淡い真珠を彷彿とする白い月が、漆黒の夜空に浮かんでいた。
 撒き散らした水銀か、或いはダイヤモンドの色をした星屑が、あちこちで瞬いている。

 清らかな水の音が聞こえる。
 それから、そよ風が草花を撫でてゆく音もした。

 夜の帳の中に、色とりどりの花が見える。
 白や赤、薄紅や青といったあらゆる色をした花々が、花壇から溢れるほど咲き乱れている。それらほとんどが珍種の薔薇だ。砂糖菓子の如く甘い匂いが、冬の風にとけ込んでいた。

 豪奢な大邸宅の真ん前に、天使の像が立っている。下に噴水があって、絶えず水飛沫を上げていた。

 遠い宇宙の彼方にある、架空の楽園に広がる花畑のようだ。

 アンジェは、遠い夜空を眺めていた。
 四方を植え込みに囲われた、瑞々しい芝生の上にドレスの裾を広げて、彼女は腰を下ろしていた。
 アンジェの恋人の住まう屋敷の庭には、余計な明かりがない。そのため、空の星がよく見える。

 「あたしよりお星様がお好きなの?」

 「えっ……」

 「アンジェってばさっきから空ばかり。妬けちゃうわ」

 アンジェの隣に落ち着いていた一人の少女が、わざとらしく唇を尖らせた。
 真っ白な頬を引き立てる、少女のうっすら色づいた唇は柔らかそうで、吸いつきたくなる。

 「星は好き。でも誤解よ」

 アンジェは、白い素肌に見事な金髪を下ろした少女──シエラに身を寄せた。
 シエラの、翠の混じった蒼い双眸を、覗き込む。

 「君がいるから、私はここに魅了されるの。あの空も、君が私の側にいるからあれだけ綺麗なの」

 「嘘、ばっかり」

 「嘘じゃなくてよ」

 アンジェは、シエラの顎に指先を添える。
 小さな唇を味見した。
 味なんてあるはずないのに、甘い。シエラの唇は柔らかで、アンジェは、どんな菓子より彼女と交わすキスが好きだ。

 もっとも、昼間はキスして楽しむどころか、アンジェはシエラに会うことも許されない身だ。
 夜の内に、存分に二人の時間に溺れたい。シエラの肌の温もりも、柔らかさも、声も匂いも──自分の全てに焼きつけておきたい。

 「ねぇアンジェ」

 「ん?」

 シエラの細い指先が、アンジェの赤錆色の巻き毛を絡め取る。

 「いつか、あたし達の国を作らなくって?」

 「国?」

 「そう。そうしたらあたし達、敵同士じゃなくなるでしょう。昼間も会えるわ」

 「シエラと同じ国の人間、ね。世紀のバカップルになってしまうわ」

 「アンジェは女王で、あたしも女王。王女には、あたし達が気に入った女の子を任命するの。徴兵制度や税金はなしよ。あたし達は果物を育てて生活するし、民が皆、いつも笑顔で暮らせる国なら素敵じゃない?」

 そんなユートピア、前代未聞だ。

 アンジェは、シエラの奇抜な発想に度肝を抜かれた。
 それとは裏腹、些か非現実的な夢を語り聞かせてくれる恋人が、アンジェの目に眩しくも見える。
 あどけなくも強かで、明朗ながら純粋な、シエラの魂(ココロ)が好きだ。

 シエラのきらきらした瞳こそ、実現不能な理想郷より、とびきり素敵だ。

 遡ること五年前、アンジェの国とシエラの国は、戦を始めた。
 七年前から恋人として交際している二人にとっては、全く迷惑な話である。

 アンジェは毎夜、貴族の特権を最大限に利用して、国境を越えてシエラの屋敷に忍び込んでいた。
 こんな生活が永遠に続いては困る。体力的にも精神的にも、いつか限界がくるだろう。

