ?」

 「現にそうじゃない」

 「もう、何で引き下がるかなぁ」

 あいらが背の低い猫脚のガラステーブルに、ぐったり両腕をついて項垂れた。その手の中にある携帯電話が、今にも転げ落ちそうだ。

 あいらの指摘は的を射ている。さまきはあらゆるコンプレックスに追い立てられて、なつと少女を残して逃げてきた。
 さまきには、少女の、あんな風に当たり前なつに抱きついて、当たり前みたいにストレートな思いをぶつける姿が、眩しかった。なつも慣れた調子で少女をあしらっていた。あんな二人を見ていられなかった。さまきは、自分の知らない時間を過ごした二人を見るのを怖れていたのだ。

 「あの子と同じで、なっちゃんもよりを戻したがっていたら?私、邪魔者じゃない」

 「だから、彼女は過去の人なんだってば」

 「そう、だけど……好きなんだもん。二人きりでいる時だってしんどくなるほど、こんな気持ち、感じたのほとんど初めてで……どうなっちゃうのか怖いほど……」

 「やっぱり」

 「あっ」

 「好きなんだ」

 「…──っ」

 「認めたね」

 さまきは、あいらに指摘されてはっとした。

 「初めて好きだとはっきり言った。良かった。さまき、なっちゃんとヤリ逃げするつもりじゃなかったんだ」

 「人聞き悪いこと言わないで」

 あいらが、時折手持ち無沙汰みたいに操作していた携帯電話を閉じた。

 「……冗談だってば。さまきがうぶなのは知ってるよ。お詫びに耳寄り情報をあげる」

 「なぁに?」

 「窓の外、見てみて?」

 「え?…………。…──っ!!」

 さまきがあいらに従ってみると、 外灯の明かりだけが視界を助けてくれる程度の暗闇でもすぐ分かる、玲瓏たるシルエットが、この家屋を囲った塀の向こうにあった。

* * * * * * *

 さまきは、予めあいらに呼び出されていたというなつと一緒に、例の「鳥かご公園」を訪ねた。

 ここいらは、住宅街からこぼれてくる仄かな明かりと、やはり外灯、それらの他に辺りを照らし出すものがない。昼間と雰囲気が違う。

 二人、ここで初めて顔を合わせたのだ。たった二日前なのに、随分前のことに感じる。

 「ごめんなさい、城戸さん。気を遣わせたばかりか、誤解までさせてしまって」

 「ううん、私の方こそ、なっちゃんの事情も知らないで」

 「今更、彼女が来るなんて思いもよりませんでした。今は城戸さんがいてくれる。……そんなことを話して、さっき、やっと帰ってくれました」

 さまきは、なつのいつもよりトーンの落ちた声の聞こえる方に顔を向ける。

 案の定、端正のとれた面差しに、憂いだ影が落ちていた。この様子からして、件の美少女のあの無垢な双眸から、涙の一つもこぼさせたのか。

 「写真、なっちゃん大事にしてたわね。ごめん。掃除していた時、見ちゃった」

 「あっ、あれは未練とかじゃなくて」

 「思い出?」

 「──……」

 さまきは、なつが頷くのを見て安堵する。

 なつの言葉に嘘はなかろう。さまきの友人らの中にも、恋人との思い出を残しておくタイプがいる。それだけ相手の存在が大きくて、一緒にいられなくなっても、心のどこかで過ぎ去りし頃の記憶に支えられているところがあるのだろう。反面、皆、そのように大事な人の未来を願うからこそ、自分自身の未来も重んじているところがある。新しい恋に出逢ったなら、触れられる相手こそを大事にしている。なつは、きっとそういうタイプだ。

 さまきが滑り台のなだらかなところに腰を下ろすと、ふっと視界の闇色が濃くなって、首にふんわりしたものが巻きついていた。なつが斜め前方の砂場に屈んで、彼女の首から離れたばかりのマフラーを巻いてくれたのだ。

 「冷えてきたので」

 「そうね、家、戻る?」

 さまきは、なつの毛足の長いライトブルーのマフラーを自分の首から外そうとした手を、制された。

 「戻る前に聞いて欲しいことがあります。城戸さんと私が逢った、この場所で」

 「──……」

 「彼女が来る前、城戸さんが見せてくれたあの気持ち……気まぐれじゃなくて、今も変わっていないなら、もう少し座っていて下さい」

 「…………」

 二人の目の高さが同じになった。交差する眼差しは、もはや言葉などいらないのではないかと思えるばかりに切なるものを孕んでいた。

 さまきは、なつの美しさに惹かれたのではない。これだけ優しい目を知らない。オーラを知らない。否、さまきは初めから、この存在感に絡め捕られてしまっていたのだ。
 運命という非科学的なものは信じない。それでも、さまきがなつにまみえたのは、偶然ではない気がしてならない。

 さまきは、腰を上げなかった。

 右手になつの左手が重なってきて、夜風に冷えた二人の指がもつれ合う。

 なつの唇がそっと開いて、彼女らしい飾り気ない言葉が、胸奥に触れてきた。







──fin.
妖精カテドラル