 アンジェが女王で、シエラも女王の平和な国──。

 なるほど、叶えば素敵だ、とアンジェは思った。

* * * * * * *

 貴女は地獄行きに決定しました、と宣告された。

 九愛りりこ(くめりりこ)が三十五年の生涯を閉じた、翌日のことだ。

 現世で息を引き取ってすぐ、りりこは冥界に迷い込んだ。生前、りりこの妹だった九愛ゆうも一緒だ。
 姉妹揃って、りりことゆうは閻魔大王を自称する中年の男に審判されて、やはり姉妹揃って地獄行きを下されたのだ。

 じきに、一人の女が、りりこ達を迎えに来てくれた。

 りりことゆう、二人の身柄が女に引き渡されて、今に至る。

 りりことゆうの旅先案内人──地獄の総監督の一人だという女は、よく見るとりりこ達よりずっとあどけない。むしろ少女の姿をした彼女は、名を、杏樹(あんじゅ)といった。
 赤錆色の巻き毛に白い肌がよく映える、紺に近い青いドレスに身を包んだ少女は、堕天使を彷彿とする。頭に乗せた大きなリボンもさることながら、その出で立ちは、まるで地獄の幹部らしくない。

 りりこらは、大きなホールに通された。
 杏樹に続いて中に入ると、無数の扉と見たこともない形をしたコンピューターが、あちこちに配置してあった。どこからか聞こえてくる呻き声が重なり合って、うるさいほど鳴り響いている。防音装置はないようだ。

 謎のホールで一際りりこが目を引かれたのが、大きなモニター画面だ。縦にも横にも大きくて、水族館の水槽くらいある。
 それまで物理の教科書や、テレビ番組の中でしか見なかったような宇宙と地球の映像が、画面に表示されていた。
 映像の中に、いくつもの小さな四角い枠が出ている。幼い子供から高齢者まで、多種多様な人間が、一人一人ピックアップで映っていた。

 「りりちゃん、本当に私達、地獄にいるの?」

 ゆうが声を潜ませた。
 小さく丸い彼女の顔の輪郭は、ボブに切り揃えた亜麻色の髪に、ふんわり包まれていた。
 雨に怯える仔猫のように、黒目がちな目が泳いでいた。

 「地獄よ」

 杏樹が、りりこの代わりに断言した。

 「ここは地獄。地獄の中でも、特別に重い罪を持った魂が集まる所よ。閻魔大王様も仰っていたように、貴女達は地上で重罪とされる戒を犯したのだから」

 杏樹が、モニター画面の側まで歩いていった。
 ビスチェの編み上げリボンに締め上げられた、ウエストからふわりと広がるスカートが靡く。

 りりことゆうは、杏樹を目で追いかける。
  
 「まず、九愛りりこさん」

 杏樹がりりこに振り向いた。

 「りりこさんは、十人以上の人間を殺した。ちょうど十人。あと一人少なければ、ありきたりな地獄で済んだのに、惜しかったわね」

 ──聞き取りづらい。

 絶えず響いてくる呻き声が、りりこの聴覚を鈍らせていた。

 杏樹に、雑音だらけのホールの環境を配慮してくれる気配はない。

 「九愛ゆうさんは」

 「あ、はい」

 「ゆうさんは、不特定多数の殿方との間に、十人以上の子供を得たわ。貴女もちょうど十人ね。雄が同じなら、罪を問われることはなかったのに。或いは子供が、あと一人少なければ──」

 「杏樹!」

 りりこは声を上げた。

 杏樹の氷のような瞳が、りりこを捕らえる。
 冷ややかにりりこを見つめてくる、貴族の風貌をした地獄の総監督には、少女らしからぬ威厳があった。

 さりとて、ここで怯んではいられない。

 「ゆうは体外受精で産んだの!姦通してなんかない!」

 「りりちゃんっ……」

 「私が、ゆうに、子供はたくさんいた方が良いって話していたから……ゆうは、私のために」

 そこではたと我に返って、口を噤んだ。
 ゆうとの大事な思い出を、二人で生きてきた証を、杏樹に明かしたくなかったからだ。

 何より、りりこは自分が情けなかった。

 りりこは生前、実の妹に恋をした。
 妹──ゆうも、りりこを愛してくれた。
 恋をして、愛を覚えた。
 誰に祝福されなくても構わない。りりこは、ゆうが側にいてくれれば他に何も望まなかった。

 生涯、ゆうを愛して、守っていく。

 りりこが学生だった頃、彼女と自分自身に誓ったことだ。
 あれから二十年が経つ。りりこはゆうと、確かに幸せな未来を目指していた。昨日までは幸せだった。

 だのに何故、自分は今、地獄にいるのだ。ゆうまでこんな所にいるのだ。

 「りりこさん」

 杏樹がりりこに呼びかけた。

 「どんな事情があっても、罪は罪。ここには、戦で数百もの人を殺めた魂……それに、大奥にいらした不特定多数の女性達を身ごもらせた、かつての将軍の魂もあるの」

 「ゆうを、そんなものと同じにしないで」

 端からは姉妹としてしか認められない分、りりこは、ゆうと他のもので繋がりたかった。だから、子供を授かって、幸せな家族を築くという方法を考えた。

 ゆうに、罪はない。
 りりこのために子供を授かるべく、精子バンクから命をもらってきてくれただけだ。

 何故、ゆうが咎めなければならないのだ。

 ゆうの手が、りりこに触れた。
 それではとても足りなくて、りりこはゆうを庇うようにして抱き寄せる。

 「大体、おかしいわよ。どうして十人殺せば大罪なの?」

 「りりちゃん」

 「一人も十人も同じでしょ。あんた達地獄の幹部とやらは、一人の命を軽く見てるの?十人に満たなくちゃ、殺っても罪は軽いって?」

 りりこをたしなめるようなゆうの視線にも、今は気にしている余裕はない。

 「なら、貴女は何故、人を殺したの?」

 「…──っ」

 「重罪だと分かっていて、貴女は十人もの人間を殺めた。何故?」

 氷のような杏樹の目が──否、研ぎ澄まされた刃の如く彼女の言葉が、りりこの胸に突き刺さる。
 おぞましいビジョンが頭の中に蘇り、停止しているはずの心臓が、嫌な速度で血液を循環させようとしているようだ。

 つと、りりこの耳に、がちゃりという音が聞こえた。

 ホールにたくさんある扉の内、一つが開く。
 中から数人の男女が出てきた。彼らのほとんどが、喪服らしき着物をまとっていた。二人だけ、洋装している。
 鉄面皮を被った喪服姿の男女に引き替え、簡素な洋服に身を包んだ二人の男女は、泣きながら互いの手を握り合っていた。

 「あぁああ貴方!いやだ私は認めない!一緒に生まれ変わろうって言ったでしょ?!貴方は一人足りなかっただけじゃない、そんなバカなことで地獄へ行くな!認めない!」

 「レイコ落ち着け!俺は九人、人を救った。五百年の地獄が何だ、じきに五百年過ぎて、またお前のいる娑婆に行ける!」

 「五百年なんか……私それまで一人ぼっちよぉおお!う、あぁああああ」

 泣き崩れる女から、男の手が引き離された。
 喪服姿の女の一人が男を捕らえ、彼に手錠をかけたのだ。

 「ぅわぁあああああ!!」

 手錠に鍵がかかった瞬間、断末魔の声が上がった。

 りりこもゆうも、状況が把握出来ない。

 男を繋いだ女とは別の女が、杏樹の側に走り寄ってきた。

 「杏樹様。次郎さんは五百年の地獄の後、転生。レイコさんは明日、転生することに決定しました」

 「分かったわ。お役目ご苦労様」

 杏樹が頷くと、女は恭しく頭を下げて、自分の持ち場へ戻っていった。

 "一体、何なの……"

 りりこの疑問が聞こえたようなタイミングで、杏樹が振り向いてきた。

 「貴女達も、別れたくなければ頑張ることね」

 「はぁ?!」

 「ご覧の通り、ここは地獄でもあるけれど、転生のチャンスを与えられるところでもあるの。さっきのレイコさんのように」

 「レイコさん」というのは、おそらく、男に泣き縋っていた女のことだ。
 つがいか兄妹らしき彼らの関係は、多分、前者が正解だ。

 「もっとも、大罪を犯した貴女達が転生するには、相応のお仕事をこなしてもらう必要があるわ」

 「仕事?」

 「ええ。あのモニター画面に映っている人達、何だか分かる?」

 杏樹が、水族館の水槽くらいあるモニター画面を指差した。

 相変わらず大画面には、無限に広がる宇宙の様子と、りりこの知らない人間達が映った無数の小さな枠が出ていた。
 おそらく彼らは、こんなところから自分が見られていようとは、夢にも思っていないだろう。
 現に、鏡の前でありとあらゆるポーズを決めて、自分の姿に恍惚としている者もいれば、人形をおかずに自癒に耽っている者もいる。つまり皆、人目を気にしていないのだ。
  
 杏樹は、悠然とモニターを見つめている。
 彼女の目は、まるで、実験に使われるマウスでも観察しているように冷めていた。

 「あの方達には、死相が出ているの」

 「死相?!」

 「もうじき死ぬ、ということよ。ギャル姉さん」

 「ちょっ……杏樹!」

 「りりちゃん」

 ゆうが、りりこにしがみついてきた。
 さもなくばりりこが暴れて、杏樹に拳の一つや二つ、見舞ってやりかねないからだ。

 もっとも、元を辿れば、杏樹の方に否がある。

 「ゆう離して、こいつ調子に乗ってるから!」

 ゆうの腕を振り払うべく、りりこは暴れる。
 「ギャル姉さん」は聞き捨てならない。

 確かに、りりこの肌は、一般的な女子に比べて浅黒い。髪も、シャギーを緩く巻いたスタイルで、アッシュを帯びた黄金色だ。
 ラメの入った化粧は好きだ。ついでに、肌を露出する洋服も好きだ。
 成る程、よく言われるギャルの定義に当てはまる。

 しかしながら、りりこに、ギャルになった覚えはない。ギャルを疎んじているのではないが、りりこ自身は違うのだ。

 「杏樹、見るからに不健康なあんたに教えてあげる!私は毎日、会社の昼休み、炎天下の日もマラソンして汗を流していたのよ!健康のためにねっ」

 だから、日焼けは免れなかった。

 「それに、あんたみたいなふりふりロリィタなんて、今時の女は寄ってこないわ。胸がないからって嫉妬すんじゃないわよこら!」

 「りりちゃん……りりちゃん!」

 りりこは、地獄の総監督だという小娘に、言いたいことが山ほどある。
 りりこの怒りが治まらないのと同様、ゆうも、心配性な彼女らしく、おろおろそわそわしているようだ。

 やむなくりりこは、一時休戦を決めた。

 杏樹が、つまらなさそうに息をつく。
 全く可愛げのない少女だ。

 「それで、ご健康なのにこちらにいらした、りりこさん」

 「っ……おら」

 「りりちゃん!」

 ゆうが泣きそうな声を上げた。

 杏樹が話を再開する。

 「あの枠の中に出ている人間に、死期が近いことはお分かりね?彼らが本来、天から定められた寿命は、もっと先なの。貴女達が転生する条件は、彼らの死期を延ばすこと。怪我や病気、或いは人為的な事故で亡くなるかも知れない彼らを五人救えば、貴女達は転生出来るわ。貴女達の殺した人間、ないしは産んだ人間が十人だから、その半分の数を出すと五人になるの」

 「つまり、ここに来た魂が救わなければならない人間の数は、個人によってまちまちなのね?」

 杏樹が頷く。
 それにしても、殺人はともかく、産むのが罪というのはやはり納得いかないものだ。

 「五人以上、彼らの死相を抹消すれば、貴女達は五百年の地獄で責め苦を受けた後、晴れて転生出来る。出来なければ、つまり六人失敗した時点で、貴女達は地獄行き。その場合、千年の責め苦を受けた後、魂は業火に焼かれて消えるわ」

 「はぁ?!結局地獄行きじゃない!」

 りりこは抗議の声を上げた。
 第一、何故そんな面倒臭いことをさせられるのだ。
 面識もない赤の他人を救っていては、ゆうといちゃつく時間が減る。折角、死後も一緒になれたのだから、りりこはゆう以外に構いたくない。

 「責め苦を免除出来る方法もあるわ」

 「それを早く言いなさいよ」

 「貴女達が担当する人間は、全部で十人。十人全ての命を救えば、翌日、貴女達は元いた世界で新しい生を授かるわ」

 ──但し、通常、人間が生を新しくする時、前世の記憶は全て神に返す決まりがある。

 杏樹が、話の最後に言い添えた。
 
 何故、彼女がそんな付言をしたのか。りりこもゆうも、その真意を解せなかった。

* * * * * * *

 罪を犯した魂は、ホールにたくさんあるいずれかの個室に入って、仕事を始める。

 りりことゆうにあてがわれた個室にも、小振りなモニター画面があった。
 青年と少女が一人ずつ、それぞれ枠の中に映し出されている。

 青年は、りりこが救うべく一人目の人間だ。実の姉に恋をした、哀れな男だ。
 一方、少女はゆうが担当になった自殺志願者で、彼女は自室の引き出しに、多様なナイフや薬をストックしている。

 杏樹の話によると、地球の大まかな歴史は、神の世界に操作されているらしい。
 政治や戦争、法や組織は、神が人間の脳に働きかけることで、作動しているものだそうだ。

 もっとも、個人の人間の人生まで操作することは、神の掟に背くらしい。しかるに地上で起きる理不尽な事故や殺人は、神に防ぐことが出来ない。
 結果、近年、寿命に達するまでに命を落とす人間が増えているという。

 そこで、地上で罪を犯した人間が死後、彼らを救う役目を担った。
 りりこやゆうのような魂は、杏樹らの監督する特別な地獄に、引き取られる。死相の出た人間を、一人一人救っていくためだ。

 りりこら罪人は、自ら担当する人間と、一定期間、心身共に神経をリンクさせることになる。
 例えば今のりりこの場合、姉に恋をした青年が怪我をすればりりこ自身も身体の痛覚が刺激されるし、彼が心を痛めれば、りりこの心も痛むのだ。

 りりこは一時間ほど前、青年と神経を接続した。
 それからだ。りりこは全身が痛み続けている。傷もなければ血も流れていないのに、りりこの身体のあちこちに、殴られたり蹴られたりしている感覚があった。

 「りりちゃん、彼を戦わせて!」

 ゆうが、キーボードを差し出してきた。

 りりこ達に与えられたキーボードには、いわゆるゲーム機の機能がある。ここに備え付けてあるボタンを操作して、罪人は、自ら救うべき人間を動かす。死相のある人間の意思を操作して、死期を遠ざけるのだ。

 但し、人間自身に、操作されている自覚はない。

 モニター画面にいる青年が、彼と同い年くらいの男に殴られていた。

 「戦わせるって言ったって──痛っ」

 りりこは、額を抑えてうずくまる。
 男に蹴られた青年も、額から血を流していた。
  
 「あいつら……ふざけてる」

 りりこは、人間をゲームのように操作している杏樹らが、許せない。
 りりこら罪人に強いられた行為は、人間個人を否定する。神に対する冒涜だ。不条理なことこの上ない。

 もし、神が本当にかくいう遊戯を許しているなら、りりこの信じるものはなくなる。
 間接的でも、個々の人間の人格、人生を歪曲させるような神を、どうして信じられるというのだ。

 仮にりりこが、十人の人間の死相を消して、生まれ変わったとする。

 だとしても、こんな神の手の内にある娑婆はいらない。

 「りりちゃん」

 ゆうが、りりこの肩に頬を預けた。

 「理不尽なのは、当たり前だよ」

 「ゆう?」

 「現世は、不条理に出来ているものなの。あそこが地獄だったじゃない。どこに行っても、楽園なんて、私達でつくるしかないんだよ」

 ゆうが何を言わんとしているのか、りりこには分からない。
 思考を動かす余裕がなかった。

 ゆうの穏やかな声を耳にしながら、りりこの腕が、今度は関節とは逆方向にへし折られる痛みを訴えてきた。

 「りりちゃんと一緒にいた三十三年間、私とっても幸せだった。それはね、りりちゃんが頑張ってくれたから。私がりりちゃんを好きで、愛したから」

 「──……」

 「現世は、神様のお陰で、幸せになれる場所じゃないと思うんだ。神様が私達に強くなるよう、試練をお与えになるところ。だから、こんな反道徳的な遊びだって、お許しになるんじゃないかなぁ?」

 「ゆう……」

 その通りかも知れない。

 りりこの神は、否、天使はゆうだ。

 りりことゆうの幸せは、神が与えてくれたものではない。りりこがゆうを好きだと認めて、愛することが出来たから、短くも幸せな毎日を重ねられたのだ。

 地上はいつでも輝いていた。

 そこにゆうがいたからだ。

 この世もあの世も変わらない。

 りりこらに、楽園も地獄もなかった。

 「りりちゃん」

 ゆうの体温にほっとする。
 死んだ人間に、そんなものがあるのか否かは謎だ。が、りりこはゆうとくっついていると、胸がじんと温まる。

 「りりちゃんが、お父さんやお母さん──叔母さんや叔父さんから守ってくれた時、私嬉しかったよ」

 「…──っ」

 「本当は、お父さん達から、私がりりちゃんを守りたかった。親族の恥だとか、売女だとか、叔母さん達からいっぱい言われた。皆がりりちゃんと私のことを許してくれていないのは、分かっていることなのに、私、やっぱり悲しくて泣いてばかりいたよね。今日ここに子供達を連れてこなくて良かった、こんな怖い場所に連れてこなくて良かったって、母親らしいことも考えていたけど、私は泣いてばかりいた」

 ゆうは、現世での最期の日のことを、思い出しているようだ。
 りりこが十人の人間を殺し、自ら命を絶った日のことだ。

 りりこの胸中で、おどろおどろしいものが蠢く。
 モニター画面の向こうにいる、青年の痛みなんて比ではない。

 遡ること一日前、りりことゆうは、親族達が集う新年の宴の席にいた。
 二人の間に生まれた子供達は、仲の良い知人の家に預けていた。
 りりこらは初め、差し障りのない話で盛り上がっていた。りりことゆうの交際が、今も続いているのかという話が出たことがきっかけで、宴の雲行きは怪しくなった。

 りりこは父親に包丁を向けられた。
 彼は以前から、ゆうが姉のために十人もの子供を授かったことを、良く思っていなかったのだ。

 姉妹を産んだことを悔やんだ母親が、親族の前で、ストーブの石油を呷ろうとした。

 ゆうが叔母や叔父から罵声を浴びせられ、泣いていた。

 祖父は癇癪を起こし、祖母は仏壇に手を合わせていた。

 現世にいながら、地獄より悲惨な地獄だった。

 愛し合って、何が悪い。

 りりことゆうは、偶然姉妹に生まれただけだ。ただ純粋に惹かれただけの、二つで一つの魂ではないか。

 りりこらを理解してくれない彼らが、悪魔にも劣るものに見えた。

 生んで育ててくれた父母に、感謝している。
 りりこは彼らが大好きだし、殺したくなかった。あの場にゆうがいなければ、りりこは、おとなしく父親の刃を受けていただろう。

 しかしりりこは、生涯愛して守っていくと誓ったゆうを泣かせ、雌豚のように罵る彼らを、いかにしても許せなかった。

 父親に腕を切られた瞬間、りりこの中で、何かが切れた。

 理性を取り戻した時、既に、宴の席は血の海だった。

 「変なこと思い出させちゃったね……ごめんね、りりちゃん」

 りりこは首を横に振る。
 悲しくて苦しい記憶だが、ゆうの方が辛いはずだ。

 りりこは、ゆうの頬に唇を寄せて、触れるだけのキスをした。

 「ゆう。生まれ変わっても、私達の行き先は、現世の名を偏った地獄だね。しかも、神様に記憶を返さなくちゃいけない」

 「りりちゃんに逢えなくちゃ、今度こそ楽園……見つからないよ」

 「ゆうを大好きな私の記憶が、消える。現世で探し出せるかな?ゆうを」

 分からない、と、ゆうが呟く。

 りりこにも、ゆうに出逢える自信はない。

 「転生する意味は、あると思う?」

 重ねて問うと、やはり、ゆうから分からないという答えが返ってきた。

 「そうだね。私も分からない」

 りりこはゆうを抱き締める。

 生まれ変わっても、地上は苦界だ。
 どんな存在に生まれても、さながら地獄に堕ちたように、きっと何かに付きまとわれる。

 地上に、心から笑って生きているような人間が、果たしているのか。

 きっと神にも分からない。

 おまけにゆうに出逢える保証がないなら、現世が幸せなものであるとは限らない。
 ゆうを愛した記憶を神に返上してまで、転生する理由がどこにあるのだ。それならりりこは、今いる地獄に、魂朽ち果てるまでゆうと一緒にいたい。

 地獄の業火に焼かれても、構わない。

 ゆうと、神にも引き裂かれない永遠を、誓いたい。
  
 「嫌なら、言って。ゆうには残って欲しかった。ここまでゆうが来てくれて、私は救われた」

 「ううん、りりちゃん」

 「ゆうの魂は綺麗だもん。ちゃんと生まれ変われば、子供達にどこかで逢えるかも知れないよ」

 「いいの。私、りりちゃんと一緒が良い」

 「──……」

 本当に、良いのだろうか。
 りりこがプロポーズすれば、ゆうは本当に戻れなくなる。

 本当に、良いのか──?

 「もうっ。焦れったい」

 ゆうが、珍しく苛立ちを露わにした。
 久しくゆうのしかめっ面を拝んだりりこは、彼女の両手に、すっと左手をとられた。

 「健やかなる時も病める時も」

 ──永遠に貴女を愛します。

 とろけるようなキスを交わす。
 脳髄までとろけきった勢いで、りりこはゆうと、キーボードをモニター画面に叩きつけた。

 がしゃん、と、全てが砕け散っていった。

* * * * * * *

 果実が割れた。

 杏樹は、瑞々しい緑の風がそよぐ草原の真ん中辺りで、足を止めた。
 色とりどりの花を咲かせた芝生のあちこちに、大樹が聳えている。一年中、新緑を繁らせる木々はどれも、無数の果実を実らせていた。その内一つが、割れたのだ。

 うっすら七色の艶を放つ、硝子の色をした果実が粉々に砕けて、芝生の上に散らばった。
 青空から差し込む陽の光が反射して、きらきら輝いている。

 一つ果実を失っても、大樹に実った他のそれらは、素知らぬ顔だ。
 果実の、不思議な色をした果皮は苦役に喘ぐ魂達を映し出し、呻き声を上げていた。

 杏樹は、また歩き出す。
 果樹園の如く草原から逃れるように、目先にある屋敷に向かって足を急がせた。

 まだ生きている果実達の得も言われぬ呻き声が、杏樹の頭に、直接響いてくるようだった。

 真っ白な屋敷の扉を開く。
 屋根も壁も、全てが白で作られたそれは、もちろん扉も真っ白だ。

 杏樹が住み慣れた屋敷の寝室に戻ると、恋人が、ベッドに腰かけていた。
 杏樹と色違いのドレスを着た、やはり髪の色も自分とは異なる少女が顔を上げた。

 「お帰りなさい、杏樹」

 「ただいま、しいら。今日は疲れたわ」

 杏樹は、しいらの額に、そっと唇で触れる。

 美しく無邪気な恋人が、くすぐったそうな声をこぼした。

 ようやっと、杏樹は今日一日の勤めを終えて、戻ってきた。
 次の朝日が昇るまで、今日これから、杏樹はしいらと誰にも邪魔されず一緒にいられる。

 杏樹は、しいらの隣に腰を下ろす。
 二人は、離れ離れになっていた一時間を埋め合うように、キスを交わす。何度も、何度も、互いの身体に触れながら唇を重ねる。

 杏樹としいらは、一日に一度──二十四時間中一時間、地獄を見回る決まりになっている。
 この世界で正確な暦は分からないが、太陽が東から昇り、西へ沈む間に一度、勤めに出る義務があるのだ。交代制にしているため、今日は杏樹が当番だった。

 「さっき、果実が割れたわ。果実は、あたし達の監視する、魂達の存在を証している……。転生か、地獄で責め苦を受けるために魂がここを去るなら、果実は割れずに消えるでしょう?」

 「そうね。今日、転生が決まったレイコさんと、五百年の責め苦が決まった次郎さんの果実は消えたはず」

 「じゃあ、割れた魂は……」

 「神様の掟に背いた魂ね。きっと新入りの、あの子達だわ。特に、お姉さんの方は私に牙を向けてきたくらいだから」

 強かな目をした女性の声が、杏樹の耳の奥にこだまする。

 久愛りりこと妹、ゆう──。

 何故、杏樹はさっき、彼女達にあんな忠告をしたのだろう。

 しいらの肩に、ベッドを覆う天蓋から垂れ下がる薄いヴェールがかかっていた。

 まるで天女だ。

 もっとも杏樹は、こんな煌びやかな天女を知らない。
 輝かんばかりの月の色をした髪に、真っ白なドレスを身にまとう、しいらはさながら杏樹が射止めた地獄の天女だ。

 杏樹は、しいらの長い金髪に、手を伸ばす。
 さらさら、さらさら、愛撫のように、杏樹の指が、しいらの髪と髪との間を行き来する。

 「私は、幸せ者ね」

 「杏樹?」

 「一日一時間、君と離れるだけで良いんだもの。こんな綺麗な楽園で、あの声にさえ耳を塞いでいれば──」

 苦しげに声を上げ続ける果実を一瞥し、杏樹は、しいらを見つめる。

 「私達、まるで女王様じゃない?」

 地獄の総監督らしくないだろうか。
 杏樹は思ったが、しいらは頷てくれた。

 しいらと杏樹は、果実の世話をしていれば、永遠の楽園の中にいられる。
 いつからここにいるのかも、何故ここにいるのかも、まるで分からない。

 もしかすれば、この楽園は、罪を背負った魂達の苦しみの上に成り立っている。杏樹としいらは、他人の苦しみを糧にして、永遠の愛と魂を手に入れたのかも知れない。

 それで良い。

 杏樹はしいらを愛している。

 何故、彼女を愛したのか、いつから彼女と一緒にいたのか思い出せないが、この楽園に閉じこめられていない自分自身など、杏樹には考えられない。

 「知っている?しいら」

 杏樹が唇でしいらの首筋を啄むと、彼女の腕が、背中に絡みついてきた。

 「昔々、お互いに愛し合うあまり、自分達の国を滅ぼしたお姫様達がいたんですって。何でも、彼女達のいた国は、憎み合って戦をしていたとか。我慢の限界がきちゃって、十人どころか、国民ほとんどを殺しちゃったそうよ」

 「どこで聞いたの、そんな話」

 「本で読んだの。それでね、お姫様達は罰として、神様から永遠の懲役を与えられの。楽園に閉じ込められて、二度と現世に出られなくなったんですって」

 ──本当の話なら、私達も昔々、何か罪を犯したのかも知れないわね?

 杏樹が笑うと、しいらも笑可しそうに息をこぼした。

 苦い汁を滴らせる果実が生る、ここは地獄の片隅だ。

 それでも、ここは杏樹としいらの、永遠の楽園であり続けるだろう。







──fin.
妖精カテドラル